世界史の目-Vol.187-

籠絡(ろうらく)に負けた将軍

 古代マケドニア王国(B.C.7C-B.C.148)の大王アレクサンドロス3世(アレキサンダー大王。B.C.336-B.C.323)の没後、エジプトに誕生したプトレマイオス朝(B.C.306-B.C.30。首都アレクサンドリア)。王朝の初代君主プトレマイオス1世(位B.C.305-B.C.282。"救済者")はあの世界七不思議に数えられる「アレクサンドリアの灯台」の建造でも知られる(完成はB.C.3世紀)。
 プトレマイオス朝はギリシャ系マケドニア人の王朝であったが、エジプトの伝統を受け継ぎ、王の称号「ファラオ」を用い、近親結婚によって血族を次々と王位継承させた。また妃や兄弟姉妹ら一族内で共同統治を行うことも常であった。"恩恵王"と称されたプトレマイオス3世(位B.C.246-B.C.222)及び妃であるベレニケ2世(位B.C.244-B.C.221)の共同統治の時に王朝は最大版図を築き、全盛期を現出した。

 プトレマイオス11世(位B.C.80)が後継者をつくらずに暗殺されたため直系は途絶えたが、従兄弟のプトレマイオス12世(位B.C.80-B.C.58,B.C.55-B.C.51)が即位し、王朝を維持した。暗愚な王であったが、ローマのグナエウス=ポンペイウス(B.C.106-B.C.48)の支援もあって没するまで政権を維持し、当時18歳(?)だった彼の娘と、その弟で当時7歳の息子を結婚させて、共同統治者としてファラオに就かせることを遺言に、B.C.51年没した。その娘クレオパトラ7世(B.C.70.12?/B.C.69.1?-B.C.30.8.12)こそ、その美貌で多くの人を魅了し、"絶世の美女"と呼ばれた、世に言うプトレマイオス朝女王クレオパトラである(位B.C.51-B.C.30)。クレオパトラの弟であり夫であるプトレマイオス13世(B.C.63-B.C.47。位B.C.51-B.C.47)は幼かったため、後見人がたてられていた。またクレオパトラの妹でプトレマイオス13世の姉であったアルシノエ4世(B.C.68?/B.C.67?-B.C.41)も途中から共同統治した(B.C.48-B.C.47)。

 父没後に即位した姉弟であったが、共同統治といえども実質は弟は7歳、姉18歳の国家統治であるが故、姉がほぼ単独で統治する形態であった。このため弟プトレマイオス13世の側近は姉の廃位・追放を求め、エジプトで内戦が勃発した。この頃ポンペイウスはガイウス=ユリウス=カエサル(B.C.100-B.C.44)とのローマ内戦に敗れ、エジプトに逃げ込んでいたが、クレオパトラは父同様ポンペイウスを支持していたため、彼を支援していた。

 しかしプトレマイオス13世は一時は姉クレオパトラを幽閉、首都アレクサンドリアを掌握した。この勢いで、B.C.48年9月、反クレオパトラの姿勢から、クレオパトラの支持するポンペイウスを謀殺した。その直後、彼を追ってアレクサンドリアに着いたカエサルもプトレマイオス13世に攻撃されたため、カエサルはクレオパトラ側につき、内戦に介入した。そしてB.C.47年のナイルの戦いで、カエサルはプトレマイオス13世を追い込み、ナイル川で自殺させ、彼の一派を壊滅させた。またプトレマイオス13世側についた姉アルシノエ4世も捕らえられた。
 クレオパトラはその後弟のプトレマイオス14世(B.C.60?/B.C.59?-B.C.44。位B.C.47-B.C.44)と結婚して共同統治を始めたが、プトレマイオス14世はカエサルの傀儡であり、実質はクレオパトラの単独政権をカエサルが後ろ盾した形であった。内乱平定後、カエサルはクレオパトラとより親密になり、すぐにはローマには帰還せず、エジプトに過ごした。その間のB.C.47年、カエサルはクレオパトラとの間に子をもうけたとされ(諸説有り)、これがカエサリオン(B.C.47.6-B.C.30.8)である。

 カエサルはエジプト平定後、小アジア・ポントス王国(B.C.291?-A.D.62?/A.D.64?)や、北アフリカのタプスス(カルタゴ近郊の都市)との両戦役を終え(特にポントス戦におけるゼラの戦いでは、カエサルの"来た・見た・勝った"の戦勝報告で有名)、B.C.46年にカエサルはローマに凱旋・帰還、この時凱旋式にはクレオパトラと子のカエサリオンを伴ったとされている。さらにこの時、エジプト内戦で敵であった妹アルシノエ4世も捕虜として連れてこられ、その後市中を引き回された(死刑は免れ、幽閉処分を受けた)。クレオパトラとカエサリオンはしばらくの間ローマに滞在したが、B.C.44年にカエサルは暗殺され(カエサル暗殺。B.C.44.3.15)、ほどなくしてエジプトに戻った。そしてプトレマイオス14世も同B.C.44年に没したため、カエサリオンがプトレマイオス15世としてクレオパトラと共同統治した(位B.C.44-B.C.30)。

 B.C.43年にカエサルの養子オクタヴィアヌス(B.C.63-A.D.14。ガイウス=ユリウス=カエサル=オクタウィアヌス)、カエサルの部将であったマルクス=アントニウス(B.C.83-B.C.30)、カエサルの補佐官だったマルクス=アエミリウス=レピドゥス(B.C.90-B.C.13)による第二次三頭政治が始まった。エジプト管理を受け持つことになったのはアントニウスだった。アントニウスはB.C.40年、オクタヴィアヌスの姉オクタヴィア((小)オクタウィア。B.C.69-B.C.11)と結婚した。
 アントニウスはプトレマイオス朝エジプトの女王クレオパトラと会見した。カエサル時代と同様の地位を維持するため、クレオパトラはその美貌・美声と巧みな話術でアントニウスを手玉にとり、アントニウスはクレオパトラの魅惑に負けたという。アントニウスは、クレオパトラに頼まれ、まずB.C.41年、政敵であった妹のアルシノエ4世を殺害させた。そしてB.C.39年、アントニウスとの子(双子。女児クレオパトラ=セレネ。B.C.39-A.D.6。アレクサンドロス=ヘリオス。B.C.39-B.C.20年代前半)を産んだ後、アントニウスをオクタヴィアと離婚させ(B.C.37年)、その後まもなくクレオパトラとアントニウスは結婚した(諸説有り)。アントニウスは、クレオパトラによって、完全に骨抜きにされてしまった。その後アントニウスは東方遠征後を行ったが、平定後もエジプトに入り浸り、祖国ローマを顧みることもなかった。B.C.36年のレピドゥス失脚後、ローマでの政治主導はオクタヴィアヌスとアントニウスの競い合いであったが、アントニウスのこうした状況から、オクタヴィアヌスはアントニウスを遂に見限り、両者間に大きな対立が生まれた。この対立はローマ対エジプトといった国家間の対立へと発展していった。

 クレオパトラは、アントニウスより東方属州の統治権を与えられた(B.C.34)。エジプトを中心とする東方諸地域の支配権を手中に収めたアントニウス・クレオパトラ支持派と、イタリア半島と西方諸州の支配権を誇るオクタヴィアヌス支持派との間に開戦が高まり、遂にB.C.31年9月2日、ローマとイオニア海(イタリア半島南部・ギリシャ・アルバニアに挟まれた海域)のアクティウム沖で海戦が始まった。この海戦の勝者は地中海世界の統一をも意味し、オクタヴィアヌス支持派か、アントニウス及びクレオパトラ支持派のいずれかに、その覇権が渡るという歴史的な戦いとなった。これがアクティウムの海戦(B.C.31.9.2)である。

 戦力はややアントニウス・クレオパトラ連合軍が上回っていたが、オクタヴィアヌスの軍隊では有能な海軍指揮官マルクス=アグリッパ(B.C.63-B.C.12)に助けられ、徐々にオクタヴィアヌスの軍が優勢に転じた。これに際し、クレオパトラ率いるエジプト艦隊が早々と戦線離脱し、クレオパトラはアントニウスを捨てて戦場を後にした。アントニウスは自身の部下を置き去りにして、クレオパトラの後を追ってエジプトのアレクサンドリアへ敗走したため、残されたアントニウス・クレオパトラ連合軍は壊滅、この大海戦はオクタヴィアヌス軍が勝利を収めた。ローマを見捨て、エジプトの女にうつつを抜かしたアントニウスに、かつてローマが誇った大将軍の面影は、ローマ市民には全く映るはずもなく、オクタヴィアヌスこそ新しいローマの救世主であると絶賛したのである。

 アクティウムの海戦に敗北したアントニウスは、敗走の途中、愛するクレオパトラ自殺の報告を聞いたため絶望に陥り、自ら命を絶つことを決意、自身に刃を入れた。しかしクレオパトラ自殺は誤報であり、アントニウスはまだ息のある状態で彼女のもとに運ばれ、彼女の腕に抱かれながら息を引き取ったと言われている(アントニウス自害。B.C.30.8.1)。
 アントニウスを失ったクレオパトラも、敗戦により支持を失い、オクタヴィアヌスに投降することを拒んで、若いプトレマイオス15世(カエサリオン)を残し、毒蛇に自身の胸を噛ませて自殺した(クレオパトラ死去。B.C.30.8.12。自殺内容には諸説有り)。オクタヴィアヌスは、クレオパトラがアントニウスと同じ墓に埋葬されることを希望したことを理解し、これを受け入れた。

 のカエサリオンことプトレマイオス15世もカエサル後継者という理由で、オクタヴィアヌスの命により殺害された。これにより、エジプトはローマの支配地に組み込まれ、270年余りにも及ぶマケドニアのエジプト支配は終わりを告げ(B.C.30プトレマイオス朝エジプト滅亡)、同時に古代エジプト時代も幕が下ろされた。アントニウスの子どもは、先妻のオクタヴィアに養育されることになった。地中海世界の覇権を握ったオクタヴィアヌスは、"アウグストゥス(尊厳者)"として帝位に就き(帝位B.C.27-A.D.14)、ローマ帝政(B.C.27-A.D.395)を開始した。


 "絶世の美女"と言われたエジプトの女王と、彼女に動かされたローマの名将の悲劇を紹介いたしました。有名なクレオパトラがここへ来てメインで紹介できました。フランスの数学者ブレーズ=パスカル(1623-62)が放った、「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、世界の歴史は変わっただろう」の言葉は非常に有名ですね。

 またクレオパトラは、初めてパーマをかけた人物としても知られています。といってもパーマ液ではなく、泥水を付けた髪の毛を木片で巻いたとされています。

 彼女に翻弄され続け、最後には転落したカエサルの部将アントニウスですが、同様にクレオパトラと共にしたカエサルに比べると、評価は低いですね。上司だったカエサルも元来プレイボーイの性格があり、アントニウスもこのことはよく知っていたと思いますが、事後処理が上手なカエサルに対して、アントニウスは下手だったのかもしれません。もともとはローマのことを第一に考えていたと思いますが、三頭政治まで上り詰めたまでは良かったものの、同時に物欲や色欲も旺盛になってきた所にクレオパトラの接近となると、エジプトを始め東方諸州を仕留めたい気持ちも手伝い、完全に彼女の虜になってしまいました。とは言っても、もしカエサルがもう少し長生きしていたら、あるいはカエサルがもう少し若い時代にクレオパトラと接触していたら、歴史は変わっていたかもしれませんね。

 さて、受験世界史の学習ポイントを見てまいりましょう。プトレマイオス朝エジプト(首都アレクサンドリア)は、マケドニアのアレクサンダー大王没後におこった後継者戦争(ディアドコイ)の結果、帝国が三国に分裂した内の一国です。残りはアンティゴノス朝マケドニアB.C.306-B.C.168。首都ペラ)、セレウコス朝シリア(B.C.312-B.C.63。首都前半セレウキア→後半アンティオキア)の二国です。大事ですよ。プトレマイオス朝の君主はクレオパトラ以外覚える必要はありません。またクレオパトラ7世の表記も覚えなくて結構です。厳密に言えばプトレマイオス朝の最後の王(ファラオ)はクレオパトラではなくカエサリオンとされていますが、受験世界史ではクレオパトラが王朝最後の王と表記されていますので、こちらを覚えましょう。
 カエサル関連については「Vol.30 ユリウス=カエサル」を参照して下さい。アントニウス関連では、カエサルの部将であったこと、第2回三頭政治の1人であること、アクティウムの海戦(B.C.31)でクレオパトラと組んで敗れたこと、海戦の敗北によってプトレマイオス朝は滅んだ(B.C.30)、といった内容がよく出題されますので注意しましょう。

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