世界史の目-Vol.188-

戦間期のドイツ社会主義・前編

 第一次世界大戦(1914-18)を渡り行くドイツ帝国(1871-1918)。1918年11月3日、ドイツ革命1918.11-19.1)によって皇帝(カイザー)のヴィルヘルム2世(帝位1888-1918)は亡命・退位、ホーエンツォレルン家によるドイツ帝政は終わりを告げた。その後1918年11月10日に共和政がしかれ(1918.11.10。ドイツ共和国の成立)、翌11日には休戦協定が結ばれて第一次世界大戦は終了した。翌1919年8月11日には憲法が制定され、憲法制定議会が開催された都市に因んでヴァイマル憲法(ワイマール憲法)と呼ばれ、1933年までの共和政ドイツをヴァイマル共和国(ワイマール共和国。1919-33)と呼ぶ。共和政がしかれた1918年、行政を主導したのはドイツ社会民主党SPD)と呼ばれる政党である。

 ドイツ社会民主党の前身はドイツ社会主義労働者党SAPD)といい、1875年、フェルディナント=ラッサール(1825-64)の社会主義団体(全ドイツ労働者協会。ラッサール派)と、アウグスト=ベーベル(1840-1913)およびヴィルヘルム=リープクネヒト(1826-1900)の社会主義団体(社会民主労働者党。アイゼナハ派)が合体して成立した党であった。ゴータ(現ドイツ中部)で綱領が採択され(ゴータ綱領)、帝政時代の1877年における帝国議会選挙で得票率を上げて第四党にまでのぼりつめた。しかし当時の宰相オットー=フォン=ビスマルク(任1862-90)はこの社会主義政党に脅威を感じたため、1878年に社会主義者鎮圧法(1878-90)を制定して社会主義活動が厳しく抑えられた。
 1890年にはヴィルヘルム2世の即位とビスマルクの辞任によって社会主義者鎮圧法は廃止されたが、この間における党内の結束力は一段と強まり、同年にドイツ社会主義労働者党はドイツ社会民主党へ改称され、べーベルを党首として(党首任1892-1913。なお当時党首は2人体制であり、べーベル以外にもう1人いた)勢力を上げた。1890年選挙では35議席を獲得して大きく躍進、翌1891年にはマルクス主義的なエルフルト綱領を採択した。国際的には、第二インターナショナル(社会主義者の集う国際組織)の中心勢力として名乗りを上げた。

 こうして、党活動は安定化していくと思われたが、1899年、ドイツ社会民主党員で、エルフルト綱領の起草者の1人でもあったエドゥアルト=ベルンシュタイン(1850-1932)の発表による『社会主義の諸問題』で、当時のマルクス主義に異議を唱えたことが発端となって、党内論争が勃発してしまった。『社会主義の諸問題』とは、SAPD時代の1882年に、党内マルクス主義有力者のカール=カウツキー(1854-1938。彼もエルフルト綱領の起草者の1人)によって創刊されたマルクス主義機関誌『Neue Zeit(新時代)』に1896年から97年の間に連載されたものであった。
 ベルンシュタインが主張した思想は一種の改良主義(社会改良主義、社会改革主義とも)で、革命で社会主義を実現するのではなく、福祉などを重点に漸進的な社会改良を行う考え方であり、議会を通した社会生活の安定を優先させることが社会主義の実現に近づけると説いたものである。
 ベルンシュタインとカウツキーは、共通してフリードリヒ=エンゲルス(1820-95)を親友に持つ間柄であったが、マルクス主義を徹底するカウツキーにとって、マルクス主義を批判するベルンシュタインとは一時的に絶縁状態となるほどであり、この改良主義には反対した。1900年にはポーランド出身の女性党員、ローザ=ルクセンブルク(1871-1919)が「Reform or Revolution(改良か革命か)」を発表して対抗した。もともと改良主義は、労働者の改善を議会を通じて行うという、資本主義への妥協ともとれるわけであり、マルクス主義信奉者からすれば、納得できるわけがなかった。当然、1903年の議会では改良主義否認の決議が出される結果となり、ベルンシュタインの主張は退けられることとなった。こうしてマルクス主義を正統として自認する党内主流派からは酷評され、ベルンシュタイン派の社会主義は"修正主義"と呼ばれるようになり、革命を否定する社会主義者は"修正主義"者としてレッテルを貼られてしまった。

 こうした党内部における論争を発端として、党内の各派閥勢力が増大化していくこととなった。しかしドイツ国民全体としては大きく支持をうけ、1912年の選挙では得票率34.8%、110議席を獲得して、第一党となった。翌1913年に党首のべーベルが没し、フリードリヒ=エーベルト(1871-1925)が党首となった(任1913-19)。第一次世界大戦の勃発が近づくと、党内でも戦争協力か戦争反対かで、またもや意見が分かれていった。帝国主義戦争に反対するマルクス主義(参考)の代表として、第二インターナショナルの中核的立場だったドイツ社会民主党であったが、いざ戦争が勃発すると(1914.7)、党首エーベルトは翌8月の議会で軍事費増強の議決を押し進め、戦争協力を表明することになった。また党内では"党議拘束"があり、党内少数派(左派。戦争反対派。ハーゼ派)は党内主流派(多数派。エーベルト派。右派。戦争協力派)の意見に従わざるを得ず、戦争反対であっても戦争支持に票を投じた。このため第二インターナショナルは統一感が揺らぎ、国際的地位も失って崩壊に向かった(第二インターナショナル崩壊。完全消滅は1920年)。

 カウツキーやルクセンブルク、そしてヴィルヘルム=リープクネヒトの子で最左派のカール=リープクネヒト(1871-1919)らは戦争に反対した。エーベルト党首を支持していた修正主義者は戦争支持が多かったが、ベルンシュタインは戦争反対をうったえた。こうして戦争反対を主張した党内少数派は、戦争協力を表明した党内主流派のもとから離れ、アメリカがドイツに宣戦布告して参戦した1917年4月ドイツ独立社会民主党USPD)が結党された。メンバーにはエーベルトと共に党首であり、エーベルトの戦争協力に反対していたフーゴ=ハーゼ(1863-1919。社会民主党党首任1911-16。独立社会民主党党首任1917-19)をはじめ、カウツキー、ベルンシュタイン、カール=リープクネヒト、ローザ=ルクセンブルク、フランツ=メーリング(1846-1919)、クララ=ツェトキン(1857-1933。"女性解放の母")らが名を連ねた。

 改良主義の傾向が強くなり、戦争協力を表明したドイツ社会民主党は、戦争のために政府・野党・皇帝が挙国的協力体制となった"ブルクフリーデン("城内平和"と表現される)"として各国内外の共産主義団体からは失望された。また反戦を主張した独立社会民主党内においても、結党前からマルクス主義中央派を形成していたカウツキー、そのカウツキーとも修正主義論争で争い、むしろ多数派寄りであったベルンシュタイン、そして労働者階級・プロレタリアート(無産階級)を主体に動くリープクネヒト、ルクセンブルクら極左派もおり、彼らそれぞれの主張は統一性に欠けたものであった。
 特にこの極左派の戦争反対、特に帝国主義国が展開する戦争には強く反対していた。労働者を第一に考えるため、資本競争が発展した戦争は労働者にとっては全くの無関係の被害者そのものであり、彼らを救えるのは革命によって政権交代を起こすことであると考えていたのである。当然、戦争のために戦時国債を発行するという政府のやり方を断じて許さず、極左派のカール=リープクネヒトは国債発行に一際強く反対した。
 実はこの極左派のメンバー(リープクネヒト、ルクセンブルク、メーリング、ツェトキンら)は独立社会民主党に入党する前から、一つの極左団体"グルッペ=インターナツィオナーレ"を形成していた。そして非合法的に機関誌を発刊しては発禁処分とされていた。この誌は『スパルタクス・ブリーフェ(スパルタクス書簡)』と呼ばれたが、この名は古代ローマにおける10万規模の奴隷反乱(B.C.73-B.C.71)の指導者であった剣奴スパルタクス(B.C.109-B.C.71)に由来した。この『スパルタクス書簡』が有名になった"グルッペ=インターナツィオナーレ"は"スパルタクス団"と呼ばれるようになった。しかしこのスパルタクス団はまだ小規模団体であったため、同じ非戦論を唱えるドイツ独立社会民主党に接近し、結党時に合流した(1917.4)という経緯であった。

 しかし反戦という共通の志があるにせよ、独立社会民主党の行動力は限られており、党内対立は避けられなかった。1918年ドイツ帝国は敗戦が濃厚となり、独立社会民主党は帝国主義政策を膨張的に施した皇帝ヴィルヘルム2世の退位および政府の退陣を期待した。中でもスパルタクス団は1917年3月(ロシア暦2月)に起こったロシア革命三月革命)における皇帝退位を歓迎していたため、スパルタクス団によるドイツ帝政の崩壊と共和政樹立という革命の千載一遇の機会であった(しかしカール=リープクネヒトやローザ=ルクセンブルクはゼネスト要求によるデモの煽動で逮捕・投獄されていた。またローザはレーニンの革命は独裁という前提に基づいた革命であるとして、ロシア革命についてあまり好意的ではなかった)。

 1918年11月3日、ドイツ海軍総司令部が出した、イギリス軍への突撃命令に憤慨したキール軍港の水兵・兵士たちが抗議デモを起こした。武力で反乱を抑えようとしたことから暴動と化し(キール軍港の水兵反乱1918.11.3)、翌4日以降、暴動が全国的に拡大し、約4万の水兵、兵士、そして労働者が各都市部を制圧し、レーテと呼ばれる評議会が開かれた(ロシア革命時のソヴィエトに相当)。11月9日、ドイツ社会民主党はエーベルトをドイツ帝国臨時政府宰相として任命、ドイツ共和国の樹立を宣言、ヴィルヘルム2世はオランダへ亡命した(翌日退位。帝政終了)。ドイツ革命の勃発であった。

 共和政となったドイツでは、エーベルトを首班とするドイツ社会民主党による政権が誕生したが、独立社会民主党にも政権協力を求め、11月10日、社会民主党・独立社会民主党の連立政権が誕生した。しかし千載一遇の機会を逸したスパルタクス団はこの連立政権には拒絶的であった。11月11日には休戦協定が結ばれてドイツの敗戦が決定、連立政権は国内のレーテを掌握して議会選挙に向けて活動を開始した。レーテを中心とする社会主義政権を目論んだスパルタクス団であったが、レーテを政権に奪われたスパルタクス団にとって、大きな敗北となった。しかも12月初旬にベルリンで行ったデモ行進も効果を上げることができず、逆に新政府軍の発砲を受けて十数名の被害者を出す結末であった。

 スパルタクス団を率いるメンバーは、さらなる革命を求めて、新たな行動を開始した。


 今回は大戦間時代(戦間期)の政治史であり、受験世界史の中でも鬱陶しい部類に入ると思います。世界史受験生においても海外の政党がワンサカ出てくる分野はあまり学習したがらないと思います。なかでも革命期のドイツやロシアなどはその代表ですね。"世界史の目"復帰3作目にして、この"鬱陶しい"と思われる分野を前後編の2編で紹介するのも恐縮ですが、最後までお付き合い下さいませ。

 さて、ドイツの政党がたくさん出てきましたが、早速受験世界史の学習ポイントを見てまいりましょう。まず、ラッサール派とアイゼナハ派が合体してドイツ社会主義労働者党となり、ヴィルヘルム2世即位とビスマルク下野とともにドイツ社会民主党と改称されます。この時点ではエルフルト綱領を採択するなど、社会主義政党としては相応しく、第二インターナショナルの中心勢力となるなどして、与党勢力の中央党(本編未登場。もとはプロテスタント中心のプロイセンに対抗したカトリック教徒中心の政党)を脅かしました。この中央党もかつてはビスマルクと文化闘争で戦い抜いた政党であります。ココまで出てきた、ラッサール派とアイゼナハ派、ドイツ社会主義労働者党、ドイツ社会民主党、そして中央党もついでに覚えてしまいましょう。

 しかしドイツ社会民主党内でもごたごたがあり、ベルンシュタインが修正主義を打ち出してからは左右分裂し、左派は独立社会民主党を結成します。この政党も余裕があれば知っておきましょう。戦争に協力したのが右派の社会民主党、非戦論をとなえ、社会主義革命をはかろうとしたのが左派の独立社会民主党です。ちなみにスパルタクス団は独立社会民主党に所属しました。

 人物ですが、入試に出てくるのはべーベル、エーベルト、ベルンシュタイン、カール=リープクネヒト、ローザ=ルクセンブルクぐらいでしょうか。カウツキーやクララ=ツェトキンも有名ですが、入試には登場しません。べーベルはアイゼナハ派の人物、エーベルトは社会民主党党首というより次編関連で覚える方が良いでしょう。次編で説明します。ベルンシュタインは修正主義、カール=リープクネヒトとローザ=ルクセンブルクは次編で大いに登場しますので、これも次編で説明するといたします。

 さて、スパルタクス団はどういった行動を開始するのか?はたしてその結末は?

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