世界史の目-Vol.194-

(しん)

その2 玩弄された暗君、そして滅亡

その1「西晋の中国統一」はこちら

 280年司馬炎(しばえん。236-290)が武帝(ぶてい。位265-290)として、洛陽(らくよう)を首都にに中国統一を果たした(しん。265-316。便宜上、西晋と呼ぶ)。しかしその武帝も290年に崩御し、暗愚な子・恵帝(けいてい。孝恵帝。こうけいてい。帝位290-306)と彼を操る賈皇后(か。257-300)による政権が始まった。統一後の武帝があまりにも無為無策であったがために国家は疲弊し、大干ばつによる国民の貧窮化や匈奴(きょうど。南匈奴)や鮮卑(せんぴ)といった五胡(ごこ)とよばれる民族の侵入を招き、危機的状況からの脱却策も見いだせないままの皇帝即位であった。

 しかも、武帝の皇后を出した一族である楊氏は、暗愚の恵帝を尻目に実権を掌握したため、武帝時代に各地に封じられた司馬氏皇族たちの怒りを買った。特に汝南(じょなん)・楚(そ)・趙(ちょう)・斉(せい)・長沙(ちょうさ)・成都(せいと)・河間(かかん)・東海(とうかい)に分封された、8国の諸王たちの顔ぶれは、以下の通りである。

  1. 汝南王・司馬亮(しばりょう。?-291)・・・司馬懿(しばい179-251)の三男。
  2. 楚王・司馬瑋(しばい。271-291)・・・武帝の第5子。
  3. 趙王・司馬倫(しばりん。?-301)・・・司馬懿の第9子。
  4. 斉王・司馬冏(しばけい。?-302)・・・武帝の甥。父は武帝の弟で斉王だった司馬攸(しばゆう。248-283)。
  5. 長沙王・司馬乂(しばがい。277-304)・・・武帝の第6子。
  6. 成都王・司馬穎(しばえい。279-306)・・・武帝の第16子。
  7. 河間王・司馬顒(しばぎょう。?-306)・・・司馬懿の弟。
  8. 東海王・司馬越(しばえつ。?-311)・・・司馬懿の又甥(弟の孫)。

 賈皇后一族は兵力豊富な楚王司馬瑋に接近しており、21歳の楚王の協力で暗君・恵帝を操ろうとする楊氏を武力で一掃した(291.3)。宮中から楊一族を追い出した賈皇后は、夫である恵帝の大叔父にあたる汝南王司馬亮を皇帝輔佐に任じた。しかし、賈一族の専権を狙う皇后は、若き楚王と、彼の従祖父にあたる汝南王の存在を消すことを画策した。賈皇后は恵帝を操り、楚王司馬瑋に対して虚偽の勅命を出させた。それは皇帝を輔佐する汝南王司馬亮が謀反を企んでいるため、ただちに武力でもって討伐せよとのことであった。楊氏粛清の功労者であった楚王司馬瑋は賈皇后に操られた恵帝の命によりただちに挙兵、汝南王司馬亮および彼と共に皇帝を輔佐していた衛瓘(えいかん。220-291)両名を誅殺した(291.6。汝南王誅殺。自害説も)。そして、若き楚王は賈皇后の策略にかかり、皇帝輔佐殺害の罪を着せられてしまった。処刑場で楚王は皇帝の詔勅書を周囲に見せて冤罪を訴えたがその声も届かず、無念にも21歳の若さで処刑が執行された(291.6。楚王処刑)。

 賈一族は恵帝の長子(母は賈皇后ではなく別の夫人)に対しても警戒していた。先代の武帝はわが子の暗愚さに憂い、孫の司馬遹(しばいつ。278-300)を帝位後継者の一候補にしていたためである。賈皇后は実の男児がいないこともあって(できた4子は全員女児)、司馬遹を謀殺した(300.3)。司馬遹は23歳の若さで命を落とした。これで賈皇后の政権は安泰となった。

 しかし一族の安泰に安らぐ間もなく、趙王・司馬倫(彼は汝南王司馬亮の弟で、恵帝の大叔父にあたる)は、恵帝の従弟にあたる斉王・司馬冏に接近し、次々と邪魔者を粛清する賈一族の壊滅作戦に出た。翌4月、趙王と斉王は恵帝の詔勅を偽造することに成功し、賈皇后及び一族を捕らえ、側近を皆殺しにした。賈皇后は金屑酒(きんせつしゅ。処刑用の金粉入り毒酒)による処刑がきまり、一族と共に処刑された(300.4。賈皇后処刑)。

 賈一族の陰謀は失敗したが、これを壊滅した趙王が暴挙に出た。権力欲に燃える趙王・司馬倫は、味をしめた詔勅の偽造でもって軍事権をほぼ手中に収めた。権力を手に入れ、恵帝を裏で操る趙王司馬倫の姿は賈皇后と同等の有様であった。さらに、賈一族の壊滅に協力した斉王を中央から遠ざけたために斉王の怒りを買った。
 趙王司馬倫の専横は頂点に昇った。遂に恵帝に譲位を迫ったのである。301年1月、恵帝は帝位を司馬倫に譲り、恵帝は太上皇の地位に移され、幽閉された。斉王司馬冏は、譲位ではなく帝位の簒奪であるとし、即位を認めなかったため、自身を遠ざけて帝位に昇った司馬倫を打倒するため、長沙王司馬乂・成都王司馬穎・河間王司馬顒と共謀して兵を挙げ、司馬倫を暗殺した(301.4。趙王暗殺)。結果、司馬倫の即位は認められず、僭称とされた。

 恵帝復位の手助けによって、司馬冏は皇帝輔佐の職を与えられるも、司馬倫と同様、皇帝を利用し専横に出たため、長沙王、成都王、河間王の3名が再挙兵、司馬冏を殺害した(302.12。斉王誅殺)。しかしその後、今度は長沙王司馬乂が斉王の実権を独占しようとしたために成都王と河間王に疎まれた。長沙王粛清のため、東海王司馬越を加えた3王はみたび挙兵、長沙王司馬乂は東海王に捕らえられ、成都王・河間王によって焼き殺された(303.8。長沙王焼殺)。

 成都王司馬穎は皇帝より弟(いわゆる皇太弟)を認められ、晋朝政府の丞相(じょうしょう)にも任じられると、成都王はかつての諸王と同様、恵帝を陰で操るようになった。また河間王司馬顒、東海王司馬越も権力闘争で仲間割れを起こしている状態であった。東海王司馬越は翌304年、武帝の第25子(恵帝の異母弟)で、豫章(よしょう。予章)郡王として任務に就いていた司馬熾(しばし。284-313)と組み、成都王を攻めたが上手くいかず敗北を喫した。その挙兵には、琅邪(ろうや)王に任じられ、後に台頭する司馬睿(しばえい。276-322)もいた。

 東海王司馬越は、内地に入り込んでいた五胡の匈奴や鮮卑を傭兵として起用し兵力増強に尽力した。この動きがすでに始まっている五胡十六国の乱世(304-439)を拡大する原因の一つとなる。司馬越は成都王司馬穎と河間王司馬顒を消しにかかり、306年5月、まず河間王を攻め、これを討ち負かした。つづく成都王も討ち破り、これも偽の詔勅でもって処刑された(成都王処刑。306.10)。

 こうした一族の権力闘争が繰り返される中、ただ最高権威を携えたというだけで弄ばれ続けてきた恵帝だったが、食した餅が原因で食中毒をおこし、306年11月に崩御した。48歳であった(恵帝崩御。306.11。毒殺説あり)。東海王司馬越は豫章王司馬熾を第3代皇帝に擁立し、懐帝(かいてい。孝懐帝。こうかいてい)として即位した(帝位306-313)。懐帝は詔を出して司馬越を皇帝輔佐に任じ、司馬越に破れた河間王司馬顒を官職に置くことを決めた。司馬越はこれを嫌い、河間王を殺害した(河間王殺害。306.12)。司馬越は実権を掌握した。

 暗君・恵帝の時代が終わり、司馬越以外の7人の王はすべてこの世から消され、新たな治世となった西晋であったが、司馬越はこれまでの7人の王と同様であった。しかし懐帝は先代の暗君のようにはいかなかった。懐帝は司馬越討伐の密勅を出したことで、司馬越は洛陽を離れた。司馬越は逃亡先(項城?)で病没した(東海王病没。311.3)。これで西晋の内乱に関わった8人の諸王は、全員滅亡した。この一連の事件を総称して、"八王の乱"と呼ぶ(最広義290-311。広義290-306。狭義300-306)。

 一族の権力闘争は、社会の混乱も招いた。相次ぐ混乱や大干ばつにより、常識では決着が付かない世の中となって、常識的・人為的な仁徳・道徳が衰えてしまっては、儒教界ではどうすることもできず、代わって老荘思想(道家)が主流となった。危険な世俗から離れた、個人主義や虚無主義的な談論が知識人との間で交わされるようになっていったのである。この哲学的談話を清談(せいだん)といい、清談に参加する知識人とは政治家であり貴族であった。三国の乱世(220-280)から清談は行われており、阮籍(げんせき。210-263)に始まるとされ、彼を含めた7人がそれぞれの時代に清談を繰り広げた。彼らは竹林の七賢(ちくりんのしちけん)と呼ばれた。

 王朝の混乱は五胡十六国の発展を増長させた。特に華北の中原(ちゅうげん。洛陽のある河南省を含む。中華文化の発祥地)における五胡の勢力は凄まじく、北方系の(けつ)は晋軍約10万人あまりを虐殺し勝利を収め、311年南匈奴は洛陽を攻め落とし、懐帝は捕らえられ、313年処刑された(懐帝処刑。313)。西晋王室は長安(ちょうあん。現・西安。シーアン)に逃れ、武帝の孫に当たる司馬鄴(しばぎょう。300-317)が第4代皇帝・愍帝(びんてい。孝愍帝。こうびんてい)として即位するも(帝位313-316)、南匈奴の軍に捕らえられ、長安も落とされた。懐帝、愍帝の両皇帝は南匈奴が304年におこした前趙(ぜんちょう。304-329。ただし国号は"漢"を自称)の王室で食器洗いや、宴会での酒注ぎをやらされるなどの屈辱を味わい、その後処刑された。この一連の動乱を懐帝の年号(永嘉。えいが。307-312)をとって永嘉の乱311-316)と呼び、れにより、西晋は滅亡(西晋滅亡316)、中国大陸は群雄割拠の時代へと逆戻りとなった。

 この時、華南の建業(けんぎょう。現・南京)で、江南の土着豪族や、琅邪の王(おう)氏など北方渡来の貴族勢力に支えられて地盤を固めていた司馬一族の生き残り、司馬睿が建業を建康(けんこう)と改め(愍帝の諱、つまり"司馬鄴"に触れるため改名)、晋王朝の再興を果たした。司馬睿が琅邪の王氏とともに江南でおこした晋朝は便宜上、東晋(とうしん。317-420)と呼ばれ、司馬睿は王氏の王導(おうどう。276-339)を右腕に、東晋の初代皇帝・元帝(げんてい。帝位318-322)として君臨することになる。


 パソコンのOSをwindows7にアップグレードして最初の更新です。この処理のため、一週間という定期的な更新が若干遅れました。読者の皆様、たいへん申し訳ございませんでした。でも今もPCは少しばかり不具合も多いので、今後も少し更新が遅れ気味になるかもしれませんが、何卒ご了承下さいませ。

皇帝の愚弄と、宮中における皇族のひどい殺し合いばかりが目立った話でした。初代の武帝司馬炎は中国統一までの功績は素晴らしいものがありますが、これを除くと、西晋の皇帝はどれも悲劇、あるいは恥辱めいた話が目立ちます。ただ武帝も統一後の姿はやや落ち目になりますが.....
 今回は八王の乱を中心に、皇帝の権力を弄ぶ司馬一族の惨めな争いと、これが因で次々とおこる異民族の乱入、そして統一王朝の滅亡までご紹介しました。一族のお話ですから、司馬の名の付く人物がてんこ盛りでしたが、みなさん、誰が誰か理解できましたか?ちなみに今回のいちおうの主人公である暗君・恵帝ですが、彼は"穀物がなければ、肉の粥を食べればよい"と、マリ=アントワネット(1755-93)と似たような発言をしたことで知られています。

 さて、受験世界史の学習ポイントに移ります。その恵帝をはじめ、八王の乱の当事者である八王の名前、賈皇后、懐帝、愍帝はまず入試で書かすことはしないと思います。このあたりは西晋の司馬炎、東晋の司馬睿だけ知っておけばよいでしょう。八王の乱は中国の内乱の中でも非常に有名で、受験で覚える中国の四大内乱のひとつとして覚えましょう(中国王朝時代の内乱ですので、国共内戦は別格ですよ)。ちなみに残り3つは、呉楚七国の乱(B.C.154)、ハイドゥの乱(1266-1301)、靖難の変(1399-1402)です。また八王の乱で西晋は完全に死に体と化し、次の永嘉の乱で完全に滅びます。永嘉の乱は八王ほど受験ではメジャーではないですが、西晋が滅び、五胡十六国の乱世となったことを考えると重要な事件です。 あと文化史ですが、清談が登場しましたね。竹林の七賢は覚えましょう。七人全員を覚える必要はありませんが、阮籍と嵆康(けいこう。223-262。司馬昭(しばしょう。211-265)により殺害されます)は用語集に出ている人物ですので。知っておく必要があります。特に阮籍は好きな人を青い眼で迎えて、嫌いな人には白い眼で対応したとされる人物で知られています。この故事は漢文にも登場する「白眼視」として有名ですね。

 さて、司馬睿によって江南で再興した晋はどんな活躍を見せるのか、再び中国の統一はあるのか?次回をお楽しみに。

(注)UNICODEを対応していないブラウザでは、漢字によっては"?"の表示がされます。"司馬瑋"(しばい。王へんに韋)、"司馬顒"(しばぎょう。へんは禺、つくりは頁)、"衛瓘"(えいかん。王へんと、つくりは草冠の下に口が横並びに二つ、その下は隹。灌のつくりの部分)、"司馬遹"(しばいつ。しんにょうの中は上が矛、下が冏。鷸のへんの部分)、"司馬鄴"(しばぎょう。へんは業、つくりはおおざと)、"嵆康"(けいこう。上はのぎへんに尤、下は山)

世界史の目に戻る
参考文献

Copyright (C) KOBE MANTOMAN SHIDOU SENMON GAKUIN All Rights Reserved.