世界史の目-Vol.195-

(しん)

その3 統一を求めて~重臣たちの功~

その2「玩弄された暗君、そして滅亡」はこちら

 司馬睿(しばえい。i276-322)は華南の建康(けんこう。現・南京)に東晋(とうしん。317-420)を建国、初代皇帝元帝(げんてい。帝位318-322)として即位した。元帝に仕えたのは、彼とともに東晋建国の手助けをした琅邪(ろうや。現在の山東省方面か?)の(おう)氏、王導(おうどう。276-339)であった。王導は西晋(せいしん。265-316)の滅亡を予測して司馬睿を華南へ逃れることを進言した人物であった。王導は元帝の右腕として行政権を掌握し、また王導の従兄で元帝により大将軍に任じられた王敦(おうとん。266-324)は軍事全般の実権を振るった。当時の国情は"王と馬と天下を共にす"と言われ、司馬氏(馬)と王氏(王)の強力な政権であったことがうかがえる。

 王室の南遷に従い、北方の大量の貴族も五胡十六国(ごこじゅうろっこく)の諸政権の混乱と圧制を掻い潜り、一門をあげて江南へ移住した。その数は100万近いとされている。これにより江南の人口は爆発的に増加し、江南開発が発展、特に農業では水稲耕作が進んだ。王導は北方から逃れてきた貴族を重用して王一族の配下として人脈をより強化し、政権安定に努めた。しかし王氏のこうした行為に対し、皇帝の権力を笠に勢力を拡大しようとしていると映った元帝は次第に王氏との距離を空けるようになり、劉槐(273-333。りゅうかい)・刁協(?-322。ちょうきょう)・戴淵(たいえん。271-322)ら、琅邪王氏出身ではない者を要職につかせて重用した。この行為に激怒した王敦は、322年挙兵し刁協や戴淵を殺害するなどの暴挙に出た(王敦の乱。322)。

 結局元帝は不本意ながら王敦を丞相に任じて軍事全般の実権を掌握することで、事態を収束させた。同年、元帝は48歳で崩御し(元帝病没。322)、長子の司馬紹(しばしょう。299-325)が第2代・明帝(めいてい)として即位した(位322-325)。明帝は詔勅を出し王敦の職務を剥奪しようとしたが、王敦は324年に病死した。王氏の処分について、明帝は支持者の多い王導を粛清すると政権が揺らぐ怖れがあったことから、王敦の乱が鎮圧されたことで王氏の暴挙は落着したとして和解し、結果王導は再び国事を任されるようになった。

 明帝は28歳で崩御し、長子の司馬衍(しばえん。321-342)が成帝(せいてい)として即位した(位325-342)。4歳での即位であったため、王導や外戚の庾(ゆ)氏らが政務を執った。王導はその後庾氏の庾亮(ゆりょう。289-340。皇太后の兄)と政務を執るが、庾亮は王導とは異なり法家思想でもって厳格な体制を敷こうとする人物であり、彼の行政に刃向かう家来も多く、王導とも対立した。王導は339年、庾亮は340年にそれぞれ没し、成帝も342年に急逝した。成帝を継いだ弟の康帝(こうてい。位342-344)もほどなくして没し、その子の穆帝(ぼくてい。位344-361)が2歳で即位した。

 東晋では西府軍閥(長江中流域管轄。湖北省荊州中心。こほくしょう。けいしゅう)と北府軍閥(長江下流域管轄。江蘇省揚州中心。こうそしょう。ようしゅう)があったが、穆帝時代では、これら軍団の活躍が目立った。特に西府軍閥の総帥であった桓温(かんおん。312-373)の活躍は目覚ましく、347年に五胡十六国の成漢(せいかん。304-347。チベット系のが建国)を滅ぼして台頭するとともに、西府軍閥の勢力も増大化、中央政府をも脅かした。このため穆帝は会稽(かいけい。現在の浙江省紹興。浙江省は江蘇省の南隣。せっこうしょう。しょうこう)を担当していた明帝の末弟、司馬昱(しばいく。319/320-372)は警戒し、桓温をよく知る軍人・殷浩(いんこう。?-356)に北府軍閥を掌握させた。殷浩は桓温の旧友であり、桓温のライバルでもあった。殷浩は北方の五胡十六国に対する北伐(ほくばつ。北方に向けて討伐すること)を開始したが、軍を統率することに難儀し、五胡の(きょう)の軍に敗退した。敗退に対して桓温は殷浩を厳しく責めて、その結果殷浩はすべての軍務から外され、庶人に下げられた。桓温はこの時、"私と殷浩が子供の時、竹馬遊び(ちくば。タケウマではなく、竹を馬に見立てた乗馬遊び)で、いつも私が遊び終わって乗り捨てた竹馬を殷浩が乗って遊んだものだ"と発したとされている。これが有名な「竹馬の友」の語源とされているが、発言から明らかなように、現在の解釈となっている"仲の良い幼なじみ"と言うよりは、桓温が殷浩よりも立場が上にあったことを示す上下関係があり、しかもライバルを蹴落とし見下ろす態度が強調された内容としてとらえられている。

 事実上の軍の最高実力者となった桓温は356年に羌を敗退させ、一時的ではあるが旧都・洛陽を奪回(365年に鮮卑に奪われるまで保有)するなどの猛威を振るった。その後桓温は揚州も掌握して北府軍も自身の配下に入れていった。行政面でも土断法(戸籍整理。北方からの無戸籍流民は豪族の私民になる傾向が高かったため、彼らを戸籍登録させ、納税させる方法)を施行するなど実権を握り、皇室には脅威の存在となった。

 361年、穆帝は19歳で崩御し、従兄の哀帝(あいてい。位361-365)が継ぐも20代半ばで没した。直後に弟が継いだが(廃帝。はいてい。位365-371)、桓温の専横はますますエスカレートしており、371年、遂に帝位をも動かして、廃帝を諸侯に降格させ(海西公。かいせい)、桓温に担がれた会稽王の司馬昱が簡文帝(かんぶんてい)として擁立された(位371-372)。簡文帝はその後急病を発したため、桓温は禅譲を狙うも、自身の病魔と周囲の反対にあって実現しなかった。そして、372年簡文帝は没し、翌373年に後を追うようにして桓温も没した。後世に著された『資治通鑑(しじつがん)』で「男子、芳を百世に流す能(あた)わずんば、亦た当(まさ)に臭を万年に遺すべし(芳、つまり名声を今後百世代、遺すことができないのなら、せめて臭、つまり悪声を万年遺すべきである)」と言う言葉が桓温の言葉として記された。

 簡文帝没後、彼の六男で12歳で即位した9代目東晋皇帝・孝武帝(こうぶてい。司馬曜。しばよう。位372-396)は、382年、五胡十六国の最強、前秦(ぜんしん。351-394。氐の国家)と戦うことになる。第3代前秦王・苻堅(ふけん。位357-385)の時に華北を統一した前秦は、今度は中国統一に向けて、382年、淮河(わいが)支流の淝水(ひすい)で東晋と戦った(淝水の戦い)。前秦87万の軍隊に対し、東晋の再生した北府軍はわずか8万であったが、将軍・謝玄(しゃげん。343-388)の力量で前秦の軍を撃破する軍功を収め(前秦軍が半歩退く振りを見せて東晋の北府軍を淝水に誘い込むつもりが、前秦の軍は撤退と誤解してしまい、渡河を終えた東晋が急襲して撃退)、前秦の統一を阻むと同時に、南北分立の形勢が決定的となった。

 この歴史的戦争を勝利に導いた謝玄であったが、彼は晋の名門・謝氏(陽夏謝氏)の出身であった。謝玄の妹は、東晋を代表する書家であり、琅邪の王氏出身の王羲之(おうぎし。303?-361?。名作『蘭亭序(らんていじょ)』)の息子、王凝之(おうぎょうし。?-399)と結婚した。さらに謝玄の叔父の謝安(しゃあん。320-385)は王導にも負けないほどの重臣であり、桓温の禅譲を未然に防いだのも、淝水での戦略で甥の謝玄に指示したのも、これらすべて謝安の功績である。
 また謝玄の孫・謝霊運(しゃれいうん。385-433)は、後の南朝で代表される詩人となる。南朝の世に編纂された詩文集『文選(もんぜん)』にも採り入れられた。

 その後孝武帝は皇后に殺害され(396)、長子の司馬徳宗(しばとくそう。382-418)が継いで安帝(あんてい。位396-418)として即位した。安帝は知的障害者だったこともあり、やがて桓温の子・桓玄(かんげん。369-404)によって一時帝位を簒奪(403-404間)されるなどの憂き目に遭った。その後、軍人・劉裕(りゅうゆう。356-422)が桓玄討伐の軍功を引っさげ、安帝は劉裕に操られることになった。結局安帝は劉裕に殺害され(418)、孝武帝の次子、司馬徳文(しばとくぶん。386-421)を恭帝(きょうてい。位418-420)として擁立するも、これは劉裕への禅譲の手段にほかならなかった。

 結局、恭帝は軍人・劉裕の手によって禅譲させられ、直後に殺害されて司馬一族は断絶(司馬氏滅亡)、東晋は西晋時代(265-316。280統一)のように中国統一を実現することなく滅亡した(東晋滅亡420)。東晋の皇帝が非常に弱体でありながら100年余の治世を維持できたのは、大きく2つの理由がある。まず王導、庾亮、桓温、謝安、謝玄といった皇帝を取り巻く権臣や宰相、軍指揮官の活躍にあると言える。これは西晋時代における"弱帝強臣"をそのまま引き摺った形態である。そしてもう1つは、五胡十六国時代と重なったことにある。特に北部は五胡十六国の群雄割拠時代で、お互いに北部の覇権をかけてせめぎ合っていたため、中国全土統一どころではなかった。南部の東晋まで視野が及ばなかったために東晋は生きながらえたのである。東晋は北部を撃退する戦力を充分に維持していたため、北からの幾度とない攻撃を跳ね返してきたが、実際北部は北部での統一があって初めて、南部を本格的に攻めることができたのであろう。このため、前秦が淝水で東晋軍と対峙するまでは、大規模で本格的な南北戦争は起こらなかった。

 北部では異民族政権が伝統文化を現実的・形式的に継承したが、南の東晋では重臣の活躍によって、自由で自然主義的な貴族文化が栄えた。前述の"書聖"の王羲之と並び"画聖"と呼ばれた江蘇省の画家・顧愷之(こがいし。344?-405/408。『女史箴図(じょししんず)』)、東晋末期にでた陶淵明(とうえんめい。陶潜。とうせん。365?-427。『帰去来辞(ききょらいのじ)』『桃花源記(とうかげんき)』)などが有名である。

 222-280)に始まった華南の王朝は、東晋を経て、劉裕が創設した新たな王朝・南朝宋。そう。420-479)に始まる南朝時代(420-589)へと突入した。南朝は宋の後を継いだ、(南朝斉。せい。479-502)、(南朝梁。りょう。502-557)、(南朝陳。ちん。558-589)の4王朝で構成されたが、呉から始まる江南の6王朝は六朝(りくちょう)と名付けられた(六朝時代。222-589)。一方の北は鮮卑北魏(ほくぎ。386-534)が439年に華北統一を成し遂げて五胡十六国時代(304-439)を終わらせ、北朝時代(439-589)を開始させた。この時代に南朝をあわせて南北朝時代といい、三国時代(220-280)に始まり、五胡十六国時代を経て、南北朝時代で終わるこの期間を魏晋南北朝時代(220-589)と総称する。数多くの国家や民族が混在した、複雑な時代であった。

 ただしこの群雄が割拠する魏晋南北朝時代の中で、唯一中国大陸の統一を実現させたのは、司馬一族が創設した晋王朝だけであった。


 晋の完結編をお送りいたしました。東晋は本当に皇帝権威が弱く、中国統一もできなかった王朝でしたが、北からの名門貴族が東晋に移り住んだことで人口が保て、江南での勢力は伸展して、華やかな貴族文化を産みました。西晋と合わせて、晋王朝は貴族の活躍が異常に目立った王朝でしたね。
 東晋では、中華文明の発源地であり、洛陽や長安を産出した中原(ちゅうげん)を五胡によって落とされ、江南への南進を余儀なくされた中華帝国が、かつて政権を維持してきたこの中原の地を振り返る時、"神州の陸沈"と言って嘆いたそうです("神の国が陥落した"の意味合いがある)。本編に登場した桓温は、中国をこの"神州の陸沈"状態にしたのは、当時清談にうつつを抜かし、政治・軍事を顧みなかった政治家のせいであると主張しています。

 東晋にかかわらず、魏晋南北朝時代というのは、君主を輔佐する重臣たちの政治が目立ちますね。司馬氏は(ぎ。220-265)時代の重臣であったわけですし、本編にあった東晋の王導や桓温、謝安、劉裕以外にも、北魏では崔浩(さいこう。381-450)がおりますし、(しょく。蜀漢。しょくかん。221-263)では関羽(かんう。?-219)や張飛(ちょうひ。?-221)、そしてなんと言っても諸葛亮(しょかつりょう。字は孔明。こうめい。181-234)がおりました。

 さて、貴族が目立つと申しましたが、魏晋南北朝時代の貴族は"門閥貴族(もんばつきぞく)"と呼ばれるくらい、上級官僚が名門貴族によって世襲的に占められていきます。当時の官吏任用法は九品中正(きゅうひんちゅうせい。九品官人法)で、中正官(地方に置かれた役人で、地方の有能で評判の高い官僚候補者を9等級に分けて評定する)と結びついた地方豪族勢力が高い地位を得て、豪族の貴族化が進んでいくのです。まさに"上品に寒門(かんもん)なく、下品(かひん)に勢族(→有力豪族をさす)なし"状態です。

 お待たせしました。受験世界史における今回の学習ポイントです。東晋の建国年(317)、滅亡年(420)は"さいなら東晋死にやが"という残酷な覚え方があります。東晋皇帝は司馬睿のみでよろしいです。諡(おくりな。没後におくられた名前)の元帝はまずは覚えなくても大丈夫でしょう。また有名な重臣も数多く登場しましたが、南朝宋を建国した劉裕ぐらいでよろしいかと思います(ただ、劉裕も受験ではマイナー系ですが。むしろ南朝宋の建国者で覚えた方が良いでしょう)。

 あと六朝文化ですが、まとめておくと、文学では東晋の陶淵明、南朝宋の謝霊運が著名で、陶淵明は漢文の世界ではメジャー級です。本編未登場ですと、『文選』の編纂をおこなった南朝梁の皇太子、昭明太子(しょうめいたいし。蕭統。しょうとう。501-531)が有名です。ちなみに『文選』は対句形式をとる駢儷体(べんれいたい)の文体が多く、これはのちに四六駢儷体(しろくべんれいたい。南朝の斉・梁に流行した文体。1句の字数は4字句・6字句が基調)として多く採用されます。

 最後に宗教関係ですが、この時代に覚える事項は、仏教と道教です。道教の内容は北魏の学習ポイント(→こちら)でも参照いただくとして、それ以外の内容を書かせていただくとすれば、西域の亀茲(きじ。クチャ。B.C.272-A.D.14C)からやってきた仏図澄(ぶっとちょう。ブドチンガ。232-348。4世紀前半渡来)や鳩摩羅什(くまらじゅう。クマーラジーヴァ。344-413。4~5C渡来)が華北で仏教を布教した内容は重要です。とくに鳩摩羅什仏典漢訳は重要で、共に4字なので覚えましょう。あと東晋の仏教関係で有名なのは『仏国記』を著した僧・法顕(ほっけん。337?-422?)で陸路でインド・グプタ朝(320-550?)に向かい、海路で帰ってきます。これも非常に大事ですよ。

(注)UNICODEを対応していないブラウザでは、漢字によっては"?"の表示がされます。"刁協"(ちょうきょう。刀の丿の部分が、孑から了を取り除いた右上がり斜め棒。とにかく表現しづらい)、"庾氏"・"庾亮"(ゆ。广に臾)、"淝水"(ひすい。さんずいに肥)、"氐"(てい。氏の下に―もしくは丶)、"司馬昱"(しばいく。上が日、下は立)、"顧愷之"(こがいし。りっしんべんに豈)。

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