世界史の目-Vol.196-

極東での惨劇

 ロシア・イギリス・フランスら連合国と、ドイツ・オーストリア(オーストリア=ハンガリー二重帝国。1867-1918)ら同盟国(三国同盟。1882-1915)との間で争われた第一次世界大戦(1914-18)の時代。ロシア11月革命(ロシア暦十月革命。1917)によって、ロシア帝国ロマノフ朝(1613-1917)は消滅し、ウラジーミル=レーニン(1870-1924)ら革命派・ボリシェヴィキソヴィエト組織(ソヴィエトは"評議会"・"会議"の意味)による社会主義政権が誕生した。

 1918年3月3日、ロシアのボリシェヴィキ・ソヴィエト政権はドイツおよびその同盟国とブレスト=リトフスク条約を締結、革命政権の手でロシアは大戦から離脱した。第一次世界大戦におけるロシアとドイツ・オーストリアとの東部戦線がこの条約を機に終結に向かったため、ドイツ軍は主戦場である西部戦線に集中したことで、西部戦線の相手国であるイギリス・フランスに攻勢をかけ、猛攻撃を行った。英仏両国は、戦線を離脱したロシア国内にドイツ勢力が及ぶことを警戒し、連合国側全体としても、ロシア革命によって、連合国内で活動する社会主義者たちがさらに増長する怖れもあったため、ロシアの革命政権に干渉する必要が出てきた。翌4月、イギリス軍は初めてロシア北部のムルマンスク駐留を実行した。

 ブレスト=リトフスク条約によって、革命政権であるボリシェヴィキ・ソヴィエトがこれまで主張してきた、帝国主義戦争の即時中止は実現化されたわけだが、条約締結の条件として、ロシアはウクライナ・ベラルーシ・バルト三国(エストニア・ラトヴィア・リトアニア)の約320平方キロメートルの領土をドイツに割譲することになり、賠償金支払いを約した。この結果、ロシアの各地では革命支持派(赤軍)と反革命派(白軍)との間で内戦(ロシア内戦。1917-23)が勃発した。

 ロシアは、大戦中に捕虜にした同盟国軍のチェコ人(チェック人)とスロヴァキア人らを軍団に編成し(第1チェコスロヴァキア軍団。チェコ軍団。1917)、5~6万人規模のチェコ兵・スロヴァキア兵を保有していた。当時チェコ及びスロヴァキア両国家は同盟国オーストリアの支配下にあり、二国合同の"チェコスロヴァキア"としての独立を達成するために、トマーシュ=マサリク(1850-1937。のちチェコスロヴァキア大統領。任1918-35)を指導者とする独立運動が活発化し、オーストリアの敵国であるイギリス・フランスからも支持を得た(その後、チェコスロヴァキア共和国(1918.10.28-1992.12.31)として、オーストリアから独立を達成する)。1918年5月、チェコ軍団はウラジオストクの軍港から海路で西部戦線へ向かうため、シベリア鉄道で東へ移動中であった。しかし同月半ば、ロシア東南部のチェリャビンスク駅において乱闘を起こし、武器庫から武器・弾薬を奪取するなど暴挙に出て大反乱へと発展した。ボリシェヴィキ政権は同軍団を白軍を助ける反乱軍・反革命分子として、これを弾圧することを指示した。

 連合軍の各国はチェコ軍団反乱を契機と考え、チェコ兵・スロヴァキア兵の救出を名目に、ボリシェヴィキ・ソヴィエト政権を打倒するため、干渉・攻撃を始めた(対ソ干渉戦争)。干渉はイギリスのムルマンスク上陸(前述。1918.4)以降、すでに各国で宣戦布告なしで行われていたが、8月になって、バイカル湖以東への大規模な干渉が始まった。これがシベリア出兵である(1918.8。シベリア干渉戦争)。このため、ロシア国内では赤白の内戦に加え、同盟国を敵として戦ってきた同志の国々による干渉によって、大混乱状態となった。

 シベリア出兵にはアメリカと日本が中心となって行われた。これは地理的にも日米両国の方がシベリアに近く、対するイギリスとフランスは西部戦線に兵力を費やしていたためである。日本の寺内正毅内閣(てらうちまさたけ。首相任1916.10-1918.8)は同1918年8月早々に出兵を宣言して、他の列強よりも桁外れの兵力をつぎ込み(総兵力7万余はアメリカの約10倍)、ウラジオストクに上陸、同地に駐留した。
 列国の干渉は徐々に進展していったが、同年11月、事態が変わった。ドイツが革命(ドイツ革命1918.11-19.1)による停戦を表明したのである。ドイツ革命にて第一次世界大戦は終結、これにより英仏両国はロシア干渉をやめ、撤退を始めるようになった。しかし日本は他国が撤兵気運が高まる中でも駐留を続けた。日本のシベリア出兵に求めたものは、極東での覇権であった。

 日本の駐屯各地では、日本の駐留に反対する労働者や農民らによって抗日パルチザン(抗日武装ロシア人。パルチザンとは非正規的な武装勢力)が結成された。彼らは内戦においても赤軍に味方し、白軍と戦っていた。1919年1月からはパルチザンの遊撃戦が日本軍との間でおこされた。日本軍はパルチザン及び支持者を一掃するため、各地の村落を襲撃した。なかでも3月末に起こったイヴァノフカ村(イワノフカ村。アムール州)では、革命支持派が潜伏するという理由で、日本軍が村を包囲し、住民の女性・子ども・高齢者を多く含む民間人を次々と銃などで殺害、また物置小屋に押し込め、生きたまま小屋ごと焼き殺すという残虐な襲撃事件が起こった(イヴァノフカ虐殺事件)。結果、300名近い犠牲者を出したと言われる。

 ロシア内戦は反革命派(白軍)の崩壊(1920.2)で革命派(赤軍)の勝利がほぼ決定となっていった。白軍の崩壊とともにチェコ軍団も1919年末より撤兵を始めたことで、連合国軍がシベリアに駐留する意味がなくなり、アメリカは1920年1月にシベリアから撤退を始めた。日本も戦費による財政が逼迫し、国内でも撤退気運が高まったが、日本は撤退することなく、極東での覇権を得ようとした日本の動きがここで明らかとなり、ロシアのみならず連合国から非難された。
 同1920年1月末、アムール川河口の港市ニコライエフスク(日本語名は"尼港"。にこう。1918年9月より日本軍が占領)が4000名の抗日パルチザンによって包囲された。同港には駐留していた日本守備隊、また数百人の居留民がいた。ここで抗日パルチザン軍は日本陸軍に対して撤退、武器弾薬の引き渡し、そして内政への不干渉を要求した。この要求は形式的には受け入れたが、日本は3月12日に奇襲攻撃を仕掛けることを決め、同日未明に逆襲を開始、パルチザン本部を包囲した。火に包まれた本部であったが、まもなく落ち着きを見せて勢力を挽回、日本軍は敗退した。日本軍の奇襲攻撃は失敗に終わり、18日に降伏した。これにより領事館に避難していた日本守備隊および居留民はほぼ全滅(日本国内では"尼港の悲劇(尼港の惨劇)"として報道された)、捕虜となった日本人は100名以上に及んだ。
 このあと日本の旭川第7師団から救援部隊の出動命令が下された(4月)。同月末に北樺太に上陸した救援部隊は尼港事件の報復として同地を保障占領した(日本軍の北樺太占領。1920-25)。

 日本の救援部隊は北樺太の解氷期が来るまで同地に待機状態であった。解氷期が訪れた5月半ば、彼らはニコライエフスクを目指して出動を開始した。そしてニコライエフスクに到達したのは6月初旬であったが、このときに見たニコライエフスクの光景は凄惨極まりないものであった。ニコライエフスクは完全に廃墟と化し、建物は焼失していた。抗日パルチザンは5月下旬から反革命派およびその支持者に対する掃討作戦を始動させていたが、日本軍がニコライエフスクを再占領する日も近いと察し、同市に対しては5月24日夜、捕虜となっていた100人以上の日本人を全員虐殺した。そして反革命派とされる人たちは残すことなく殺害した後、6月1日から2日にかけてニコライエフスク一帯に火を放った。パルチザンのこの行動によって、犠牲となった反革命派のロシア人住民は約8000人(諸説あり)、日本人兵士・居留民は推定700人以上にのぼったとされる。この1920年に起こったニコライエフスクでの一連の事件を尼港事件と呼ぶ。

 血の惨劇が極東で起こっている間、日本国内では原敬内閣(はらたかし。首相任1918.9-1921.11)は、閣議で6月1日にシベリア撤退を決めていた。しかし一連の尼港における凄惨な事件によって、日本国内では3月の"尼港の悲劇"報道に続いて6月の事件発覚後も報道されたが、詳細・真相・核心はシベリア問題に触れるとして隠された。

 1920年1月は国際平和機構の国際連盟が成立し、その年末には歴史上初の軍縮会議であるワシントン会議(1921.11.12-1922.2.6)が開催されたが、こうした国際協調の中でも日本だけがシベリアから撤兵しなかった。こうした中、ワシントンでの諸会議で軍縮を迫られた日本全権・加藤友三郎海相(かとうともさぶろう。海軍大臣任1915-23)は、シベリアから撤兵することを会議で約し、加藤の組閣後(首相任1922.6-23.8)、10月までの撤兵を閣議で決め、政府声明としてシベリア撤兵を発表後、撤兵は進められた(1922。シベリア撤兵)。

 ボリシェヴィキ・ソヴィエト政権は同1922年末、ソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連。United of Soviet-Socialistic Republics。U.S.S.R.)の樹立を宣言し、世界初の社会主義国家を誕生させた。尼港事件の時に日本によって占領された北樺太は、1925年の日本のソ連承認によって占領が解かれた(日ソ基本条約)。
 シベリア出兵によって、日本が得たものは何もなく、逆におよそ10億円の戦費と何千という尊い人命を失い、悲嘆と落胆だけが残った。極東での勢力維持のため、国際協調の波が来る中でも、最後までシベリアに残った日本の姿勢は、日本と英米との距離をさらに拡げさせる遠因の一つともなり、やがて来る大規模な大戦においてもお互い敵国として戦うことになるのであった。


 本編で高校世界史用語集で登場する人物はマサリクだけで、内容は本当に高校日本史でした。受験内容も日本史B中心となってしまいましたが、シベリア出兵は世界史にも登場します。
 日本史関連で言えば、シベリア出兵関連では尼港事件、また世界史関連ではロシア内戦(赤軍と白軍)、対ソ干渉戦争、チェコ兵捕虜あたりがキーワードとなりますね。また本編未登場ですが、寺内内閣が総辞職となったのは、シベリア出兵が要因の一つとなって、1918年の日本国内で起こった事件が理由です。そう、大量の出兵によって米価が高騰し、各地で起こった、"米騒動"です。

 ロシア干渉はシベリア出兵が中心ですが、今回はイヴァノフカ事件と尼港事件という、非常に悲しくいたましい惨劇も織り交ぜながらご紹介いたしました。尼港事件やイヴァノフカ事件は受験世界史での登場はありませんが、現代人の心に留めておきたい重要な事件です。

 さて、受験世界史の学習ポイントを見てまいりましょう。シベリア出兵はチェコ兵捕虜を救出することを口実に日米が中心となって出兵します。しかし相互非協力の形です。チェコ兵捕虜を救出するのが目的だということを知っておきましょう。ロシア内戦も登場しましたが、革命軍が赤軍、反革命軍が白軍です。余裕があれば、難関私大で、対ソ干渉戦争でイギリス軍がムルマンスク出兵を行ったことも知っておくと便利です(あまり出題されませんが)。
 あと、これは本編未登場で、本編とはあまり関わりがないのですが、時期が近いので載せておきます。1920年から21年にかけて、ソヴィエト政権がポーランドと戦った戦争(ソヴィエト=ポーランド戦争)です。知っておきましょう。

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