世界史の目-Vol.198-

東ローマ帝国・前編

 395年、ローマ帝国(B.C.27-A.D.395)皇帝・テオドシウス1世(大帝。位379-395)が没し、帝国は東西分裂をおこした。西のローマは西ローマ帝国(395-476)として、テオドシウス帝の次男ホノリウス(384-423)が初代西ローマ皇帝として即位し(西ローマ帝位395-423)、東のローマは東ローマ帝国(395-1453)として、テオドシウス帝の長男アルカディウス(377-408)が初代東ローマ皇帝となった(東ローマ帝位395-408)。歴史学上での呼称はビザンツ帝国と呼ばれ、首都はコンスタンティノープル現イスタンブール)である。コンスタンティノープルは分裂前の330年コンスタンティヌス1世(大帝。位306-337)時代に遷都されたため(330年遷都)、この年を東ローマ帝国の創始年とする場合があるが、分裂後のテオドシウス朝(394-457)以降で話を進めていく。

 テオドシウス朝は457年で血統が絶え、レオ朝(457-518)を経て、ユスティニアヌス朝が始まった(518-602)。同王朝初代皇帝は、貧農から出世して、プラエトリアニ(近衛隊、親衛隊)の将軍を務めていたユスティヌス1世(帝位518-527)であった。ユスティヌスは即位時には老年に達していたため、博識で聡明な甥のユスティニアヌス(483-565)を次期後継者にするために彼を養子として養育した。ユスティヌス1世の晩期にはユスティニアヌスをコンスル(統領。執政官。任521,528,533-534。コンスル制は541年に廃止)に任じて統治させるなど、彼を前面に出させて統治させていった。ユスティヌス1世はユスティヌスに大きな期待をかけており、525年にユスティニアヌスが20歳年下の貧しいサーカスの踊り子・テオドラ(500?-548)と階級に格差がありながら結婚できたのも、それは養父ユスティヌスが結婚を認める法律を定めたからであった。

 ユスティヌス1世が、第2代皇帝としてユスティニアヌスがユスティニアヌス1世として即位した(大帝。帝位527-565。即位時はユスティヌスと共同統治。ユスティヌス没後に単独統治)。大帝という名にふさわしく、ユスティニアヌス帝は王朝名"ユスティニアヌス朝"としてもその名を残した。翌528年、ユスティニアヌス帝は法務長官トリボニアヌス(?-543/545)に命じて、『ローマ法大全(ユスティニアヌス法典)』の編纂を行った。これは古代ローマ法の集大成として、古来の法律の散逸を免れ、後世の法律の模範となるなど、中世ヨーロッパに多大な影響を与えた。
 ユスティニアヌス帝の活動は非常に精力的で、"不眠不休の皇帝"と渾名されるほどであった。開墾・植民を歓迎し、人口増加につなげ、また養蚕業を導入しての専売を行った。貿易も地中海と黒海を中心に積極的に行い、コンスタンティノープルは瞬く間に商業中心地として発展した。

 また帝に仕えた将軍ベリサリウス(505?-565)、忠臣ナルセス(487?-573?)も多くの功績を残し、534年に北アフリカのヴァンダル王国(439-534。ヴァンダル族)、555年(553年?)にイタリア半島の東ゴート王国(493-555。東ゴート族)といったゲルマン国家を征服した。イベリア半島では、同じくゲルマン一派西ゴート族の西ゴート王国から同半島東南部を奪取した。また東方ではササン朝ペルシア(サーサーン朝ペルシア。226-551)との和睦(532)で地中海の制海権を確保したことで、東ローマ帝国は地中海を取り囲んだ帝国として、ローマ分裂前に近い版図にまで拡大した。

 このようにユスティニアヌス帝は即位後は積極的に外征を行ったが、こうした度重なる遠征は国民に対して重税として跳ね返っていた。即位5年目の532年、ユスティニアヌス朝による最初の危機が訪れた。開催されている戦闘用馬車であるチャリオットの競技が思わぬ展開へと向かった。日頃の重税に不満をつのらせた市民が、競技への過熱から暴徒化、競技場に隣接した宮殿を襲撃した。この時、襲撃に参加した市民が、"ニカ"の掛け声を連呼しながらの反乱であった("ニカ"とはギリシア語で"勝て!"の意味)。この口々に叫ばれた掛け声から、"ニカの乱"と呼ばれ、首都コンスタンティノープルは大混乱に陥り、ハギア=ソフィア大聖堂(アヤソフィア大聖堂。コンスタンティヌス朝の360年創建)も焼失、帝室は機能停止寸前の状態にまで追い込まれた。ユスティニアヌス帝は退位と首都脱出を企て、逃亡用の舟に逃げ込もうとしたが、これを引き留めたのが皇后テオドラであった。
 テオドラは帝に対し"帝衣は最高の死装束"の言葉を投げかけ、逃げて生き延びるより、紫の帝衣を着たまま死んでこそ皇帝であるとして帝を励ました。これで勇気を取り戻したユスティニアヌス帝はただちにベリサリウス将軍に命じ、反乱鎮圧に成功できたという。

 反乱鎮圧後、ユスティニアヌス帝はすぐさまハギア=ソフィア大聖堂の修築を行った。円屋根のドームとモザイク壁画が特徴的な、ビザンツ様式の代表的である【外部リンク引用】。同じくビザンツ様式建築のサン=ヴィターレ大聖堂(東ゴート王国の首都だったラヴェンナに建築)では、ユスティニアヌス帝と皇后テオドラのモザイク壁画が描かれている。

 ユスティニアヌス1世の治世晩期にはヨーロッパ初の黒死病ペスト)が流行しており(540年代前半)、人口が激減して産業・経済・行政の各機能が上手くいかなくなった。ユスティニアヌス帝は"皇帝教皇主義(カエサロパピズム)"の立場で宗教政策も施し、東方教会を支配したが、単性論派(キリストは人であり神である正統とされた両性論派に対して、キリストは神のみであるという異端とされたキリスト教)の反抗も活発化した。
 ユスティニアヌス帝は565年に崩御し、甥のユスティヌス2世が即位したが(帝位565-578)、前帝の死は予想以上に大きな痛手となった。北イタリアはゲルマン一派のランゴバルド族(ロンバルド族)に奪われ、さらにバルカン方面ではスラヴ人やアヴァール人、ブルガール人らが侵入、また勢力を盛り返したササン朝との対戦も敗れた。結局ユスティニアヌス朝は国力が衰退して602年に血統が断絶、軍人皇帝が即位するなど不安定になった。

 不安定な帝国の窮地を救ったのが、ヘラクレイオス朝(610-695,705-711)をおこしたヘラクレイオス1世(位610-641)であった。ササン朝を破って東方属州を奪い返し、またアヴァール人も撃退して、帝国存亡の危機はいちおう免れた。しかし晩年はシリア、メソポタミア、エジプトを新たな敵、イスラム勢力に奪われ、首都コンスタンティノープルはまた脅威にさらされた。こうして、7世紀以降の東ローマ帝国は、イスラム勢力への対策が必要となり、外敵から素早く対応するための制度の見直しが必要となった。

 これまでは古代ローマと同様の属州統治であり、中央政府から派遣された総督が地方行政を担当して統治していたが、総督は行政権のみで軍事権は軍司令官の担当であるため、これには関わらなかった。これでは、異民族が侵入しても対応が遅れてしまうので、地方では行政と軍事両権を把握できるようしなければならなかった。そこで、ヘラクレイオス帝は地方行政制度の変革を行い、軍司令官が地方行政を担当できる形にした。それは、全国をいくつかの軍管区テマ。セマ)に分けて再編成し、それぞれに地方行政を兼任する軍司令官("ストラテゴス"という)を置くという軍管区制テマ制。セマ制)である(しかし軍管区制の実施時期には諸説あり)。
 軍団の兵力は解放されたコロヌスや、移植してきたスラヴ人などの異民族らを適用、彼らに農地を与えて平時は農業に従事させ、戦時には自弁の武具で兵役に就かせる兵農一致の屯田兵制度によって確保した。軍管区制と屯田兵制によって地方防衛軍が確立し、財政も安定したかにみえた。

 しかしヘラクレイオス朝の治世においても外敵との戦いはなくならなかった。ヘラクレイオス1世の晩年以降はイスラム軍との戦いが絶えず、前に述べたとおり西側の地方をことごとく奪われた。ヘラクレイオス朝5代目皇帝であるコンスタンティノス4世(位668-685)のとき、首都コンスタンティノープルがウマイヤ朝(661-750)の軍に包囲されたが(674-678)、シリア出身のキリスト教信者の発明による火炎放射器"ギリシアの火"の登場で包囲は失敗に終わった。この"ギリシアの火"はその後の東ローマ帝国の秘密兵器として活躍する火器で、コンスタンティノス4世の治世で初めて使用されたと言われている。硫黄・硝石・石油・松ヤニ(諸説あり)などを混合した液体に火を付けてサイフォンで吸い上げ、敵に向けて発射する画期的な武器であり、水では消えないどころか、余計に燃え広がるというものであった。
 イスラムと抗争が展開される一方で、バルカン半島東南部では新たな勢力が台頭した。ブルガール人というアジア系民族で、バルカンに侵入してブルガリア(第一次ブルガリア帝国。681-1018)を建国し、ローマを脅かした。

 ヘラクレイオス朝は711年に最後の皇帝ユスティニアノス2世(異称"リノトメトス"。鼻を削がれた男という意味。位685-694,705-711)の死で血統は断絶した。イスラム軍と長期にわたる戦いを強いられ、さらにはブルガリアの登場で領土も結果的には縮小化をたどり、地中海を取り囲む大帝国は崩れ落ち、小アジアとバルカン半島、南イタリアの一部にとどまった。公用語もラテン語からギリシア語と変わり、"ギリシア人のローマ帝国"へと変貌した。東ローマ帝国は、コンスタンティノープルを中心に、地中海世界の代表から東方世界の代表として君臨していくのであった。


 およそ1000年の歴史を形成した同帝国の初期にあたる300年余の歴史をご紹介しました。長い歴史を誇る国家であるが故に、今回は前後編形式でお送りします。ユスティニアヌス朝とヘラクレイオス朝のそれぞれの治世について話を進めましたが、内容は非常に濃かったですね。

 早速、今回の受験世界史の学習ポイントを見てまいりましょう。東ローマ帝国は別称ビザンツ帝国と呼ばれます。これは首都コンスタンティノープルの旧称がビザンティオン(ビザンティウム、ビュザンティオン)であることに由来しています。建国年はいちおうローマ帝国の東西分裂年である395年、コンスタンティヌス帝がコンスタンティノープル遷都を果たした330年のどちらかとなっております。首都コンスタンティノープルはボスフォラス海峡に面した海港で、黒海貿易から地中海貿易へと発展していきます。この街は世界史ではイスタンブル以上に登場回数が多いので、絶対に覚えましょう。

 東ローマ帝国の王朝名は覚える必要はありません。今回登場した皇帝では、ユスティニアヌス帝とヘラクレイオス1世が重要です。まず前者ですが、ササン朝のホスロー1世(位531-579)と休戦条約を締結し、ヴァンダル王国と東ゴート王国を征服、領土を拡げました。内政ではローマ法大全を法学者トリボニアヌスらに編纂させています。養蚕と絹織物業を主要産業にしたことも重要。ビザンツ式建築の代表ハギア=ソフィア大聖堂や、サン=ヴィターレ聖堂のモザイク壁画も覚えましょう。後者での重要ポイントは、イスラム勢力との抗争が続き、シリアやエジプトを失ったことでギリシア寄りの帝国となったこと、軍管区制(テマ制)と屯田兵制を実施したこと、ブルガリアが登場したことなどが大事ですね。

 さて、続くは、Vol151でメインを張ったあのビザンツ皇帝も登場します。後編をお楽しみに。

【外部リンク】・・・wikipediaより

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