世界史の目−Vol.2−

ピョートル大帝のロシア西欧化(位1682〜1725)


 ミハイル=ロマノフを皇帝(ツァーリ)として迎え、ロマノフ朝を開基したロシアでは、宮廷内の帝位をめぐる内紛がしずまらず、1682年、帝位についたピョートル1世大帝)も、親政を始めたのは1694年である。さて、彼が”大帝”と呼ばれるほどの大偉業をご紹介しましょう。

1.内政・・・社会の遅れから、ロシアの近代化、中でも西欧化に目覚めて、西欧視察団を組織して、イギリス・オランダ・ドイツなど見学した(大帝自らも身分を隠して見学)。西欧風の砲術・造船などの技術を習得し、帰国後も、西欧の風俗や生活様式(服装・食事)を強制した。学校を設立して教育を重視し、海外へも多くの留学生を送り出した。政治面では地方自治制度や元老院などを設置して中央集権化に努め、産業面では重商主義政策にもとづいて産業を保護し、西欧社会に追いつくことを考えた。しかし、これらの諸改革には反乱がつきもので、大貴族などの保守勢力の不満がつのって反乱も続発し、皇太子アレクセイも加担し、処刑されている(1718)。

2.東方外政・・・軍備の拡大を背景にシベリアに進出、黒竜江(アムール川)沿いに南進していると、中国・清朝(時の皇帝は康煕帝)と衝突し、国境を定めた。これが1689年のネルチンスク条約で、中国史上初の対外領土条約である。

3.南方外政・・・オスマン=トルコと戦って、黒海にあるオスマン領アゾフ海を占領(1696)。大帝はこの侵攻に大苦戦し、西欧式戦術を学ぶことを決意した。

4.北方外政・・・バルト海の強国スウェーデン(時の皇帝カール12世)に対し、ロシアは戦いを挑んだ。これが北方戦争(1700〜21)でロシアは前半は劣勢だったものの、後半にはポルタヴァでカール12世を敗って勝利し、ニスタット条約(1721)でバルト海の制海権を獲得した。そこで築かれたのが”西欧への窓”である新首都「ペテルブルク」である。これで北欧の強国はスウェーデンからロシアに渡った。

大帝は「帝冠を持つ革命家」といわれた啓蒙専制君主で、ロシアの絶対主義王政に代名詞とさえなった。しかし、ロシアの近代化は、農奴制を相変わらず強化したことによって市民階級の成長はおくれ、後進国と言わざるを得なかった。1725年、川で溺れる兵士を救おうとしたが、このため風邪を引いたため死去したと伝えられる。彼の偉業は、1762年に帝位につく啓蒙絶対君主・エカチェリーナ2世に引き継がれた。

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