世界史の目-Vol.20-

ナチス

  第一次世界大戦で敗戦国となったドイツは、ヴェルサイユ講和条約1919.6)で、普仏戦争(1870.7~1871.2)の勝利で得たアルザス・ロレーヌの2州をフランスに、またドイツ系住民の多いポーランド回廊(ドイツ東国境)をポーランドにそれぞれ割譲し、またダンチヒ市(現・グダニスク)は自由市として国際連盟の管理都市となるなど、すべての植民地を失った。またライン川の東の幅50km地帯、いわゆるラインラント非武装化された(1925年締結のロカルノ条約でもラインラントの永久非武装が約束された)。1923年にはドイツの賠償が滞ったのを口実に、フランスやベルギーによって、ドイツの経済の要地であるルール工業地帯が占領された(ルール出兵)。こうして戦後の列強の体制はドイツの縮小化を徹底した。

 ルール占領後、その間の工場労働者のサボタージュによって生産が止まったにもかかわらず、労働者への賃金の支払いは行われたため、空前の悪性インフレーション(貨幣単位マルクの価値は1兆分の1に下落、つまり物価は1兆倍!!)が爆発的に引き起こされた。

 悪性インフレの最中、今後ドイツの救世主となる国会議員シュトレーゼマン(1878~1929)が首相に就任した(任1923.8~11)。当時はドイツのヴァイマル体制(この時のドイツの国名は"ヴァイマル(ワイマール)共和国")に不満が立ちこめて、政府打倒をめざしてミュンヘン一揆(1923.11)などのクーデタが起こり、政治は混乱した。シュトレーゼマンはライスヒバンク(国立銀行)総裁シャハト(1877~1970)の協力で不換紙幣レンテンマルク(1兆マルク=1レンテンマルク)を発行してインフレを収束させることに成功、首相退任後も外相として外交策に奔走した。シュトレーゼマン外交は協調外交であり、まずルール地帯はアメリカの財政家ドーズ(1865~1951)の賠償案成立(ドーズ案。1924)を機に占領が解かれ(ルール解放)、さらにロカルノ条約調印によって国際連盟加入(1926)が実現、常任理事国となり、負債を抱えながらも、ドイツは欧米諸国との協調に向かった。1925年には初代大統領エーベルト(任1922~1925)の急死で、第一次世界大戦中の国民的英雄・ヒンデンブルク将軍(1847~1934)が大統領に就任し(任1925~1934)、ドーズ案に続くヤング案(1929)で賠償問題も緩和され、経済的にも政治的にも安定の方向に向かったかに見えた。

 しかし、列強に経済打撃が走った。1929年の世界経済恐慌である。世界恐慌はアメリカ経済を中心にヨーロッパ諸国・アジア諸国に波及し、当然ドイツも巻き込まれた。ヒンデンブルク大統領は、大統領の特権である非常大権(ヴァイマル憲法48条に規定)を使って緊急条令を発令し、恐慌対策用の少数派内閣を3代任命したが効果はなく、議会機能も低下し、逆にヒンデンブルクの独裁政治が強化された。ローザンヌ会議(1932)で戦後の賠償問題は打ち切りとなったものの、経済を持ち直せなかった。

 1932年、7月に総選挙がおこなわれた。第一党となったのは、230議席を獲得した国家(国民)社会主義ドイツ労働者党、通称ナチスである。ヴェルサイユ体制に不満を持ち、また恐慌で苦しんでいるドイツ国民、特に失業者らは、元スパルタクス団から発展した共産党と、官僚化した社会民主党との意見のぶつけ合いに飽き、急速に成長するナチスに期待を持ち始めた。大統領をはじめ、同じ保守勢力である軍部や資本家も出口の見えない恐慌から、共産党の増大化の恐怖があり、現状打破には政財界の大半が支持しているナチスに接近する必要があるとして、ヒンデンブルク大統領は、ナチスの党首であるアドルフ・ヒトラー(1889~1945)に内閣を任せ、首相に任命した(任1933.1~1945)。ヒトラー内閣の誕生である。

 ナチスの前身はドイツ労働者党で、1919年にミュンヘンで設立された。群小の右翼政治団体だったが、9月、ヒトラーが入党してからは、大衆的組織を売りにヴェルサイユ体制の打倒とドイツの共和政府に対する不満を主張しはじめた。1920年に国家(国民)社会主義ドイツ労働者党と改称して、1921年以降はヒトラーが党首であった。同年、党員レーム(1887~1934)は突撃隊SA)を創設して反対派を暴力で打倒し、党の騒動を受け持った。1922年にはゲーリング(1893~1946)が入党し、SAの組織に加わった。1923年に起こった前述のミュンヘン一揆は、実はヒトラー、レーム、ゲーリング、ヒムラー(1900~1945。1919入党)が起こした、ヴァイマル共和体制の転覆をはかったクーデタであり、この一揆は失敗したが、ヒトラーは獄中でナチスの聖典『わが闘争』を執筆し、出獄(1924)後は全体主義的大衆運動を一段と強化した。1925年には『わが闘争・上巻』を発刊し、その個性的風貌と巧みな弁舌による演説によって支持率を上げ、また同年SAの中から親衛隊SS。黒シャツにドクロマーク。1929年にヒムラーが隊長就任。)を組織して党首直属の直接行動隊として動いた。このSAやSSは退役軍人・失業者らが主体で、こういった大衆的組織は若者や婦人らの層の人気を引き寄せた。1927年には『わが闘争・下巻』も発刊し、1930年の総選挙では第二党(議席12名→107名)、そして前述の1932年7月の総選挙で、これまでヴァイマル体制を支えてきた社会民主党よりおよそ100議席多いナチスが第一党となったのである。

 1933年1月のヒトラー内閣成立後、まず行動に出たのは、邪魔者の排斥であり、それは労働組合や政治団体、そして共産党に凝り固まった。直ちに議会を解散して、徹底的に弾圧を行った。これは手段を選ばず、例えば同年2月27日(1週間後に総選挙がある)の夜に起こった国会議事堂放火事件では、放火前、共産党の武力クーデタの噂を流し、ゲーリングが前オランダ共産党員ルッペらを利用して放火させたと言われているが、ヒトラー首相はこの放火事件を共産党の陰謀としてでっちあげ、すぐさま緊急令を公布してルッペをはじめ、大多数の共産党員を逮捕した(放火事件の真相は依然として不明。ルッペの単独犯行説もある。)。それだけでなく、ヒンデンブルクの老衰化に伴って、社会民主党にも圧力を加え、結果3月の総選挙はまともに影響してナチス党最高の288議席を獲得して第一党となった。

 同年3月、ヒトラー政権は、"国民と国家の困難を除去する"法律案を提出した。この法案は、政府に立法権を委ねることで、ヒトラー政府が国会の同意がなくても自由に法律を制定できる権利が与えられるもので、強引に通過させて成立した。これが全権委任法である。これによってヴァイマル共和国の、当時最も民主的な憲法と言われたヴァイマル憲法は事実上停止となり、社会民主党は地に墜ちた。結局7月までに社会民主党をはじめとして、ナチス以外の政党や労働組合をすべて解散させて、遂に一党独裁を確立させたことにより、ヴァイマル共和国は完全に倒壊した。1933年5月には、すべての労働組合を解散させ、"ドイツ労働戦線"を編成して、ナチスの官製御用組合とし、労働者は無権利とされ、労働義務が課された。しかし、11月に「歓喜力行団」なるレクリエーション組織をおこして、労働者は映画や演劇、保養地などを安価に提供した。さらに党内でも左派の排除を断行し、1934年、国防軍と並ぶ規模にまで成長したSA突撃隊では、参謀長レームが、国防軍をSAへ編入しようとしたかどでヒトラー、ゲーリング、ヒムラーらと対立、ヒトラーは国防軍に接近し、ヒトラーの命令でレームは暗殺され(レーム事件)、SA指導者らを一掃し(「血の粛清」)、SAを解散させた。さらにゲーリングは国家秘密警察ゲシュタポ。長官ヒムラー)を設立して反政府活動者を取締り、ヒトラーの独裁力はますます高まった。

 そして、最後の砦だった大統領のイスもヒンデンブルクの死去(1934.8)によって取り除かれる時が来た。国民投票が行われ、ヒトラーは大統領と首相を兼ねる総統(フューラー)に就任し(任1934~45)、党首・首相・大統領、すべての権限を持ったヒトラーは完全な独裁者となった。ヒトラーの独裁帝国は、これを、オットー1世(位962~973)の神聖ローマ帝国(第一帝国。962~1806)、ビスマルク(1815~98)とヴィルヘルム1世(位1871~88)のドイツ帝国(第二帝国。1871~1918)に続く、永遠なる「第三帝国」の成立と称した。

 ヒトラーはまず、軍備の平等権を提唱したが、国際連盟には認められず、1933年10月、住民投票の結果95%という圧倒的支持率で国際連盟を脱退した。フランスは、ドイツがヴェルサイユ体制の打ち崩すための進出をはかることを警戒して、アメリカに承認してもらったばかりのソ連に国際連盟加入を斡旋し、1934年9月にソ連の連盟加入を実現させた。よってソ連は国際的地位が向上した。しかしドイツ進出は滞りなく、1935年1月ザール炭田地方の併合を住民投票支持率91%で実現させ、ナチス政権では初めての領土拡大に成功した。これによって3月再軍備宣言を発表し、義務兵役制度復活、国防軍の5.5倍増、常備軍50万保有、空軍拡張を実施させ、ヴェルサイユ体制の大破壊へと邁進した。このためフランスは、ソ連や、ドイツ進出の恐れがあるチェコ相互援助条約を結び(ソ連とチェコ間にも締結)、4月にはドイツに併合される恐れがあるオーストリアの独立保全を承認するため、イギリス・イタリアとの相互援助を求めてイタリアのストレーザでドイツ対抗の宣言を発表した(ストレーザ戦線)。しかし、イギリスは宥和対策としてドイツの海軍保有を4倍高める協定(英独海軍協定)を結び、イタリアもムッソリーニ(1883~1945)率いるファシスト党が国際連盟を無視してエチオピア侵略1935.10)していくなど、効力がなかった(結局イタリアも1937年、国際連盟を脱退した)。

 ヒトラーは1936年になってもヴェルサイユ体制の破壊をおこたらず、ベルギーやフランスの国境の安全保障やラインラント非武装を規定したロカルノ条約を破棄する宣言を発表し、ヴェルサイユ条約の武装禁止条項も破棄し、シュトレーゼマンの苦労も水の泡となってしまった。3月、仏ソ間の相互援助条約締結を口実に非武装地帯だったラインラントに進駐した(ラインラント進駐)。これにより英仏は脅威を高めていった。

 国内政策では、ゲーリングにより計画経済を実施した。1932年から建設が順調に進んだ高速道路アウトバーンの拡張や、飛行場・住宅施設建設などの土木事業などによって失業者を減らし、恐慌対策を乗り切っていった。1936年には、"バターよりは大砲を!"のスローガンをもとに、軍需工場の増設、国民総動員体制による戦争遂行をはかった(四ヵ年計画)。また、ライスヒバンク総裁だったシャハト経済相(任1934~37)が経済の全権を任されて、国家保証つきの手形(メフォ)による融資救済を考案するなど、景気も上向きとなっていった。一方で、国民への統制は厳格に行われ、ヒトラーの右腕であり、宣伝関係を担当するゲッペルス(1897~1945。1922年入党)によって言論・出版は焚書による弾圧を受け、教育や文化の自由も統制を受けた。ゲッペルスは"Heil! Hitler(万歳ヒトラー)"のフレーズを導入した。

 またナチスの人種論に基づき、ゲッペルスやヒムラーらを中心にユダヤ人迫害を実行した。1933年にはユダヤ人である物理学者アインシュタイン(1879~1955)・作家トマス=マン(1875~1955。主著『魔の山』)・作家ヘルマン=ヘッセ(1877~1962。主著『車輪の下』)らがこの迫害を逃れるため亡命している。1935年9月に制定されたニュルンベルク法によって、ユダヤ人は8分の1混血までと認定され、ドイツ国籍から外され、地位・職業・生活すべてを奪われた。1938年11月9日から10日にかけて、ナチスはユダヤ人の虐殺や商店打ちこわしを大規模に行い、商店のガラスが水晶のようにきらめく"水晶の夜(クリスタルナハト)"と名付けられた。捕らわれたユダヤ人は諸都市の隔離地区ゲットーに設けられた強制収容所に送られた。老婦女や子どもはガス室へ連れ込まれ、男性は処刑か、あるいは強制労働に酷使された。世界大戦が引き起こされてからは、ユダヤ虐殺はより大規模になり、ポーランドを中心におびただしい数のユダヤ人が虐殺され、中でもアウシュヴィッツなどの強制収容所は絶滅キャンプと呼ばれ、150万人以上が虐殺されたといわれる。『アンネの日記』の主人公アンネ=フランク(1929~45)も被害者の一人である。

 そして遂に、ナチス=ドイツの軍事力が試される時が来た。1936年7月に起こったスペイン内乱である。これはファシズム政党であるファランフェ党を率いるフランコ将軍(1892~1975)が、反乱軍を指導して、政府である穏健共和派の人民戦線内閣(アサーニャ内閣。大統領任1936~39)と対抗した軍事行動である。ファシズム路線を突き進むムッソリーニのイタリア・ファシスト党とヒトラーのナチス=ドイツは公然とフランコ側を支援した。人民戦線内閣は英仏に武器援助を求めたが、戦火の拡大を恐れた英仏が不干渉政策を断行し、結局反ファシズム分子の各国義勇軍(国際義勇軍。『誰がために鐘は鳴る』の作者であるアメリカの作家ヘミングウェイ(1899~1961)らも参加。)と、共産圏ソ連に援助に頼るだけで、政府の戦力は低下、一方、軍拡に制限のないファシズム側は次から次へと武器が登場した。ドイツはこれから始まる大規模な世界大戦の実験を、スペイン内乱で実践し、遂に1939年3月、スペインの首都マドリードは陥落し、人民戦線内閣は壊滅した。この惨状はスペイン画家ピカソ(1881~1973)の傑作『ゲルニカ』によって描かれた。

 スペイン内乱によってドイツとイタリアは急接近し、1936年ベルリン=ローマ枢軸(the Axis)と呼ばれる提携が実現し、ドイツは11月、広田弘毅内閣(ひろたこうき。任1936.3~37.1)率いる日本と反共の立場から日独防共協定を締結した。翌1937年11月にはイタリアも加わり(日独伊三国防共協定。1939年にはスペインも参加)、反ソ・反共・反ヴェルサイユ体制としての枢軸国陣営が整った。国際連盟の威力は徐々に衰退に向かった。

 オーストリアは、過去ヴェルサイユ体制下でのサン=ジェルマン条約(1919.9)に基づき、同民族ドイツとの合併が禁止されていた。ナチス=ドイツは、ドイツ人居住区の拡大を目的に、オーストリアを奪回することを目指した。すでに消滅したストレーザ戦線の効力がないイギリス・フランスをよそに、1938年3月、ヒトラーはオーストリア内のナチスにクーデタを行わせた。しかしイギリス・フランスはスペイン内乱同様、戦火の拡大を恐れ不干渉政策を通した。結局クーデタによりオーストリアの首相にはオーストリア=ナチス党ザイス=インクヴァルト(任1935~48)が選ばれ、ドイツ軍がオーストリア国内に進駐し、併合が実現した(オーストリア併合)。ヒトラーの英仏不干渉の読みが的中したのである。

 オーストリア併合後、ナチス=ドイツはドイツ人が多く居住する、ドイツ側国境地帯ズデーテン地方の割譲をチェコスロヴァキアに要求した。すでにチェコはフランスやソ連と相互援助条約を結んでおり、要求をかたくなに拒否した。ヒトラーは英仏の不干渉を期待して戦争で脅しをかけ始めた。これにおいてもイギリス・フランスは戦火拡大を避けるために不干渉に乗り出そうとしたのだが、チェコ大統領ベネシュ(任1935~38,46~48)は不干渉に反対したため、イギリス・フランスは観念してイタリアのムッソリーニの仲介によって、1938年9月、ソ連とチェコを除いて、イギリス首相ネヴィル=チェンバレン(任1937~40)・フランスの首相ダラディエ(任1933,34,38~40)・ドイツのヒトラー・イタリアのムッソリーニの4者4国の間でミュンヘン会談が開催された。ドイツはズデーテン地方を最後に、これ以上の領土は要求しない約束を取り決め、これを交換条件として、ズデーテン地方獲得を認めた(ミュンヘン協定)。チェコは英仏のここまで来た対ドイツの宥和政策(アピーズメント・ポリシー)に呆れ果て、ベネシュはロンドンに亡命した。会談に呼ばれなかったソ連もイギリス・フランスに不信感を募らせる結果となった。

 この宥和政策は、平和主義イギリスにとっては、ミュンヘン協定によって世界大戦を防げたと大喜びしたわけで、これまで行ってきた不干渉政策は間違いなかったと主張した。しかし、宥和政策は思わぬ結果をもたらした。1939年3月ドイツはすぐさまミュンヘン協定を無視してチェコスロヴァキアを解体し、チェコ内のスラヴ系民族が居住するベーメン(ボヘミア)・メーレン(モラヴィア)両地方を併合、またスロヴァキア地方を独立させた後すぐにドイツ軍が制圧してこれをドイツの保護国にした。これによってチェコスロヴァキア共和国は崩壊した。これによって、併合の今後の矛先は、ドイツと完全な隣国となったポーランドに向けられることは明らかであった。

 ミュンヘン会談後のドイツの行動に対して、イギリス・フランスは遂に宥和政策の道を捨てることに決心し、ポーランドの安全保障に気持ちを集中した。1939年4月イギリスはポーランドと安全保障を約束した。ドイツは当然ポーランド進出を計画し、ポーランドに対してまず、ヴェルサイユ条約によって国際連盟が管理する自由都市となったポーランド唯一の海港ダンチヒ市の割譲、そして、同じくヴェルサイユ条約によってポーランド領となったドイツ人の多いポーランド回廊の割譲を要求した。要求を断れば軍事行動に出るとヒトラーに脅されたポーランドは当然イギリス・フランスの援助に期待した。が、この時のイギリス・フランスは、チェコ解体と同様早急の妥結は見出されないままでいた。それよりも、イギリス・フランスはドイツがポーランドを割譲した後は、ポーランドの東隣国ソ連と、防共・反共の立場から戦争するだろうと固く信じていた。ヒトラーもまた、ポーランド要求に際して、ミュンヘン会談に続く首脳会談を期待した。

 このような情勢の中で、ソ連の共産党スターリン(1879~1953)は、ドイツのポーランド要求に対するイギリス・フランスの消極的な態勢をみて、イギリス・フランスがドイツの反ソ反共に協力するのではないかと錯覚するようになった。また、ドイツのヒトラーも、ポーランド要求に対する不利を避けるには、共産圏ながらもポーランドの東隣国ソ連に接近した方が得だと考えた。ただ、ポーランド割譲した後は、遅かれ早かれソ連と戦争になるだろう、一方でイギリスやフランスはいつものように戦争を避けるため、不干渉で貫くだろうとヒトラーは読んで、ここはひとまずソ連と握手しようと、1939年8月23日、ドイツとソ連間に独ソ不可侵条約を締結した。ファシズムと共産勢力が手を結んだことに、独ソ戦を期待したイギリスとフランスは驚き、一方で防共協定を結び、ソ連と戦う姿勢だったイタリア・日本・スペインも愕然とした。特に日本の平沼騏一郎内閣(ひらぬまきいちろう。首相任1939.1~8)は"欧州は複雑怪奇"の趣旨を声明して総辞職している。西ヨーロッパ各国の共産主義者や共産党組織も動揺を隠せなかった。

 この条約で、イギリスは4月に約束したポーランドの安全保障を強化するため、8月25日、相互援助条約をポーランドと締結し、フランスも同条約を締結した。ヒトラーはこの両条約はドイツに対する牽制と判断、ドイツにはイギリスとフランスは参戦しないと楽観し、独ソ不可侵条約でドイツとソ連にはさまれたポーランドを容易に侵攻することができると決断した。しかし、ヒトラーにとってはこれが大きな誤算となった。

 1939年9月1日、ヒトラー率いるナチス=ドイツは、ポーランド侵攻を決行し、3日、ヒトラーが参戦しないと踏んだイギリス・フランスがドイツに対して宣戦し、列強を巻き込む第二次世界大戦が勃発したのである。ドイツは電撃戦でポーランド軍を壊滅させ9月27日に首都ワルシャワは陥落した。ヒトラーはこれ以降も英仏との戦争は真剣に考えておらず、"奇妙な戦争(Phoney War)"と称されたが、翌1940年4月、ドイツは輸送路確保にむけて、中立国デンマーク・ノルウェーを不法軍事占領、北欧諸国を支援したイギリスの支援は失敗した(チェンバレン内閣は総辞職し、チャーチル内閣が誕生)。またドイツは5月、永世中立規約を破ってオランダ・ベルギーの国境を突破し、西部戦線での攻撃を始め、フランスも危機となり、ここに来てヒトラーはイギリス・フランスと本気で戦争を実行する意志を示した。ドイツ軍は6月14日、パリへ無血入城し、遂にフランスは降伏(パリ占領)、中部フランスのヴィシーペタン元帥(1856~1951)を国家主席とする親独政権を置いた。しかしフランス国内ではドイツへの対抗運動は激しく、一般市民によるレジスタンスが組織され、ドイツ軍に対する武力抵抗を行った。同じくフランス将軍ド=ゴール(1890~1970)はロンドンに亡命してイギリス支援により、同月に自由フランス政府を作ってドイツと戦った。ヒトラーは夏以降、イギリスにおいても大規模なロンドン空襲を行い、本土上陸を試みたが、チャーチル首相(任1940~45,51~55)率いるイギリスは持ちこたえ、ロンドン占領はならなかった。

 イギリス本土上陸作戦を断念したヒトラーは、対ソ戦準備として、1941年、バルカン半島域の制圧に乗り出した。3月のブルガリア進駐に始まり、ハンガリー、ルーマニア、ユーゴスラヴィア、ギリシアを次々と占領し、6月には全バルカンを制圧した。そして同月、独ソ戦争が引き起こされた。しかし、「3ヶ月でソ連は落とせる」と豪語したヒトラーはソ連の軍事力を甘く見ていたため、モスクワやレニングラード(現・サンクト=ペテルブルク)、キエフ、スターリングラードなど、広大なソ連をドイツ軍隊が縦横無尽に迫ったものの、"大祖国戦争"と称した、愛国心をこの戦争で訴えようとしたスターリン率いる頑強なソ連軍隊は、必死に防衛を続けた。しかも、イギリスとアメリカのソ連支援が始まって、ドイツは戦局不利に転じた。特に激戦地となったスターリングラードでは、1942年8月末からのドイツ軍の激しい市街戦が行われた。ヒトラーからこの場から脱出することを禁じられた約30万の最精鋭ドイツ軍隊は43年2月には全滅し、これを機にソ連国内のドイツ軍を追い払った。ドイツの"東側"の侵略はこれで終わった。

 イギリス本土上陸失敗、またソ連戦敗退によって、軍隊を率いたゲーリングの名声は失墜した。その後のゲーリングはヒムラーやゲッペルスにより権力を退けられ、1945年には部下の裏切りでヒトラーを激怒させ、全ての官職を剥奪され、オーストリアで米軍に逮捕後、戦後のニュルンベルク国際裁判で死刑判決を受けた。彼は1946年10月15日、絞首刑執行直前に服毒自殺している。 

 1943年7月、米英率いる連合軍がイタリアのシチリアに上陸し、全島を制圧後、ムッソリーニを捕らえ、9月イタリアは無条件降伏した。ドイツ軍はムッソリーニを助け出し、彼を北イタリアの傀儡政権「イタリア社会共和国」の首班に推して戦いを続行したが、ムッソリーニは既に輝きを失い、1945年4月、スイスへ亡命の途中逮捕され、28日、愛人と共に銃殺された(ムッソリーニ処刑)。イタリアの降伏で、ドイツは"西側"も危機を迎えた。11月にはテヘラン会談で、アメリカのフランクリン=ローズヴェルト大統領(任1933~45)・イギリスのチャーチル・ソ連のスターリンが集まり、第二戦線を形成して、連合軍のヨーロッパ本土上陸作戦を決定した。西から米英軍、東からソ連軍の挟撃である。1944年6月、アメリカ・アイゼンハウアー総司令官(1890~1969)を中心とするアメリカ・イギリス軍が、出せるだけの兵器をすべて出してフランスのノルマンディーに上陸、"史上最大の作戦"を決行した。そして8月、連合軍の接近に期待を寄せてフランス国内のレジスタンスの勢力が奮起し、ドイツ軍は撤退、25日パリは解放され(パリ解放)、26日にはド=ゴールも戻った。一方で東側では、ポーランドのドイツ軍もソ連によって追い払われ、バルカン諸国もソ連によって次々と解放され、ソ連軍は東方からドイツ本土に進撃を始め、1945年4月、ベルリンに入城した。

 1945年4月28日、ヒトラーは長年の秘書であったエヴァ=ブラウン(1912~45)とベルリン参謀本部の地下壕で結婚式を挙げ、30日、ソ連軍の包囲網の中、同地下壕で拳銃自殺し(ヒトラー死亡)、エヴァ=ブラウンも同時に服毒自殺を遂げた。ゲッペルスはヒトラー自殺の翌日、家族と共に心中、そしてヒムラーは米英との和平交渉に臨むも失敗、イギリス軍に逮捕後服毒自殺と、ナチスを支えた有力者が次々と散っていった。そして5月2日、東西から連合軍に包囲されたドイツの首都ベルリンは陥落5月7日、ドイツは連合軍に対して無条件降伏し、ヨーロッパでの世界大戦は終了した。残ったアジア・太平洋の戦争も日本の無条件降伏(8月15日)とともに終わり、第二次世界大戦はすべて終了した。

 終戦後ドイツは米・英・仏・ソによって分割統治され(四ヵ国分割占領。1945.8)、ナチスの存在は抹消された。

 連載20作品目となりました。最後まで読んでいただきましてありがとうございます。20作品目はナチス=ドイツの誕生と、その後の背負う運命を題材に紹介させていただきました。前回同様、非常に緊張感の漂うお話でした。

 実は本編では触れませんでしたが、ナチスが結成された1919年というのは、ナチスだけでなく、ドイツ共産党の動きも活発だった年で、党員のカール=リープクネヒト(1871~1919)やローザ=ルクセンブルク(1870~1919)が武装蜂起をしています。ドイツ革命下に起こった事件でした。こうしてみると、20世紀のドイツは激動の時代でした。

 さらにもう一つ、ヒトラーはオーストリア出身です。少年時代は画家を志していましたが、両親の急死など不運が伴い、挫折してドイツに移住した経緯があります。また、ヒトラーは大多数のユダヤ人を迫害しましたが、なぜここまでユダヤ人迫害を徹底したのかという本当の真相はヒトラーに訊かないとわかりません。ただ中世における世界のキリスト教国家は、その宗教に従わないユダヤ教信者に対して激しい憎悪があり、たびたび差別・迫害を行いました。だいたい十字軍時代のころから迫害は激化したと言われています。中世に流行した黒死病(ペスト)も、ユダヤ人は意外と免れ、その憎悪から来る差別はますます過激になったというエピソードがあります。時代が移りゆく中で、ユダヤ教に対する憎悪からユダヤの文化・社会・生活などに対する憎悪に変わっていくようになり、このような風潮の中でヒトラーは育っていったと思われます。

 さて、今回のポイントですが、世界史分野では、第2次世界大戦が起こってからは国と国とのやりとりが重要ですので、人物はそれぞれの国の代表者を覚えておけばいいでしょう。たとえばアメリカならローズベルト大統領、ソ連ならスターリン、イギリスはチャーチル首相、ドイツはヒトラー、イタリアはムッソリーニ、フランスはド=ゴールといった具合です。ただ、大戦中に代表者が替わっているときもあります(例:ローズベルト→トルーマン、チャーチル→アトリーetc.)。代表者以外で知っておいた方が良いのはアイゼンハウアー(米)とペタン(仏)ぐらいですかね。ナチス党はヒトラー以外もレーム、ゲーリング、ゲッペルス、ヒムラーなども登場しましたが、彼らの名は受験にはあまり登場しませんので、ナチス党員はヒトラーだけ覚えておけば良いと思います。

 ヒトラー率いるナチス党が政権を握ってからは歴史がめまぐるしく動きます。国内では1932年選挙→ヒトラー内閣誕生→国会議事堂放火事件→全権委任法→総統就任→再軍備宣言→四ヵ年計画、国外では国際連盟脱退→ザール併合→英独海軍協定→ロカルノ条約破棄→ラインラント進駐→スペイン内乱→ベルリン=ローマ枢軸結成→日独伊三国防共協定→オーストリア併合→ミュンヘン会談→ズデーテン割譲→チェコスロヴァキア解体→独ソ不可侵条約→ポーランド侵攻→デンマーク・ノルウェー侵攻→オランダ・ベルギー侵攻→パリ占領→バルカン制圧→独ソ戦争→第二戦線→無条件降伏→四ヵ国分割占領、この順番はおさえておきましょう。

 言うまでもなく、四ヵ国分割占領後は冷戦の渦に巻き込まれて、東ドイツ(ドイツ民主共和国)と西ドイツ(ドイツ連邦共和国)が成立し、1961年8月にはベルリンの壁が構築されました。1989年、東ドイツのホネカー書記長(任1971~89)が退陣して、11月ベルリンの壁は開放、1990年8月、東西ドイツは統一しました(10月3日正式統一。ドイツ連邦共和国)。

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