世界史の目-Vol.202-

王都陥落1453!

 13世紀の東ローマ帝国ビザンツ帝国。395-1453)。首都コンスタンティノープル現イスタンブール。バルカン半島東部のトラキア地方の東端)は第4回十字軍に支配され、ラテン帝国(1204-61)がおこされていた。この間、東ローマ帝国は亡命政権であるニカイア帝国ラスカリス朝(1205-61)に成り代わっていたが、1261年、8歳で即位した皇帝ヨハネス4世(位1258-61)の摂政を務めていたミカエル=パラエオロゴス(1225-82)がコンスタンティノープルを奪回して東ローマ帝国を復活させ、パラエロゴス朝(パレオロゴス朝。1261-1453)を開き、初代皇帝ミカエル8世として即位した(ミハイル8世。位1261-82)。ローマ帝国史における最も長期にわたって維持した王朝である。"パラエロゴス=ルネサンス"と呼ばれたビザンツ美術の復興もあり、ビザンツ美術の代表であるモザイク壁画も数多く描かれた。

 しかし首都奪回を果たした東ローマ帝国も全盛期の国力はなく、宮廷での内乱も頻発して政情の安定力は乏しかった。さらにはその内乱を起こす度に隣国勢力を介入させたため、国力はこうした勢力に吸い取られる有様であった。その勢力の代表が小アジアのオスマン帝国(1281-1922。首都は1326年から1365年までブルサ、1365年から1453年までアドリアノープル)であった。14世紀後半になると、オスマン帝国はローマ宮廷内への露骨な介入を行い、ローマ帝位を自由に操った。その結果、一度退位させられた東ローマ第7代皇帝ヨハネス5世(帝位1341-76, 1379-91)が、復位を条件にオスマン帝国に従うことを約束させられるという衝撃的な事件が起こった(1381)。これは東ローマ帝国はオスマン帝国の傀儡化そのものであり、属国と化したのも同然であった。これにより、ローマを完全にオスマン帝国の直轄地にするという征服熱が徐々に高まっていくのであった。

 その後もオスマン帝国は領域を拡大していき、バルカン半島や東欧を貪欲に呑み込んでいった。なかでも第4代スルタンのバヤジット1世(位1389-1402)は当時ハンガリー王だったジギスムント(ジグモンド。ハンガリー王位1387-1437,神聖ローマ帝位1410-37)率いる英仏独伊のキリスト教国連合軍をブルガリア北境のニコポリスで破り(ニコポリスの戦い1396)、ヨーロッパ世界に多大な衝撃を浴びせた。当然東ローマ帝国も同様にオスマン帝国の勢力拡大に危機感を募らせていたが、当時の帝国の版図は首都コンスタンティノープルとギリシア南部(モレアス専制公国。1349-1460)のみがほぼ勢力範囲となり、コンスタンティノープルの都市国家状態であった。

 15世紀半ばとなり、オスマン帝国は第7代メフメト2世(位1444-46,1451-81)の治世に入った。メフメト2世は熱心な文化保護者であり、イスラム文化だけにとどまらず、古代ギリシャ・古代ローマ文化もこよなく愛した。またイスラム・各ヨーロッパ双方から優れた学者を集めて知識を養い、数多くの言語を学び、学芸を保護して自ら詩作も行うほどであった。そして、文化だけではなく、その文化の源を作ったローマ支配を夢見て、メフメト2世は大都市コンスタンティノープルの攻略と東ローマ帝国の征服を心に誓った。
 そして1452年にメフメト2世はボスフォラス海峡中部の、ヨーロッパ側に"ローマの城"を意味する要塞ルメリ=ヒサルを4ヶ月で築城して、1453年4月、メフメト2世の軍はついにコンスタンティノープル攻略にむけて出陣した。

 首都コンスタンティノープルには、東ローマ帝国初期のテオドシウス朝時代(395-457)に建設された難攻不落の三重城壁("テオドシウスの城壁"【外部リンクから引用】)があり、外敵の攻撃を次々と跳ね返してきた。オスマン帝国においても、この城壁を崩すことによって王都征服の途を開くことができるのであった。オスマン帝国は、全長8mに及ぶ強力な大砲"ウルバン"を保有していたが、これをもってしてもテオドシウスの城壁を完全に撃ち崩すことはできず、壁面に傷を付けるのがやっとだった。またウルバンの砲弾装填時間が長いため、次に発射するまでに城壁の完全修復が可能であった。

 ボスフォラス海峡南西部には内海であるマルマラ海、その海からヨーロッパ側に切り込んだ金角湾(きんかくわん。ハリチ。ゴールデン・ホーン。【外部リンクから引用】)があるが、メフメト2世は陸での攻城戦が上手くいかないことで、水上戦に切り替えて金角湾口に艦隊を進めたが、東ローマ帝国によってはられた太い鉄の防鎖によって侵入を阻止され、またしても突破口を開くことができなかった。

 しかし金角湾へ入ることが首都攻略への第一歩と考えていたメフメト2世は全く諦めず、鎖を避けて70隻の艦船を湾に入れることを計画した。膠着状態をいつまでも続かせるのはイェニチェリ(オスマン帝国の常備軍)を中心とするオスマン軍全体の士気低下にもつながり、包囲持久戦は過去幾度も失敗しているため、短期決戦での首都陥落を前提に作戦を決行した。それは、"艦船の山越え"という奇策であった。
 1453年4月23日、作戦は開始された。金角湾の北岸に面した陸地(ガラタ地区の後方の丘)を迂回して、鎖がはられている湾口よりもずっと奥へ艦船を移送させる大仕事である。このためには迂回コースとなる5kmの山越えを果たさなければならなかった。このため、油を塗った丸太を山道に並べ、"コロ"の原理を利用してボスフォラスから引き上げた艦船をその丸太の上に滑らせて運搬するという奇抜な作戦であった。この作戦は見事に成功し、5月上旬には70隻の艦船が金角湾内部に運び込まれ、金角湾上に着水した敵艦をみたローマ軍はすっかり怖じ気づいてしまった。

 コンスタンティノープルを包囲したメフメト2世は、東ローマ帝国パラエロゴス朝皇帝であるコンスタンティノス11世(12世、もしくは13世とする見方も。位1449-53)に対して即時降伏および首都明け渡しを要求した。またこれを条件に、皇帝の退位後の保障や、ギリシア南部のモレアス専制公国領の領有権を約束した。
 当時の東ローマ帝国は10万のオスマン軍に対し、わずか7千のローマ軍と少数のジェノヴァの援軍という不利な状況であったが、コンスタンティノス11世はそれでもローマ皇帝として帝国を残すことを選択し、オスマン軍からの防衛を貫くことを決意、メフメト2世の要求をすべて拒否した(1453.5.23)。これにより、オスマン軍の総攻撃が始まった。

 オスマン軍の出陣からほぼ2ヶ月経った1453年5月28日、すでに防戦一方の展開となっている東ローマ軍も、徐々に力が尽きていった。同日夜、東ローマ皇帝コンスタンティノス11世は宮殿内にて、帝国の最期を予感するも最後まで戦い残った家臣や兵士たちに、これまでの健闘に対して賛辞を送った。そして全員は最後まで戦うことを誓い合い、別れの言葉をお互いに告げた。皇帝コンスタンティノス11世は祖国の誇るハギア=ソフィア大聖堂にて、多くの人々とともに最後の祈りを神に捧げた後、自身の愚かさで首都陥落の危機を迎えたことを家臣に一人ずつ謝罪したのである。
 防戦一方だった東ローマ軍もとうとう力尽きた。翌1453年5月29日未明、遂にオスマン軍は中心であるイェニチェリの執念によって城壁を突破することに成功した。城壁になびくオスマン帝国旗を見たコンスタンティノス11世は、身につけていた東ローマ帝国の紋章"双頭の鷲"を剥ぎ取り、絢爛たる帝衣を脱ぎ捨て、剣を抜いて、自軍とともに首都を制圧したオスマン帝国の軍隊に突入していった。異教徒の敵軍に飛び込んだコンスタンティノス11世は「私の首を刎ねるキリスト教徒はいないのか!」と叫び、果敢にオスマン軍と戦ったが、帝はこの戦いで没したとされており、その後の消息はさだかではない。これにより、首都コンスタンティノープルは陥落、パラエロゴス朝は滅亡、初代ローマ皇帝アウグストゥス(位B.C.27-A.D.14)にはじまるローマ皇帝の継承はここで断絶を迎え、東ローマ帝国は滅亡した1453.5.29)。
 コンスタンティノス11世の弟でモレアス専制公であるトマス=パラエロゴス(公位1428-60)は、ペロポネソス半島のモレアス専制公国で東ローマ帝国を残す最後の切り札として果敢に抵抗したが、1460年にメフメト2世によって全土制圧、公位を剥奪され(モレアス専制公国滅亡)、1465年にイタリアで没したが、彼の妹ゾエ(ゾイ=パラエロゴス。ソフィア。15C半ば-1503)はモスクワ大公イヴァン3世(大公位1462-1505)の妃となり(1472)、パラエロゴスの血統を残した。

 征服直後のコンスタンティノープルでは大規模な略奪が行われ、多くの市民が捕虜となったが、メフメト2世は荒廃したコンスタンティノープルの秩序をなるべく早く回復させるべく、ハギア=ソフィア大聖堂を訪れた。馬から下りたメフメト2世は、地面に跪き、その土を手ですくい頭上にかざして感謝の意を表し、ハギア=ソフィア大聖堂はモスク(イスラム教の礼拝堂)となった。そして、この地をオスマン帝国の新しい首都としてアドリアノープル(エディルネ)から遷都が決まり、コンスタンティノープルはイスタンブルと改称され、オスマン帝国は東地中海の覇者としてヨーロッパ諸国家に脅威を与えていくのであった。


 ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の滅亡編をご紹介しました。今回のWヒーローである、メフメト2世とコンスタンティノス11世の話が中心となりました。1453年はヨーロッパでは激動の年とされており、西方では百年戦争終戦、東方では東ローマ帝国滅亡というとても重要な年です。ちなみに東ローマ帝国滅亡は5月29日、百年戦争終戦は10月19日です。

 ボスフォラス海峡の西岸はバルカン半島、東岸はアナトリア(小アジア)です。本編に登場したルメリ=ヒサルの対岸、つまりアナトリアには、メフメト2世の曾祖父バヤジット1世が築いたアナドル=ヒサルがあります。ボスフォラス海峡を挟んでヨーロッパにもアジアにもオスマン帝国の城塞があるのが興味深いですね。

 さて、今回の受験世界史における学習ポイントです。1453年は言うまでもなく大事で、東ローマ帝国滅亡と百年戦争は"一夜ゴミだらけ(1453)"で覚えてしまいましょう。また、コンスタンティノープル陥落を達成したオスマン帝国のスルタン、メフメト2世は頻出人物です。また征服後イスタンブルと改称したことも大事ですが、改称時期は実際は20世紀になってからとも言われています。受験生はメフメト2世が改称したと覚えましょう。東ローマ帝国最後の皇帝だったコンスタンティノス11世は、いろいろ伝説的内容も多いですが、非常に勇敢で、命をかけて帝国を守ろうとしたその姿には脱帽ものです。用語集には登場せず、受験世界史では超マイナー事項ではありますが、ただ難関私大でたまに名前が登場することもあるので注意が必要です。

 ちなみにwikipediaやその他資料によると、コンスタンティノス11世は"神よ、帝国を失う皇帝を許し給うな。都の陥落と共に我死なん。逃れんとする者を助け給え。死なんとする者は我と共に戦い続けよ!"と最後の言葉を言い残し、皇帝の衣装を脱ぎ捨てて剣を振りかぶり、オスマン軍のいる戦場に駆け込んでいき、そのまま消息を絶ったと書かれています。

 ビザンツ文化ではハギア=ソフィア大聖堂が登場しました。ハギア=ソフィア(アヤソフィア)大聖堂に代表されるビザンツ様式の建築ですが、ラヴェンナに築かれたサン=ヴィターレ聖堂もビザンツ式ですので、あわせて覚えておきましょう。ちなみにハギア=ソフィア大聖堂ですが、東ローマ帝国時代は当然ギリシア正教会の代表的聖堂でしたが、イスラム征服後はモスクとなりました。偶像崇拝を否定するイスラム教では、十字架が取り外され、モザイク画などはすべて漆喰で隠されました。文化に国境はないという考え方をもつメフメト2世は、多くの人々が時間をかけて作ってきたローマ文化をつぶすようなことはしませんでした。モザイク画を完全に破壊せず隠したところがメフメト2世の評価すべきところで、実に文化の理解者であります。こうしたことから、現在でも東ローマ帝国時代のモザイク画が残せているのですね。非常に興味深いです。

【外部リンク】・・・wikipediaより

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