世界史の目-Vol.203-

一瞬の輝き

 革命下のフランス(1789-1799)。1792年、国王ルイ16世(位1774-1792)一家がタンブル塔に幽閉された8月10日事件によって、ブルボン王政の停止が決まり、9月20日に国民公会(1792.9.20-95.10.26)が発足、翌日第一共和政が宣言された(1792.9.21-1804.5.18。フランス第一共和国)。国民公会発足時では、上流ブルジョワに支持された立憲王政を唱えるフイヤン派は活躍の場を失い没落、議会は右派に中流ブルジョワによって支持された穏健共和派のジロンド派、左派に下流ブルジョワや貧困層らに支持された急進革命派の山岳派(モンターニュ派)でそれぞれ構成されたが、10月にジロンド派党員がジャコバン=クラブから次々と脱退していき、左右両派の対立はより一層激化した。対立激化を加速させた国王裁判では、政権を握るジロンド派は執行猶予と国民投票を行おうとしたが、山岳派は国王の即刻処刑を要求した。この勢いに呑まれ、政権を握っていたはずのジロンド派は結果的に山岳派の主張を抑えることができず、翌1793年1月21日、国王処刑が執行された(ルイ16世処刑)。

 一方で勢力を上げた山岳派は、国王処刑をきっかけにジロンド派を追い詰めて、遂に同年6月2日、国民公会を武力で包囲し、ジロンド派議員を議会から追放した(6月2日事件)。逮捕されたジロンド派議員の多くは処刑され、議会の主導権は山岳派が握ることになった。議会を武力包囲したのは、山岳派を支持する民衆が結成した義勇兵やパリ市民であり、ジロンド派は国民からも敵視されるようになった。庶民においても親ジロンド派やジロンド派寄りの民衆は、山岳派を支持する民衆の攻撃の対象になっていった。

 こうした不安定な情勢の中、ある女性が一糸まとわぬ姿で傷だらけになっていた。ジロンド派が追放される直前の5月末のことである。彼女の名はテロワーニュ=ド=メリクール(1762-1817)といった。さらにジロンド追放事件から1ヶ月半後に山岳派の要人の遺体の前に茫然と立っていた、別の女性がいた。この女性の名はシャルロット=コルデー(1768-93)といった。この2人の女性は、ともにジロンド派を支持した人物であった。1793年のことであった。

 テロワーニュは現ベルギーにある小村マルクールの富農の出であったが、継母との関係が上手くいかず11歳で家出、牛飼いの少女として苦難の道を歩んだ。その後、貴族や資本家、音楽家たちの娼婦となって、イギリスやイタリアにも渡り遊蕩に耽る日々を送った。20歳の時、侯爵や騎士たちによって狂信的に囲われたテロワーニュは"カンピナドス夫人"とも呼ばれるようになり、毛皮服を身にまとい、従者を連れるなど日々の暮らしが高級と化していった。しかし、男に情熱を求めた娼婦生活に倦怠を抱くようになっていき、より偉大で、より違った刺激を求めるようになっていったとされる。そして、まさにフランス革命勃発の前夜、ナポリにいた彼女の心の中に大きな転換が起こった。"男"への情熱から"国"への情熱へと変わっていったのであった。今にも革命の嵐が吹き始めようとしているフランスに情熱を感じた彼女は、すぐさまパリへと向かった。

 1789年7月11日、財政問題で揺らぐ王室に対し質素倹約を提案した蔵相ジャック=ネッケル(1732-1804)が、国王ルイ16世によって罷免されたことで、革命気運はより一層高まった。翌12日、パリのパレ・ロワイヤル広場で、革命派ジャーナリストのカミーユ=デムーラン(1760-94。のち山岳派・ダントン派)の演説("民よ、武器を取れ!")でパリ市民の革命精神を高ぶらせ、7月14日バスティーユ牢獄襲撃で革命が遂に勃発、10月にはヴェルサイユ行進十月事件)も起こった。テロワーニュはこの2大事件に参加しなかったものの今までにない興奮をおぼえ、情熱を革命運動から求めるだけでなく、革命を達成させて市民の自由を勝ち取ることを目指すようになっていった。彼女にとって革命を達成させることが、より強力な激情を得られると考えたのである。その後彼女はさまざまな革命団体に出入りし、翌1790年初めには自身の革命クラブを結成するなど、行動規模が大きくなっていった。

 その後テロワーニュは、急進共和派の革命クラブであるコルドリエ=クラブにも乗り込み、バスティーユの敷地に国民議会の議会場を建設せよと演説した。この演説内容は砂上の楼閣であったために、クラブからは却下されたが、派手なドレス姿で、熱く身振り手振りで演説する彼女に多くが注目した。コルドリエ=クラブには前述のデムーランをはじめ、ジョルジュ=ダントン(1759-94。のち山岳派・ダントン派)、ジャン=バティスト=カリエ(1756-94。のち山岳派)、ジャック=ルネ=エベール(1757-94。のち山岳派・エベール派)、ジャック=ピェール=ブリッソー(1754-93。のちジロンド派)、ジャン=ポール=マラー(1743-93。のち山岳派)など、ジャコバン=クラブにも関わる要人もおり、次々と彼女に魅惑されていった。その中の何人かは彼女の家にも出入りするようになり、オノレ=ガブリエル=ミラボー伯爵(1749-91)やアベ=シェイエス神父(1748-1836)、アントワーヌ=バルナーヴ(1761-93。のちフイヤン派)らも訪れたといわれる。革命派の支持を受けたテロワーニュは自身の資産を切り崩しながら、それらを彼らへの運転資金援助に充てていった。

 しかし、テロワーニュの行為は王党派や革命勃発によって国外亡命を余儀なくされた貴族(エミグレ亡命貴族)、果てはプロイセンやフランス王室を擁護するオーストリアなど、反革命勢力からは大いに警戒された。とくにフランス王妃(マリ=アントワネット。1755-93)の出身地オーストリアからは警戒され、オーストリア官憲によって1792年初旬まで1年近く逮捕・監禁された。しかしオーストリア側は革命派の情報収集を求めていたものの彼女からは何も得られず、結局彼女は釈放された(1792.1)。この間、フランスではミラボーの死(1791.4)、ヴァレンヌ逃亡事件(1791.6。国王一家のオーストリア逃亡事件)、立憲君主派のフイヤン派設立(1791.7)、憲法成立(1791.9。1791年憲法)、立法議会召集(1791.10)とめまぐるしく大事件が起こり、革命効果が現れ始めていった。
 立法議会以後、コルドリエ=クラブはジャコバン=クラブと連合関係となっていった。これに対し7月15日にジャコバン=クラブから独立したフイヤン派は、共和政請願大会への弾圧事件(シャン=ド=マルスの虐殺。1791.7.17)によって人気が低調となり、代わってクラブ内における穏健共和派のジロンド派の支持が高まった。対オーストリアとの革命戦争を推薦するジロンド派が、まさに政権を勝ち取ろうとする時期に来ていたのである。こうした動きがあった後、オーストリアから解放され、パリに戻ったテロワーニュは、反革命分子と戦い抜いた彼女の奮闘ととらえ、立憲君主派が消えて共和派のジャコバン=クラブ、特に対オーストリア主戦論を展開するジロンド派から大いに歓迎された。この時彼女は彼らから"アマゾンヌ"と呼ばれ、"自由のアマゾンヌ"や"革命のアマゾンヌ"などと称えられた。大きな羽根飾りの付いた、幅広の帽子をかぶり、白・黒・緑の乗馬服といった男装姿でパリ市街を歩き、この目立つ姿で議会を傍聴するなど、存在感を示した。

 立法議会では、ジロンド派は左翼を形成していたが、国王ルイ16世は革命戦争をすすめるジロンド派に組閣を委ね、この戦争に勝利すれば、ジロンド派の組閣は間違っていなかったことで、国王への信頼は取り戻され、たとえ負けたとしても革命は崩壊しオーストリアやプロイセンの支援があると考えていたため、1792年3月、ジロンド派内閣を誕生させた(1792.3-92.6)。もともとジロンド派は主戦派であったため、意気揚々に組閣は進められ、ジロンド派は革命期の頂点に立った。ちなみにジロンド派内閣の内務大臣は、ジロンド派党員をまとめていた女性指導者マノン=ロラン("ロラン夫人"の愛称で有名。1754-93)の夫、ジャン=マリー=ロランであった(1734-93。任1792.3-92.6,1792.8-93.1)。
 4月、ジロンド派内閣は遂に対オーストリア戦に踏み切った(革命戦争勃発。1792.4)。しかし混乱する国内での戦闘態勢は不十分で、しかも軍部は王党派が多数占められており、共和政志向の内閣の命令では戦意がおこることもなく、戦局は当然にフランスが劣勢となった。結局敗戦となりジロンド派は総辞職、6月、立憲君主派のフイヤン派内閣が成立した。
 およそ2ヶ月後、戦争敗北による経済悪化を背景に、パリの下層市民(サンキュロット。無産市民層)は怒り狂い、遂に8月10日、武装蜂起して国王のいるテュイルリー宮殿を襲撃した。これが8月10日事件である。この時テロワーニュはあの羽根飾り付き帽子に乗馬服姿で、民衆に混じって武装蜂起に参加している。国王一家は連行され、ブルボン王政は停止され、フランスに共和政がもたらされた瞬間であった(フランス第一共和政。1789-1804)。立法議会は停止され、テュイルリー宮殿の広場において、9月20日に国民公会(1792.9.20-1795.10.26)として開会した。戦争には負けたが、ジロンド派は遂に共和政を勝ち取ったのであった。立憲王政を推進したフイヤン派は完全に没落したが、この8月10日事件はブルジョワジーではなく、サンキュロットの蜂起によって起こされたことで、ブルジョワジーを支持基盤に持つジロンド派は一気に劣勢に立たされ、かわって下層市民を支持基盤に持つジャコバン最左派の山岳派が台頭した。
 ジロンド派は穏健共和派であり、国王処刑を推進する山岳派と対立した。国民公会開会時は、右翼がジロンド派、左翼は山岳派となった。山岳派に圧倒されていたジロンド派は革命戦争を起こして失敗していただけに、国内外で孤立したため、ジロンド派政府は行政ができる状態ではなく、少数の山岳派議員や民衆の怒りを買うばかりであった。こうして、共和政が実現できたにもかかわらず、ジャコバン=クラブ内では両派が互いに剣を向け合う形となった。山岳派にはダントン、マラー、エベール、カリエ、デムーランの他、かねてからジロンド派と対立していたマクシミリアン=ロベスピエール(1758-94)がいた。彼らの勢いはジロンド派に大いに圧力を加えた。そして、1793年1月21日、冒頭に述べた国王処刑を機に、3月に革命裁判所の設置(反革命派・反体制派を裁く法廷)、4月に公安委員会(事実上の山岳派が主導する中央委員会。革命政府の中枢)を発足、5月に穀物・飼料の価格統制(最高価格令。9月には日常生活必需品も統制)を決め、強力な行政活動を始めていった。これによって追い詰められたジロンド派は急転落の一途をたどり、ロベスピエール主導によってジャコバン=クラブ内におけるジロンド追放、つまり6月2日事件(実質には5月31日から始まる。5月31日が"恐怖政治"の開始と言われる)でもって同派の政治活動が停滞することになる。ジャコバン=クラブ内においても山岳派が中心となり、文字通り、山岳派は狭義のジャコバン派となった。

 ジロンド派が支持されなくなると、ジロンド派を支持していたテロワーニュ=ド=メリクールもの反山岳派として追放の対象とされた。6月2日事件が起こる前の5月、国民公会が開催されていたテュイルリー宮殿前で、ジロンド派要人追放運動がジャコバン支持派の女性たちによって引き起こされていた。そこへテロワーニュが例の乗馬服で馬に乗って現れた。ジャコバンを支持する女性たちは彼女の姿を見ると、ただちに彼女のもとへ駆け寄り、馬上のテロワーニュを引きずり下ろし、帽子を踏みつけ、乗馬服を剥ぎ取って切り刻み、裸体の姿で激しい暴行を受けた。無惨な姿となったテロワーニュのこれまでにない、耐え難い屈辱であった。

 一方、悲劇作家ピエール=コルネイユ(1616-84)の妹の子孫にあたるシャルロット=コルデーもジロンド派を支持した女性であった。貴族の出だが家は貧しかった。その母親と死別後、修道院に入り、修道院閉鎖後は伯母のいるカーン市(フランス北西部の地方都市)で共和主義革命を志す日々を送っていた。

 山岳派の行動に不快感を示したシャルロット=コルデーは、ジロンド粛清からカーンに逃げてきた立法議会のジロンド派議員シャルル=バルバルー(1767-94)と言う人物に会い、パリでの状況を聞いて以後、ジロンド派の存続と山岳派の壊滅を考えるようになった。共和政をもたらしたのはジロンド派であるにもかかわらず、そのジロンド派を奈落の底へ突き落とす山岳派のやり方に我慢がならなかった。中でも、シャルロットは特に過激に政策を推進する急進的思想の持ち主である山岳派のマラーに標的を絞った。6月2日事件から1ヶ月後、カーンからパリへ上京したシャルロットは、すぐさまマラーの邸宅に向かった。

 マラーは山岳派の機関紙『人民の友』を発刊していた。政府への過激な非難を大々的に記載し、貧窮に苦しむ下層市民を勇気づけていた。山岳派を支持する下層市民は、マラーを"人民の友"とか"民衆の友"などと呼び、マラーは邸宅へ常に駆け込んでくる貧民層のために、玄関のドアを開けたままにしていた。しかし7月13日、邸宅に到着したシャルロットは丁寧に会見を依頼すべく、呼び鈴を鳴らしてマラー対面の許可がおりるまで玄関のドアを開けなかった。
 マラーはすぐには会おうとはしなかった。マラーは皮膚病(ハンセン病とされる)を患っており、自宅で療養中であった。シャルロットは手紙(『市民マラー殿』で始まる)を送り、その日の夜8時の対面を望んだ。8時になり、シャルロットは再度マラー宅を訪問すると、マラーの許可が下りて、シャルロットはマラーのいる部屋に向かった。マラーはある部屋で仕事をしていた。入浴場であった。彼は皮膚病の治療法である入浴療法を行うために浴槽に浸っていた。浴槽は銅製で、木靴の形をしており、浴槽の横に置かれた木箱の上で執筆をしていた。この時シャルロットは隠し持っていた包丁を、マラーの胸に刺した。一撃であった。心臓に命中したマラーは"助けてくれ"と叫びながら絶命し、シャルロットはマラーの愛人シモーヌ=エヴラール(1764-1824)に取り押さえられた(マラー暗殺1793.7.13)。比類なき美貌の持ち主が単身で乗り込み、山岳派の要人、しかも、ジャコバン3巨頭(マラー、ダントン、ロベスピエール)の1人を一撃で殺害したことは後世においても注目が集まり、"暗殺の天使"と呼ばれた。

 マラー暗殺から4日後の17日、山岳派は、封建地代の無償廃止を決定し、農民解放を進めた(革命勃発直後の1789年8月4日、国民議会が農奴制・領主裁判権・教会への十分の一税をといった封建的特権を無償で廃止したが、封建的貢租、つまり領主が農民に課していた地代は有償廃止となっていた)。封建地代の無償廃止は立法議会時代にジロンド派も推進していたとされる法案であった(諸説有り)。そのジロンド派を支持していたシャルロット=コルデーは革命裁判所において17日当日、、死刑の判決がくだり、直後、ギロチン(断頭台)で処刑された(シャルロット=コルデー処刑。1793.7.17)。マラー暗殺を機にジロンド派の捜索・逮捕および処刑がロベスピエールの主導でより一層過激に進められ、10月には革命戦争を大いに推進したジロンド派の第一人者ジャック=ピェール=ブリッソーも死刑判決がくだりギロチンで処刑され(1793.10.31)、シャルロット=コルデーの処刑を聞いたバルバルーも、カーンを離れて、1年近くかけて遥か南のサン=テミリオンまで逃亡したが、捕らえられ処刑された(1794.6.6)。ブリッソーが処刑された10月は20名以上のジロンド派が処刑されたが、同月、王妃であったマリ=アントワネットも処刑執行されている(マリ=アントワネット処刑。1793.10.16)。
 6月2日事件ですでに逮捕されていた"ジロンド派の女王"の異名をもったロラン夫人も11月8日、ギロチンにかけられた(ロラン夫人処刑。1793.11.8。"O Liberté, que de crimes on commet en ton nom!(ああ自由よ!汝の名の下にどれだけの罪が犯されたことか!"の遺言は有名)。同じく6月に逮捕されていた夫ジャン=マリー=ロランは逃亡先で妻の処刑を知り、自ら命を絶った。ロラン夫人の書き残した獄中記『メモワール』はその後、世に知られた。そして11月末には、8月10日事件後に逮捕されていたフイヤン派の最後の大物、バルナーヴも処刑された(1793.11.29)。この山岳派が主導する革命裁判所によって、処刑者は急増していき、まさに恐怖政治(La Terreur。1793.5.31-1794.7.27)であった。

 山岳派はこの後派閥抗争を起こし、エベール、ダントン、デムーランらが次々とギロチンの露と消えていった。そして、最後に残ったロベスピエール派の専政反対によるテルミドール9日のクーデタ1794.7.27)で、遂にロベスピエールの天下が終わり(ロベスピエール処刑。1794.7.28)、山岳派主導の恐怖政治は終焉を迎えた。ジャコバン=クラブとしての活動も衰退していった。

 そして1793年5月に悲惨な姿となったテロワーニュ=ド=メリクールは、ジロンド没落とともに表舞台から姿を消した。5月の経験は彼女の精神をずたずたにし、精神病院へ送られた。やがて発狂した彼女は病院を転々とした。そして、革命期(1789-99)・ナポレオン時代(1799-1814,15)を経て、時はウィーン体制となった1817年6月8日、パリのサルペトリエール病院で孤独の死を迎えた(テロワーニュ=ド=メリクール死亡。1817.6.8)。革命から情熱を求めようとした彼女の人生は失意のうちに終えてしまった。

 革命期に純粋に生き、革命思想を純粋に追い求め、勇気と誇りを失わずも切なく革命のために死んでいった、テロワーニュ=ド=メリクールとシャルロット=コルデー。二人の一瞬ながら輝きを残した功績は、まさに英雄そのものだった。 


 支持する派閥のために闘い、そして死んだ2人の女性の数奇の運命を、今回は久々にフランス革命の内容もふまえて紹介しました。55歳で生涯を終えた"アマゾンヌ"ことテロワーニュ=ド=メリクールと、25歳で生涯を終えた"暗殺の天使"ことシャルロット=コルデー、以前から非常に気になっていたこの2人の女性ですが、受験世界史に登場する革命人たちにも決して負けないくらいの英雄/女傑ぶりです。

 まずテロワーニュ=ド=メリクールが輝いたのは1790年前半、情熱を求めてコルドリエ=クラブに乗り込み、その美貌、雄弁な演説と派手な衣装で議員たちを魅了させます。自宅にサロンを形成してシェイエスやミラボー、ダントンなどと交流を深めました。そして大きな羽根の付いた幅広の帽子をかぶり、乗馬服姿で馬に乗り、颯爽とパリ市街を駆け抜けるというわけですから、目立たないわけはありません。一番成熟していた時期ですね。
 そして、シャルロット=コルデーが輝いたのが1793年7月、あのマラー暗殺の瞬間です。正確無比に一撃で殺害したといわれていますが、"革命を腐敗させた大敵"マラーを純粋に憎む、その純粋さ故に成せたということでしょうか。しかし皮肉にもこの1793年はテロワーニュが転落の契機となる多大なる暴行を受けた年でもあり、ジロンド追放後、2人はジロンド派支持者というだけで干され、消されていきます。

 さて、今回の受験世界史における学習ポイントです。残念ながら今回の主役であるテロワーニュ=ド=メリクールおよびシャルロット=コルデーの名を受験で書かせることはほとんどありません(シャルロットの先祖にあたる悲劇作家コルネイユは重要です)。ただシャルロットが問題文に登場してマラーを答えさせる問題は過去に見た記憶はあり、それは難関私大の問題だったと思います。もちろん入試に出るフランス革命はその流れが重要で、高校で習う世界史でも1789年からナポレオンが没落する1815年までの流れを問います。フランス革命関係は非常に広範囲に渡る内容です。しかも年月日まで正確に把握しなければならない項目もありますので注意が必要です。ここでは何なのでVol.14,Vol.15,Vol16の学習ポイントを見て下さい。『高校歴史のお勉強』の初期に書き上げたものなので、非常にわかりやすく説明している(?)と思います。今回の時期ではジャコバン=クラブ出身の三派、つまりフイヤン派、ジロンド派、山岳派(本編では山岳派と表記しましたが、教科書や参考書によって、ジャコバン派と表記しています。受験生は、山岳派を狭義のジャコバン派であることも知っておきましょう)が、立法議会では右翼にフイヤン派、左翼にジロンド派、続く国民公会初期は右翼にジロンド派、左翼に山岳派(ジャコバン派)で形成されたことをしっかり覚えておきましょう。また国民議会で、議長席から見て右側の席を占めたのが旧体制を守ろうとした王政支持派、左側の席を占めたのが新しい風を吹き込む共和政支持派、ここから保守の右派、革新の左派ができあがったというのはあまりにも有名ですね。
 マラー暗殺については、本編に触れなかったある画家を知っておきましょう。マラー暗殺関連で覚えなくても良いのですが、『マラーの死(【外部リンクから引用】)』を描いた、古典主義画家のジャック=ルイ=ダヴィド(1748-1825)もこの時代の文化史で登場します。ナポレオン1世(帝位1804-14,15)の首席宮廷画家をつとめた人物で、『アルプスを越えるナポレオン(【外部リンクから引用】)』で有名です。

 山岳派のデムーラン、ジロンド派のブリッソー、フイヤン派のバルナーヴもこの時代に欠かせないぐらいの重要人物なのですが、ほとんど受験には登場しません。山岳派ではマラー、ダントン、ロベスピエールの3巨頭、フイヤン派はアベ=シェイエスや本編未登場のラ=ファイエット(1757-1834)の方が大事です。ジロンド派の要人は覚えなくても大丈夫でしょう。ロラン夫人(ジロンド派)も有名なのですが、受験で書かせる問題はほとんど皆無だと思います。

【外部リンク】・・・wikipediaより

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