世界史の目-Vol.209-

我が胸を撃て!!・その2

~侵略、同盟、参戦、そして独裁の終焉~

その1・"ファッショ誕生"はこちら

 1929年に起こった世界恐慌(1929)が翌年波及し、経済と社会がいっきに冷え切ったイタリア。ファシスト党ベニート=ムッソリーニ首相(ベニート=アミルカレ=アンドレア=ムッソリーニ。1883.7.29-1945.4.28。首相任1922.10.31-43.7.25)は景気回復策として、対外進出に目を向けた計画をうち立てた。その矛先は、東アフリカのエチオピア帝国(1270-1975)であった。

 イタリアは19世紀からアフリカのエチオピア帝国への植民地化計画がおこされていたが、第一次エチオピア戦争(第一次イタリア・エチオピア戦争。1895-96。広義では1889-96)におけるアドワでの敗北(アドワの戦い。1896)以後、再度侵略を狙っていた。一方でその後のエチオピアでは、エチオピア皇帝・ハイレ=セラシエ1世(位1930-36,41-74)が国家安定化に努め、前皇帝の摂政時代(1916-30)に国際連盟加盟(1923.9)を果たすことに成功、国際的地位の確立と憲法制定(1931)に尽力した。皇帝は、国際連盟発足当初の常任理事国の1つであるイタリアが他国へ侵略することを不当としたが、ムッソリーニは国際批判を避けるためイギリス・フランスに接近し、対独戦線をイギリス・フランスと成立させたが(ストレーザ戦線。1935.4)、これといった効果はなく2ヶ月後に戦線は崩壊した。

 エチオピア東部のオガデン地方とイタリア領ソマリランドとの国境地帯において、エチオピア側は同地帯をエチオピア領としていたが、イタリアはこれを認めず、1930年にオガデン地方の町ワルワルに要塞を築いていた。このためイタリア領ソマリランドからワルワルへの進出が激増していった。そして1934年、イタリアはワルワルに進駐して同地を占拠した。この事態に、ハイレ=セラシエ1世は軍隊を出動させ、同年12月にエチオピア・イタリア両軍が衝突し、多くの死傷者が出た。
 エチオピアは国際連盟にイタリアのワルワル進駐は侵略行為であると主張したが、国際連盟を主導するイギリス・フランスは当時対独宥和策に重点を置いていたために問題なしと裁決された。これによりイタリアは、軍総司令官エミリオ=デ=ボーノ(1866-1944。ファシスト四天王の1人)の指揮でイタリア領ソマリランドおよびエリトリア(イタリア領。エチオピアに北接)から軍を集め、エチオピアの各国境に配置させていった。これに対し、エチオピアも兵力確保に向けて動き始めた。
 しかしイギリス・フランスの動向を恐れるデ=ボーノはエチオピア侵略の時機に対して非常に慎重で、この行動がムッソリーニをいらだたせていた。というのも、かつてストレーザ戦線を組んでいたイギリス・フランスが、イタリアと共にエチオピアを独立国と認めた上で共同管理することを提案したものの、視点を英仏介入無しのイタリア独自にエチオピアを侵略しようとするムッソリーニにしてみれば、この提案は単なるイギリス・フランスの対伊宥和策であるととらえており、この提案を論外としていたからであった。こうした状況の中で、ムッソリーニはヴェルサイユ体制の破壊とローマ帝国(B.C.27-A.D.395)の復活の声明を発表した。

 1935年10月3日、デ=ボーノ総司令の指揮のもと、エチオピア侵攻が開始された(イタリアのエチオピア侵入1935.10)。第二次エチオピア戦争(第二次イタリア・エチオピア戦争)の勃発である(1935.10.3-1936.5.5)。エリトリアからの宣戦布告無しの侵攻で、直後にイタリア領ソマリランドからも侵攻を開始した。
 このイタリアの軍事行動でついに国際連盟(イギリス・フランス)はイタリアのエチオピアを侵犯した"侵略者"と決めたが、宥和策を続けるイギリス・フランスは、和平案(当時の英仏外相の名をとってホーア=ラヴァル案という)を提示するだけで、エチオピアへの援助は無しに等しかった。イタリアへの経済制裁も議決したが石油禁輸は下されなかったため、国際平和をかかげた国際連盟の無力さをさらけ出す結果となった。しかも連盟は1931年に起こった満州事変の処理に失敗し、1933年3月に日本の連盟脱退をまねき(日本の国際連盟脱退。1933.3)、軍拡を推進するナチス=ドイツにおいても同年10月に脱退されている(ドイツの国際連盟脱退。1933.10)。そして、3度目の連盟運営危機に立たされる中で、ホーア=ラヴァル案および対伊宥和策に対して英仏両国内外の激しい批判が起こり、ホーア=ラヴァル案の提唱者であったイギリス外相サミュエル=ホーア(任1935)およびフランス首相兼外相のピエール=ラヴァル(首相任1931-32,35-36。外相任1934-36)が辞任する事態にまで発展した。当然この和平案は廃案となり、国際連盟の威信は大きく失墜した。
 エチオピア軍はイタリア軍と比べて人数的な兵力は勝っていたが、武器に関しては後進的であり、近代兵器を存分に発揮するイタリアの兵力とはあまりにもかけ離れていた。ただし、イタリア軍もデ=ボーノ総司令の慎重策で、一気に攻め込みたいムッソリーニは遂にデ=ボーノを罷免し、かつてファシスト党を批判していたピエトロ=バドリオ(1871-1956。参謀総長任1919-21,25-28,33-40)を総司令官に抜擢した。軍事のことは誰よりも多く知るバドリオは、デ=ボーノとは対照的な積極的な速攻作戦でエチオピア各要地を次々と制圧した。

 これにより、翌1936年5月ハイレ=セラシエ1世は退位してイギリスへ亡命、直後イタリア軍は首都アディスアベバを占領した(アディスアベバ陥落。1936.5)。すぐさまイタリアはエチオピアを併合して、エリトリアとイタリア領ソマリランドをあわせたイタリア領東アフリカ東アフリカ帝国。首都アディスアベバ)の樹立と、イタリア国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世(サヴォイア家。イタリア王位1900-46)の東アフリカ皇帝即位(帝位1936-41)の宣言を行った。

 東アフリカを領有したイタリアは、ヴェルサイユ体制に反発するドイツとともに国際的な批判を受けた。そこで、ドイツとイタリアが急接近し、ムッソリーニは同年に起こったスペイン内乱(1936.7-1939.3)の介入の際、ドイツとの関係を良好に保つ必要から、"ベルリンとローマは垂直に結ばれる枢軸である"と声明を発表し(1936.11.1)、ここにベルリン=ローマ枢軸が完成、両国がヨーロッパの中心であり、彼らに同盟する枢軸国the Axis)が構成されることを説いた。そして、翌1937年11月には"反ソ・反共"の目的で結成された日独防共協定(1936.11)にイタリアが加わり日独伊防共協定となった。この結果、イタリアは同年12月、国際連盟を脱退した(イタリアの国際連盟脱退1937.12.11)。

 ただムッソリーニは、オーストリアをイタリアの支配圏に入れたい考えがあったため、オーストリアを併合しようとしていたドイツとの枢軸関係には、かなりの難色を示したとされている。結果的にオーストリアはドイツによって併合され(ドイツのオーストリア併合。アンシュルス。1938.3)、イタリアはアルバニアに目を向けた。一方ドイツは翌年チェコスロヴァキアを解体(1939.3)、直後に西半であるチェコを併合、東半スロヴァキアを保護国化した。
 ドイツのチェコ併合をみたムッソリーニは、遂にアルバニア侵略を決め、アルフレッド=グッツォーニ軍指揮官(1877-1965)のもと、侵攻が開始された(イタリアのアルバニア侵入1939.4)。戦闘は6日間行われ、アルバニアは降伏してイタリア軍の勝利となり、アルバニアは併合された(イタリアのアルバニア併合1939.4)。アルバニア国王のゾグー1世(位1928-39)はギリシャに亡命、イタリア国王および東アフリカ皇帝であるヴィットーリオ=エマヌエーレ3世がアルバニア王位を兼ねた(アルバニア王位1939-43)。こうした独伊の膨張政策は、激しい非難と国際的孤立をもたらすことになったが、翌月、両国は軍事同盟(ドイツ=イタリア軍事同盟。1939.5)を締結し、友情と同盟を確認するとともに両国の軍事と経済の発展を約束した。この同盟は通称"鋼鉄同盟(鋼鉄協約)"と呼ばれた。

 ドイツのポーランド侵攻(1939.9.1)によって第二次世界大戦(1939.9-1945.8)が勃発し、連合国軍と枢軸国軍との壮絶な戦闘が始まった。ただ大戦勃発前のイタリア国内では、参戦支持というわけではなかった。ムッソリーニとは意見対立が多かったバドリオ参謀総長は、鋼鉄同盟にも賛同せず、イタリアの軍備は連合軍よりも不十分であるとして参戦を拒否していたが、勃発後のドイツ軍は戦局が非常に優勢であり、鋼鉄同盟にとって有利に戦局が動いていたため、参戦は時間の問題となった。ポーランドに続き翌1940年4月デンマークノルウェー5月にはオランダベルギー、ルクセンブルクといった中立国に次々と侵攻、同月フランス侵攻も開始され、翌6月10日にフランス政府(アルベール=ルブラン大統領。任1932-40。ポール=レノー首相。任1940)が首都パリを放棄し無防備都市となった状況を見て、ムッソリーニは1940年6月10日参戦イタリア参戦)を決めた。

 イツ軍はフランスの港湾都市ダンケルクを包囲し、6月14日、無防備と化した首都パリに無血入城、パリは占領され、フランスは降伏した(パリ占領1940.6.14)。フランスは中仏ヴィシーでドイツ傀儡政権が誕生した(ヴィシー政権。1940-44)。和平派だったフィリップ=ペタン元帥が首相となり(任1940-42)、ヴィシー政権国家主席に就いた(任1940-44)。なお、ペタンは首相職を1942年に辞任、同じく和平派で元首相のピエール=ラヴァルがヴィシー政権第2代首相として就任した(任1942-44)。
 枢軸国ドイツの勢いと敵国フランス敗北によって、イタリアは戦力不十分でありながらもフランス侵攻を決め、、仏伊国境にあるフランス南東部のマントン市(海岸コート=ダジュール沿いの町)を占領、6月25日に仏伊間で休戦協定が結ばれ、マントンを拠点とするプロヴァンス地方を無期限進駐領域として確保した(南仏進駐領域。もとはイタリアの地であったニースサヴォイアを含む)。イタリア軍はその後ヴィシー政権に対してドイツ軍と共に圧迫をかけ(アントン作戦。1942)、コルシカ島を占領した。
 イタリアは同年9月にエジプト侵攻(北アフリカ戦線)も開始した。そして防共協定締結後に一段と結束力が強まった日独伊の枢軸国側は翌1940年9月末に三国同盟(日独伊三国同盟)が結ばれ、枢軸国の骨が出来上がり、米英連合国陣営との対立姿勢が明確化された。イタリアは直後の10月にイギリス領ソマリランドを占領した。

 しかし参戦後のイタリアは戦力および物資がその後もなお不安定であり、1940年12月のギリシャ侵攻(バルカン戦線。連合国軍のアルバニア進駐を想定した侵攻)においては、もともと参戦反対であったバドリオが指揮をとっていたせいか有利に運ばず、ムッソリーニは決断してバドリオを罷免した(1940.12)。しかしその後も各戦線での戦力は上がらず、エジプト侵攻およびギリシャ侵攻はいずれも短期で決着が付かずに敗退した。また東アフリカ戦線では、1941年初頭よりイギリス軍が反撃を開始、戦局は劣勢で、5月には前皇帝のハイレ=セラシエ1世がアディスアベバに帰還、1941年11月に東アフリカのイタリア軍は全面降伏することになり、ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世は東アフリカ皇帝を退位し東アフリカ帝国は崩壊、エチオピア皇帝にはハイレ=セラシエ1世が復位した(帝位1941-74)。

 ムッソリーニが掲げた戦略はその後も有利に導かず、やがて各戦線のイタリア軍はドイツ軍に期待して戦う状況が避けられなくなった。連戦連敗によりイタリア国内ではムッソリーニの支持が大きく低下し、威信は大きく失墜した。軍事関係から引退したバドリオもまた軍指揮経験の浅いムッソリーニを強く批判した。またムッソリーニを理解していたファシスト党員で、1932年までムッソリーニ政権の外相を務め、駐英大使として国際連盟脱退に反対し、イギリスとの協調外交を最善策としていたディーノ=グランディ法相(任1939-43)は、ムッソリーニ行政について大きく批判し、軍の統帥権を国王に返還すべきとの意見を出した。

 そして1943年になり、ムッソリーニの運命の年がおとずれた。この頃になるとイタリア軍はほぼ壊滅的状態にあり、国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世もムッソリーニ政権の諸政策や軍指揮に難色を示していった。当然ムッソリーニへの批判と共に、彼を指揮官に任命した国王への批判も大きかった。こうした中、1943年7月10日、連合軍がシチリア島に上陸ハスキー作戦。1943.7-43.8)、イタリア軍はドイツ軍の指揮官のもとで、1ヶ月以上にわたる戦闘が展開したが、米英連合軍によって敗退、イタリア軍は壊滅的打撃を受けた。2月に法相を辞任したディーノ=グランディは7月24日夜、3年ぶりに開催されたファシズム大評議会Gran Consiglio del Fascismo)においてムッソリーニ首相解任案を提出し可決(グランディ決議)、首相解任が決定した。翌日ムッソリーニは国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世に辞表を提出(ムッソリーニ首相辞任1943.7.25)、直後に逮捕、幽閉された。これにより軍の統帥権は国王に返還され、ファシズム大評議会も閉鎖、イタリア王国におけるファシスト党の一党独裁体制は終わりを告げた。国王より任命を受けたバドリオが首相に就任(バドリオ政権。首相任1943-44)、即刻バドリオはムッソリーニ失脚で無力と化したファシスト党に対し解党命令を下した(ファシスト党解散。1943.7)。国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世はアルバニア国王を退位した(1943)。

 1943年9月3日、イタリア王国は本土決戦を迎えることになる。そして、捕らえられた独裁者には、思いもよらぬ指令と作戦が待っていた。


 シリーズ第2弾は、ムッソリーニがエチオピア侵攻と第二次世界大戦での戦闘、そしてムッソリーニが首相職から退く逮捕、監禁されるまでの時期をご紹介いたしました。武器や戦力が不十分かつ不安定にもかかわらずイタリアを世界大戦に巻き込み、多くの犠牲者を出しては敗退を繰り返す最悪な戦局でした。これによりファシスト党の支持は急落、ムッソリーニの威信は大きく失墜します。

 さてそんな中で、今回の受験世界史の学習ポイントを見てまいりましょう。大事な用語がたくさん登場しました。なんといっても大事なのが1935年のエチオピア侵攻ですね。まずこの侵攻の年(1935)ですが、私は受験生時代からずっと"みこしかついでエチオピア"と覚えています。ここでは第二次のエチオピア侵攻のことですが、第一次では1895年のことです。ここではややマイナー系ですが、アドワでイタリアが負けたこと、時のエチオピア皇帝は本編未登場ですがメネリク2世(位1889-1913)で、難関私大では出題されることもあります。第二次の方が大いに重要で、前述の1935年侵攻、時のエチオピア皇帝はハイレ=セラシエ1世であることが重要です。またイタリアの国際連盟脱退は1937年も重要。日本では日中戦争開戦の年です。ちなみに日本とドイツの連盟脱退は1933年です("さんざん悩んで連盟脱退"の覚え方があります)。イタリアの他の対外進出としては本編では複数出てきましたが、受験に出るものといえばアルバニアぐらいでしょうか。1939年4月に同国を併合しています。また大戦関連では、戦力が整っていないままでの第二次世界大戦への参戦(イタリア参戦)した年が1940年(6月10日)であることも要注意です。
 同盟関連では、日独防共協定(1936)にイタリアが加わり日独伊防共協定(1937)となります。"反ソ・防共"であったにもかかわらず、ドイツが大戦勃発直前に独ソ不可侵条約を締結(1939.8.23)しますが、日本ではその後の日独伊三国同盟に関して、ソ連も入れた四国協商の案もありましたが、結局この話は流れて、日ソ間で結ばれました。これが日ソ中立条約です(1941.4.13)。四国協商案は世界史の受験にはでないと思いますが、これを知っていると日ソ中立条約も頭に入りますね。あとはマイナー系ですが、いわゆる鋼鉄同盟というのは、用語集では"ドイツ=イタリア軍事同盟"とひっそりと登場しています。
 イタリア戦線関連であともう1つ。これも入試ではマイナー系ですが、シチリア上陸とイタリア無条件降伏を要求する内容をとりまとめた、カサブランカ会談(1943.1)というのが、アメリカ大統領フランクリン=ルーズヴェルト(1882-1945。大統領任1933-45)とイギリス首相ウィンストン=チャーチル(1874-1965。首相任1940-45,51-55)の両首脳で行われました。1941年から終戦時までに米英(ソ中)の首脳が会談するのは、ほかに5つありますが(大西洋会談、カイロ会談、テヘラン会談、ヤルタ会談、ポツダム会談の5つ。カサブランカ会談は大西洋会談とカイロ会談の間)、受験生はこの5つが非常に重要で、誰が出席したかも知る必要があります。カサブランカ会談は最も出題が地味ですので、余裕があればで良いです。

 あと人物ですが、本編登場で重要なのは、ムッソリーニは当然ですが、ムッソリーニ失脚後に政権を担当したバドリオが出題されます。イタリア以外では、降伏したフランスでドイツの傀儡政権(ヴィシー政権)を担った、ペタンも重要ですね。

 さて、次回が最終話。監禁されたムッソリーニ、まだドラマがあるのか!

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