世界史の目-Vol.213-

西から来た訳経僧(やっきょうそう)

 中国における現在の新疆(しんきょう)・ウイグル自治区と呼ばれる地域はかつて東トルキスタンと呼ばれ、中国では西域(さいいき)と呼ばれた(狭義。広義には、パミール高原以西の西トルキスタンを合わせた全トルキスタン)。葱嶺(そうれい。パミール高原の中国での呼称)以東にあたるこの地域の中で、タリム盆地北方に位置し、天山南路上において、あるオアシス都市国家が存在した。その名をクチャ(庫車)といい、中国では亀茲(きじ)の名で知られた。現在は新疆・ウイグル自治区の庫車(クチャ)県に該当する。
 亀茲では上座部仏教小乗仏教)が篤く信仰され、スバシ故城(3C頃)、キジル石窟寺院(3-8C内に建設か)やクムトラ石窟寺院(5-8C内に建設か)などが残されている。そして3世紀頃から亀茲の訳経僧(やっきょうそう。サンスクリット語で書かれた仏典を漢訳する僧)が中国に訪れて、仏典の漢訳に努めたとされている。

 紀元前2世紀、亀茲は匈奴(きょうど)の支配下にあった。しかし前漢(ぜんかん。B.C.202-A.D.8)の武帝(位B.C.141-B.C.87)がでると、勢力後退した匈奴にかわって西域を支配し、亀茲もその支配下に置かれた。そして紀元前59年(B.C.60年?)に匈奴が漢に服属(その後匈奴は東西分裂)、西域の中央部にあたる烏塁城(うるいじょう)に西域都護(とご。西域都護府)が置かれた。
 五胡十六国(304-439)の時代、華北を統一したチベット系民族(てい)の強国、前秦(ぜんしん。351-394)の軍人であった呂光(りょこう。338-399)が、君主・苻堅(ふけん。位357-385)の命により、7万の軍を率いて西域遠征を行った。384年、この遠征で亀茲は他の西域諸国とともに呂光軍に討たれた。この時、前秦は382年に江南の敵国・東晋(とうしん。317-420)相手に淮河(わいが)支流の淝水(ひすい)で交戦を開始したが(淝水の戦い)、大敗北を喫して苻堅も385年に殺され、前秦も滅亡へと向かった。呂光は亀茲討伐を機に自立を固め、華北で最も西方の氐族の国・後涼(こうりょう。384-403)を興した。

 亀茲征討直後、呂光は亀茲の僧を捕虜にした。この僧は西域では既に名の通った人物であった。苻堅に信任されていた前秦の僧・釈道安(しゃくどうあん。314-385)は、苻堅にこの亀茲の僧を生かすように建言したことで、苻堅は呂光にこの亀茲の僧を確保するよう命じた。その僧こそ、亀茲が生んだ最大の訳経僧、鳩摩羅什(くまらじゅう。サンスクリット名では"クマラジーヴァ"。344-413(350-409説もあり))であった。鳩摩羅什は後涼において、度々呂光に進言し彼を助けた。結局鳩摩羅什は後涼の存続する間、涼州(りょうしゅう。現・甘粛省)に置かれた。彼はこの涼州時代に漢語(中国語)を学んだ。

 鳩摩羅什は母が亀茲王の妹、父はインド貴族であった。鳩摩羅什は7歳の頃、熱心な上座部仏教徒だった母とともに出家したとされる。9歳の時、カシミール(インド西北部)やキジル石窟寺院などで上座部仏教を3年で修めたが、その後カシュガル(タクラマカン砂漠西端)において大師・須利耶蘇摩(すりやそま。生没年不明)と出会い、彼の影響で大乗仏教に転向した。そこで、インドのバラモン出身の仏教学者だった龍樹(りゅうじゅ。ナーガール=ジュナ。150?-250?)の著『中論(ちゅうろん)』『十二門論(じゅうにもんろん)』、そして龍樹の弟子提婆(だいば。アーリヤデーヴァ。3C)の『百論(ひゃくろん)』など、大乗仏教の論書を大いに習得し、彼らが確立した大乗仏教の根本教義(龍樹の思想は"中観"といわれる。ちゅうがん)を中心に研究を深めた。
 この中観派は、『般若経(はんにゃきょう)』の「(くう)」の思想が根本的立場にある。すべて存在する事物(諸法。しょほう。この世に存在するあらゆるもの)は、何物にも依らずに本体それ自身で永久不変に存在する性質やその実体はなく(無自性。むじしょう)、さまざまな因縁("因"は原因、"縁"は条件)で相互に寄り合って成立するものである(縁起。えんぎ)。ナーガールジュナはこの教説を"空"とした。これを土台に、すべてにおける事象・概念の両極(有るか無いか、同じか違うかなど)について、極端に偏った見解に陥らず、常に"中道"の立場で観察すると(つまり"中観")、真理に達することができると説くのが中観派の考え方である。中観派は唯識派(諸法はただ心(識)のつくりだした真実ではない仮のもので、事物の実在性はないというもの。唯一の実在が心である。諸法は空であると説く中観派に対抗)とともに大乗仏教の重要な教説である。

 後涼は401年に五胡十六国の1つでチベット系(きょう)族姚(よう)氏の国・後秦(こうしん。384-417)に占領された(403年に滅亡)。後秦の仏教政策として鳩摩羅什を必要と考えていた後秦・第2代皇帝の文桓帝(ぶんかんてい。姚興。ようこう。位394-416)は、鳩摩羅什を国師に指名し、当時置かれていた後秦の首都・長安(ちょうあん。現・陝西省西安市付近)に鳩摩羅什を招き入れた。
 文桓帝は熱心な仏教保護者で、各地に仏教寺院を建立して、鳩摩羅什の布教を助けた。その後、鳩摩羅什も大人数の弟子を抱えることになり、仏典35部、およそ300巻を漢訳し、中国における仏教布教におおいに貢献した。主な訳出作品として『阿弥陀(あみだ)経』『妙法蓮華(みょうほうれんげ)経』『摩訶般若波羅蜜(まかはんにゃはらみつ)経』『維摩詰所説(ゆいまきつしょせつ)経(維摩経)』『坐禅三昧(ざぜんざんまい)経』の諸経典などである。またインド仏教僧・訶梨跋摩(かりばつま。4C頃)の『成実(しょうじつ)論』や、ナーガールジュナの『中論』『大智度(だいちど)論』などの訳出もみられる。さらに著書として東晋の僧・慧遠(えおん。334-416?/417?)と交わした往復書簡『大乗大義章(だいじょうたいぎしょう)』がある。

 これらの作品は中国仏教の代表的な経典となり、東アジアにも普及した。日本では、6世紀における朝鮮半島(百済。くだら。346-660)からの仏教伝来(538?/552?。仏教公伝)後において、『法華経』『維摩経』『勝鬘(しょうまん)経』の注釈、いわゆる『三経義疏(さんぎょうのぎしょ。聖徳太子の撰と伝えられる。しょうとくたいし。574-622)』の成立にもつながった。また412年に鳩摩羅什によって漢訳された訶梨跋摩の『成実論』は南北朝時代(439-589)、鳩摩羅什の弟子たちによって広められ、成実宗(しょうじつしゅう)となり、とくに奈良時代(710-794)において、南都六宗の1つとして栄えた。さらに時代(ずい。581-618。とう。618-907)、『中論』『十二門論』『百論』の三論を基礎にした三論宗(さんろんしゅう)が開かれた。三論宗はのち日本にも伝わり、日本では前の成実宗と同様、南都六宗の1つとして広められた。
 さらには、『妙法蓮華経』や『大智度論』を追究した隋代の僧・智顗(ちぎ。538-597)によって、現在の浙江省の天台山(てんだいさん)において法華経を中心経典とする天台宗(てんだいしゅう)が開かれた。天台宗はのちに日本の平安時代(794-1185/1192)初期、唐代に留学した日本の僧・最澄(さいちょう。767-822)によって伝えられた。

 こうして、亀茲から来た訳経僧・鳩摩羅什は中国および周辺諸国の仏教布教において、これまでにない偉大な功績と影響を残したのである。鳩摩羅什は亡くなる前から、"自身の亡骸は薪で焚身(焼身)せよ、正しく訳出できていれば、焚身後も舌だけが残るであろう。舌も焼けるようなことがあれば、訳経もすべて焼き捨てよ"と周囲に言っていた。鳩摩羅什の没後(413?、409?)、言われたとおりに火葬が執り行われた、身体は灰と化したが、舌だけが焼けずに残ったといわれている。

 鳩摩羅什の訳経事業はその後の中国においても引き継がれていったが、特に著名なのは隋末唐初の玄奘(げんじょう。602-664。三蔵。さんぞう)である。玄奘は唯識派を主張し、のちの法相宗(ほっそうしゅう)につながった(日本では南都六宗の1つ)。玄奘の訳経は"新訳(しんやく)"、鳩摩羅什の訳経は"旧訳(くやく)"とそれぞれ呼ばれた。そして、訳経に力を注いだふたりの高僧を"二大訳聖"と呼ばれるのである。

 玄奘が天山南路経由で西域の旅から長安に戻った(645)その後、鳩摩羅什の祖国・亀茲は、唐の羈縻政策(きび。唐の都護体制のもとで、在地の異民族族長に自治を許可した間接統治策)による西域経営政策に組み込まれた(安西都護府。あんぜい。640-790。648年に亀茲へ移府)。第2代・太宗(たいそう。李世民。りせいみん。位626-649)の貞観(じょうがん)の治と謳われた、充実した時代の中での一政策であった。 


 今回はアジアの仏教界に多大な影響を及ぼした、亀茲の鳩摩羅什をメインに迎えてご紹介しました。中国史における仏典を漢訳した訳経僧として、最初に挙げられるのがこの鳩摩羅什です。4世紀末から5世紀初めに活躍しました。この人がいなかったら、聖徳太子の活躍はなかったかもしれないほど、日本においても非常に重要な人物です。

 鳩摩羅什は二度、女犯(にょぼん)、つまり戒律により女性との性的関係を持つことができないにもかかわらず、その戒律を破った(破戒)ことがあるとされています。亀茲を征服した呂光が、鳩摩羅什がどんな人物かまではよくわからず、鳩摩羅什を酔わせた後に部屋に閉じこめ、亀茲の一番美しい女性(王女)と二人きりにさせて、破戒させようとしました。しかし戒律を守る鳩摩羅什は王女に接触しようとはしません。王女は鳩摩羅什の前で泣きます。鳩摩羅什が涙の理由を尋ねると、王女は3日以内に鳩摩羅什を破戒させることを呂光に命じられたと返答しました。亀茲を征服された王女は後涼の囚われの身であり、呂光は鳩摩羅什を破戒することができれば命は助けるが、破戒できなければ殺すと脅していたのです。これを聞いた鳩摩羅什はやむを得ず王女と関係を持ち、破戒した、とされています。二度目は長安での人生で、これも文桓帝の意向で女犯で破戒し、還俗(げんぞく。僧侶をやめて俗人に戻ること)させられたといわれています。

 さて、今回の受験世界史における学習ポイントです。鳩摩羅什は亀茲(きじ。クチャ)の出身であること、仏典漢訳を行ったことを知っておけば大丈夫です。ただ、鳩摩羅什より前に中国にやってきた亀茲の僧もいて、鳩摩羅什と一緒に覚えなければならない人物がいます。本編に出た釈道安(用語集では"道安")の師匠で、4世紀初め(310年)に洛陽に来た仏図澄(ぶっとちょう。ブトチンガ。232?-348)です。仏図澄は訳経僧ではないので、ともに亀茲出身で、仏典漢訳鳩摩羅什(ともに四文字)と覚えましょう。また鳩摩羅什が訳した、インドのナーガールジュナの存在も知っておきましょう。なお、今回登場した五胡十六国関係の人物(呂光、文桓帝など)や後涼・後秦などは、マイナー事項なので覚えなくても大丈夫です(前秦の苻堅は大事です)。

 そして今回は玄奘も登場したので、彼関連も付け加えてきますと、インド王ハルシャ=ヴァルダナ(位606-647)から厚遇を受けて、ナーランダー僧院で仏教学を学んだこと、陸路で旅立ち陸路で帰ってきたこと、彼の旅行記が『大唐西域記(だいとうさいいきき)』として弟子によって編まれたこと、三蔵法師であることなどを知っておけばよろしいでしょう。

 今回は受験倫理分野や受験日本史B分野においても重要です。空の思想や中観と唯識、聖徳太子の三経義疏や南都六宗など、重要用語がたくさん登場しましたので、しっかり整理しておきましょう。

(注)UNICODEを対応していないブラウザでは、漢字によっては"?"の表示がされます。"氐"(てい)→"氏の下に―もしくは丶"。"淝水"(ひすい。さんずいに肥)、"智顗"(ちぎ。へんは山の下に豆、つくりは頁)

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