世界史の目-Vol.214-

幻の玉座

 ドイツ南部のバイエルン地方。同地方では、バイエルン公国(907-1623)時代の1180年、ヴィッテルスバハ家のオットー1世(公位1180-83)が初代バイエルン公に即位して以降、バイエルン選定侯領(1648-1805)、バイエルン王国(1806-1918。首都ミュンヘン)を経て、ドイツ革命(1918-19)により王政が廃止されるまでの間、ヴィッテルスバハ家の支配が続いた。1806年、神聖ローマ帝国(962-1806)の完全滅亡にともない、バイエルンはナポレオン1世(位1804-14.15)の結成した国家連合であるライン同盟に加盟させられ、王国に昇格した。これが、バイエルン王国で、前身のバイエルン選定侯領の選帝侯であったマクシミリアン4世(選帝侯位1799-1805)は初代バイエルン王マクシミリアン1世となった(マックス=ヨーゼフ。王位1806-25)。
 やがてライン同盟は1815年のウィーン議定書によってオーストリア(1804-67)を盟主とするドイツ連邦(1815-66)となった。ウィーン体制下のバイエルン王国ではマクシミリアン1世没後、長子のルートヴィヒ1世(位1825-48)が即位したがドイツ三月革命(1848.3)の時に取り沙汰された愛人問題によって退位を余儀なくされ、長子マクシミリアン2世(位1848-64)が即位した。

 マクシミリアン2世はプロイセンの王族であるホーエンツォレルン家出身のマリー王妃(1825-89)と結婚し、長男ルートヴィヒ(1845-86)、次男オットー(1848-1916)の2男をもうけた。父マクシミリアン2世は執務が多忙であり、性格も冷淡で禁欲的な人物であった。養育は担当者によって行われ、父母が直接関わることは少なかったが、やがて厳格な教育が組み込まれていった。しかし次期王位継承者である兄ルートヴィヒは、帝王学の習得を不完全のままにしていた。
  ルートヴィヒ、オットーの兄弟は、幼年時代を父マクシミリアン2世が4年がかりで改築したホーエンシュヴァンガウ城(【外部リンク】から引用)で過ごした。木々と湖といった自然に囲まれた城で、壁面にはアーサー王伝説に登場する白鳥の騎士"ローエングリン"をはじめとする中世騎士伝説の壁画が描かれており、兄ルートヴィヒはやがて、中世に生きた白鳥の騎士"ローエングリン"に強い愛着をもつようになり、やがて自分をローエングリンに重ね合わせる空想をおこすようになった。そしてロマン主義音楽家で、歌劇王の異称で知られるリヒャルト=ワグナーヴァーグナー。1813-83)のオペラ『ローエングリン(1848作)』への執心も激しくなり、1858年にミュンヘンで上演された"ローエングリン"を観劇し、完全に魅了されたのであった。こうして、"ローエングリン"に心酔したルートヴィヒは、現実と空想の境界線がぼやけていくようになった。

 ローエングリンとは、ブラバント公爵の娘エルザを救い保護した白鳥の騎士が、決して名前を問わないことを約束に結婚するも、約束を破ってしまったエルザと別れる話で有名である。ルートヴィヒが観劇したワグナーの『ローエングリン』はエルザとの結婚から別れまでをオペラ化したものであった。ルートヴィヒは『タンホイザー(1845作)』『トリスタンとイゾルデ(1857-59作)』などのワグナーの作品、またワグナー自身にも興味を持ち始めた。

 1864年、厳格に子どもたちを教育した父マクシミリアン2世が死去した。そして18歳のルートヴィヒがルートヴィヒ2世として、バイエルン国王に即位した(位1864-86)。ルートヴィヒ2世が最初に行ったのは、ワグナーのバイエルンへの招聘だった。ワグナーはドイツ三月革命の最中、ドレスデンでの革命運動がもとで亡命生活を送っていた。さらには放蕩に耽った代償として多額の借金を背負い、窮地に陥っていた。さらにワグナーはハンガリーの音楽家であるフランツ=リスト(1811-86)の娘コジマ=(1837-1930)との不倫問題もあった。ワグナーより24歳年下のコジマは、既に指揮者ハンス=フォン=ビューロー(1830-94)の妻で、2児の母であったが、1862年にワグナーと知り合い愛人関係となっていた状態であった。スキャンダルにまみれ、周囲からも悪い噂しか耳に入らない状態で、ルートヴィヒ2世の家臣たちはワグナー招致を拒んだが、ルートヴィヒはその反対を押し切って、ワグナーをミュンヘンの宮廷に招待した。ルートヴィヒはワグナーの債務を負担したばかりか、豪邸を贈与し、公演会場や音楽学校の設立も関わった。これは、エルザを保護したローエングリンと、ワグナーを保護したルートヴィヒ2世が見事に重なった瞬間であった。
 しかし、エルザはローエングリンと別れたのである。ルートヴィヒとワグナーの別離は時間の問題であった。家臣はワグナー追放を叫んでいた。さらにワグナーは人妻であるコジマを愛しており、コジマはワグナーの子を妊娠していた(1865出産)。ルートヴィヒ2世もワグナーの不倫問題は快く思わず、結果的にミュンヘンから追放されることとなった(1865)。ワグナーはスイスに戻ってその後コジマと同棲を始め、1869年コジマはビューローと離婚(1869)、ワグナーと再婚した(1870)。

 ドイツ連邦内では、プロイセン王ヴィルヘルム1世(普王位1861-88)及びオットー=フォン=ビスマルク(1815-98)の率いるプロイセン王国(1701-1918)と、オーストリア皇帝フランツ=ヨーゼフ1世(墺帝位1848-1916)の率いるオーストリアとの間を中心とする普墺戦争(プロイセン・オーストリア戦争。1866)が起こった。戦争はプロイセンの勝利となり、ドイツ連邦はオーストリアとドイツ南部諸邦を除いた北ドイツ連邦(1867-1871)となった。オーストリア皇帝フランツ=ヨーゼフ1世に嫁いだ皇后エリーザベト(1837-1898。墺皇后位1854-98)はヴィッテルスバハ家出身で、エリーザベトの父はバイエルン公であったことと、当時のバイエルン王国及び王家ではプロイセン寄りではなくオーストリア寄りだったことも一因して、バイエルン王国の北ドイツ連邦加盟は見送られた。そして、普墺戦争に勝ったプロイセンから敗戦国オーストリアを支持したバイエルン王国政府に対して、戦争による賠償請求がおこされた。

 普墺戦争終結後、ルートヴィヒ2世は婚約を交わした。オーストリア皇后エリーザベトの妹、ゾフィー=シャルロッテ=アウグステ(1847-97)が婚約相手であった。ルートヴィヒ2世はもともと男色を好んだ人物であったが彼には生涯、心を許した女性がいた。それは彼の8歳年上のエリーザベトであった。窮屈な宮廷を嫌い、現実を見つめず理想を追い求めるのエリーザベトの姿はまさに、ルートヴィヒ2世の幼少期から理想の女性像であった。しかしエリーザベトはすでにオーストリア皇后の身分であった。エリーザベトはルートヴィヒ2世の行く末を心配しており、妹ゾフィーを婚約相手に薦めたのであった。
 1867年1月にルートヴィヒ2世はゾフィーとの婚約を果たし、ルートヴィヒ2世の誕生日にあたる同年8月25日に挙式が組まれた。しかし現実を受け入れられないルートヴィヒ2世は愛していない女性と結婚する現実と向き合うことができず、ついに彼は同年10月12日に挙式の延期を発表し、その日が近づくとさらに11月末への延期を示唆したため、ゾフィー側の家族はルートヴィヒ2世に早急の意志決定を迫り、次に延期したら婚約を破棄すると通告した。結局ルートヴィヒ2世はそれに対する書簡をゾフィーに送った。内容は婚約破棄の返事であった。しかもこの書簡が婚約を破棄する内容でありながらゾフィーに対する呼びかけが"親愛なるエルザ"というふざけたもので、バイエルン公である父は勿論のこと、推薦したエリーザベトはこの行為に対して激怒し、これを機にルートヴィヒ2世に対して疎遠になっていった。

 1869年、ルートヴィヒ2世はホーエンシュヴァンガウ城の近隣に新たな王城の建設を開始した。ルートヴィヒ2世は名だたる王城専門の建築家を呼び寄せると思いきや、招致したのは舞台美術家のクリスチャン=ヤンク(1833-88)という30代半ばの人物で、彼が手掛けた城は、ルートヴィヒ2世の空想に任せた、まさにロマンの追求そのものであった。最初に着工された王城はノイシュヴァンシュタイン城【外部リンク】から引用)であり、中世騎士伝説やワグナーのオペラから着想を得て建設され、これらのロマンチズム溢れる壁画や装飾が至るところに作られた。一方、礼拝堂は造られず、玉座(ぎょくざ。君主の座具)が置かれる広間は後回しに造るという、王の欲求通りに建設が進行した。

 この間、プロイセンはフランスと交戦し勝利したが(普仏戦争。プロイセン・フランス戦争。1870-71)、プロイセン王国のビスマルクはプロイセン中心の連邦体制よりも、対仏で芽生えたドイツ・ナショナリズムを利用したドイツ統一を考えた(ただ国王ヴィルヘルム1世は当時プロイセン中心主義だったため、ドイツ統一には消極的であったが、ビスマルクの説得で不承不承ながら譲歩したとされる)。北ドイツ連邦に参加しなかったバイエルン王国を含むドイツ南部の諸邦に支持を取り付け、プロイセンをドイツに組み込むことを決断し、ドイツ統一を実現させた。1871年1月18日、敗戦国フランスの王宮・ヴェルサイユ宮殿にて、初代カイザー(ドイツ皇帝の帝号)としてヴィルヘルム1世が即位し(帝位1871-88)、北ドイツ連邦は解体されてドイツ帝国(1871-1918)となった。

 ドイツ帝国に組み込まれたバイエルン王国は、さらにドイツ統一を支持し、帝国の領邦とされた(神聖ローマ帝国時代の領邦は1648年のウェストファリア条約で国家主権が認められ、領邦国家体制が敷かれたが、今回の統一における領邦における国家主権は失われ、帝国を構成する諸邦となった。バイエルン王国もドイツ帝国の構成国の1つとなったが、同じく帝国に組み込まれた他の諸邦に比べて緩やかな自治が認められ、"王国"を名乗ることもできた)。またバイエルン王国は普墺戦争における賠償を支払う一方で、普仏戦争時にプロイセンと同盟を組み、ドイツ統一を支持したことによるプロイセンからの謝礼金が転がり込んできた。

 ルートヴィヒ2世は首都ミュンヘンには戻らず築城に専念し、その建設費用も王自身の私費と王室費から捻出した。王室費に組み込まれたドイツ支持によるプロイセンからの謝礼金も散財していった。1874年から2つめの王城・リンダーホーフ城【外部リンク】から引用)が着工され、1878年に完成した。ルートヴィヒ2世在位期間中、最初に完成された城である。リンダーホーフ城は当時の近代建築様式とは違い、ヴェルサイユ宮殿の大トリアノン宮(【外部リンク】から引用)をモチーフに完成された城で、一昔前のルネサンス様式(優美・調和・均整)、バロック様式(豪壮・華麗)、そしてロココ様式(繊細・軽妙)といった中世近世の建築様式を大胆に融合させた城であった。ブルボン朝(1589-1792,1814-30)の華やかな時代にも憧れていたルートヴィヒ2世は、ルイ14世(太陽王。位1643-1715)などの像も製作し、城館に設置した。城内の庭園には、ルートヴィヒ2世が執着したワグナーの『タンホイザー』にも登場する鍾乳洞"ヴェーヌスの洞窟"が人工的に作られてあり、幻想とロマンを主張した造りになっている。ノイシュヴァンシュタイン城にもタンホイザー関連の鍾乳洞が人工的に造られたが、これは"城内"に建造された。

 ヴェルサイユ宮殿もルートヴィヒ2世を魅惑する王宮の1つであり、1878年にはリンダーホーフ城に続いて、バイエルンのキーム湖に浮かぶ島上にてヘレンキームゼー城(【外部リンク】から引用)が着工されたが、この城もヴェルサイユ宮殿がモデルであった。1883年には4番目の王城であるファルケンシュタイン城(【外部リンク】から引用)をノイシュヴァンシュタイン城よりも高所に着工し始めた。またアジアやヨーロッパの有名な宮殿を模した王城の建設計画もルートヴィヒ2世によって挙げられた。

 しかし、ルートヴィヒ2世の理想を追求した王城建築は、築城費問題において国家財政を脅かすところまできており、プロイセンに普墺戦争による賠償分を残した状態でありながら、建設費がなくなると公債を乱発するという悪循環をおこした。ただ、この頃のルートヴィヒ2世は王城建築しか興味を示さなかった。さらにはドイツ統一前に弟のオットーが精神に異常をきたすようになり、療養の一環としてミュンヘンのニンフェンブルク宮殿、その後近郊のフュルステンリート宮殿に引き籠もるようになった。弟と離れたルートヴィヒ2世は、王室における執務なども忘れて、ますます現実から逃避するようになり、常に自身の理想を追求すべく築城に邁進した。ルートヴィヒ2世は常に一人で動くようになり、食事も一人でとり、真夜中に外出し、朝昼に寝ると言った生活が続いた。リンダーホーフ城では城館に置かれたフランス・ブルボン朝のルイ14世の像などに対し、あたかも生きた人間であるかのように対話をするなどの奇行もみられたという。1883年にはこれまで心の大きな支えとなっていたワグナーが心臓発作のためヴェネツィアで客死したことも影響した。
 翌1884年には建設中におけるノイシュヴァンシュタイン城に居住するようになり、城内に引き籠もるようになった。寝室と同階にある人工の鍾乳洞を癒しの空間として一日入り浸った。

 ルートヴィヒ2世の国王らしからぬ行動は、さすがに王室だけでなくバイエルン政府も危機感をおぼえ、1886年6月12日朝、遂に国王は精神科医ベルンハルト=フォン=グッデン医師(1824-86)によって精神疾患と診断された。直後、ルートヴィヒ2世は家臣団によって捕らえられ、バイエルン南部のシュタルンベルク湖畔のベルク城(現バイエルン州シュタルンベルク郡)に移送、幽閉処分となった。王位は廃され、叔父のルイトポルト=ヴィルヘルム(1821-1912)が摂政を務めることが決まった(任1886-1912)。ルートヴィヒ2世には主治医としてグッデン医師が常に随伴した。ルートヴィヒの退位により、ノイシュヴァンシュタイン城、ヘレンキームゼー城、ファルケンシュタイン城の建設は中断された。

 そして翌6月13日夕方、ルートヴィヒはグッデン医師とともに散歩に出かけた。しかし、ベルク城には戻ってこなかった。そして、同日夜遅く、シュタルンベルク湖畔で2人は水死体となって発見されたのである(ルートヴィヒ2世没。1886.6)。現場は溺死するほどの水深ではなく、グッデンには顔に傷が残されてはいたものの死因は謎とされ、現在においてもなお未解明である。発見された湖畔には木製の十字架が建てられ、湖を訪れた多くの人々が40年の生涯を閉じたバイエルン国王を偲んだ。国王の死を聞いたオーストリア皇后エリーザベトは大変ショックを受けたという。そして、次の言葉が寄せられた。「彼は精神病ではなく、ただ、夢を見ていただけ...

 ルートヴィヒ2世没後、弟のオットーが精神疾患の病状のまま、バイエルン国王オットー1世として即位したが(王位1886-1913)、職務は遂行できず、ルイトポルトが引き続き摂政を留任した。ルイトポルト没後は子のルートヴィヒ=アルフリート(1845-1921)が摂政を引き継いだが、議会の決議によりオットー1世は翌年廃位となり、摂政のルートヴィヒ=アルフリートがルートヴィヒ3世として即位し(位1913-18)、最後のバイエルン国王としてドイツ革命が勃発して帝政が崩壊するまで在位した。オットー1世は1916年、68歳で没した。

 ルートヴィヒ2世の没後、中断されていた3つの王城の建設、およびその他の王城建設計画はすべて中止された。国王の理想とロマンを求めるために、後回しにされたノイシュヴァンシュタイン城の玉座の広間に設置される予定であった"玉座"は、最後まで置かれずのままであった。


 現在のドイツの連邦州の1つ、バイエルン州(州都・ミュンヘン)の王国時代のお話です。ビスマルクが1863年、つまり即位前年にルートヴィヒ2世と対面した時、ルートヴィヒ2世の肖像画を飾るほど非常に好意を寄せたとされています。周囲に期待されて国王に昇り詰めて以降のルートヴィヒ2世は現実逃避が顕著となり、まるで子どもに戻ったかのような生活の毎日でした。そして、謎の死を迎えて.....
 波乱に富んだバイエルン国王ルートヴィヒ2世の40年の生涯はその後映画化や劇化され、多くの伝説をもたらし、現在においてもなお多くの人々の興味を引きつけています。弟と共に"狂王"と呼ばれた兄ルートヴィヒの残した遺産は、当時においては賛否両論あったと思われますが、現在においてはその魅力が大いに主張されて、その1つであるノイシュヴァンシュタイン城は、ディズニーランドの眠れる森の美女の城のモデルにもなったとされるお城です。この眠れる森の美女の城をモデルにシンデレラ城ができたかと思うと、ルートヴィヒ2世の存在は日本にも少なからず影響を与えていることになりますね(少々オーバーな表現ですが)。

 さて、今回の受験世界史における学習ポイントですが、残念ながら肝心の主人公であるルートヴィヒ2世はほとんど受験には登場しません。バイエルンという言葉が登場する時代は、オーストリア継承戦争(1740-48)の時にハプスブルク家領を継承を主張する(内容はこちらこちら)数ある諸侯の1人として登場します。"バイエルン公"として記載されている受験用の用語集もあります。

 ただし、ルートヴィヒ2世が生きた時代はウィーン体制から帝政ドイツという受験範囲では激動の時代です(ただ、歴史的に見るドイツはいつの時代もずっと激動ですが)。神聖ローマ帝国→ライン同盟→ドイツ連邦→北ドイツ連邦→ドイツ帝国→ドイツ革命→ヴァイマル共和政(1919-33)→ナチスの流れはもちろん知っておきましょう。

【外部リンク】・・・wikipediaより

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