世界史の目-Vol.215-

越南国誕生

 18世紀後半のベトナム。当時は大越国(だいえつ。ダイベト。1054-1802)という国号で、李朝(リ。リー。1009-1225)の皇帝・李日尊(リー・ニャト・トン。聖宗。せいそう。位1054-72)時代の治世下でこの国号が使われた。李朝滅亡後、陳朝(ちん。チャン。1225-1400)、胡朝(こ。ホー。1400-07)と続き、途中に中国・朝(みん。1368-1644)の支配を受けるものの(その間、胡朝配下の政権"後陳朝"も存在。ごちん。1407-14,1427-28)、黎利(レ・ロイ。1385-1433。太祖。たいそ。位1428-33)が明の支配下から独立して黎朝(レ。レー。1428-1527,1532-1789。"後黎朝"とも。ごれい)を開いた。また大越国は首都を現在のハノイに置かれたが、李朝では昇竜(タンロン)、黎朝では東京トンキン)と呼ばれた。

 黎朝は1527年に一度滅び、莫氏(マク)の王朝である莫朝(ばく。マク。1527-1677)が興った。しかし反対勢力も根強く、親黎派で黎朝時代の家臣だった阮淦(グェン・キム。1468-1545)は黎氏の再興を果たし、現在のラオスにもかかる領域を勢力に、黎朝を再び開始させた(1532)。しかし黎氏の政権というよりは、阮淦による政権であり、黎朝皇帝に実権はなく、あくまでも莫朝の対抗勢力として擁立したに過ぎなかった。しかし黎朝の再興により、莫朝の勢力は徐々に弱体と化した。

 阮淦の娘婿は鄭検(チン・キェン。1503-1570)という強力な武将で、彼も黎朝に仕えた軍臣である。阮淦は1545年に莫朝の軍人により殺されたが、鄭検が後を継いだ。鄭検は黎朝の実権を掌握したが、これと同時に阮淦の勢力も鄭検の支配下におくことを決め、これに抵抗する阮淦の一族の粛清に取りかかった。長男は殺害され、次男の阮潢(グェン・ホアン。1525-1613)はベトナム中南部に追放された。阮潢は1533年ベトナム中南部の順化フエ。トゥアンホア)を拠点において、広南王国(クァンナム。こうなん。1533-1777)を建国し、広南阮氏の政権が誕生した。鄭検は1570年に死去し長男が継承後、将軍で次男の鄭松(チン・トゥン。1550-1623)が長男の後を継いで、1592年に莫朝が支配する東京(トンキン。ハノイ)を攻略、奪還した。鄭氏はトンキンを首都とする東京王国(トンキン。1545-1786。狭義1592-1786)の建設に至った。こうして東京鄭氏政権(東京王国。1545-1786)と順化(フエ)を拠点とする広南阮氏政権(広南王国。1533-1777)の二大政権がベトナムを二分し内戦が勃発した。これがベトナムの南北朝時代である(ベトナムの南北朝時代を、北の莫朝と、南の阮淦・鄭検・阮潢といった反莫親黎勢力が興亡を展開した1533年から1592年までの時代ととらえる場合もある)。
 ハノイを奪われた莫朝は事実上滅亡となり、北東部の地方政権(現在のカオバン省)と追いやられた後、完全消滅した(1677)。

 黎朝は莫朝の滅亡によりその存在は維持されたが、鄭氏によって黎朝皇帝はますます傀儡と化した。鄭氏は黎朝皇帝権を盾に権力を強めて阮氏や莫朝の残党を相手に攻撃を加えていった。一方広南王国では、阮潢が1613年に没すると、六男の阮福源(グェン・フックグェン。1563-1635)が阮氏当主を継いだ。鄭阮戦争が続く中、阮福源は長城を築いて長きにわたって抗戦、鄭氏東京王国から首都順化(フエ)を守りきった。その後、鄭阮両氏の長期内戦は膠着状態に陥り、その後休戦した。

 18世紀後半になり、広南王国8代当主、阮福濶(グェン・フックコアット。位1738-65)が即位すると悪政をはじめ、カンボジア侵攻を初めとする軍費乱用により国民に重税を強制する一方、国王自身は女や酒など奢侈に耽り、人心が徐々に失われていった。9代目当主、阮福淳(グェン・フック・トン。位1765-75)の治世になっても、摂政の張福巒(?-1776。チョン・フック・ロアン)は当主が成人に達していないことを利用して重税による圧政を敷いたため、国内はさらに混乱を増し、国民の不満は頂点に達した。
 しかも1769年にタイのトンブリー朝(1767-82。トンブリーとはバンコクのチャオプラヤ川対岸)を始めた国王タークシン(位1767-82)の侵攻が起こり、また天災なども重なって広南王国は疲弊し、版図も縮小していった。このため、支配区域すべてを含む王国全土になお一層高圧的な行政を敷くようになり、広南阮氏支配下であるベトナム中部の帰仁クィニョン。現ビンディン省の省都)出身の阮文岳(グェン・ヴァン・ニャク。?-1793))・阮文恵(グェン・ヴァン・フェ。1753-92)・阮文侶(グェン・ヴァン・ルー。阮文呂とも。1754-83)の3兄弟(阮姓だが、広南阮氏とは無縁)が西山(タイソン)村で西山党(タイソンとう)を結成し、1771年に広南王国に対して武装蜂起した(西山党の乱)。西山阮氏3兄弟の勢いに圧倒された広南阮氏への反抗はたちまち各地に飛び火し、その規模が拡大した。西山党は黎朝を操る東京鄭氏の配下に入り、広南阮氏追討に邁進した。

 広南王国の王・阮福淳はこの事態を打開できないでいた。これを機に鄭氏の東京王・鄭森(チン・サン。位1767-82)は1774年、広南王国への侵攻に出てその首都順化(フエ)を攻め落とし、翌1775年、阮福淳は退位した。追い詰められた広南王国は、順化(フエ)を捨てて南部の平順(ビントゥアン。現ビントゥアン省)に逃れ、王位を甥の阮福晹(グェン・フックズオン。位1775-77)に譲位させて立て直しを図ったが、翌々1777年、彼らを追って南下してきた西山党によって、南部の嘉定(ザーディン。現ホーチミン市)にいた阮福淳、阮福晹ら王族やその家臣を次々と殺害して広南阮氏を没落させ、ついに広南王国は滅んだ(広南王国の滅亡1777)。

 西山党の活躍で黎朝の権力を握っていた東京鄭氏の勝利となり、ベトナム南北朝時代が終わった。これにて東京鄭氏による南北統一で安定に向かうと思われたが、広南阮氏討伐で活躍した西山党は拠点の帰仁(クィニョン)で鄭氏に逆心、西山阮氏の阮文岳を初代王(位1778-93)とする西山朝(タイソンちょう。1778-1802)を開いたため、相手は違うが南北対立は依然として続いた。また鄭氏の中でも鄭森没後に内紛が勃発して勢力に翳りが見えると、1786年、西山阮氏の東京鄭氏討伐に向けて北進してまず富春(フースアン。フエのこと。順化から改名)を攻略、ついで東京(トンキン。ハノイ)に進み鄭氏を滅ぼした(東京王国の滅亡1786)。西山朝の阮文恵は兄の阮文岳を帰仁(クィニョン)政権として維持させたまま、阮文恵自身も富春(フエ)で王位に就いた(位1788-92)。また3兄弟の残り阮文侶も嘉定(ホーチミン)を支配した。こうして西山朝は分割統治を行うようになった(実際は兄弟内の対立があったため鼎立したと考えられる)。

 西山朝の勢いはこのまま黎朝にも迫った。1788年、黎朝は西山朝と激突、中国・朝(しん。1616-1912)の援軍を得た黎軍であったが、結果的には西山軍に圧倒され敗北、東京(トンキン、ハノイ)は陥落、ついに黎朝は滅亡した(1789黎朝滅亡)。こうして、広南阮氏、東京鄭氏、黎朝大越国の3大勢力すべてが消滅し、西山朝が大越国の国号を使用した(西山朝大越国。1788?/1789?-1802)。なお、大越国皇帝は阮文恵が即位し(帝位1788?/1789?-92)、阮文恵没後は子の阮光纉(グェン・クアン・トアン。1783-1802)が皇帝に即位するとともに(帝位1792-1802)、富春(フエ)政権も引き継いだ(位1792-1802)。一方帰仁(クィニョン)政権では阮文岳没後、子の阮文宝(グェン・ヴァン・バオ。位1793-1798)が後を継いだ。

 ただ、大越国を名乗った西山朝にも不覚があった。それは広南阮氏からただ一人生き残った男がいたことであった。その男とは広南王国滅亡後にタイに亡命した男で、名を阮福暎(阮福映。げんふくえい。グェン・フォック・アイン。1762-1820)といった。広南王国滅亡した1777年当時、タイはトンブリー王朝であったが、タークシン王の暴政のため衰退していたものの、阮福暎は亡命先のこの地で生きのびていた。また同じ頃に阮福暎はフランス人のカトリック宣教師であるピニョー=ド=ベーヌ(1741-99)と出会い、彼から積極的な支援を受けていた。結局トンブリー朝はタークシン王の処刑で一代限りで消滅し(1782)、タークシン王の武将だったチャオプラヤー=チャクリ(1737-1809)が国王ラーマ1世(位1782-1809)としてチャクリ朝バンコク朝ラタナコーシン朝とも。1802-現在)を創始したが、阮福暎と同様に西山朝打倒に燃えるチャクリ朝は、阮福暎を指揮官に軍を編制、1784年、嘉定(ホーチミン)に侵入し、ベトナム最南部の水路で阮福暎が指揮するタイ軍と、阮文恵が指揮する西山軍の激戦が展開した(1785.1)。
 この頃は西山朝の勢力が活発で、阮福暎による西山朝打倒はならなかった。しかし今度はピニョーによるフランス人傭兵の援軍で1789年、再度西山朝への攻撃を開始した。この頃になると西山朝は前述による分割統治が始まった時期であり、団結力が弱まっていたため、阮文恵は再度団結を呼びかけたものの、嘉定(ホーチミン)や富春(フエ)、帰仁(クィニョン)を次々に失っていった。
 しかしこの間に阮福暎側においても、ピニョーが帰仁での攻防の最中に捕らえられ、伝染病にかかり病没した。こうした不運があったが阮福暎はその後も戦力を維持し、戦い続けた。西山朝が阮光纉政権となっても激しい攻防は長期にわたって繰り返され、その結果、最後の拠点である東京(トンキン。ハノイ)も1802年に攻め落とされ、阮光纉も殺害されて西山朝は滅亡、西山阮氏の政権は終わった(西山朝滅亡。1802)。

 1802年阮福暎によって西山朝は滅び、ベトナム全土は広南阮氏による広南王国の再興となった。しかし阮福暎は広南王国の呼称を使用せず、阮朝(グェンちょう。1802-1945)を称した。首都は富春(フエ)に置かれ、そして、東京(トンキン。ハノイ)は古名である昇竜を少し修正し"昇隆"とした。そこで、阮福暎が阮朝で初めて使用した年号はベトナム北部の"昇隆"とベトナム南部の嘉定(ホーチミン)を結ぶ統一国家を意味する"嘉隆(ザーロン)"であった。そして大越国にかわる新しい国号"越南国(えつなんこく)"の建国を宣言、阮福暎は嘉隆帝(ザーロンてい。帝位1802-1820)として初代皇帝に即位した。そして、1804年に清朝の嘉慶帝(かけいてい。仁宗。じんそう。帝位1796-1820)より越南国王として封ぜられたのを機に、ベトナム国号"越南国"が承認され、ここに"阮朝越南国(1802-1887)"が誕生した。

 阮朝越南国は清朝の朝貢国として、清朝の冊封(さくほう。中国と君臣関係を結ぶこと)を受けた形ではあったが、嘉隆帝は旧来の法典を廃棄して、清朝式の法典『皇越律例(こうえつりつれい)』を定めて、清朝にならった行政を採用し、国内の諸改革を次々と実施した。また道路や運河などの建設を積極的に進め、自身を助けてくれたピニョーへの謝意から、フランス人への優遇策も施した。こうして統一国家としての国力は安定していった。

 嘉隆帝が残した城郭などの建築物や皇帝陵は世界遺産に登録されている。 


 久々にベトナム史でした。阮福暎が登場する時期は少々複雑ですが、自身が学生時代から関心があった分、ようやくここでご紹介することができました。受験世界史では"李→陳→黎→阮(リチンレイゲン)"の順で覚える必要があるこの単元ですが、黎朝と阮朝との間に登場した西山朝も実は重要なんです。

 それではさっそく今回の受験世界史の学習ポイントを見てまいりましょう。黎朝(大越国)は黎利が創始した王朝です。首都は現在のハノイで、李朝では昇竜(タンロン)、黎朝では東京(トンキン)と呼ばれました。ハノイはベトナムの北部の都市です。知っておく必要がありますね。また、マイナーなところでこの前後の王朝である、陳朝滅亡後におこった短期王朝の胡朝や、黎朝が16世紀一時的に滅んだあとにできた莫朝(莫氏)などが本編でも登場しました。これらはかつての用語集には登場していたこともありましたが、新課程では削除されており、受験用語ではなくなったみたいですね。

 後期の黎朝を操り、トンキン(ハノイ)を拠点にした鄭氏とフエ("ユエ"の表記もあります)を拠点にした広南阮氏の南北分裂時代、そして広南阮氏の広南王国("クァンナム王国"の表記もあります)といった用語の頻度数は意外と大きいです。余裕があれば知っておいた方がよいでしょう。なおフエはベトナム中部です。

 そして西山党の反乱、西山阮氏、西山朝関連ですが、しっかりと用語集にも登場します。難関私大なら書かせる問題もあります。センター入試にも登場したことがあります。まず西山党の反乱の首謀者である西山阮氏3兄弟は、広南阮氏とは別の一族です。紛らわしいので注意して下さいね。西山阮氏3兄弟のうち阮文恵(グェン・ヴァン・フェ。1753-92)の名は、後世にも影響を及ぼしていて、たとえば、ホーチミン市(これはベトナム南部です)にある商業の主要路、グェンフェ通りの名は阮文恵から来ており、彼の別称である阮恵(グェン・フェ)から来ています。

 さて阮福暎ですが、彼は西山阮氏ではなく、広南阮氏の出身です。西山阮氏の西山朝を滅ぼして阮朝の創始した人物として必ず覚えましょう。またこの時彼を助けたフランス人宣教師のピニョーも覚えておきましょう。ちなみに越南国は阮朝が始まった1802年から、1885年の天津条約清仏戦争(1884-85)の講和条約)によって、越南国の宗主権を持っていた清朝がフランスに屈服し、1887年に誕生する仏領インドシナ連邦(1887-1945)となるまでのベトナムの国号です。

(注)UNICODEを対応していないブラウザでは、漢字によっては"?"の表示がされます。阮"潢"(グェン・ホアン→さんずいに"黄"の旧字体)、阮福"晹"(グェン・フックズオン。日へんに易)

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