世界史の目-Vol.22-

ムガル帝国の興亡

   中央アジアのイスラム王朝だったティムール帝国(1370~1507)は、首都サマルカンドが繁栄し、強豪オスマン帝国(1299~1922)の軍隊を敗ったこともある強力な国家だった。このティムール帝国の創始者ティムール(1336~1405。位1369~1405)の5代目の直系子孫で、母はチンギス=ハン(1167頃~1227)の血をひいているといわれているバーブル(1483~1530)は、ティムール帝国を滅ぼした遊牧民ウズベク族によって中央アジアを追われ(1504)、アフガニスタンのカーブルに入って、ここを占領(1504)、そして次にインドに入るためインダス川を渡った(1519)。当時パンジャーブ地方はデリー=スルタン5王朝の最後ロディー朝アフガン系。1451~1526)があったため、侵入をはね返されたが、1525年にロディー朝に内紛がおこり、これに乗じたバーブル軍は再度パンジャーブに侵入してロディー朝の軍隊を粉砕(1526。パーニーパットの戦い)、ロディー朝を滅ぼしてデリーとアグラ(デリーより南側)を占領し、初代皇帝として位についた(位1526~30)。そして、デリーで大帝国の基礎を築いたのである。これが、インドの統一イスラム国家・ムガル帝国1526~1858)である。

 バーブルは自伝『バーブル=ナーマ』をトルコ語で著すなど、軍事・行政のみならず、文筆業にも長けていた。しかし1530年、病気のためアグラで没し、長子のフマーユーン(1508~56)が後を継いだ(位1530~38,55~56)。

 フマーユーンは領土拡大策をねらって敵対勢力のいるベンガル地方に遠征したが(1539)、敵軍に敗れ、翌年にはデリーやアグラも陥れられ、いきなりムガル帝国の危機が訪れた。このため彼はイラン方面に逃れて、シーア派イスラム国家・サファヴィー朝(1501~1736)の保護をうけた。やがて同王朝の支援でデリーとアグラを奪還し、フマーユーンは(1555)皇帝に復位した。しかし皇帝は翌1556年、運悪く、階段からの転落事故で急死したので、急遽、子のアクバル(1542~1605)が13歳で即位した(位1556~1605。)。アクバルは、首都をデリーからアグラへ遷都(1558)後、1560年には実権を掌握した。そして1576年までには北インドだけでなく(北インド統一)、アフガニスタンやデカン高原にまで領土を広げた。経済面では貨幣統一を行って財政を安定させ、税制では面積に応じて地租を徴収、いわゆる検地を行い、税収を安定させた。政治・軍事面では州・県・郡にわける分割統治を行い、軍隊を編成して強い中央集権体制を作っていった。アブル=ファズル(1551~1602)といった有能な廷臣に恵まれ、アクバルは"大帝"の名をほしいままにしたのである。ちなみに、『アクバル=ナーマ』はアブル=ファズルが著したアクバル大帝の一代記である。

 アクバル大帝が即位した時は、帝国に従わない"古代クシャトリヤ階級の子孫"ともいうべき上層カースト、ラージプート族の諸国が勢力を維持していた。ラージプートはデカン高原地方を拠点とするヒンドゥー勢力であり、氏族的に結び付き、また古代からの伝統と慣習を強く守るため、帝国にはしばしば反抗した。このためアクバルは、ラージプート族の諸王と和解する策に出、1565年、これまで非イスラム教徒に課した人頭税(ジズヤ)を廃止し、ヒンドゥー教徒の王女と結婚し、ヒンドゥー教徒を要職につけるようにしたのである。宗教による懐柔策はさらに発展し、ゾロアスター教やキリスト教、さらにジャイナ教を取り入れた新しい宗教(ディーネ=イラーヒー。神聖宗教。1582)を始めたが、これは広まらなかった。

 アクバルの家庭では3人の男子が産まれたが、2人には先立たれて、残った長男サリーム(1569~1627)とは敵対するなど不遇だった。1602年には、サリームが反乱を起こして、部下に命じてアブル=ファズルを暗殺している。だがアクバルの臨終の時にようやくサリーム皇子と和解して、彼に第4代皇帝ジャハーンギールとして譲位した(位1605~1627)。その後アクバルはアグラで没した。

 ジャハーンギール帝の治世は、華やかなムガル文化が開花した。というのも、治世の後半は絶世の美女とされたペルシア人美妃ヌール=ジャハーン(1577~1645)が国政を左右したからで、ペルシア風ミニアチュール(細密画)や宮廷画、動物画、肖像画などが発展した(ムガル絵画)。

 続く第5代ムガル皇帝として、ジャハーンギールの子シャー=ジャハーン(1592~1666)が即位した(位1628~1658)。デカン遠征後、隣国サファヴィー朝との国境カンダハールの奪い合い、または中央アジア遠征と、軍費を費やすものの、多くは失敗し、国家財政が危ぶまれた。しかし内政面で灌漑事業などをおこして軍費の負担を和らげるなど努力した。また、ジャハーンギール皇帝時代から発展したムガル文化は最盛期を迎えたが、一方でヒンドゥー寺院を破壊、イスラム教徒とヒンドゥー教徒との結婚を禁止するなどの徹底したイスラム政策を行ったため、異教徒からは嫌われた。1631年には愛妃ムムターズ=マハル(1595?~1631)を産褥熱(さんじょくねつ。出産の時、病原菌が体内に入って発熱をおこす病気)で亡くし、これが原因でその後の行政が乱れたが、一方で翌1632年から、アグラ郊外のジャムナー河畔に、彼女の墓廟の造営が開始され、1653年に完成させた。これがタージ=マハル廟(びょう)である。美しい白大理石のドームはムガル建築の最高傑作となった。治世の末年、首都をデリーに戻した後、4人の子が帝位継承で争い、1658年、第3子アウラングゼーブ(1618~1707)が、病気に倒れた父シャー=ジャハーンをアグラ城に幽閉して帝位を継いだ(位1658~1707)。シャー=ジャハーンは、幽閉以後、城内の一室の小窓から遠望される愛妃の廟を日々眺めながら、寂しく死んだといわれる。

 アウラングゼーブはまず財政面の改革に乗り出したが、彼は厳格なイスラム教スンナ派信者であり、シーア派とヒンドゥー教徒には寺院破壊などの弾圧を強行した。このため、これまでムガル帝国に異論ありつつも協力してきたラージプート族は反攻に転じて、1679年から80年にかけて反乱を起こした。これにより、アウラングゼーブ帝は、遂にシーア派とヒンドゥー教徒にジズヤを復活させた(ジズヤ復活。1679)。1681年には王子がラージプート族と手を結んで反攻を起こしたのを契機に大規模なデカン遠征を行い、治世の大半はこれに費やした。1689年頃には、帝国領土は最大となった。

 デカン地方にはラージプート族以外にも戦闘的なヒンドゥー教徒・マラーター族がおり、指導者シヴァージー(1627~80)はアウラングゼーブ軍と徹底抗戦を繰り返し、1674年にはシヴァージーを君主(位1674~80)とするマラーター王国(~1818)も建設、ムガル軍隊と対峙した。18世紀初め以降、王国は名目化したが、王国の宰相(ペーシュワー)がマラータ諸侯を集めて実権を掌握し、マラーター同盟(1708~1818)を結成、同じようにムガル軍と争っている。一方パンジャーブ地方には、16C初頭にナーナク(1469~1538)が開いたシク教の信者が、ムガル帝国の圧政に対して、教団の武装化を進めて軍事的結合力を強化し、やがて反乱を起こした。19Cにはシク王国(~1849)もおこしている。

 アウラングゼーブの改革は、領土最大化を実現させたものの、遠征による王室の長期不在、これによる宮廷浪費や北・中部インドの治安悪化、戦費散財による財政危機などにより、帝国の衰退が始まった。官僚には俸給にかえて土地徴税権を与え、徴税請負を再開した。治世の末年には皇帝の権威も失い、晩年は首都デリーの安定をはかるため、帝はデリーを離れ、別地で没した。アウラングゼーブ死後、帝位継承による王室内紛、ヒンドゥー教徒の反発は繰り返し起こされ、帝国弱体化が進行した。それに付け加えて、ベンガル州(ガンジス下流域一帯)の太守(ベンガル太守。ベンガル州の長官の意)などをはじめ、多くの諸侯が帝国から離反し、独立を始めた。これによりムガル帝国は解体が進行し、デリー周辺のみの小国家になりさがり、その存在は名目化した。

 18世紀、インドはイギリス(東インド会社)とフランスの植民地戦争の渦に巻き込まれた。1757年にはカルカッタ北で、イギリス東インド会社書記クライヴ(1725~74)率いる軍隊が、フランス・ベンガル太守連合軍を撃破(プラッシーの戦い)、フランス撤退後、イギリスはベンガルに踏み込んでインド支配の基礎を固め、独占的にインド経営に乗り出した。その後、イギリスはベンガル・ビハール・オリッサ各州の司法権・徴税権ディワーニ)を獲得し(1765)、マラーター同盟やシク教徒を軍事行動で押さえつけるなど、植民地化は促進した。東インド会社は、インド人に課した重税を徴収し、本国との貿易も、東インド会社の独占的支配となっていった。

 しかし、本国イギリスにおける産業革命の影響で、本国から自由貿易の要求が高まり、1813年、イギリス議会は、東インド会社のインド貿易独占権を廃止することを決め、1833年には同社の商業活動を全面停止にさせた。よってイギリス東インド会社はインド統治機関のみ機能する組織となった。

 この決定が、インドを混乱に陥れる原因となった。インドの最も重要な産業である手織りの上質綿布はイギリスにはわたらず、逆にイギリスで簡単に機械で織られた安価な綿布がインド市場にまわってきたのである。製品ではなく原料の綿花をイギリスへ輸出する形となり、インド産の綿業は大打撃、町には失業者であふれた。この状態の中でもイギリスは屈辱的な制度を次々と導入した。まず1つに、ベンガル・ビハール・オリッサ地方で、納税義務を負う旧来のザミンダール(地主や領主)に土地所有権を与えるザミンダーリー制の実施である。この制度で農民は地主から土地占有権を取り上げられた形となるわけで、結果小作人になり下がった。もう1つは、南インド地方では農民(ライヤット)に土地所有権を与え、同時に直接地税を徴収させるというライヤットワーリー制の導入である。ザミンダーリー制とは違い、地主を完全抹消した農民の直接支配制度で、これにより旧地主の没落がおこった。こうしてイギリスのインド植民地支配は、旧来のインドの伝統社会まで崩す形となり、インド人の反英感情が高まった。

 東インド会社は、植民地支配をスムーズに進めるため、インド人を傭兵として雇用、部隊を編成させ、対立者と戦わせてインド支配を続行した。このインド人傭兵(シパーヒーセポイ)は、イスラム・ヒンドゥー、またはカーストも関係なく集められ、白人の将兵と比べて安い賃金で、待遇も悪く、イギリス支配に対する強い不平があった。1857年5月10日、メーラト(デリー北東)に駐屯していたシパーヒー部隊は、新導入のライフル銃に使用される弾薬包に牛と豚の油脂が塗られているという噂を聞きつけた。シパーヒー部隊は、この行為がインドの宗教・慣習を無視したとして大反乱を起こし(シパーヒーセポイの反乱インド大反乱)、部隊はデリーにむかい、ここを占領(デリー占領)、既に有名無実と化していたムガル帝国の皇帝バハードゥル=シャー2世(位1837~1858)を、反乱の最高指導者として擁立し、シパーヒーのデリー政権として発足させた。

 これに呼応するかのごとく、イギリスに不平を抱いていた他のシパーヒーや、旧王侯、旧地主、農民、都市住民らが、宗教・階級の枠を越えて一斉に蜂起し、北部インド、デカン地方は混乱となった。しかし、バハードゥル=シャー2世は、反乱軍を円滑に統一できず、結局イギリスの猛反撃にあい、9月にはデリーが奪還され、1859年には鎮圧された。バハードゥル=シャー2世は鎮圧完了するまでに廃位となり(1858)、反逆罪としてビルマ(現・ミャンマー)に流され、ラングーン(現・ヤンゴン。首都)で没した。これにより、ムガル帝国は名実ともに滅亡、東インド会社も反乱の責任を背負い解散(東インド会社解散1858)、イギリス本国政府による直接統治となっていく。

 話の前半はムガル帝国の隆盛を中心に、後半はイギリスの植民地政策によるインド支配を中心に進めました。ムガル帝国の代表的建築物といえば、やはり本編でも登場したタージ=マハル廟でしょう。実物をナマで見たことはないですが、写真やテレビで見る限り、完璧な構築美ですね。どの角度から見ても素晴らしいです。

 さて、今回の学習ポイントを。まず地名から。ムガル帝国はデリーアグラが舞台です。この地名は知っておきましょう。他にも、ベンガル、デカン、インダス川とガンジス川の位置も知っておくと便利です。それと、本編には登場しませんでしたが、17世紀、イギリス東インド会社は、インドのマドラス・ボンベイ・カルカッタの3拠点を、フランス東インド会社もマドラス寄りのポンディシェリ・カルカッタ寄りのシャンデルナゴルの2拠点を、それぞれ植民地としてインド経営を行っています。計5つの場所もあわせて覚えておきましょう。余談ですが、カルカッタは、ヴァスコ=ダ=ガマがインド洋を横断して到着した港市カリカットとは全く別の港市ですので要注意です。

 皇帝ですが、バーブル・アクバル・アウラングゼーブの3人は受験には必須人物とされています。それぞれ何をした人かは覚えておきましょう。まずバーブルはロディー朝を滅ぼし、デリーに首都を置いて帝国建設。ちなみにロディー朝はデリーを拠点として13世紀初頭から興亡したデリー=スルタン5王朝時代最後の国で、奴隷王朝(創始者アイバク)→ハルジー朝トゥグルク朝サイイド朝ロディー朝と続きます。最初の4王朝はトルコ系で、ロディー朝はアフガン系であることも重要です。続いてアクバルは、北インド統一、アグラ遷都、ジズヤ廃止。アクバルはイギリスのエリザベス1世と同時代の人で、エリザベス1世の時に東インド会社が設立されてます(1600)。アウラングゼーブで覚えることは、スンナ派信者であること、帝国領土最大、ジズヤ復活などが主な重要項目でしょう。

 ムガル文化では、タージ=マハル廟以外にもいろいろありますが、それらの中で、言語の発達があります。本編では登場しませんでしたが、北インドの口語にトルコ語やペルシア語を融合したウルドゥー語です。ウルドゥー語はアラビア文字で書かれて、文学も発展しました。たとえば"シパーヒー"はウルドゥー語で、「兵士」を意味します("セポイ"は英語で訛ったもの)。ウルドゥー語は現在のパキスタンの国語です。

 ちなみにサファヴィー朝が登場しましたが、このイスラム王朝も重要ですのでポイントを幾つか紹介しましょう。この王朝の王の称号は"シャー"といいます。初代シャーはイスマーイール1世(位1501~24)で、第5代アッバース1世(位1587~1629)の時代が最盛期です。国境はシーア派イスラム教、最盛期の首都はイスファハーンです。太字は受験用語で、よく出題されます。

 さて、ムガル帝国が縮小して、後半はイギリス東インド会社が動き出しましたが、ここで大事なのは、東インド会社が、ムガル帝国以外の国家・組織・連合にも目を向けて、支配しているということ。マラーター同盟に対しては、1775年から始まった3次にわたるマラーター戦争(1775~82,1802~05,1817~18)で同盟を潰し、南インドでは、強力な地方政権マイソール王国マイソール戦争(1767~69,1780~84,1790~92,1799)に勝ってこれを従属させて、シク教徒が建国したシク王国に関してはシク戦争(1845~46,48~49)によって抑え付けて、1849年、パンジャーブ地方を併合しています。このマラーター戦争、マイソール戦争、シク戦争は大事ですよ。あと、シパーヒーの反乱の勃発年、1857年は"いやこセポイですみません"と無理矢理に覚えました。

 ムガル帝国滅亡後、イギリス本国政府は東インド会社を解散させて(1858)、本国政府が直接統治する形となりました。1877年、インド皇帝として、イギリスのヴィクトリア女王(位1837~1901)が兼任して、インド帝国を成立させました。

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