世界史の目-Vol.220-

中世最後の騎士・その2

~悲しい即位~

~その1・運命の戦い~はこちら

 神聖ローマ帝国962-1806)の皇帝フリードリヒ3世(帝位1452-93)の治世、長男の王子マクシミリアン(愛称マックス。1459-1519。ブルゴーニュ公位1477-82)の活躍で強国ブルゴーニュ公国(1031-1477)の遺領をフランスと分割したハプスブルク家は、拠点であるオーストリア(大)公国(1278-1918)から領土を拡大させる第一歩を踏んだ(1477)。実際にハプスブルク家が獲得した旧ブルゴーニュ公国領はネーデルラント(ブルゴーニュ公領ネーデルラント。現オランダ・ベルギー・ルクセンブルク)やフランシュ=コンテ(現在のフランス東部、スイス国境)などであったが、これらを含めた旧ブルゴーニュ公国の所領をめぐって、その後もフランス・ヴァロワ家とオーストリア・ハプスブルク家との間で争奪戦が展開していった。

 1477年、ブルゴーニュ公シャルル突進公(公位1467-77)の娘マリア(1457-82)と結婚したマクシミリアン王子は、政略結婚でありながらもマリア姫をこよなく愛し、よく2人で外出した。王子が行くところには、必ず姫がいた。2人は共に乗馬が趣味であり特技であったため、フランドル地方を愛馬で駆けめぐり、アントウェルペン(アントワープ)やヘント(ガン)の大都市をよく訪れた。またアムステルダムやユトレヒトなどのネーデルラント諸都市にも歴訪して当地の大富豪から庶民まで親睦を深めた。
 また鷹狩り(鷹を使って鳥や動物を捕らえる)など狩猟や読書も共通の嗜好であった。外で思い切り狩猟を楽しんだあとは、部屋でじっくりと『アーサー王物語』など中世の騎士道物語を読んだ。出会ったときはお互いの母語を理解できなかったため、ラテン語で会話していたが、そのうちに姫はフラマン語やフランス語、王子はドイツ語をお互いに教え合った。また王子は各地を訪問するため多言語を学び現地の住民と現地語で話すことで王子の信任は揺るぎないものとなった。

 マクシミリアン王子にとっては、片田舎のオーストリアと比べて大国だったブルゴーニュは夢のような世界であり、それは食べ物、衣服、習慣といった文化面だけではなく、経済・社会・政治面でもオーストリアを超えていた。例えば、ネーデルラントのブリュッセル(現ベルギーの首都)では複式簿記が発達し、税制がしっかりと確立されていた。またオーストリアに比べて治安が良く、裁判所など司法機能も充実していた。ブルゴーニュの官公庁も整備されており、国力の差を見せつけられた形となった。

 マリア姫は結婚して1年も経たない内に長男を出産した。待望の長男誕生で国内は歓喜に湧いた。愛児の名は曾祖父(フィリップ=ル=ボン。ブルゴーニュ公フィリップ。公位1419-67。善良公)の名をとりフィリップ(1478-1506)と名付けられた。フィリップ善良公の時代は騎士道文化の最盛期といわれ、金羊毛騎士団(きんようもうきしだん)と言われる騎士道の模範とされた世俗騎士団が結成されたのは善良公の時代であった。またファン=アイク兄弟(兄フーベルト1366?-1426。弟ヤン1380?/95?-1441)などフランドル派の画家が活躍したのもこの頃である。それだけに長男フィリップの誕生はこの上ない喜びであった。さらにマリア姫は2年後に長女マルグリット(1480-1530)を出産した(1481年出産の次男は夭折)。

 このままマクシミリアン王子とマリア姫の、誰もが羨む仲睦まじい夫婦生活が今後も続くと思われていたが、結婚して5年目の1482年3月、悪夢が襲った。懐妊中のマリア姫は周囲の反対を押し切って王子の鷹狩りに随行しようと、愛馬に乗って出発した。愛馬で疾走中、1羽の白鷺がマリア姫めがけて飛んで来たため、この時マリアの腕に乗っていた愛用の鷹を放そうとしたとき、馬がつまずいた。バランスを崩したマリア姫は投げ出されて溝に落下し、その上につまずいた馬が倒れて下敷きになった。マリアは流産した上に肋骨を折る大けがを負い、ブルージュ(現ベルギー。北西部。"ブルッヘ"とも)に運び込まれた。3週間後の3月24日、"子のフィリップとマルグリットを遺産の相続者と定め、夫マクシミリアンを子どもたちの後見人に指定し、フィリップが15歳(当時の成年の年齢)に達するまで旧ブルゴーニュ公国領の統治を委託して下さい"と遺書を残し、その3日後、金羊毛騎士団たちを臨終の床に呼び、彼らに協力して子どもたちを守り、夫マクシミリアンに忠誠をつくすように切に頼み、同日夜、永眠した(マリア姫死去。1482.3.27)。亡骸はブルージュの教会に埋葬された。

 悲嘆に暮れるマクシミリアン王子はマリアの遺書に従い、4歳の長子フィリップをブルゴーニュ公フィリップ4世として公位につかせ(公位1482-1506。フィリップ=ル=ボー。美公。端麗公)、マクシミリアンは退位してフィリップ美公の摂政(任1482-94)となった。
 マリア姫の死はマクシミリアン王子にさらに苦境に立たせた。彼のブルゴーニュ公としての地位はあくまでもマリア姫の父がシャルル突進公であったからで、姫亡き今、ヴァロワ=ブルゴーニュ家の男系が断絶したブルゴーニュでは、マリア姫の死によるハプスブルク家の単独統治はブルゴーニュ、とりわけネーデルラント諸都市民からは不安視され、マリア姫が埋葬されたブルージュや、ガンなどフランドル地方の諸都市では徐々にマクシミリアンの単独体制に不信感を募らせた。姫を亡くし、不幸のどん底に突き落とされた王子に対して、姫がいたからこそ王子がいたと考える諸市民は、ハプスブルク家単独の公位存続の不要をうったえた。ブルゴーニュの公位はマリア姫までのものであり、マクシミリアンはよそ者扱いとされたのである。
 その後、反ハプスブルクを掲げる暴動がネーデルラントの諸都市で発生した。故マリア姫の血の通ったフィリップ美公を錦の御旗として護衛し、マクシミリアンは逆賊として追放しようとしていた。実はこうしたブルゴーニュの不安情勢には、領土をすべて獲得したがっているフランスの煽動が大きく関わり、マクシミリアンへのネガティブ・キャンペーンはますます展開された。マクシミリアンは父フリードリヒ3世に派兵を依頼して、必死に耐えながら諸都市を抑えていった。

 さらに不幸は続いた。マクシミリアンの権力が低下する中で、ブルゴーニュの親仏派貴族とフランス・ヴァロワ朝(1328-1589)のルイ11世(位1461-83)が密約をおこし、ルイ11世の王子シャルル(1470-98。のちの温厚王シャルル8世。位1483-98)とマリア姫の娘マルグリットを婚約させることを決めた(1482末)。マルグリットはマクシミリアンの娘でもあり、妻を亡くしたマクシミリアンはあろうことか敵国ヴァロワ朝フランスの王子に自身の愛娘を預けることになるのであった。1483年、マルグリットは半ば拉致された状態でフランスへ連行され、ルイ11世の居城であるアンボワーズ城に住むことになるが、同年ルイ11世が死去し、シャルル王子がシャルル8世として即位した。しかし国政を任せる年齢に至っていなかったため姉夫婦が摂政を務め、マルグリットはすぐさま王妃となった。これにより、シャルル8世はフランシュ=コンテやネーデルラントなどを獲得する権限が生まれた。

 ハプスブルク家への重圧は家領オーストリアにも襲った。マクシミリアンがネーデルラント制圧に乗り出していた頃、ハンガリー王かつベーメン王のマーチャーシュ1世(ハンガリー王位1458-90。ベーメン王位1469-90)がトルコ系の軍隊を率いてオーストリアのウィーンに侵攻しこれを陥落させ、オーストリア大公マティアス=コルヴィヌスとして大公位についたのである(大公位1485-90。実質的にはウィーン陥落の1479年に大公を名乗る)。ハンガリー王国(1000?-1946)の中世における全盛期を現出したマーチャーシュ1世は、一時的にせよウィーンを陥落させただけでなく、セルビアやシュレジェン、モラヴィアなど東方諸域を次々と陥れ、東欧世界に脅威をもたらした。
 ハンガリーの襲来に神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世は怖じ気づき、国民を放置してウィーンを離れ、ドナウ上流のリンツに移った。しかし1490年にマーチャーシュ1世が没し、ハンガリー軍による包囲は解かれ、皇帝もウィーンに舞い戻った。

 一時的ながらオーストリアを征服したマーチャーシュ1世は神聖ローマ皇帝の位も狙っていたとされているが、運良く征服者の死によって完全支配は免れたものの、外敵の侵入に対処できなかった神聖ローマ皇帝がこの状態であるため、フリードリヒ3世が没するまでにドイツ王の選出が必要となった。こうした状況から、1486年、マクシミリアン王子はマクシミリアン1世として、ドイツ王に選出されることになった(王位1486-1519。正確には"ローマ王"で、"ローマ皇帝"としてはまだ戴冠していない状態。神聖ローマ皇帝位の次期継承者となる)。マクシミリアン王子にとって、愛する家族の不幸と別れ、オーストリア混乱と、心の整理がつかない中での即位であった。しかし彼は、反マクシミリアンを展開しているネーデルラントを制圧して同地でのハプスブルク家としての権威を回復し、ブルゴーニュ統治は息子のフィリップ美公に任せて、遂にブルゴーニュ領を離れることとなる。

 青春時代に過ごしたブルゴーニュで多くの知識を積む一方、最愛の女性との辛い死別を経験したマクシミリアン1世は、ドイツ王として本領を発揮することとなる。 


 今回は、マクシミリアン1世がドイツ国王に選出されるまでの経緯をご紹介しました。ついに最愛のマリア姫が不慮の事故で亡くなってしまいます。しかも姫が亡くなったことで、旧ブルゴーニュ公領であるネーデルラントでは、マクシミリアン王子不要の声が上がります。彼は辛い中、懸命に耐えてネーデルラントを制圧していきます。その中で、最愛の娘マルグリットをフランスに嫁がされるという悲劇も味わいますが、一連のマクシミリアンを転落させる出来事は、すべて大敵フランス・ヴァロワ家の差し金です。ブルゴーニュ公国の争奪戦でここまでくるかと思うと、非常に陰湿でねちっこいです。でも、さすがマクシミリアン、"中世最後の騎士"といわれるゆえんです。騎士精神に満ちていました。苦境に堪えながら勇猛果敢に戦い抜きました。一方で父親のフリードリヒ3世、非常に弱いです。ハンガリーの来襲ですぐさまウィーンを出てしまいます。

 では、今回の受験世界史における学習ポイントですが、ここでもあまりメジャー級の項目は出てきておりません。ただ、難関私大に登場する項目としては、本編で一番目立つのがハンガリー王マーチャーシュ1世です。頻度数は少ないながらも、用語集にはしっかり載っています。彼の統治するハンガリー王国ですが、世界史受験生なら必修項目として知っておかなければなりません。ドナウ川中流域のパンノニアといわれる、現在のハンガリー盆地一帯に王国が築かれます。もともとパンノニアはフン族の拠点として始まり(5世紀)、9世紀にはマジャール人が定住しました。このマジャール人こそ、ハンガリー王国の建国民族です。そのハンガリー王国の版図を拡大させて、中世の全盛期を現出した王がマーチャーシュ1世です。マーチャーシュ1世はハンガリー=ルネサンスを開花させた人物としても有名です。ちなみにハンガリー王国はその後ハンガリー王ラヨシュ2世(位1516-26)がオスマン帝国(1281-1922)のスレイマン1世(スルタン位1520-66)にモハーチでの戦いに敗れ(1526。実はこの戦いで敗れたラヨシュ2世は次回にも登場します。位1516-26)、オスマン領となりますが、オスマン帝国が始めてヨーロッパ国家に領土を割譲することになった1699年のカルロヴィッツ条約において、ハンガリーはオーストリア=ハプスブルク家領となります。

 さて、王となったマクシミリアン1世、彼の治世はいかなるものに!続きは次回にて。

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