世界史の目-Vol.224-

光輝と知恵・その2
ローマ皇帝とアラリック1世

その1・激動の4世紀はこちら

 ローマ帝国(B.C.27-A.D.395)が分裂する前の最後の統一皇帝、テオドシウス1世(位379-395)の治世。ローマ帝国は東西分割統治を行っていたが、テオドシウス帝は東帝として統治するため、当時西帝であったグラティアヌス(位367-383)と共同統治者ウァレンティニアヌス2世(位375-392)の兄弟の任命を受けて、379年に即位した皇帝であった。

 グラティアヌス西帝即位時、トラキアでの安住を強く望む西ゴート族(英語でVisigoth、ドイツ語でWestgoten)が族長フリティゲルン(?-380?)のもとで、ドナウ地方で激しく荒らし回っていた。この時ローマ帝国軍はゴート族の反乱軍とついに対峙し、378年のアドリアノープルの戦いによって、東帝に就いていたヴァレンス帝ウァレンス。位364-378)は戦死、ローマ帝国の軍隊は壊滅的打撃を受けた。その後のローマ帝国の軍事は弱体と化し、兵士不足の解消を求めて、ゲルマン諸族を軍隊に採り入れた傭兵制となった。テオドシウス東帝が信任するスティリコ将軍(365-408)も父親がヴァンダル族出身であった(母はローマ人)。

 西ゴート族との対応に迫られていたテオドシウス東帝はまず380年のキリスト教国教化勅令を発して帝国内でのキリスト教の信仰強制を命じた。そして382年には、自国の軍制整備、戦後疲弊した国力の回復、そして、西ゴート族と争うよりも対立緩和の方を選定することにより、西ゴート族を同盟軍としてトラキア定住を許可し、年金支給、免税特権などを付与した。軍制整備にかけては、これまでの徴兵制のようにローマ人兵士を駆け出しからじっくり育てて強力にするよりも、即戦力となるゲルマン兵士を安い人件費で編制する傭兵制を採り入れ、人口減少が進むローマ帝国には得策であったといえる。これにより、ローマ人は武官より文官へ流れていくようになったため、上位武官にはゲルマン出身の軍人が任じられるようになっていった。

 4世紀末期のローマ帝国は激しい内戦状態であった。383年、ブリタニアの軍司令官だったマグヌス=マクシムス(335?-388)が軍事クーデタをおこしてガリアに侵攻、西帝グラティアヌス帝を死に追いやった。この時マクシムスは自身を西帝として僭称した(せんしょう。西帝位383-384)。当時西帝として兄と共同統治を行っていた10代半ばのウァレンティニアヌス2世はテオドシウス東帝に助けを求めたことで、テオドシウス東帝はローマ正規軍と西ゴート同盟軍を出陣させ、388年マクシムスを破り(サウァ河畔の戦い)、ウァレンティニアヌス2世を西の帝位から守った。テオドシウス東帝は幼い西帝ウァレンティニアヌス2世を補佐するために、フランク族出身の軍司令官フラヴィウス=アルボガスト(?-394)を西帝に置いたが、後見を受けたはずのアルボガストは392年にその西帝ウァレンティニアヌス2世を殺害(自殺に追いやったとされる)、文法講師を務めていた文官エウゲニウスを西帝に即位させた(僭称。西帝位392-394)。ゲルマンの軍人がローマ人文官を支配し、国政を操る体制をつくったのである。
 このエウゲニウスは熱心なキリスト教信者であるテオドシウス東帝とは対照的に異教徒にも寛容であった。テオドシウス東帝は同392年にキリスト教国教化の一環で異教信仰厳禁を命じたが、当時の元老院においてもキリスト教国教化反対を主張する保守派貴族がおり、エウゲニウスは彼らに支持されていた。エウゲニウスと、彼を動かしているアルボガスト将軍を討つため、テオドシウス東帝は再度出陣、394年、フリジドゥス河畔(現イタリアとスロベニア国境付近)で西ゴート同盟軍を率いたテオドシウス側帝国軍と、エウゲニウス、アルボガストの軍が対峙した(フリジドゥスの戦い。394)。この戦いでローマ正規軍を率いたのがスティリコ将軍で、2万の西ゴート軍を率いたのが、西ゴート族の新しい族長、アラリック(360-410)であった。

 この戦争で西ゴート同盟軍とテオドシウス東帝軍の勝利がもたらされ、アルボガストは自殺、捕らえられたエウゲニウスは、自身が文官出身で軍隊経験が乏しいことを理由に、テオドシウス帝に命乞いをしたが果たせず処刑された。この戦役でスティリコはテオドシウス東帝に認められ、最高位の軍指揮官(マギステル=ミリトゥム)に任命された。そして、東帝テオドシウスはローマ帝国における東西の共同統治をやめ、ローマ帝国における最後の、単独統一皇帝・テオドシウス大帝(位394-395)として頂点に昇りつめた。

 しかし単独皇帝としての治世は短く、大帝は395年に死去、ローマ帝国は完全に東西分裂した。長男アルカディウス(377-408)を東ローマ帝国ビザンツ帝国。395-1453。首都コンスタンティノープル)の皇帝(東ローマ帝位395-408)として、次男ホノリウス(384-423)を西ローマ帝国(395-476。首都ミラノ。402年にラヴェンナ遷都)の皇帝(西ローマ帝位395-423)としてそれぞれ即位した。西ゴート族の定住するトラキア地方は、東ローマ帝国が統治することになった。しかし東ローマ帝国は、これまでの同盟関係にあった西ゴート族に対して態度を硬化させたことにより同盟は破棄され、アラリックが西ゴート王・アラリック1世(位395-410)として反ローマ活動を展開、東ローマ帝国への領土侵犯をおこした。東ローマ帝国のアルカディウス帝は、西ローマ帝国で軍を率いるスティリコ将軍に援護を依頼し、西ゴート王アラリック1世とミラノで戦った。その後西ゴート族はトラキアから西ローマ帝国の支配領域であるイタリア半島にまで行動範囲が及び、スティリコ将軍はアラリック1世と数度にわたって交戦することになった。しかしスティリコ将軍はアラリック1世を仕留めるまでには至らなかった。

 スティリコ将軍は、西ローマ皇帝であるホノリウス帝の後見人であり、ホノリウスが成人に達するまでは、西ローマ帝国の全権はスティリコ将軍にあった。しかし、西ゴート族を壊滅に追いやることができない将軍に対して、成人に達したホノリウス帝は、徐々にスティリコ将軍との関係が険悪になり、結果、スティリコ将軍は謀殺された(スティリコ死去。408)。西ローマ帝国の軍指揮官の死去はローマ軍の動揺をもたらし、これを隙にアラリック1世は都市ローマを進撃し、410年、3日間ではあるが一時的にローマを征服した。ゲルマン民族によるローマ略奪という未曾有の大事件であった。しかし西ゴート族のローマ籠城は限界となり、西ローマ側との話し合いの末、ローマを離れた(アラリックは同年死去)。その後ガリアを経て北アフリカ方面を目指し南フランス方面を移動、結局南フランスのトロサ(現トゥールーズ)を拠点とした西ゴート族は、415年、西ゴート族の王ワリア(位415-418)のもとで西ゴート王国(広義415-711)を建設することになるが、西ローマ皇帝ホノリウス帝によって王国として承認され、ローマ属州のガリア=アキタニア(現アキテーヌ地方に属する)を与えられた。この年は418年、名実ともに西ゴート王国の誕生となった(西ゴート王国誕生418)。

 ゲルマン民族による国家の誕生は、その後の西ヨーロッパ世界に大いなる変動をもたらすことになる。


 今回はローマ帝国と西ゴート族のつながりを中心に進めてまいりました。時代はテオドシウス帝から東西分裂した直後ですが、この間、西ゴート族との間にはいろいろあったのですね。

 ではさっそく大学受験世界史の学習ポイントに移りましょう。テオドシウス帝は言うまでもなくローマ帝国におけるキリスト教を国教に定めた人であり、分裂前の最後のローマ皇帝であります。中世の西欧史の幕開けを告げる民族大移動があった375年から4年後に即位しています。そして395年に亡くなり、帝国は東西分裂します。この年代も重要です。

 そして西ゴート族ですが、用語集にはアラリックの名も登場します。出題頻度は少ないですが、西ゴートの人物と言えばアラリックを答えられるようにしておきましょう。スティリコ将軍やテオドシウス大帝以外の皇帝も登場しましたが、受験で答えさせるような設問は出題されないと思います。
 西ゴート王国の建国年は415年とされていますが、用語集などでは418年表記が多いです。受験生は418年建国、711年滅亡ととらえておきましょう。

 さて、西ゴート族は王国を建国しました。一方で東のゴート族はどうなったか?はたまた西ローマ帝国の動きは?続きは次回にて!

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