世界史の目-Vol.226-

光輝と知恵・その4
~イタリアのゲルマン王国~

その1・激動の4世紀はこちら
その2・・ローマ皇帝とアラリック1世はこちら

その3・古代の終末はこちら

 フン族の衰退、西ローマ帝国(395-476)の滅亡、そして481年には北ガリアにゲルマン系の強国、フランク王国(481-887)も誕生し、情勢が大きく変わった5世紀後半の西ヨーロッパ世界。ゲルマン諸国家はすでに"知恵"の西ゴート族(英語でVisigoth、ドイツ語でWestgoten)フランス南部に興した西ゴート王国(415/418-711)をはじめ、北アフリカのヴァンダル王国(439-534)、ガリア中南部のブルグンド王国(411-534。狭義ではサヴォイア地方に定住していた443-534)らが西ヨーロッパを割拠し、さらにグレートブリテンではアングロ=サクソン人が諸国家を建設していた(七王国時代。449-829)。ゲルマン諸国家の王は建国と同時に西ローマ帝国の総督を任じられ、西ローマ帝国滅亡後は東ローマ帝国ビザンツ帝国。395-1453)の総督を任じられた。
 ゲルマン諸国家は独特のゲルマン法に則って国家を統治していったが、西ゴート王国においてはエウリック王(位466-484)のもとで、ゲルマン最古の法典、エウリック法典を定めてゲルマン法を成文化し(475頃)、王国内のゴート族を支配した。ちなみに西ゴート王国は西ローマ帝国滅亡後の混乱に乗じ、領域をフランス南部からイベリア半島南部へと拡大化していき、首都トロサを拠点とする南フランスから徐々にイベリア半島へと勢力範囲を移行していった。

 一方、フン族の衰退で支配から解かれた"光輝"の東ゴート族(英語でOstrogoths、ドイツ語でOstrogoten)は当時、東ヨーロッパ方面で勢力を築いていたティウディミール王(王位470-475)が没し、ティウディミールの子テオドリック(454-526)が東ゴート王を継承することになった(位474?/475?-526)。
 テオドリックはフン族衰退の原因となったフン王アッティラ(406?-453。位434-453)の没した翌年(454年)に生誕したが、少年時代は東ローマ帝国に人質として預けられ、帝都コンスタンティノープルで過ごした。父王の即位にともない人質を解かれたテオドリックは、474年(あるいは父王が死去した475年)に東ゴート族の王を名乗り、勢力を継続したが、ここでは王国建設には至らなかった。このため、東ローマ帝国から総督を任命してもらうために、テオドリックは当時の東ローマ皇帝・ゼノン(位474-475,476-491)に接近し、483年に東ローマ帝国の武官を命じられた。東ゴート族は東ローマ帝国の勢力下に置かれることになった。

 東ローマ帝国のゼノン帝は、西ローマ帝国を滅ぼした東ゲルマン系(スキリア人)のオドアケル(433?-493。西ローマ帝国では傭兵隊長)の動向が気がかりであった。オドアケルは西ローマ皇帝位を東のゼノン帝に返上し、ゼノン帝はローマ統一皇帝として旧西ローマ帝国勢力圏の統治権を握っていた。オドアケル自身はゼノン帝に認められイタリア半島でイタリア王オドアケル(位476-493)として旧西ローマ帝国勢力圏の統治を任され、ほぼ西ローマ帝国時代と同様の統治体制をとっていた。予想通り、オドアケルは東ローマ帝国の内政に干渉してきた。ゼノン帝の不安が的中したのである。488(484?/489?)年、ついにゼノン帝は東ゴート族のテオドリックにコンスル(統領)に任命してオドアケル勢力の掃討を命じた。テオドリック率いる東ゴート族にしてみれば、遅咲きながらの王国建設を、かつての西ローマ帝国領内で果たすことができるかもしれない、絶好の機会であったのである。テオドリックの軍勢は疲れも見せず大いに張り切って、イタリアに出動した。
 これを受けてイタリアのオドアケル軍も各地で出動、489年、現在のイタリア・スロヴェニア間に流れるイゾンツォ川で大激戦を交わした。結果、テオドリックの軍勢がイゾンツォ流域での激戦に勝利し、オドアケル軍は撤退した。その後もテオドリックは攻撃の手を緩めることなく、ヴェローナ、ミラノといった都市を次々と占領していった。ただヴェローナでの一戦はオドアケル軍の将軍の罠にはめられそうになり、一時的ではあるが危険にさらされ退却を考えた時期もあった。弱気になったテオドリックに対し、母親エリヴィラ(440?-500?)や妹アマラフリダ(460?-525?)ら姉妹たちは、家族をはじめとするゴートの女性たちがオドアケル側の戦利品になってしまっていいのかと強く諫めたことで、これを耐え忍んだとされている。

 その後の劣勢にも徹底抗戦したテオドリックの軍は、西ゴート王国らの援軍やヴァンダル族のシチリア島割譲もあって優勢に転じた。各地での戦闘で苦戦を強いられたオドアケルの軍勢はついに首都ラヴェンナ(西ローマ帝国時代からの首都。402年にミラノから遷都)の要塞に限定されていったのに対し、テオドリック率いる東ゴートの軍は徐々にイタリア全土を制圧、ついに首都ラヴェンナを包囲した。オドアケルはラヴェンナの要塞に籠城、3年近い包囲戦を展開した。決着をつけるべく、テオドリックはラヴェンナ攻略に向けて、ある作戦を打ち出した。
 それはラヴェンナの司教(ヨハネス2世。詳細不明)を仲介に、和平交渉をオドアケル側に提案するという策略であった。しかもオドアケルは命が保障され、イタリア王の座を明け渡して幽閉されることなく、テオドリックと共同統治するというオドアケル側にしてみれば有利な講和内容であった(諸説あり)。
 講和を受けたオドアケルは、その後毎日のように家族や家臣らと宴会を開いた。テオドリックもその間何度もオドアケルと会見したとされる。ある日の宴会の最中、その中へテオドリックが奇襲をかけ、オドアケルおよび家族・家臣らを剣で貫いて殺害したのであった(493。オドアケル暗殺)。直後、テオドリックがイタリア王に即位した(位493-526)。

 この間東ローマ帝国はテオドリックにオドアケル討伐を命じた東ローマ帝国のゼノン帝は後継者を出さず、オドアケル暗殺前に死去し(491)、ゼノン帝の元皇后アリアドネ(450?-515)の再婚相手であるアナスタシウス1世(位491-518)が即位していた。アナスタシウス1世はテオドリックのイタリア統治を認め、497年、東ゴート族の王国建設が実現した。イタリア半島におけるゲルマン国家、まさしく東ゴート王国の誕生であった(テオドリック即位を建国年とする場合は493-553。狭義497-553。なお、滅亡年は555年表記も見られる)。首都はそのままラヴェンナにおかれた。テオドリックは東ゴート王国初代王(位497-553。イタリア王として即位した493年を即位年とする表記もある)であり、永遠なる都・ローマのあるイタリアでゲルマン王国を建設した、まさに大王であった。
 大王テオドリックは東ゴート王国としての統治を、旧来のローマ法を尊重しながらこれを継続しつつ、ゴート人による新たな統治機能も加えてローマとの融合をはかった。ゲルマンとローマの共存が実現したのである。

 テオドリック大王はまず外交安定化にむけて、フランク王国メロヴィング朝(481-751)の王クローヴィス1世(王位481-511)の妹アウドフレダ(470?-526?)と結婚し、同じゴート人国家の西ゴート王国とは、娘テオデゴサ(473?-?)を当時の西ゴート王アラリック2世(位484-507)に嫁がせるなど他ゲルマン国家との協調をはかった。ただ、テオドリックとアウドフレダとの間には後継者となる男児を授かることができなかった。テオドリック大王は東ゴート族を20代からその頂点に立って約50年の治世を誇り、526年、この世を去った(テオドリック死去。526)。奇しくも、東ローマ帝国の大帝、ユスティニアヌス帝(ユスティニアヌス1世。帝位527-565)が即位する1年前の出来事であった。ラヴェンナにはテオドリックの霊廟が残っている(テオドリック廟【外部リンクより引用】。520年に建築)。

 テオドリック大王亡き後の東ゴート王国はその後東ローマ帝国との関係は悪化していった(ゴート戦争。535-554)。理由として、ゴート族がアリウス派(ローマでは異端キリスト教)を信仰していたこと、東ゴート族がローマ教皇ヨハネス1世(位523-526)を捕らえて獄死させたことなどが挙げられる。結果、東ローマ帝国の将軍ベリサリウス(505?-565)や忠臣ナルセス(487?-573?)らの活躍で、540年、ラヴェンナは包囲された。そして、最後の東ゴート王テヤ(位552-553)が、南イタリアのラクタリウス山における戦役で戦死し、多くの東ゴート兵はフランク王国へ亡命し、東ゴート王国は滅亡した(東ゴート王国滅亡。553年あるいは前述のように555年表記もあり。555年に最後の東ゴート部隊が降伏したとされている)。ゴート族のイタリア支配はこれで終わった。ローマとの融合をはかり、ゲルマンとローマの平和を実現しながらも、東ゴート族はそれを長く保つことはできなかった。王国崩壊後の東ゴート族はもはや再編不可能となり、彼らの歴史は6世紀半ばにて終わった。

 一方クローヴィス率いるフランク王国との戦い(507)で南フランスの領域を失い、イベリア半島での支配が強まった西ゴート族の西ゴート王国は、その後遷都を何度か繰り返し、最終的に560年、首都をイベリア半島の中央部にあるトレドに遷して(トレド遷都。560)、これが最後の遷都となった。西ゴート王国はレッカレド王(レッカレド1世。位586-601)の時にトレド教会会議を開き、アタナシウス派に改宗(589)を行ったことで、カトリック教会との関係が良化し、結果的に東ゴート王国よりも生きながらえていった。その後も同王国は621年スインティラ王(位621-631)の治世において、イベリア半島の統一を実現するなど、ゴート族の興隆を誇るかに見えたが、その後内紛が続発し、王国内のユダヤ人弾圧による混乱、ペスト大流行などで王国の勢威は後退していった。8世紀になり新しい敵であるアラブのイスラーム勢力(ウマイヤ朝。661-750)の半島進出により、711年に首都トレドが陥落、全ゴート族最後の王とされるロデリック王(位710-711)はヘレス=デ=ラ=フロンテーラ(アンダルシア州)周辺での戦役において殺害された。これにより西ゴート王国は滅亡した(西ゴート王国滅亡711。ロデリック王没後も延命政権があったとされ、完全滅亡は718年とされている)。西ゴート王国の滅亡は、やがてイスラーム勢力をヨーロッパ世界に導くきっかけを作った。

 光輝と知恵と形容された東西のゴート人は、ここで歴史的役割を終えた。ヨーロッパ全土を疾走し、ローマ人およびローマ国家をはじめとするさまざまな民族を相手に、数々の激動をくりひろげ、ゲルマン・ローマ・キリスト教の文化・社会を融合させて独自の歴史を形成し、その後の世界に多大な影響を残したゴート人は、多くの伝説や偉業を残してついに歴史上からその名が消え、長かった活動に終止符が打たれたのであった。


 4部に渡って、ゴート族をご紹介してまいりましたが、今回がその最終話となりました。東ゴート王国と西ゴート王国の興亡が中心となりましたが、その中でもテオドリック大王率いる東ゴート王国の歴史は、ローマのあるイタリアに定住したので、何かとローマ帝国との関わり合いが取り沙汰されます。東ゴート王国誕生前では、西ローマ帝国を滅ぼしたオドアケルとの戦いも注目でしょう。

 さて、大学受験世界史における学習ポイントです。まず西ゴート王国から。用語集では、西ゴート王国は418年に誕生し、711年にウマイヤ朝により滅亡と記されています。滅亡年とウマイヤ朝により滅亡は重要ワードです。南フランスとイベリア半島が勢力範囲(6世紀以降はイベリア半島が勢力範囲)を覚えて、首都トレドも知っておきましょう。東ゴート王国では、なんと言ってもテオドリックは最重要人物なので知っておきましょう。オドアケルを倒した人物として、東ゴート王国の建国者として、それぞれ覚えておく必要があります。493年にイタリアに誕生し、555年に東ローマ帝国のユスティニアヌス帝により滅亡してます。東ローマ帝国ユスティニアヌス帝により滅亡は頻出事項です。マイナーなところでは、首都がラヴェンナにあることも余裕があれば知っておくと便利です。

 短命ながら念願の王国を建設することができた東ゴート王テオドリックですが、東ゴート王国自体は6世紀半ばに滅亡して、その後のイタリアは東ローマ帝国の支配下に入ります。東ローマ皇帝のユスティニアヌス帝が没した後、イタリアは東ゲルマン諸族のランゴバルド族(ロンバルド族)の侵攻などで衰退し、さらに同族は北イタリアに新たなゲルマン国家・ランゴバルド王国(568-774)を建設していきます。この民族・王国も重要で、別名ロンバルド族といい、北イタリアにロンバルディアの地名を残しました。なお、ランゴバルド王国は774年、フランク王国のカール大帝(カール1世。位768-814)により滅ぼされています。 

【外部リンク】・・・wikipediaより

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