世界史の目-Vol.228-

大国の斜陽

 16世紀、セリム1世(位1512-20)、スレイマン1世大帝。位1520-66)の両スルタンの治世において全盛期を現出することができたオスマン帝国(1299-1922)。その全盛期には拠点の小アジアを中心に、エジプト、北アフリカ、シリア、ギリシャ、バルカン半島を呑み込む凄まじい大帝国であり、当時のヨーロッパ諸国にとって脅威であった。その脅威の中心となった兵力においてもシパーヒーイェニチェリなどの登場で軍事的にも充実した国力を蓄えていた。
 イェニチェリは常備軍である。一方のシパーヒーとは騎士階級で、軍事奉仕への代償として分与された土地(ティマール)での徴税権を与えられるというトルコ式封建制度が充実していた時期に編制された兵士である。16世紀末以降は火器の使用の必要性が高まったためシパーヒーの重要性は薄まった代わり(後述)に、バルカン半島などの若い男子キリスト教徒をイスラム教に改宗させて徴兵する制度(デウシルメ制度)によって、特殊訓練を施し火砲で武装した精鋭部隊が編制されたのであった。

 1571年レパントの海戦でオスマン帝国はヨーロッパ連合艦隊に敗北を喫したものの、戦勝したヨーロッパ側からしてみれば、この帝国の当時の国力を考えてみればびくともしない敗戦であると、その脅威は依然として薄れていなかった。しかし、この帝国には表面に現れない本当の転落の危機が待っていた。それはスレイマン1世が1566年に没して以後の宮廷の不安定化であった。
 スレイマン大帝の次に即位した子セリム2世(位1566-74)は、スレイマン1世ほど器量に満ちた名君にはほど遠く、放蕩に耽り重職は宰相(ワズィール。ヴェズィール)や大臣に任せきりであった。しかしこの間に尽力した、ワズィール筆頭の大宰相(グランド=ヴェズィール。サドラザム)、ソコルル=メフメト=パシャ(1555年にワズィールに就任。大宰相任1565-79)の存在は非常に大きく、レパントの敗戦後も軍隊再建を容易にこなし、キプロスやチュニスといった領土を獲得するなど、彼の行政・軍事的功績は名宰相と呼ぶにふさわしかった。スレイマン大帝に見出されたソコルルは、大帝にとって最も信頼のおける人物であった。
 大帝の晩期になると、大帝の子どもたちによる後継者争いが火花を散らし、大帝の妃であるヒュッレム=スルタン(ロクゼラナ。1506-58)は、別の側室だった夫人の子(ムスタファ。1515-53)が後継者に決まっていたのを、自身の子(セリム2世や兄弟ら)に継がせるように策動するという混乱がみられた。結局後継者はムスタファ皇子の処刑によりロクゼラナの子が継承者となるが、ロクゼラナが没すると今度は彼女の息子達の間で継承に関する内乱がおこり、結果ソコルルが支援したセリム2世が勝利してスルタン継承に成功した。しかし前述のようにセリム2世は暗愚、その次に即位したムラト3世(位1574-95)もまた無能で、依然として国の統治はほとんど宰相や重臣に任せきりであった。政務を執らないばかりか、親征も極端に減って後宮などに入り浸る生活が続いた。しかしこうした暗君が続いたにもかかわらずこうした宮廷の不安定化が表に現れなかったのは、大宰相ソコルルの尽力があったからであった。

 しかしそのソコルルが1579年に敵対していたサファヴィー朝(1501-1736)の刺客に暗殺された。その後はワズィールも無能と化して次々と入れ替わる短命政権となった。さらにはムラト3世の妃サフィエ(1550-1618)がソコルル暗殺後に台頭し、ムラト3世没後に子メフメト3世(位1595-1603)が即位すると母后として摂政をつとめるなど、施政に介入して混乱を極めた。17世紀においても宮廷における"女人の天下"は続き、次のスルタン、アフメト1世(位1603-17)の治世ではキョセム妃(1589/90-1651)が実権を握り、アフメト1世没後もキョセム妃が後見人として自身の息子たちをスルタンに擁立していった。その後キョセムの孫にあたるメフメト4世(位1648-87)が即位すると、今度は祖母として権勢を振るおうとし、メフメト4世の母で当時実権を握っていた政敵トゥルハン(1628-83。ウクライナ人)相手に政変をおこそうとしたが、逆にトゥルハンの仕向けた刺客に殺害され、トゥルハンは"ヴァリデ=スルタン(スルタンの母后。皇帝の母。母太后などの意味)"として政権を維持した。メフメト4世はこうした政争をよそに狩猟に興じて国政には無関心であった。このように、オスマン帝国の宮廷は16世紀から17世紀にかけて不健全な状態が続いた。

 遡ることムラト3世の時代の時代、財政難は顕在化し、ティマール制における財源確保に限界が来ており、ティマール制度下にあるシパーヒーもティマール内では徴税権のみで農民そのものの支配権はなかったため、これに代わって徴税請負制度(イルティザーム)が導入されたのである。これによりシパーヒーは減少していった。さらに16世紀は小銃や火砲などの兵器を使った戦闘スタイルとなったことで(軍事革命)、騎士階級であるシパーヒーは小規模化していきしていき、軍事組織はデウシルメ制度下にくみこまれ、軍隊はイェニチェリに取って代わられた。
 徴税請負人の登場で農民の生活は貧窮と化し、徴税請負期間もはじめは1年間であったがしだいに長期期間化していった。徴税請負人は財力を蓄え、私有地を獲得して大地主となっていき、自身の支配地においてチフトリキと呼ばれる大農場経営を行っていった。こうしてオスマンの社会構造にも変化が生じていった。

 また経済的な混乱もあり、16世紀における西欧の価格革命(ヨーロッパに大量の銀が流入)の波及もあった。この影響でオスマン帝国においても物価高騰は避けられなかったが、先から続く財政悪化の打開として銀の含有量を抑えた貨幣改鋳を行ったため混乱を招き、このために軍隊の出動が増え各地の反乱鎮圧にあたるという繰り返しであった。こうしたオスマン帝国の混乱は17世紀も続いた。

 17世紀後半におけるメフメト4世の時代、大宰相職にアルバニアから出た諸侯であるキョプリュリュ家を登用した。メフメト4世の時代にはキョプリュリュ家からキョプリュリュ=メフメト=パシャ(大宰相任1656-61)、キョプリュリュ=アフメト=パシャ(任1661-76)、カラ=ムスタファ=パシャ(任1676-83)と世襲化していった。キョプリュリュ家の登場は宰相職の重要性および行政の手腕が再確認され、彼らも尽力してスレイマン大帝時代以後における中興期を現出、とくにキョプリュリュ=アフメト=パシャの時代には帝国の支配領域も最大となった。また経済面や社会面にも奔走し、国力は徐々に安定化していった。宮廷におけるオスマン皇帝の国政無関心を除けば、帝国の再興は現実のものとなった。

 このキョプリュリュ家の勢いは同家からでた3人目の大宰相カラ=ムスタファ=パシャの時代まで続いた(キョプリュリュ時代。1656-83)。この間はキョプリュリュ家の強権によって政局が動かされた。カラは前任キョプリュリュ=アフメト=パシャの義弟で、オスマンの最大版図を現出できたのも、国際的に地位を維持できたのもカラの軍功によるものであった。しかし、このキョプリュリュ時代はカラ=ムスタファ=パシャの治世後半から政敵である反キョプリュリュ派の動きも活発になり、権力争いも再発、政局は不安定になり始め、体制の立て直しも急務であった。オスマン皇帝メフメト4世も依然として国事よりも趣味である狩猟に関心が向き(このため、彼には"狩人"を意味する"アブジュ"の異称がある)、功名心にはやるカラ=ムスタファ=パシャは次の大問題に着手した。それは近隣諸国対策の筆頭であるオーストリア対策であった。

 オスマン帝国は常にオーストリア(大)公国(1278-1918)のハプスブルク家とハンガリー問題で揺れていた。ハンガリー王国(1000?-1918,1920-46)は16世紀、トランシルヴァニア公国(1571-1711)が王国から自立し(正確にはオスマン帝国の保護下におかれる)、王国の北部・西部(全体の3分の1)をオーストリア=ハプスブルク家が、中央部・南部(全体の3分の2)をオスマン帝国がそれぞれ支配し、ハンガリー王位はハプスブルク家が世襲する状態で、ハンガリー王国は分裂状態であった。オーストリア=ハプスブルク家においても1648年の屈辱的なウェストファリア条約を締結して以後、かつての帝国的立場からは後退していた。

 神聖ローマ帝国962-1806)の皇帝レオポルト1世(帝位1658-1705)はハプスブルク家のオーストリア大公であり(公位1658-1705)、ハンガリー王位(王位1655-1705)も兼ねていた。彼の治世でのハンガリー対策は一貫して、反ハプスブルクを掲げるハンガリーのルター派貴族テケリ=イムレ(1657-1705)に対する問題解決であった。領地を没収され、ルター派などプロテスタントを弾圧するレオポルトのハンガリー行政に対して反抗するテケリ=イムレはフランスを味方に1678年に武装蜂起し、反乱を起こした。これにオスマン帝国が軍隊を使わし支援、レオポルト1世はハンガリーへの高圧策を緩和する動きを見せたが、オスマン帝国軍に支援されたテケリ=イムレの勢力は抵抗を続けた。
 この情勢をみたオスマン帝国の大宰相・カラ=ムスタファ=パシャは、オーストリアを制圧する好機と判断して、1683年7月13日つまり、1529年の第一次ウィーン包囲以来、およそ150年ぶりにオーストリアに侵攻、首都ウィーンを包囲した。これが第二次ウィーン包囲1683.7.13-9.12)である。

 しかしオーストリア軍だけでなくこれを支援したポーランド軍やドイツ諸邦軍の堅い防衛と抵抗により、包囲は2ヶ月で解かれ、オスマン帝国軍は敗走することになったのである。レパントでの敗戦以来、およそ110年間においてヨーロッパ軍に大敗したことのなかったオスマン帝国が、軍事面においてにヨーロッパの軍より劣勢に転じた瞬間であった。帝国内での反キョプリュリュ派との権力争いに焦った、大宰相カラ=ムスタファ=パシャの完全な大失態であった。
 カラ=ムスタファ=パシャはベオグラードで軍の立て直しを図ったが、敗戦責任を彼に負わせようとした反キョプリュリュ派がオスマン皇帝メフメト4世へ讒言したことで、カラ=ムスタファ=パシャはメフメト4世に見限られ、イスタンブルへの帰還を許されず、勅命により12月末にベオグラードにて処刑された(カラ=ムスタファ=パシャ処刑。1683)。これにより、弱体と化したオスマン帝国のスルタンを懸命に支え、大宰相として帝国維持に努めたキョプリュリュ家の時代は一時幕引きとなった。

 キョプリュリュ時代が終わり、オスマン帝国にはさらなる苦しい展開が待ち受けていた。第二次ウィーン包囲の失敗はヨーロッパのキリスト教勢力の奮起を促すものとなった。ローマ教皇インノケンティウス11世(位1676-89)は神聖ローマ帝国(ドイツ諸邦)、ポーランド、ヴェネツィアらと"神聖同盟"を結成して(1684。のちロシアも加入。なお、1815年に結成されたウィーン体制期神聖同盟とは別)、オスマン帝国と激戦を展開した。この激戦はハンガリーやトランシルヴァニア、そしてバルカン半島が戦場となる大戦争となった。このオスマン帝国が激戦を交わした、第二次ウィーン包囲から発展した神聖同盟を中心とするヨーロッパ連合軍との実に16年におよぶ戦争を大トルコ戦争(1683-99)と呼ぶ。この戦争でオスマン帝国はいっきに後退し、唯一オスマン帝国が頼りにしていたハンガリーのテケリ=イムレの軍も失敗が続き、ハンガリーを含むオスマン帝国の東ヨーロッパ諸領が次々と神聖同盟軍によって制圧されていった。

 この間のオスマン帝国は、キョプリュリュ家ではない大宰相が立て続けに政権を樹立しては短命に終わっていった。皇帝メフメト4世も1687年に退位・幽閉され、その後弟2人が王位につくがこれも短命となった(スレイマン2世。位1687-91。アフメト2世。位1691-95)。国のトップ、行政のトップが入れ替わり立ち替わる始末であった。1689年に6年ぶりにキョプリュリュ家からキョプリュリュ=ムスタファ=パシャ(キョプリュリュ=アフメト=パシャの弟。1637-91)が大宰相に任じられるも(任1689-1691)、大トルコ戦争で戦死するなど、もはや帝国の衰退は歯止めがきかなくなってきていた。

 1695年、オスマン皇帝メフメト4世の子ムスタファ2世(1664-1703)が即位した(位1695-1703)。この治世では大宰相エルマス=メフメト=パシャ(位1695-97)のもと、続行する大トルコ戦争を決着すべく、オスマン帝国のハンガリー奪還を敢行、神聖同盟軍との大トルコ戦争の決戦がドナウ川支流のティサ川東岸にて行われた(現セルビア、ゼンタ近郊での戦闘なので"ゼンタの戦い"と呼ばれる。1697.9)。しかし敵軍はオーストリアの名将プリンツ=オイゲン(1663-1736)の奇襲戦略で1万のオスマン軍がティサ川にて溺死、大宰相エルマス=メフメト=パシャも殺され、あわせて3万のオスマン兵士が戦死するという惨敗ぶりであった。結局オスマン帝国は、第二次ウィーン包囲をきっかけとして、相次ぐヨーロッパ軍と連戦連敗を重ねていき、かつての脅威は完全に消え失せていた。
 ムスタファ2世はかつての盛時を現出したキョプリュリュ家から、キョプリュリュ=ヒュセイン=パシャ(1644-1702)を召集して大宰相に任じ(任1697-1702)、大トルコ戦争におけるヨーロッパ諸国との和平にむけた交渉を任せた。そして1699年、ドナウ河畔のカルロヴィッツ(現セルビアのスレムスキ=カルロヴツィ)で国際会議としては初の円卓会議であるカルロヴィッツ会議が開催された。円卓会議は、立場が優位であろうと劣位であろうと、これらの序列を定めない平等な会議を行うことを意味した。参加国はオスマン帝国、オーストリア、ポーランド、ヴェネツィアで、ロシアは不参加であった。

 カルロヴィッツ会議において、オスマン帝国とヨーロッパ諸国との間で交渉が行われた。結果、1月末において講和条約が調印された。これがカルロヴィッツ条約である(1699.1.26)。この講和は歴史的に見て重要な意味を持つものとなった。
 条約締結の内容は、

  1. 対オーストリア・・・オスマン帝国はハンガリー王国の中央部・南部や、保護下に置いていたトランシルヴァニアをはじめ、クロアチア東部(スラヴォニア)などを放出。オーストリア領となる。
  2. ポーランドとオスマン帝国間・・・オスマン帝国はウクライナ西部のポジリア(ポドリア)を放出。ポーランド領となる。
  3. ヴェネツィアとオスマン帝国間・・・オスマン帝国はダルマツィア(クロアチアのアドリア海沿岸部)の大部分を放出、ヴェネツィア領となる。

 対ロシアとは翌1700年、単独でイスタンブル会議を開催した。この会議で締結されたイスタンブル条約でオスマン帝国はドン川河口のアゾフを放出、ロシアに割譲した。

 これにて大トルコ戦争は終結した。カルロヴィッツ条約の締結は、オスマン帝国の大敗北を意味した。帝国史上初めての、キリスト教勢力のヨーロッパ諸国に対する、大幅な領土割譲であった。オスマン帝国のヨーロッパでの勢力が後退する一方で、ウェストファリア条約以来後退を余儀なくされていたハプスブルク家のオーストリアが、中欧における勢力を回復、大国再興のきっかけにつながったのである。イスタンブルで講和したロシアにとっても、不凍港を求めて南下政策へと前進する契機にもなった。

 カルロヴィッツ条約によって、オスマン帝国の勢力衰退が表面化となり、国際的に示されることとなった。国内ではイェニチェリの反乱が起こるなど政情不安に陥った。騒動の原因をつくった大宰相キョプリュリュ=ヒュセイン=パシャは結局ハンガリー放棄の責任をとる形となり辞任した。そして皇帝のムスタファ2世も同じく退位、幽閉処分となった。

 宮廷の劣化から始まった国力の衰退によって、オスマン帝国は国際的地位も下降線をたどっていき、その後ヨーロッパ列強の介入に苦しむことになる。17世紀に大きな転換期を迎えて以後も混乱を重ねていき、かつての強力な勢力を誇った時代に戻ることは二度となかった。


 2013年最後の世界史の目はオスマン帝国の登場です。16世紀に全盛期を築いたオスマン帝国のその後、特に動揺が始まる17世紀後半を中心にご紹介しました。オスマン帝国の大きな転換期となった17世紀ですが、第二次ウィーン包囲に始まる大トルコ戦争で国家の消耗を早め、カルロヴィッツの講和でとどめを刺されるという結末であるにせよ、実際は皇帝の無定見・無関心や短期に交替する大宰相がゆえ政権が脆弱化したという、内側のほころびも帝国衰退の要因になっています。トルコのことわざに、"魚は頭部から腐っていく"というのがあるのも、こうした歴史があるからだと思われます。

 ムスタファ2世退位後のオスマン帝国ですが、政情不安が続くかと思いきや、一時的に安定期を迎えます。次に即位した弟のアフメト3世(位1703-30)の治世となるわけですが、彼の時代、対外的には北方戦争(大北方戦争。1700-21)の勃発で国王カール12世(位1697-1718)率いるスウェーデン側に味方して大帝ピョートル1世(位1682-1725)率いるロシアと戦います。この結果、本編にも登場したイスタンブル条約でロシアに奪われたアゾフは1711年に再びオスマン領となります(ところが、1774年のキュチュク=カイナルジャ条約で、結局アゾフをロシアに譲り渡すこととなります)。
 アフメト3世は、これまでの外交の激動を改めて、平和を求めて西欧諸国との清算を行い、融和策につとめます。時の大宰相ネヴシェヒルリ=ダマト=イブラーヒーム=パシャ(任1718-30)の補佐を受けて西欧文化を積極的に導入し、当時ヨーロッパで流行していたチューリップ栽培を国内に持ち込み、栽培熱を促しました。この結果、国内にチューリップ栽培を中心とする西欧ブームが広まっていきました。このアフメト3世時代におこった西欧文化の爛熟をチューリップ時代(1718-30)と呼びます。ところが帝国が衰退する中でおこった宮廷での西欧趣味は、国民にとって宮廷の乱費を示すものとされて、アフメト3世と大宰相ネヴシェヒルリ=ダマト=イブラーヒーム=パシャへの支持率が徐々に低下、反乱が勃発して、大宰相は殺害されました。アフメト3世も対伊を余儀なくされて、トプカプ宮殿に幽閉されました。こうして一時的な平和は崩れ去り、チューリップ時代に終わりを告げることになるのです。

 お待たせしました。今回の受験世界史の学習ポイントを見てまいりましょう。1683年の第二次ウィーン包囲に始まる帝国の退潮ですが、この第二次ウィーン包囲と1683年という年は重要。覚えておきましょう。この時オスマン帝国の戦う相手はオーストリアとポーランドであることもおさえておきましょう。大トルコ戦争は入試には登場しませんが、この戦争における講和がカルロヴィッツ条約です。1699年の条約で、非常に重要な条約です。ハンガリーがオーストリアに、アゾフ(アゾフ海でも可)をロシアにそれぞれ奪われます。本編ではアゾフ割譲はイスタンブル条約としましたが、入試ではアゾフ割譲もカルロヴィッツ条約での内容として知っておいて下さい。これにてオスマン帝国は衰退していきまして、ピョートル大帝率いるロシア帝国の南下政策がスタートしていき、後に登場する東方問題とつながっていくわけです。

 あと、本編に登場したオスマン帝国皇帝、および大宰相の人物はほとんど登場しませんので覚えなくて結構です。オスマン皇帝はその後の皇帝や宰相で覚えるべき人物がいます。
 オスマン帝国でその後に覚えなくてはならない皇帝は、マイナー級では新軍隊ニザーム=ジェディットを結成したセリム3世(位1789-1807)や徴税請負で私腹を肥やした地方ブルジョワを意味する"アーヤーン"を弾圧してイェニチェリを解散(1826)させたマフムト2世(位1808-39)、メジャー級ではギュルハネ勅令を発しタンジマート恩恵改革)を実施したアブデュル=メジト1世(位1839-61)、大宰相ミドハト=パシャ(任1872,76-77)に命じて1876年に憲法(ミドハト憲法)を制定し、のち対ロシア戦を口実にミドハト=パシャをやめさせて憲法を停止(1878)させたアブデュル=ハミト2世(位1876-1909)などがおります。特に後者2皇帝とミドハト宰相は最重要項目です。詳しくはVol.86Vol.87を参照して下さい。

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