世界史の目-Vol.230-

メキシコ革命・その2

裏切り、挫折、そして交戦
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 メキシコ革命が勃発し(1910)、ポルフィリオ=ディアス政権(任1876-80,1884-1911)は倒れた。そして革命軍のリーダー、フランシスコ=マデロ(1873-1913)が大統領に就任(任1911.11-1913.2)、マデロ派として革命に加わった護憲政主張者ベヌスティアーノ=カランサ(1859-1920)は国防大臣に、北方チワワ州のマデロ派政治家アブラーム=ゴンザレース(1864-1913)はチワワ知事に、チワワ州西隣・ソノラ州のマデロ派アルバロ=オブレゴン(1880-1928)は同州のワタバンボ市長に、それぞれ就任した。しかし、臨時で樹立したため、軍部や官僚は完全に保守派・ディアス派を払拭することはできず、その多くはマデロ政権に忠誠を誓わせて存続させていった。軍最高司令官をディアス政権時代から引き続いて就任したビクトリアーノ=ウエルタ(1850-1916)もその一人であった。

 革命勃発時は、各地で多くの反ディアス派が反旗を翻した。アメリカから武器を持ち込んだマデロ派の革命家パスクアル=オロスコ(1882-1915)、ゴンザレースに学び、チワワ州の最大都市であるシウダー=ファレスでディアス軍と戦ったパンチョ=ビリャ(1878-1923)、南方のモレロスで農地改革を叫ぶ小作農出身の反ディアス派のメスティーソ、エミリアーノ=サパタ(1879-1919)らが革命運動に名乗りを上げた。特にサパタはその農地改革を、大土地農園制度(アシエンダ制度)下で行われた土地の不法収奪の廃止と返還、および失地農の救済に求めていた。 革命勃発直後、マデロはサパタと手を組んだ。マデロが実権掌握すればディアス時代に大地主に苦しめられた農業労働者を助けることができることを信じて、革命運動に加わり、解放軍を組織して政府軍相手に戦った(1910)。モレロス州では中央東のアヤラ等が激戦地となった。

 マデロは大統領就任直前にサパタと会見に臨んだ(1911.5)。ディアス打倒を掲げたことは両者は同志であった。しかし、マデロは政府軍のマデロ派への浸透や統率がまだ未達段階である状態で、サパタが組織した解放軍を認めることはできないでいた。また政府軍にはこれまで連戦連勝を重ねて多くの武勇を誇るウエルタ将軍の存在があり、ウエルタの軍はサパタ軍と戦闘を交えたこともあった。一方でサパタは農地解放・農民救済をマデロに求めていたが、地主出身のマデロなだけに、よほどの強硬な姿勢で臨まなければならず、解放軍の解散は考えていなかった。地主を保護し、解放軍の武装解除を求めるマデロと、農地解放を求めるサパタは次第に対立に傾き、結局両者、歩み寄ることはなく会見は物別れに終わった。サパタは直後に、"アヤラ綱領"を発して、土地の無償返還を求め、失地農と化した農業労働者に与えることを宣言、土地改革を行わないマデロ政権に楯突くことを決した。反マデロ派の筆頭として、解放軍によるゲリラ戦が開始された。サパタにしてみれば、貧困層や農業労働者を基盤に支持を集めてきたマデロに裏切られた形となった。これに呼応するかのように1912年3月、オロスコも反マデロに転じ、チワワ州で反乱を開始した。

 もう一方ウエルタ将軍率いる軍部もマデロの頭を悩ませた。政府軍を率いるウエルタはこれまでの姿勢を改めないどころか、軍部だけでなく行政の実権をも狙っていた。ウエルタは実権者の立場から、マデロ政府の未熟な行政のために反乱が尽きないでいることを指摘し、サパタの解放軍やオロスコの反乱軍を相手に戦い続けた。1913年1月、遂にマデロはウエルタを見限り、解任をつきつけたが、翌月首都メキシコシティで反マデロを掲げた大規模な反乱が発生し、仕方なくウエルタに出動を命じた。ウエルタはこの反乱が激化すればマデロ政権は倒れて政権奪取が実現できると考え、さらに軍部内においてもマデロ派を一掃できると判断した。ウエルタは秘密裏に反乱軍と内通し、反乱軍の激化した地域にマデロ派のみの軍を出動させマデロ派の軍を壊滅させることを目論んだ。罠に陥れられたマデロ派は次々と滅ぼされていき、ウエルタの作戦は成功した。同年同月にウエルタは同志とともに遂にマデロ大統領を取り押さえ、彼を大統領の座から引きずり下ろした(マデロ大統領辞任。1913.2)。マデロは捕らえられ、刑務所移送中に殺害された(マデロ暗殺。1913.2)。マデロは自身が掲げていた諸改革が施されないまま、その政治生命を終えることとなり、革命に成功して統治に失敗するという、天国と地獄を一瞬にして味わった大統領であった。

 政権を奪取したウエルタは直後に大統領に就任(ウエルタ大統領就任。任1913.2ー1914.7)、大統領の指令で議会と裁判所は軍事占領され、閉鎖された。そして、革命支持者の粛清が開始された。すでにオロスコはアメリカ亡命に追い込まれ、それ以外ではビリャ、サパタなどが粛清のターゲットとなった。マデロ支持派として殺害されたチワワ知事ゴンザレース(ゴンザレース暗殺。1913.7)に対する復讐が芽生えたビリャは革命継続を主張してウエルタ政権に抵抗した。サパタは、マデロ派で反ウエルタ政権のカランサに協力、そのカランサはオブレゴンとともに1913年10月にソノラ州で臨時政府を樹立し、"護憲派"としてウエルタ軍事政権に対する徹底抗戦の構えを見せた。カランサの臨時政府を倒すため、ウエルタはアメリカ亡命者オロスコにメキシコ帰還を許して仲間に入れさせた。

 ウエルタの軍事独裁はその後も革命支持者の粛清を続け、大量の議員や要人が処刑され、アメリカからも猛烈に批判が浴びせられた。当時、ほぼ同時期にアメリカ大統領に就任したウッドロー=ウィルソン(1856-1924。民主党。任1913.3.4-21.3.4)もウエルタ政権を認めようとはしなかった。このため、ウエルタはメキシコの石油利権をヨーロッパにちらつかせ、イギリスやドイツらとパイプをつなげた。アメリカはメキシコの内部対立の余波が自国に及ぶことを恐れてメキシコ介入を試みたが、ウエルタが拒否したため、ウィルソン大統領はウエルタ退陣要求と武器の禁輸を発表した(1914)。
 メキシコとの連携を検討していたイギリスやドイツなどヨーロッパでは第一次世界大戦(1914-18)勃発直前という状況もあって、メキシコ支援どころではなくなり、ウエルタ大統領に厳しい追い打ちをかけた。カランサ護憲政権においても、ソノラ州のオブレゴンが率いた護憲派の軍によるゲリラ戦を展開、ウエルタの軍は次第に劣勢に立たされた。1914年7月、ウエルタの大統領再選が発表されたが、この時点でオブレゴンの軍が首都メキシコシティに入城する寸前であった。同月、ウエルタは大統領を辞任(ウエルタ大統領辞任。1914.7)、イギリスへ亡命、その後スペインに渡った。その後ウエルタはオロスコとともに逮捕され(1915.6)、保釈金を払い釈放されたが、メキシコへ逃げ込むことを恐れたアメリカはその後も2人をテキサスで軟禁した。しかしオロスコは逃亡、アメリカの保安隊によって逃亡先ニューメキシコ州シエラ=ブランカにて射殺された(オロスコ射殺。1915)。ウエルタはその後再収監処分を受け、酒浸りの日々を送って寿命を縮め、翌1916年1月、肝硬変で獄死した(ウエルタ獄死。1916)。

 ウエルタ辞任後、ウエルタ政権で外務大臣を務めていたフランシスコ=カルバハル(1870-1932)が臨時大統領に就任した(任1914.7-14.8)。一方でソノラ州護憲派はカランサを暫定大統領にすえるため、オブレゴンの護憲軍がついにメキシコシティ入城を果たした。1914年10月、カルバハルは大統領を辞任した。直後メキシコ中西部のアグアスカリエンテスで、カランサ、オブレゴン、サパタ、ビリャら、全国の革命勢力が結集する代表者議会が開かれた(アグアスカリエンテス会議)。とりあえずは、前政権から軍人エウラリオ=グティエレス(1881-1939)を暫定大統領に据えることを決め(任1914.11-15.1)、その後は翌1915年10月までもう2人(ロケ=ゴンザレス=ガルサ。任1915.1-15.6。フランシスコ=ラゴス。任1915.6-15.10)、同様の形で暫定大統領が置かれた。この暫定政府について、カランサは強く反発した。
 この会議ではマデロと同様地主出身(牧場主)で、比較的裕福に育ったカランサと、小作農民出身のサパタ、ビリャとの間に対立が生じやすかった。カランサは、19世紀半ばに独裁政権(サンタ=アナ政権時代。1833-55)が倒れ、"レフォルマ"と呼ばれる自由主義的な改革の一環として採択された1857年憲法を重点に置いた行政を目指していた。しかしこの頃の改革は政教分離における教会財産没収や農村部土地整理など近代的整備が施された"上からの改革"であるため、農業労働者への大きなしわ寄せとなったのである。ブルジョワのカランサに対し、労働者階級のサパタは、彼の精神を素直には受け入れられなかった。一方サパタはこのアグアスカリエンテス会議において、"アヤラ綱領"を提示して農地改革の必要性を強くうったえ、サパタ派の革命精神がここにおいて革命勢力全体に認知された。その後カランサ退陣の議決を拒否したカランサはベラクルス(メキシコ湾岸側)を拠点にオブレゴンの軍を使って、ビリャ軍(グティエレスより政府軍の司令官に任命された)、サパタの解放軍を相手に交戦を展開した(1914.11)。1914年11月末、サパタの軍がメキシコシティに入城するが、オブレゴンの軍に敗退(1915.1)、サパタは不本意ながら遂に政治家としての道を断念、政府を去り、郷里のモレロスに帰郷した。しかしサパタは1919年4月、カランサ派将校の陰謀により暗殺された(サパタ暗殺。1919.4)。

 メキシコシティを占領したオブレゴンの軍は、続くビリャの軍と対峙することになる。 


 メキシコ革命は遂に戦火を交えた内部対立となっていきました。今回はマデロ政権が誕生してから崩壊し戦争へと発展していく時期を取り上げました。途中アメリカの介入も出てきましたが、ウィルソン大統領は中南米諸国との外交策を"宣教師外交"と称して、アメリカの民主主義を中南米諸国に浸透させようとしました。これは南北アメリカ大陸諸国の中でアメリカが最も優位に立っていることを示した政策ではありましたが、その間メキシコでは革命や戦争の最中だったわけです。

 今回の大学受験世界史の学習ポイントはずばり、ディアス政権を倒し、マデロ政権が誕生、サパタがこれに対立した、だけでよいかと思います。ビリャやカランサは次回で大いに語ります。ディアス、マデロ、サパタは用語集でも色刷りになっておりますので、重要ワードです。今回登場したウエルタ、オロスコ、オブレゴン、ゴンザレース、カルバハルなどは入試にはまず出題されませんのでご安心下さい。

 さて、メキシコ革命はまだ継続中です。革命の終結はどうやって訪れるのか?第3部をお楽しみに。

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