世界史の目-Vol.232-

雲南の二大王国

 現在の中華人民共和国最西南部、ベトナム、ラオス、ミャンマーと国境を接する地域で、北隣に四川省(しせん)、北東隣に貴州省(きしゅう)、北西隣にチベット自治区と接する雲南省(うんなん)。省都は昆明市(こんめい)であり、雲南という名は四川省と接する雲嶺山地(うんれい)の南にあることに由来する。現在は約39万平方キロメートルで、中国の行政区分別では8番目の広さである。漢民族以外にはイー族、ペー族、ミャオ族、チワン族など少数民族も多く存在する。中国古代王朝では、雲南・貴州のこうした漢民族以外の少数民族を西南夷(せいなんい)と呼んだ。

 歴史の上での雲南地方では、中国史における戦国時代(B.C.403-B.C.221)にその黎明期があったとされている。戦国・(そ。?-B.C.223)の頃襄王(けいじょうおう。B.C.298-B.C.263)の時代(あるいは威王の時代か。いおう。B.C.339-B.C.329)にいた武将で、春秋五覇の1人と数えられる楚の名君・荘王(そうおう。B.C.614-B.C.591)の子孫と伝えられた荘蹻(そうきょう。荘豪とも。そうごう。生没年不明)が、現在の昆明市西南に、同省最大の湖である"滇池(てんち)"付近に遠征を行い、同地を楚の支配下に入れたが、その遠征路を占領した王朝(しん。?-B.C.206)によって帰路を断たれた。そこで荘蹻は滇池を拠点に初代王(在位不明)となって王国"滇(てん)"を建国したとされるが、伝説的要素が濃く、建国年はB.C.5世紀からB.C.3世紀頃と確定には至らず、滅亡年も紀元前2世紀から紀元後2世紀の間で諸説ある。この滇国が雲南を拠点にした初の王国であるとされる。これに関し、その後の歴史を語る上で、雲南の異称として"滇"が用いられることも多い。

 一方で夜郎(やろう。B.C.523?-B.C.27)という国家があった。 夜郎は滇より建国が古いとされるが、拠点は現在の貴州省で、雲南寄りにある畢節(ひっせつ)市の赫章(かくしょう)県にあったとされ、また一時的に楚の荘蹻に占領されたとも言われている。司馬遷(しばせん。B.C.145?/135?-B.C.86?)著の紀伝体正史『史記(しき)』の『西南夷伝』によると、夜郎は西南夷国家の中で最も強勢であったとされた。さらに、前漢(ぜんかん。B.C.202-A.D.8)の武帝(ぶてい。位B.C.141-B.C.87)時代、前漢からの遣使が滇王・嘗羌(しょうきょう。位B.C.123?-B.C.85)の会見機会があり、嘗羌が「自国と漢はどちらが強勢か」という、漢王朝からしてみれば愚問に値する内容を遣使に尋ねた。そして隣国の夜郎も王は同様の愚問に値する内容を尋ねた。こうした故事から、"夜郎自らを大なりとす"、すなわち"夜郎自大(やろうじだい。自身の力量や世間を知らず、自信過剰に威張ること)"の言葉が生まれたとされる。

 B.C.2世紀、滇も夜郎も武帝に屈してその前漢の支配下に置かれた。夜郎は最後の王である興(きょう。位?-B.C.27)が反漢と自立をかかげて蜂起するも失敗、興は処刑されて国家も滅亡した。その後雲南は漢王朝の郡県制度下に置かれたが、漢滅亡(220)後その支配から解かれた。中国では魏晋南北朝時代(ぎしんなんぼくちょう。220-589)が訪れ、四川の(しょく。蜀漢。しょくかん。221-263)の軍人だった爨(さん)氏の子孫が雲南で台頭し、4世紀から爨氏政権が興っていた(爨。さん。330-580)。しかし6世紀以降は内紛により東西分裂となり、代(ずい。581-618)に西爨(せいさん。白蛮。はくばん。580-786)、代(とう。618-907)に東爨(とうさん。烏蛮。うばん。672-748)となって、いずれも8世紀まで続いた。西爨を構成した白蛮系民族の子孫の一部は、現在のペー族(中国語で"白族"。主にペー族が身につける帽子などは"白"が基調)に、また一方の東爨を構成した烏蛮系民族の子孫の一部は、現在のイー族(中国語:彝族。現在の雲南に住む少数民族では最大数)であるといわれている。

 7世紀半ばには、雲南西北部の淡水湖・洱海(じかい。ミャンマー寄り)の辺りに、烏蛮系の群雄が割拠する状態となった。この群雄は6つに構成され、六雄とも"詔(しょう。"王"の意味があるとされる)"を称した(六詔。りくしょう)。その最も南に位置した蒙舎詔(もうしゃしょう)において、詔をつとめた細奴邏(読み不明。位617-674)のもとで勢力を強め、649年に唐の支配下に入り"大蒙(だいもう)"の国号を得た(大蒙王位649-674)。その後第4(5?)代王の皮羅閣(ひらかく。大蒙王位728-748)の時代には六詔統一が為され、738年、皮羅閣は唐の第9代皇帝玄宗(げんそう。帝位712-756)に雲南王として冊封(さくほう。中国と君臣の封建的関係を結ぶこと)体制に組み込まれた。歴史上これが雲南初の統一王国・南詔(なんしょう。738-902)の誕生である。皮羅閣は南詔の王(位738-748)として洱海南方の太和城(たいわじょう。現在の大理市内。だいり)に都城を建設した。またチベットの強国・吐蕃(とばん。633-877)とも交戦、これを敗退させるほどの強勢を誇った。

 次の南詔王・閣邏鳳(読み不明。王位748-779)の時代になると、南詔の強大化で唐とは対立関係となった。このため752(751?)年、閣邏鳳は吐蕃と同盟を結び、唐と戦った(754)。この頃の唐は安史の乱(あんし。755-763)もあり、衰退期に来ていた。吐蕃は悠々と唐の領土に攻め入り、甘粛省(かんしゅく。中国北西部)などを攻略し、強勢化していった。閣邏鳳時代末期、南詔軍は四川への侵攻を吐蕃と図ったが、唐軍に敗れた。南詔は吐蕃との同盟を解消、唐への帰順姿勢をとるようになっていく。閣邏鳳没後、孫の異牟尋(いむじん?。754-808)が南詔王として即位し(位779-808)、首都を現在の大理古城(だいりこじょう。陽苴哶城とも。読み不明。現在の大理市内。太和城よりやや北)に遷都し、唐との関係改善に努めて国交回復を施し、南詔の盛時をきずいた。その後吐蕃と戦いこれを破っている。しかし唐も9世紀になると再び衰え、南詔王・勧豊祐(かんほうゆう?。位823-859)の時に四川への再侵攻を行い、四川の中心都市である成都を攻め落とした。これを契機に南詔の版図は拡大化し、ミャンマーやカンボジアなど東南アジア諸国にも遠征した。

 全盛期を誇った南詔は、勧豊祐の子、世隆(せいりゅう?。世龍。844-877)の南詔王即位(位859-877)と同時に景荘帝(読み不明。景荘は諡(おくりな)。帝位859-877)として皇帝を自称し、国号を大礼国(859-877)と改称した。860年には唐の地方役所であるベトナムの安南都護府(南海方面の諸民族および辺境を支配する軍事機関)を占領した。続く景荘帝の子隆舜(りゅうしゅん?。?-897)は聖明文武帝(読み不明。聖明文武は諡。帝位877?/878?-897)として即位し、国号を大礼国から大封民国(読み不明。877?/878?-902)とみたび改称、盛時は続く一方で弱体化が進む唐に対し、これまで同様圧力をかけていった。折しも唐朝では黄巣の乱875-884)に悩まされていた時期で、衰退が加速化していく有様であった。時の唐朝皇帝・僖宗(きそう。帝位873-888)は自身の公主(こうしゅ。皇帝の娘をさす)を聖明文武帝に降嫁させるなどして大封民国への懐柔策をはかった。

 しかしその大封民国も漢人の鄭買嗣(読み不明。861-910)をはじめとする重臣の権力が伸張して君臣間で抗争がおこり、聖明文武帝は重臣に殺害された(897)。直後に子の舜化貞(読み不明。877-902)が孝哀帝(読み不明。孝哀は諡。帝位897-902)として即位するも未熟なため、鄭買嗣が摂政に就き、南詔の君主権がこれを境に低下していった。しかも鄭買嗣は王位の簒奪を狙っており、孝哀帝が没した902年、鄭買嗣は孝哀帝の皇太子をはじめ、蒙舎詔から続いた国王一族800人を皆殺しにし、大封民国を消滅させた(南詔滅亡902)。雲南にその名を轟かせた南詔は2度の国号改称がありながらも10人の君主、うち3人の皇帝を輩出し、唐や吐蕃といった東西の強国に臆することなく、むしろ両隣国の文化・慣習を摂取しながら164年間、勢力を維持し続けた。

 南詔滅亡後、鄭買嗣が始めた新政権は大長和(だいちょうわ?。902-927)と呼んだ。鄭買嗣も南詔の大礼国・大封民国時代と同様、皇帝を自称して(聖明文武威徳桓皇帝。読み不明。帝位902-910)鄭氏雲南政権の勢力維持に努めたが、3代続くのがやっとであり、927年に滅亡、その後趙善政(ちょうぜんせい?。生没年不明)の大天興(読み不明。928-929)が1代限り、楊干貞(ようかんてい?。位929-930)に始まる大義寧(読み不明。929-937)が2代で断絶と、短命政権が続いた。この902年から937年までの間に続いた大長和、大天興、大義寧の雲南3王朝を後三朝時代(ごさんちょう。902-937)と呼ぶが、中国においても唐が907年に滅亡し、五代十国の乱世(907-960)となっていた。

 937年、後三朝の大義寧を滅ぼしたのは白蛮系出身の段思平(だんしへい。894-944)という人物で、大義寧では節度使をつとめていた。段思平は同年、現在の大理古城を拠点に大理国(だいりこく。937-1253)を建国し、段思平は大理国初代皇帝・神聖文武帝(読み不明。諡。帝位937-944)として即位した。南詔に続く雲南の統一王国の誕生である。古代よりエジプトやヨーロッパなどで石材として建造物や彫刻品などに使われる石灰岩も、この国で産出される。すなわち"大理石"である。

 大理国はまず11世紀後半まで14代続いたが(前大理国。ぜんだいりこく。937-1094)、臣下に廃位させられるなど短命政権も多く、前大理国における最後の皇帝・保定帝(ほていてい?。段正明。だんせいめい。帝位1081-94)のときには重臣の高昇泰(こうしょうたい。?-1095)に帝位を奪われて大理国は一時中断した(前大理国滅亡。1094)。高昇泰は大中国(だいちゅうこく。1094-95)を建国し、表正帝(ひょうせいてい。帝位1094-95)と称して即位した。しかし病に倒れて大中国の存続をあきらめ、再び段氏の大理国が復活した(後大理国。後理国。こうり。1096-1253)。しかし段氏は王位に就くことはできても、高昇泰の後継者が宰相(大理相国という)として行政や軍事などの実権を掌握していた(高氏政権)。その間、中国では(そう。960-1279北宋時代:960-1127。南宋時代:1127-1279)の時代に移ったが、後大理国第2代・宣仁帝(せんじんてい。段正厳。だんせいげん。帝位1108-47)は1117年、北宋の首都・開封に使節を遣わし、「雲南節度使」の役を賜り、および「大理国王」に封ぜられたことで、大理国は中国統一王朝との良好で安定した関係を築くものと思われた。

 ところが13世紀に突如出現したモンゴル帝国(1206-71)の存在が、大理国の運命を狂わせてしまった。北宋は靖康の変1126-27)で女真族(じょしん。ツングース系)の建国した金王朝(きん。1115-1234)によって滅ぼされ、華北一帯は金王朝に征服された。宋の王室は南遷し(南宋)、江南を中心に繁栄したが、金と屈辱的な和約を結ぶ始末で、立場は弱かった。しかも金王朝がモンゴル帝国に滅ぼされ(1234。金滅亡)、南宋もモンゴル帝国の標的になり、1235年から南宋が滅ぶ1279年まで、両国間で幾度と交戦した(モンゴル=南宋戦争)。この状況は大理国にも脅威として伝わった。

 やがてモンケ=ハン(1209-59)が1251年、モンゴル皇帝に即位すると(ハン位1251-59)、彼は弟のフビライ(クビライ。忽必烈。1215-94)に東アジア大遠征を指揮させた。一方の大理国は段興智(だんこうち。?-1260)が同1251年、後大理国第8代皇帝・天定賢王(読み不明)として即位し(帝位1251-53)、直ちにモンゴル対策にあたった。10万の兵を従えたフビライは南宋征服を最大目標に掲げ、南宋弱体化と孤立化をはかって、良好関係をとる大理国をモンゴルに屈服させる作戦に出て、太祖チンギス=ハン(ハン位1206-27)時代の有力な名将スベエディ(スブタイ。1176-1248)の子であるウリヤンカダイ(ウリヤンハタイ。1200-71)を使って、雲南遠征大理遠征。1253-54)を開始した。

 こうした中、大理国の中では主戦派と和平派に意見が分かれた。主戦派はモンゴル軍を倒して大理国を守るつもりであったが、和平派からしてみれば、モンゴル軍はあの北宋時代を終わらせた征服王朝である金を滅ぼした強敵であり、モンゴルに恭順した方が命は助かり、モンゴルの支配地となった雲南はかつて唐王朝で行っていた羈縻政策(きび。支配地の異民族族長に自治を許可した間接統治策)のようにモンゴルから自治を承認されて、和平派を中心とした雲南統治ができるとの計算であった。
 モンゴルの遠征軍は、四川から南下する形で進み、長江を渡河する計画であったが、出征途中、地形が雲南の複雑地形や気候に苦悩し、兵員の体力を奪い、ほとんどの戦馬も落命するなど困難を極めた。しかし大理国の和平派がモンゴル軍に大理入城の援助を行ったことで、1252年に長江渡河に成功、1253年、大理入城を果たした。1253年、出陣した大理相国の高泰祥(こうたいしょう。任1237-53)は殺害され、皇帝の天定賢王(段興智)は、遠征軍に捕らえられ、退位させられた。これにて、大理国は滅亡し、翌1254年よりモンゴルの支配下に置かれてしまった(大理国滅亡1253)。南詔から続いた雲南の統一王国の515年におよぶ歴史は終わった。

 モンゴルでは1259年モンケ=ハンが没し、翌年ハン位継承争いに打ち勝ったフビライが即位すると(フビライ=ハン。ハン位1260-94)、1260年、征服した雲南において大理国総管(だいりこくそうかん)を設置、最後の大理国皇帝であった段興智は同年に没したため、弟の段実(だんじつ。?-1282)に就任させ(任1261-82)、以後も段氏は大理国総管として、1382年まで地位を維持した。その間、フビライは大理国の旧領を五男(六男?)のフゲチ(忽哥赤。?-1271)に与え、雲南王として統治に当たらせた(王位1267-71)。これを雲南王国(1267-1390)という。1274年には(げん。1271-1368)の地方統治機関である行中書省(こうちゅうしょしょう。行省。こうしょう。現在の中国の地方行政単位"省"の起源)の1つである雲南行省(うんなんこうしょう)も設置された。元朝の誕生とフゲチの没にともない、雲南王国は国号を中国風に(りょう)と改称した。

 雲南を支配した梁は1390年に明朝(みん。1368-1644)の洪武帝(こうぶてい。帝位1368-98)に併合されるまで続いたのであった。 


 お久しぶりです。充電期間はそんなに長くならないと申しましたが、すみません、やはりだいぶ間が空きました。10周年に向けて『世界史の目』、再び始動しました。

 復帰作となる今回は歴史の深い雲南地方にスポットを当て、南詔と大理の二大王国をご紹介しました。高校世界史の授業では中国史の分野で登場します。今回は読み方が調べられなくて、たぶんこういう読みかと思うところはありましたが、確信の持てないのは語尾に"?"を置くか"読み不明"とさせていただきました。ご了承下さい。

 さて、大学受験世界史の学習ポイントを見て参りましょう。まず雲南地方はどこを指すかは、世界史地図などで確認しておきましょう。四川やチベットと接します。8世紀前半雲南初の統一王国として誕生したのが南詔です。仏教が流行して、唐文化の流入で漢字を公用化しました。覚える内容は、民族はチベット=ビルマ(ミャンマー)系であること(本編のように烏蛮系とかイー族といった事項は入試に登場するケースは稀です)、唐代に存在したこと、西には吐蕃がいたことなどです。
 南詔に続いて雲南を統一した大理国ですが、南詔同様、大理国も仏教が流行し、帝位を次に譲った大理国の皇帝は出家するケースが多かったといわれています。大理国は中国では主に五代十国から宋代にあたります。覚える内容は民族はタイ系であること(これも南詔と同様、白蛮系とかペー族といった事項は入試に登場するケースは稀です)と、フビライに滅ぼされたことなどです。

 余談ですが、南詔が登場したのであえてお話ししますが、似たような名前に注意しましょう。たとえば、前漢時代に南海方面にあった南越(なんえつ。B.C.203-B.C.111)をはじめ、カンボジアの扶南(ふなん。1C/2C-7C半)、ベトナムの越南(えつなんこく。1802-1887)などがあります。言うまでもなく、南宋も別の国ですよ。

(注)紀元前は年数・世紀数の直前に"B.C."と表しています。それ以外は紀元後です。
(注)ブラウザにより、正しく表示されない漢字があります(("?"・"〓"の表記が出たり、不自然なスペースで表示される)。滇(テン。さんずい偏に"真"。表示形式によって"眞"もあり)。荘蹻(そうキョウ。足偏に"喬")。洱海(ジかい。さんずい偏に"耳")。陽苴哶城(陽苴の次の字は左は口偏で、右は間の途切れた草冠に"干")

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