世界史の目-Vol.233-

急ぐ皇帝

前編・第4の啓蒙専政

 18世紀の後半は、オーストリア継承戦争1740-48)、七年戦争1756-63)といった長期戦争がヨーロッパ主要国との間で展開された激動の時期であった。両戦争の主役は紛れもなく、神聖ローマ帝国(962-1806)皇帝フランツ1世(帝位1745-65。ロレーヌ公位1729-37)の皇后、マリア=テレジア(1717-80。オーストリア大公位1740-80。ハンガリー王位1740-80。ボヘミア王位1743-80)と、このハプスブルク=ロートリンゲン家(マリアの代で男系が絶えたハプスブルク家が、ロレーヌ公出身のフランツを迎えたことによる)を敵として戦ったプロイセン王フリードリヒ2世("大王"。位1740-86)の2人である。

 18世紀のヨーロッパでは、これまでの神学や聖書など、権威的存在にしばられて作られた習慣、体制、思想に浸っていたことを批判し、人間がこれらから離れても、理性という本来人間に備わっている知的能力で世界の秩序を理解できるという、いわゆる啓蒙思想(リュミエール、エンライトメント)が流行した。これは旧体制を打破するための改革精神に結びついていった。そして、フリードリヒ2世やマリア=テレジア、当時のロシアの女帝エカチェリーナ2世(帝位1762-96)など、当時の後進国とされた国家の君主たちはこの啓蒙思想の立場に立ち、"上からの改革"を行って自国の近代化、強国化を目指していった。これを啓蒙専制主義といい、彼らを啓蒙専制君主という。

 そしてもう一人、18世紀において、先の3君主に続いて啓蒙専制君主と呼ばれた人物がいる。啓蒙思想の立場に立って改革を急進的に行った神聖ローマ皇帝で、フランツ1世を父に、マリア=テレジアを母に、マリー=アントワネット(1755-93)を妹に、レオポルト(1747-92)を弟にそれぞれ持つ、長男のヨーゼフ=ベネディクト=アウグスト=アントン=ミヒャエル=アダム(1741-90)という人物である。父フランツ1世の死後、神聖ローマ皇帝として即位した、ヨーゼフ2世である(帝位1765-90)。

 ヨーゼフは1740年10月に男子継承者を残せず没した元皇帝カール6世(1685-1740。帝位1711-40。マリア=テレジアの父)の翌1741年3月に誕生(つまりカール6世が没したとき、娘のマリアはすでにヨーゼフを授かっていることになる)、およそ60年ぶりのハプスブルク家に誕生した王子であった。ところがハプスブルク家の最後の男系男子相続者だったカール6世が没し、女子相続が認められた詔書によりマリアが家領を継いだことで、他国がこぞって継承を名乗り、オーストリア継承戦争を招いてしまった。このためヨーゼフは生後早くから帝王学を受けることとなった。

 美貌の持ち主だったヨーゼフは、幼少期より歴史、地理、宗教、軍事学、哲学、修辞学、法学、建築学、音楽(ピアノ、ヴァイオリンなど)、各国言語(フランス語、ドイツ語、ラテン語、ハンガリー語、イタリア語、チェコ語など)などを学んだが、諸学問における理解力は卓越していた。ただ、腕白で気が強く、集中力に欠けるため理解してもすぐ忘れることがあったという。成長すると、ヨーゼフはヴォルテール(1694-1778)の著書を愛読し、多くを学んだ。ところがこの影響で、ヴォルテールと親密で、次々と諸改革を施して国力強化に努めたプロイセンの大王フリードリヒ2世に心酔していった。ヨーゼフは母マリア=テレジアの仇敵であるプロイセン王フリードリヒ2世の啓蒙専制主義に傾倒していくのであった。フリードリヒの諸改革とは、商工業の振興、検閲の廃止、プロイセン法典の編纂、諸学問の奨励、貧民救済、宗教寛容などがあり、ヨーゼフ2世はプロイセン大王の行政に深く関心を寄せた。

 ヨーゼフは1760年北イタリアのパルマ公国(1545-1860)のフィリッポ1世(パルマ公位1748-65)の娘マリア=イザベラ(1741-63)と結婚した。学識があって清らかで美しい女性であったが、鬱病がちで体力も強くなかった。そのため懐妊しても出産時あるいは産後の体力が心配された。1762年に長女を出産するも、やはり産後の体調は思わしくなかった。ヨーゼフは産後のケアを徹底して回復に努めた。しかしそれもむなしく、翌1763年マリア=イザベラは次女の懐妊時に天然痘を発病してしまい、早産した次女も直後に死亡、マリア=イザベラも力尽きて同年没した。そして残された長女も生後8年目に夭逝するという悲劇に見舞われた。ヨーゼフは悲しみに暮れ、マリア=イザベラの面影を妹のマリア=ルイーザ(1751-1819)に求め、彼女に求婚したが断られた。結局ヨーゼフは1765年1月、母マリア=テレジアの推薦でバイエルン大公だったカール=アルブレヒト(公位1726-45。神聖ローマ皇帝カール7世。帝位1742-45)の娘マリア=ヨーゼファ(1739-67)と結婚したが、再婚に乗り気ではなかったヨーゼフはマリア=ヨーゼファを愛することはなかった。そのマリア=ヨーゼファもその後天然痘を発症し、2年後の1767年に病没した。その後のヨーゼフは亡きマリア=イザベラだけを愛し続け、以後再婚しなかった。

 1765年4月、皇帝戴冠式を終えて、名実ともに神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世が誕生した。しかしその年の8月18日に父のフランツ1世が没し、その後マリアは息子ヨーゼフ2世の摂政として共同統治をすることになった。先述のヨーゼファとの婚姻、皇帝ヨーゼフ2世戴冠、父フランツ1世の死去と、1765年はヨーゼフにとって劇的な年であった。
 父フランツ1世の死は、ハプスブルク家に新たな変化をもたらした。マリア=テレジアは夫の崩御に悲嘆し、彼女はその後も常に喪服姿で通すほどであった。オーストリア宰相ヴェンツェル=カウニッツ(任1753-93)はマリアを励ますが、これを境にしてマリア=テレジアは啓蒙専制主義的姿は影を潜め、ハプスブルク家および神聖ローマ皇帝権の伝統を維持しようとする保守的な姿に変化していった。一方のヨーゼフ2世は啓蒙専制主義の理想が膨張しはじめ、あろうことか母マリア=テレジアの宿敵フリードリヒ2世への心酔度が極度に達した時期であった。
 理性に従う。啓蒙思想に傾注した者はすべてこの姿勢を前提にし、"上からの改革"の実行者として行動した。フリードリヒ2世も、マリア=テレジアも、そして、ヨーゼフとは一廻り年上だがほぼ同時期に一国の君主となったロシア女帝エカチェリーナ2世も同様であった。そして、最も熱く、最も急進的に啓蒙主義の精神を持ったヨーゼフ2世の時代が訪れようとしていた。ただ、保守化した母后で摂政マリア=テレジアの存在が大きく、ヨーゼフの政策案がマリアに取り消されることもしばしばあり、共同統治時代の2人の姿勢はお互いが全くの遠い存在であった。ヨーゼフは父フランツ1世の遺産を受領したが、彼はこれらを私財にせず国家のために使うことを決めたため、母マリア=テレジアは息子の行動を憂慮した。

 マリアとヨーゼフは、まず宮廷改革から着手した。プロイセンの遣使の見解では、1年で50億円分の倹約を施すことになったとされる。たとえば、宮中における大がかりな儀式を見直す、人員を削減する、宮中の馬の保有数を削減する、宮廷労働者の労働時間短縮、派手な衣服を禁止して制服化する等である。
 その後、東ヨーロッパではロシアとオスマン帝国(1299-1922)間で緊張が走り、1768年に戦闘を交えた(1768-74。1774年のキュチュク=カイナルジャ条約で、オスマン帝国がドン川河口のアゾフをロシアに譲渡する結果を生む)。この間ロシアの周辺諸国は不安に陥ったため、諸国間会議が頻繁に行われ、ヨーゼフ2世はフリードリヒ2世と何度も対面して平和的解決を論議し合った。ヨーゼフ2世にとっては憧憬の人物と会談することは満足この上なかったが、母マリア=テレジアには到底理解し得ない、屈辱的な現実であった。

 ヨーゼフ2世はフリードリヒ2世と懇意になっていき、折しもロシア・エカチェリーナ2世が隣国ポーランドの干渉を強めていた時期であった。フリードリヒ2世はロシアのポーランド併合を警戒し、ヨーゼフ2世を誘い、ロシア・プロイセン・オーストリアの三国間でのポーランド分割をエカチェリーナ2世に提案したところ、時のポーランド情勢からエカチェリーナも提案に応じることを決め、第1次ポーランド分割(1772)に至った。しかしこの裏では、オーストリアの窓口はヨーゼフ2世ではなくてマリア=テレジアである。オーストリア継承戦争でフリードリヒ2世率いるプロイセン奪われた家領のシュレジェンを七年戦争で奪還できず、逆についこの間まで七年戦争の敵国として戦い、このシュレジェンの豊富な大炭田で強国と化したプロイセンと手を組むことに、マリア=テレジアが難色を示さない筈がなかった。それに反してヨーゼフ2世はこのポーランド分割を家領増大化の絶好の機会とし、それも崇拝するフリードリヒ大王の誘いによって自身の治世に大きな功績が残されることを喜び、母マリア=テレジアの反対を押し切ってフリードリヒ2世が打ち立てた分割案に賛同することになった。マリア=テレジアはただ家領増大化のために特に自家と何の利害関係を持たなかったポーランドを分割することは暴挙に等しく、外交の常道ではないとして、最後まで分割の批准に反対したが、ヨーゼフ2世とカウニッツ宰相の必死の説得で、結局涙をのんで批准書に署名、分割によってオーストリアはガリツィア(現ウクライナ南西部)を領有することになった。西欧列強からは、弱国を周辺3国が、盗賊の如く無残にむさぼり奪うとして大いに非難した。弱くなったマリア=テレジアを、フリードリヒ2世は「彼女は泣いても何かを手に入れる」と言って嘲笑った。マリア=テレジアにしてみれば、オーストリア継承戦争、七年戦争に続いて、ポーランド問題においてもフリードリヒ2世に対して敗北感を味わうことになった。

 ポーランド分割に続いて、ヨーゼフが狙う領土拡大の的は、南部ドイツのバイエルンに向けられた。ヨーゼフ2世はヴィッテルスバハ家のバイエルン(当時はバイエルン選帝侯国。1623-1805)での選帝侯継承問題に介入したのであった。1777年にバイエルン選帝侯マクシミリアン3世ヨーゼフ(選帝侯位1745-77)が亡くなり、遠縁のプファルツ選帝侯カール=テオドール(1724-99)が継承することになった(プファルツ選帝侯位1743-99。バイエルン選帝侯位1777-99)。しかしそのカールはバイエルン統治に執着がなかったため、領土拡大を狙ったヨーゼフ2世は母マリア=テレジアの反対を押し切って、カール選帝侯に話を持ちかけ、オーストリア領ネーデルラントを割譲する代わりにバイエルン選帝侯領の割譲を要求した。カール選帝侯は要求を受け入れたが、オーストリアの拡大を恐れたプロイセンのフリードリヒ2世はこれに対して反発、兵を出すまでに発展した(バイエルン継承戦争。1778-79)。ただ本格的な戦闘にはならず、マリア=テレジアもヨーゼフを説得して即時停戦をフリードリヒに持ちかけ、結局バイエルンは予定通りカール=テオドールが継承することになった(1779.5)。この騒動はフリードリヒ2世のオーストリアに対する対抗心を再燃させ、周辺のドイツ諸邦を巻き込んでいく。

 マリア=テレジアはその後難聴と歩行困難に悩まされて体調が悪化し、1780年11月29日に永眠、遺体は最愛の夫フランツ1世が眠るカプチーナ礼拝堂に埋葬された(マリア=テレジア死去1780.11)。

 マリア=テレジアの死去にともない、ヨーゼフ2世はオーストリア大公(公位1780-90)、ハンガリー王(王位1780-90)、ボヘミア王(王位1780-90)に即位、母の後を継いだ。これにて実質的なヨーゼフ2世の親政が始まった。自身が崇拝する啓蒙専制君主フリードリヒ2世の諸改革を理想に掲げ、フリードリヒ2世、マリア=テレジア、エカチェリーナ2世に次ぐ"第4の啓蒙専制君主"として、希望に燃えるのであった。


 個人的にハプスブルク家の話になると自身の関心からいろいろと紹介したくなりますが、今回は18世紀の後半にハプスブルク帝国の長として君臨したヨーゼフ2世をメインに紹介しました。啓蒙思想の立場で絶対王政を行う啓蒙専制君主(ただし近年では啓蒙専制君主は絶対王政的性格ではないとして、この頃の君主に対して絶対王政の言葉を使用しなくなったり、"啓蒙絶対君主"の呼称が使われなくなったりする傾向もあります)のひとりとして数えられるヨーゼフ2世は、本編であったとおり、マリア=テレジアとフランツ1世の長男です。彼の本格的な改革は次編にてご紹介しますが、やはり彼も、世界が激動する時代に生きた人物ですね。

 さっそく大学受験世界史における学習ポイントを見て参りますが、ヨーゼフ2世関連は次編にも登場しますので、今回のポイントではマリア=テレジアの息子であることにとどめておきましょう。要するに、マリー=アントワネットのお兄ちゃんです。過去に祖父カール6世の兄で、前々帝であるヨーゼフ1世という神聖ローマ皇帝もおりましたが(帝位1705-11)、こちらは覚える必要はありません。
 そして、今回は啓蒙思想が出てきましたので、これに関するポイントも付け加えておきます。有名な啓蒙思想家としては、フリードリヒ2世と親交のあったヴォルテール(著書『哲学書簡』)やシャルル=ド=モンテスキュー(1689-1755。著書『法の精神』『ペルシア人の手紙』など)、ジャン=ジャック=ルソー(1712-78。著書『人間不平等起源論』『社会契約論』)、百科事典『百科全書』をの編集・執筆したドゥニ=ディドロ(1713-84)やジャン=ル=ロン=ダランベール(1717-83)ら百科全書派など、フランスでは名の知れた啓蒙思想家が多いので注意しておきましょう。

 啓蒙専制君主関連は、女性陣については、事件をきっかけに保守反動してしまいます。エカチェリーナ2世はプガチョフの反乱(1773-75)を境に、マリア=テレジアは夫である皇帝フランツ1世の死をきっかけとしてですが、後者は他に諸説多いため、まずは出題されません。前者エカチェリーナ2世は正誤確認などで出題されることが多いので注意が必要です。

 最後に第1回ポーランド分割ですが、ロシアのエカチェリーナ2世、プロイセンのフリードリヒ2世、オーストリアのマリア=テレジアの手によって分割されたと学習するかと思いますが、実質オーストリアはマリア=テレジアではなくてヨーゼフ2世が舵を取ったのですね。ただし大学受験ではオーストリアは誰が窓口となったか正確に答えよというような詳しい内容は出題されないので、ロシア(エカチェリーナ2世)・プロイセン(フリードリヒ2世)・オーストリア(マリア=テレジア)による分割と覚えておけばよいでしょう。

 さてさて、ヨーゼフの改革はマリア=テレジア没後に本格的に着手していきます。いったいどんな改革なのか?そしてその成果は?次回に続きます。

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