世界史の目-Vol.234-

急ぐ皇帝

後編・善良たる意志
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 ヨーゼフ2世ハプスブルク=ロートリンゲン家。神聖ローマ皇帝位1765-90。オーストリア大公位1780-90。ハンガリー王位1780-90。ボヘミア王位1780-90)の単独統治が始まった。ヨーゼフ2世が即位した1765年は、マリア=テレジア(1717-80。オーストリア大公位1740-80。ハンガリー王位1740-80。ボヘミア王位1743-80)が摂政をつとめており、共同統治者として名を連ねただけの存在であった。さらに保守反動に転じた母マリア=テレジアとの対立で円滑に行政を施すことができなかったが、1780年にマリア=テレジアが没したことで、彼の心酔するプロイセンの啓蒙専制君主フリードリヒ2世("大王"。位1740-86)の諸改革(フリードリヒ内政)に倣った、理想の啓蒙専制改革に遂に着手することになった。これまで心の中で温めていた、夢の諸改革を大いに企画しながらも、なかなか着手できなかったヨーゼフの志は、親政が始まった途端、いっきに発動した。

 プロイセン王フリードリヒ2世が発した言葉、「君主は国家第一の下僕(しもべ)」はヨーゼフ2世の精神そのものであった。国家のために努力を惜しまず、国王が国家第一の下僕となって国力増大を目指すのがヨーゼフ2世の理想の君主像であった。こうした君主の存在が、国民生活を向上させると考えたのである。しかしヨーゼフの意気込みは、まるで青二才の若者が、若気の至りで過激に物事を考えるかのようであった。それゆえ改革に対する意欲は充分に感じられ、急進的であった。オーストリア宰相ヴェンツェル=カウニッツ(任1753-93)もヨーゼフ2世の改革に賛同することを決めた。

 まずは宗教改革である。マリア=テレジアは生前、啓蒙専制改革の一環としてイエズス会の活動禁止令を出していた(1773)。主権国家体制を王権でもって整える中で、教皇に忠誠を誓い、国境を越えて自由に布教を続けるイエズス会の存在は国家にとって近代化の妨げとなっていたため、同会の活動禁止と財産没収を行った。しかしマリアは敬虔なカトリック信者であったため、徹底しなかった。しかしヨーゼフは母と同じ敬虔なカトリック信者でありながら、1781年3月に国家の教会への優越権を発し、10月末に宗教寛容令を発した。これにより、カトリック信者と同等の権利を非カトリック教徒や異教徒に保証し、新旧両教徒の反乱を抑え、ユダヤ人の解放を促した。これは商業の奨励にユダヤ人や新教徒の力が必要だったためでもあった。しかも翌1782年1月には修道院の財産没収も行い、6月にはウィーンにて宗教委員会を発足して、教会の検閲を禁止し、検閲権は国家にあるとした。また同様に結婚や教育における教会の優先権を取り上げた。
 1782年3月、ローマ教皇ピウス6世(位1775-99)がウィーンを訪れたが、ヨーゼフ2世はオーストリア司教の権限は国家が管理し、ローマ教皇権が入る余地はないことを主張したのであった。

 国民生活の向上を考えたヨーゼフ2世は宗教改革を施す傍ら、農奴制廃止令を発布した(1781.1)。プロイセンでもフリードリヒ2世が行ったが、地主貴族階級であるユンカーによって農奴制が強化されていたため(グーツヘルシャフト。農場領主制度)、ユンカーの反対で失敗したが、ヨーゼフ2世は断行した。大土地所有者によって酷使されている農民を解放し、農民は君主が管理するものとした。農民を保護するのは地主ではなく君主であり、農民が自由に活動できるようになれば、自作農となって税収が見込まれ、商業は活発化し、人口も増え、国家増強となることを目指したものであった。1781年9月には領主裁判権の規制を行い、司法権の独立は国家の裁判所にあることを決めた。また、農民の営業権、居住・移転・職業選択・結婚の自由権・荘園内での賦役の廃止も保障された。しかもヨーゼフ2世は農民の生活を知るために、皇帝自ら畑仕事を行ったといわれる。

 さらなる改革は法改正の着手である。まず法の下の平等を行い、聖職者も貴族も同等の平等権が与えられた。また1787年に発布された拷問の禁止、死刑の禁止、残酷な刑罰の禁止、囚人の労働の廃止、さらには婚外子と嫡出子の平等権や相続権の均等化などにも着手した。財政改革としては税制の大改革を行い(1784)、宮廷において租税規制委員会を発足させて、納税率の平等化を行った。貧民救済改革としては、学校や病院の建設も積極的に行った。

 マリア=テレジアとの共同統治時代においても、宮廷の倹約政策を行ったが、親政になってからは一段と強化した。多くの儀式や祝行事を廃止し、宮廷のみ使用されていたプラーター公園やアウガルテン公園を開放して国民に癒やしと安らぎを与えた。また葬儀簡素令を発布して埋葬の簡素化を図り、共同墓地への埋葬を促した。

 外交では、バイエルン問題以降、プロイセンを含むドイツ諸邦は、オーストリアの領土拡大に警戒していた。この問題から発展したバイエルン継承戦争(1778-79)では、ハプスブルク=ロートリンゲン家の支配下にあったチェック(チェコ)人のベーメン王国(ボヘミア王国。1197-1918。正確には東部のモラヴィアなど他の諸邦も含めて"ボヘミア王冠領"と呼ぶ)の領内が戦場となったが、マリア=テレジアの説得もあって本格的な戦闘は行われず、シュレジェンのチェシン(現ポーランド。ドイツ語ではテッシェン)で講和となったが(1799.5)、中欧・東欧での緊張状態はいまだぬぐえずにいた。それでもヨーゼフ2世は領土拡大に野心を保ち続けた。
 同じくハプスブルク=ロートリンゲン家の支配下にあったハンガリー王国(1000?-1918,1920-46)について、ヨーゼフ2世は大胆な改革を実施しようとした。その内容とは、オーストリアの体制下にハンガリーを組み込むことであった。司法や行政、軍隊などはオーストリア式を採用させ、ハンガリー内にドイツ語を強制し、州区分の再編成行い、ヨーゼフの治世でオーストリア国内で発した前述の諸改革をハンガリーにも持ち込むことを決めたのである。この強制策は皇帝の完全な中央集権国家体制であった。ハンガリーは言うまでもなくドイツ人ではなくマジャール人の居住区であり、またオーストリア=ハプスブルク家への抵抗心や独立心がボヘミア以上に強く、こうした中央集権的な統治を嫌った。マリア=テレジアがハンガリー王だった時代は、マジャール人の心情を理解し、またハンガリーの情勢も知り尽くしていたため、大きな混乱がなかったが、ヨーゼフ2世はハンガリーの精神については気にもとめず、改革の実施に踏み切った。1784年頃に始められたこの高圧的な強制策はハンガリー以外にも、ボヘミアやオーストリア領ネーデルラント(ベルギーおよびルクセンブルク)にも同様の強制を行った。

 このようにヨーゼフ2世の諸改革は矢継ぎ早に行われていった。ヨーゼフの単独統治以後、彼の国民生活の向上させるために施した啓蒙改革は「ヨーゼフ主義(Josephinism)」と呼ばれた。しかし改革に抵抗勢力が生まれるのは時および場所に関わりなく自然なもであり、ヨーゼフの改革も例外ではなかった。彼の急激に施した多くの改革は徐々に歪みが生じていくのである。

 宗教寛容令に対しては、新教徒やユダヤ人の活動の自由化により、商業活性化には一定の利益を上げたが、カトリック系教会の猛烈な抵抗がおこり、優先権の復活をうったえた。カトリック教徒の反乱も消えず、ユダヤ人も含めた公民権上の同等は予想以上に賛同を得られなかった。
 農奴制廃止令については、プロイセンのフリードリヒ2世でもできなかった改革であったが、プロイセンと同様、地主貴族階級からの猛烈な反発を招いた。このため地主貴族との妥協が図られ(1875年以降)、農奴の賦役廃止は中止となった。ヨーゼフ2世は2つの改革に対して中止しなかったものの、強い反発はその後も残り、ヨーゼフ2世への支持が急落した。
 また拷問のl禁止、死刑の禁止など刑法関連の諸改革についてはについてはイギリスの刑務所改革家のジョン=ハワード(1726-90)からの強い非難があった。倹約令については、宮廷内の保守派に非難された。葬儀簡素化においても、あの宮廷音楽家、ヴォルフガング=アマデウス=モーツァルト(1756-91)が没した際の葬儀が簡略化され(1791)、ザンクト=マルクス墓地(ウィーン郊外)で共同埋葬されたために、遺体が特定できなかった。

 そしてハンガリー、ボヘミアなど非ドイツ人居住域などへの強制策も当然ながら猛烈な反抗がおこった。特にマジャール人居住域であるハンガリー王国は抵抗が激化したため、ヨーゼフ2世は軍隊を出動して屈服させる手段に出た(1788-89)。しかしハンガリー側は徹底抗戦したため、この政策は断念せざるを得なかった。バイエルン問題に端を発した周辺諸国との外交問題に関しては、オーストリア拡大策に警戒する周辺諸国のプロイセンやドイツ諸領邦が動き始め、プロイセン主導でハノーファー、ザクセンら十数諸国らが対墺同盟(君侯同盟。くんこうどうめい)を結成し(1785.6)、オーストリアに強く牽制した。フリードリヒ2世が結成した同盟だが、彼は君侯同盟だけでなく、かつての七年戦争(1756-63)の敵国だったフランスやロシアに対しても関係修復に尽力し、プロイセンの国力維持に努めた。これが、フリードリヒ2世の最後の外交策であった(フリードリヒ2世死去。1786)。ヨーゼフ2世は、憧れていたプロイセン大王にも不快を露にされてしまった。

 こうして、ヨーゼフ2世が単独統治をしたわずか数年もの間に施していった諸改革は、多くの反発を受けて、その多くは頓挫してしまう結果となっていく。ヨーゼフ2世自身も体の不調をうったえるようになり、徐々に体力も失われていった。そしてヨーゼフ2世は、後々の帝位継承者となる甥のフランツ(1768-1835)の妃としてドイツ南西部のヴュルテンベルク家からエリーザベト=ヴィルヘルミーネ(1767-90)を呼び寄せ、皇帝自ら教育係として彼女を世話し、かつヨーゼフの心の拠り所としていた。1788年にエリーザベトはフランツと結婚したが、1790年2月18日にエリーザベトが長女出産翌日に急逝し、長女も夭逝した。心の拠り所だった大公妃が若くして亡くなったことで、ヨーゼフは悲嘆に暮れ、生きる気力を失い、革命挫折の失意の中で、エリーザベトが亡くなった2日後の2月20日、49歳で没した(ヨーゼフ2世死去1790.2.20)。
 性急に人々の意識に入り込んださまざまな改革は、1790年のヨーゼフ2世の死でもって終わった。国民生活の向上を目的とした諸改革の結末を待たずして、ヨーゼフは失意の内に没した。ヨーゼフは子を残さずに没したために、ヨーゼフの弟でフランツの父であるレオポルト(ラベル233。1747-92)が神聖ローマ皇帝レオポルト2世として即位するが(帝位1790-92。オーストリア大公位1790-92。ハンガリー王位1790-92。ボヘミア王位1790-92。トスカナ大公位1765-92)、彼は兄にはなかった冷静な判断で、兄の実施した諸改革の後片付けを行い、そのほとんどは廃止された(ただし宗教寛容令は撤回しなかったとされる)。なおレオポルト2世は即位してわずか3年で急逝、その後フランツが最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世として即位するのであった(神聖ローマ皇帝位1792-1806。オーストリア皇帝位1804-35。オーストリア大公位1792-1835。ハンガリー王位1792-1835、ボヘミア王位1792-1835)。

 ヨーゼフ2世はウィーンのカプツィーナ教会の地下にある納骨堂に埋葬された。その中でも、彼の治世で行われた倹約政策により、ひときわ質素で地味だったのが、ヨーゼフ2世の棺であった。自ら選んだ墓碑銘は"善良たる意志にもかかわらず、何事にも成功しなかった人、ここに眠る"であった。


 ヨーゼフ2世の生涯を前後2編に渡ってご紹介いたしました。かつて「Vol.79 マリア=テレジアの復讐」でご紹介した分の詳細版になりました。啓蒙専制君主として名を馳せた神聖ローマ皇帝でしたが、母マリア=テレジアとは対照的な治世となりました。単独統治が始まって、わずか10年ながら本編にあったように"これでもか"と言わんばかりの大量の諸改革を実施していったわけですが、彼が単独統治をしてから作った法律は、なんと1万を超えたと言われています。
 結局彼が性急に施した大量の諸改革のほとんどは挫折してしまうのですが、ヨーゼフの生きた時代は、啓蒙時代の過渡期にさしかかり、特に人権が叫ばれるフランス革命の到来によって主体が君主から市民に向けられていき、近代的市民社会が形成されようとしていた時代だったわけです。彼の改革は本当に進歩的な改革でしたから、時代が違えば、ひょっとしたらうまくいっていたかもしれません。ただ、当時のオーストリアは典型的な複合民族国家で、民族や宗教、言語などの統一させることは困難でしたから、すべてオーストリアの国家体制と画一的にしてしまうのは大いに無理があったのではないかと思います。本編ではヨーゼフの農奴解放(1781)の一環で、居住・移転・職業選択・結婚の自由などが発せられたことをご紹介しましたが、発令後に宮廷音楽家モーツァルトの1784年の名作『フィガロの結婚』が作られるのはなんとも興味深いですね。

 さて、今回の大学受験世界史における学習ポイントです。ヨーゼフ2世の改革は農奴解放令と宗教寛容令を覚えましょう。そして、これらを含む諸改革は、ほとんどが挫折・失敗したことに要注意です。正誤問題などで失敗したか成功したかでよく出題されるので要チェックですね。
 なお、ヨーゼフ2世の次に即位したレオポルト2世はフランス革命時代(1789-99)の中で、重要な存在としてクローズ・アップされます。プロイセンと共に、フランス革命に干渉する宣言をします。フランス王妃となった妹マリー=アントワネット(1755-93)のいるブルボン王家を助けるためです。これがピルニッツ宣言です。重要な語句なので知っておきましょう。あと余談ですが、最後に登場したフランツ2世は神聖ローマ皇帝を退位後はオーストリア皇帝フランツ1世となります。出題されることはそんなにありませんが、マリア=テレジアの夫フランツ1世(帝位1745-65)とは言うまでもなく別人ですので注意してください。

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