世界史の目-Vol.238-

儒教の世界・その4
漢王朝の儒教

その1・孔子の誕生はこちら
その2・孟子の思想はこちら

その3・性悪説と法治主義はこちら

 国(しん。B.C.8C?-B.C.206)の滅亡後、中国大陸は(かん。B.C.202-A.D.220。前漢:ぜんかん。B.C.202-A.D.8。後漢:ごかん。A.D.25-220)王朝の治世となった。学問・思想界では、秦が積極的に採用した法家は、秦の滅亡と共にその頂点から下るが、地味ながらも活動を続けていった。前漢成立後、法家の代わりにまず台頭したのは黄老思想(こうろう)という、道家(どうか)の一派であった。 

 道家は老子(ろうし。生没年不明)を祖とし、荘子(そうし。B.C.4C頃の人)に受け継がれた思想で、人為的な儒教に対して、作為のない、万物をありのままに生み育てるという無為自然の道を説いたものである(老荘思想)。そして戦国時代(B.C.403-B.C.221)以後、老荘思想から発展した、あらたな思想が誕生したのである。これが黄老思想で、黄老の"黄"は五帝黄帝(こうてい。医学の発明者で五帝の最初の帝)、"老"は老子である。

 法家を積極的に採り入れた結果、統一が短命に終わり滅亡した秦国の反省から、前漢初代皇帝、劉邦(りゅうほう。高祖。こうそ。位B.C.202-B.C.195.)から第6代の景帝(けいてい。位B.C.157-B.C.141)の時代までは、秦の基礎的な政策は継承するものの、対外対内両面で積極策を避けた。これは国家が何もしなくても天下が治まるという"無為にして化す"の政策で、特に第5代の文帝(ぶんてい。B.C.180-B.C.157)は、人民に対して農業の奨励を活発化する以外は、民力休養を掲げ、さらには減税を行った。また国家事業においても陵墓に多額の予算をかけることをせず、大規模な建設事業は軒並み中止となった。この、国力充実を図るために無為にして化すという政策をおこなったのはすべて、黄老思想を採用してのことであった。特に前漢時代は前の秦の法治体制も残像として存在したため、無為として客観的に国家を見つめる皇帝が、必要に応じて人為、たとえば法律を制定する、刑罰を改革する、国家事業をおこすなど、法家思想と道家思想を融合した独自の倫理観に発展した。

 黄老思想は前漢時代に開花したが、これは秦国の時代、儒教(儒家)が低調であったことも要因の1つに挙げられる。秦の治世では儒家は冷遇され、B.C.213年、中国史における最初の儒教大弾圧、焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)の被害者となる低迷ぶりであった。これにより儒教の経典である六経(りっけい。りくけい)、つまり『詩経(しきょう)』、『書経(しょきょう)』、『易経(えききょう)』、『春秋(しゅんじゅう)』、『礼記(らいき)』、『楽経(がっけい)』が次々と燃やされ、特に『楽経』は完全に失われた。
 また法家の韓非子(かんぴし。韓非。かんぴ。?-B.C.234/B.C.233)の儒学批判は特に知られる。韓非子本人も執筆した同派の論文集(編者不明)である『韓非子』の「難一編(なんいつ)」には、どんな盾でも貫通する矛で、どんな矛でも貫通できない盾を突くとどうなるかという、いわゆる"矛盾(むじゅん)"の故事内容が記されているが、韓非子は儒家をこの"矛盾"にたとえている。儒家はこの世で最高の天下を治めた五帝の(ぎょう)と(しゅん)を聖なる天子として崇めた。堯は、太陽や月を利用して暦をつくり、人民を助け、平和な天下をもたらした。舜は父親に嫌われていたがそれでも孝行し、人心が集まっていた。しばらくして堯は、人格者である舜に行政を任せ、子に帝位を継がせず、やがて舜に帝位を譲った。易姓革命(えきせいかくめい)の禅譲(ぜんじょう。徳を失い天命を全うできなかった天子が、血縁関係のない有徳者に対し平和的に政権を譲ること)である。ところが最高の天下を治めていたはずの堯に、なぜ易姓革命がふりかかるのか、最高の人格者ならばなぜ最高の人格者に禅譲するのか、という"矛盾"が生じる、というたとえ話である。儒家が非難され、法家が正当とされた秦王朝時代を象徴する言論である。

 しかしその冷遇され続けた儒教も、再び光のさす時期が到来した。黄老思想が下火となり、武帝(位B.C.141-B.C.87)の時代になると、前の景帝時代から『春秋』の注釈書の1つである『公羊伝(くようでん)』を修学(この学問を公羊学という。くようがく)し、さらにこれを極めた儒学者董仲舒(とうちゅうじょ。B.C.176?-B.C.104?)が儒学博士として頭角を現し、天人相関説を発展させて災異説(さいいせつ)を説いた。災異説とは、天災や怪異は、徳を失い天命を全うできていない天子を戒めるためにが起こすものだというものである。つまり君主が悪政を行うと、自然災害や疫病の流行、天文的怪現象(隕石落下、日食や月食など)がおこるとし、君主は善政を行わなければならないのである。

 さらに『春秋』を世に広めた董仲舒は法家思想にかわる漢王朝の中心思想として武帝にも認められた。そして武帝時代に『詩経』、『書経』、『易経』、『春秋』、『礼記』の五経(ごきょう。ごけい)の名称が広まり、B.C.136年、五経を教授する官職、五経博士が置かれることになった。この際、董仲舒は武帝に3つの策を献じた。それは天人相関説を説明して皇帝の神格化、儒教の独尊、そして大一統(だいいっとう。天下統一を偉大とす)の"天人三策(てんじんさんさく)"であった。武帝は儒教の重要性を大いに理解し、これにより儒学の官学化儒教の国教化が実現化していくのであった(武帝時代の実現化が従来の定説であったが、近年では、前漢末期~後漢初期の間に実現されたとする説が有力となっている)。
 B.C.134年、董仲舒は武帝に郷挙里選(きょうきょりせん。地方長官が土着有力者を中央に推薦する官吏任用法)を建言し、地方の推薦された有徳者の中央進出を促した。この際、親に対する(こう)をもつ者(孝者。こうじゃ)と私欲のない清廉潔白な者(廉者。れんじゃ)が各地方から1名ずつ推薦され、"孝廉(こうれん)"と呼ばれた。孝廉の選は後漢王朝になると、朝(しん。A.D.8-23)の王室簒奪や赤眉の乱(せきび。A.D.18-27)による混乱から、孝廉の重視がより盛り込まれた。儒家の官僚化もいっきに進み、儒家出身の重臣も多く誕生した。また董仲舒は五経に基づく"春秋結獄(しゅんじゅうけつごく)"を提唱して、五経に依拠して裁判の判決が下せるようにし、裁判の判断基準を設定した。

 新王朝を創設した王莽(おうもう。B.C.45-A.D.23)は中国古来からあった予言を用いた。この予言は(しん)と呼ばれ、のちに陰陽五行説と結びついた。また讖と似た、五経などの経書(けいしょ。儒教における経典の総称)を神秘的に解釈し、予言や吉凶を説いた「緯書(いしょ。"経"に対する"緯")」もあわせて用いられた。この讖緯思想を巧みに利用した王莽は、帝位について新しい王朝が立つという予言を用いて、帝位を簒奪したが、赤眉の乱で新王朝が滅ぶ際、後漢を成立させた光武帝(こうぶてい。劉秀。りゅうしゅう。帝位A.D.25-57)も讖緯思想を用いて即位した。その後光武帝は儒教政策の強化を行い、五経博士の数を増やし、首都洛陽で官僚育成のための学問所(大学)において、儒学を必修科目とした(ただし光武帝時代においては、讖緯思想を認めない儒学者は冷遇された)。

 王朝では古文(こぶん)で書かれた経書を学ぶ、いわゆる古文学(こぶんがく。古文経学)がおこり、古文学専門の官吏任用も行われていた。漢代の経書は隷書体で書かれていたが(今文という。きんぶん)、戦国時代(B.C.403-B.C.221)に流行した書体で書かれた経書のテキストが発見され、隷書体で書かれた今文の経書とは文字や内容に異同があったため、経書の解釈に差異が見られた。復古主義をとる王莽は古文の経書を知る必要から、学問として優先的に取り上げたが、後漢ではこれらは否定され、古文学者の官界進出はできなかった。しかし民間において経書の字句解釈を目的とし、経書注釈をおこなう訓詁学(くんこがく)が大きく前進、のちには馬融(ばゆう。79-166)やその弟子の鄭玄(じょうげん。127-200)といった優れた訓詁学者があらわれた。中でも鄭玄は大成者で、今文と古文の諸説統一を行い、経書解釈において後世に多大な影響を残した。また、古文の解釈は他に儒学者であり文字研究者である許慎(きょしん。58?-147?)によって成立された漢字字典の元祖、『説文解字(せつもんかいじ)』でも古文の重要性が強調された。こうした活動によって、儒教・儒学の優位性が促され、儒学を奉ずる官人たちは、儒教的価値観から、皇帝権力をかさに専横する宦官(かんがん。皇族や後宮に仕える去勢された男性)勢力と対立していき、宦官に対抗して清流派を結党、宦官勢力を濁流派と罵った。これは後漢末期におこる党錮の禁(とうこのきん。166,169)と呼ばれる清流派弾圧につながっていった。

 最初の党錮の禁が起こった時の第11代皇帝・桓帝(かんてい。帝位146-167)の時代には、後漢初期にシルクロードで伝播した仏教(中国の仏教伝来。A.D.1C?)や老荘思想、さらには神仙思想(不老不死の真理を説く思想)が融合した、のちに道教(どうきょう)となる思想も厚遇された。次の霊帝(れいてい。帝位167-189)の治世においても宦官勢力の絶頂期は続き、儒家勢力は振るわず、政情不安は激しさを増した。こうしたことから、道教の源流となる思想は衰えを見せず、神仙思想による呪術で病気治療を唱える太平道(たいへいどう)と呼ばれる宗教結社が誕生し、発起人の張角(ちょうかく。?-184)は数十万の信徒を従えた。時同じくして張陵(ちょうりょう。生没年不明)も呪術で治病を唱える五斗米道(ごとべいどう)も発生、これまでの心の拠り所となっていた儒教精神は後退していった。特に太平道は黄巾の乱(184)を勃発させ、これが原因で後漢滅亡(220)の事態までに至ったが、太平道は張角の病没で衰退した。

 その後の儒教は不振で、魏晋南北朝時代(220-589)は一貫して、老荘思想が流行、仏教や道教が以前の儒教と同規模に、国家的に受け入れられた。儒教の再燃は時代(ずい。581-618。とう。618-907)の到来を待たねばならなかった。 


 今回は漢の時代の儒教が中心となりました。といっても終始儒教ばかりというわけではなく、対抗馬となる道家、つまり老荘思想や、仏教の襲来などもあってバラエティに富んでいます。儒教は国家が安定状態では厚遇、不安定状態になると冷遇という構造ですね。
さて、前3作は倫理的視点が多かったですが、今回は歴史的視点も増えましたね。ではさっそく世界史や倫理の大学受験に関する学習ポイントを見て参りましょう。

 漢での儒教はなんといっても董仲舒と五経博士です。武帝時代にいちおう儒学の官学化が為し得たと言われていますが、近年の研究では、官学化はもう少し後であったという見方もあります。受験生は儒教官学化は董仲舒が出題されたところで覚えておけばよろしいかと思います。五経博士も重要ですが、なによりもまず五経の5つを言えるようにしておきましょう。後漢時代では鄭玄の訓詁学を覚えておく必要があります。訓詁学では馬融も用語集に載っていますが、難関大では出題されることもあります。
 なお本編未登場で儒教の事項を1つ。董仲舒孟子(もうし。B.C.372?-B.C.289)の四徳(しとく。)に"信(人を欺かず、友に厚く、誠実であるという徳)"を加えて五徳とし、徳の重要性を説きます。またこの五徳を五常(ごじょう)とも言い、個人が日常的に修養を通じて必要とするものと説いています。五常は孟子の回で紹介した五倫(ごりん)とともに儒教の基本となります。倫理分野では五常も覚えましょう。

 自然現象を起こす、社会現象を起こす人は相互に対応するとするのが天人相関説で、董仲舒はこれを陰陽五行説と絡めています。そこで、前回も登場してきているこの陰陽五行説もここで説明しておきます。陰陽説と五行説があわさって誕生した思想で、諸子百家の中では陰陽家と呼ばれ、前回登場の鄒衍(すうえん。B.C.305?-B.C.240)が代表的です。陰陽説は三皇五帝の1人とされる伏羲(ふくぎ)が唱えたとされ、あらゆる事物事象、現象が陰のグループと陽のグループに分かれ、まず陰のグループは"おとなしい"、"暗い(闇)"、"女性的"、"柔らかい"、"水"、"夜"、"日向"など、陽のグループは"剛健"、"明るい(光)"、"男性的"、"固い"、"火"、"昼"、"日陰"などに分けられます。万物は、陰と陽の二つの気によって対立や盛衰を繰り返し、やがて交合・調和して初めて構成されるというものです。
 五行説とは、(か。B.C.2070?-B.C.1600?)王朝の創始者である(う。B.C.21世紀頃)が名付け親とされており、木(もく)・火(か)・土(ど)・金(ごん)・水(すい)の5つの要素で万物が構成されたり、変化したりするという思想です。木は春、木星、東方、青や緑、木曜日、甲・乙、寅・卯、怒りなど。火は夏、火星、南方、紅、火曜日、丙・丁、巳・午、喜びなど。土は季節の変わり目(土用。立夏・立秋・立冬・立春に至るまでの時期。日本では立秋前の夏の土用が有名)、土星、中央、黄、土曜日、戊・己、辰・未・戌・丑、思慮など。金は秋、金星、西方、白、金曜日、庚・辛、申・酉、悲しみなど。水は冬、水星、北方、黒、水曜日、壬・癸、亥・子、恐怖や驚きなど。つまり、五行によって四季が巡り、十二支、十干、方角などが示されます。五行から生まれた言葉に、青春(木)、朱夏(火)、土用の丑の日(土)などがあります。陰陽家の鄒衍は陰陽説と五行説をつなげ、陰陽の消長盛衰と五行の運行で、自然、人間、社会のすべての事象・現象・変化が成り立つとしています。これにより、暦ができたり(十干、十二支)、風水の占いが生まれたり、日本では天体の運行や暦などで吉凶を占う陰陽道(おんみょうどう)が登場するなど、影響力は非常に強いです。また本編に登場した讖緯思想も陰陽五行説の影響を受けています。説明が長くなりましたが、天が陽、人が陰にあてはまり、陰陽が調和されて自然の秩序が保たれることで、と、天命を受けた天子が調和されることで天下太平となるという説明です。
 董仲舒は儒教の重要性を説得する際、天人相関説や災異説などを、古くからの陰陽五行説と絡めて説明しています。自然に陰と陽があるのと同様、行政や社会にも有徳と無徳があり、自然災害がおこるのは為政者の交替や農民一揆など、社会変動の予兆を知らせるものであるという内容です。天人相関説は大学受験ではマイナー事項で、倫理分野で"天"の説明として少々聞かれる程度です。災異説は世界史受験はもちろんのこと、倫理受験でも書かされることはないですが、ここで受験事項とはあまり関係の無い説明をすると、災異説は日本ではのちに"徳政(とくせい)"の語に派生し、災異がおこると人民救済の社会政策をおこない、徳のある行政で、もとの安定期に戻ろうとします。しかしこうした本来の"徳政"の意味が変わっていき、鎌倉時代になると、文永・弘安の両戦役(ぶんえい・こうあん。1274,1281。元寇のこと。げんこう)で債務に苦しむ御家人に対して、安定期に戻らせようとした永仁の徳政令(1297)が発せられ、債権者の債権放棄(借財帳消し)を実行します。こうなると元来の民に対する思いやりのある、徳のある政治とは別物のような気がしますね。

 さて、魏晋南北朝時代は清談(せいだん)の流行や竹林の七賢(ちくりんのしちけん)の登場で流行した老荘思想、仏図澄(ぶっとちょう。ブトチンガ。232?-348)や鳩摩羅什(くまらじゅう。サンスクリット名では"クマラジーヴァ"。344-413(350-409説もあり))の仏教伸展、北魏(ほくぎ。386-534)の道教国教化などで、儒教は冬の時代でありました。儒教の復活はあるのか?。儒教の歴史はまだまだ続きます。

(注)紀元前は年数・世紀数の直前に"B.C."と表しています。それ以外は紀元後です。
(注)ブラウザにより、正しく表示されない漢字があります(("?"・"〓"の表記が出たり、不自然なスペースで表示される)。王莽の"莽"の"大"の部分ですが、正しくは"犬"です。この字は表示不可能なため(正字はMingLiUフォントで確認できます)、"莽"で統一しました。

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