世界史の目-Vol.239-

儒教の世界・その5
科挙と儒学

その1・孔子の誕生はこちら  その2・孟子の思想はこちら
  その3・性悪説と法治主義はこちら その4・漢王朝の儒教はこちら

 魏晋南北朝時代(220-589)で不振だった儒教は、時代(ずい。581-618。とう。618-907)に学問・儒学の分野で息を吹き返した。それは官吏任用試験・科挙の登場である。魏晋南北朝時代の官吏任用制度は、(ぎ。220-265)の文帝(ぶんてい。位220-226。曹丕。そうひ)の治世で始められた九品中正法(きゅうひんちゅうせい。九品官人法)が、主に南朝ですすめられていたが、貴族勢力の世襲化をもたらし、有能な官僚が出揃うことがなく、官僚の腐敗が進行していた。そのため、隋の文帝(ぶんてい。位581-604。楊堅。ようけん)は試験による任用を導入し、家柄で選ぶのではなく、試験の結果に重きを置いて、優秀な人材を選出したのである。この科挙は唐代にも受け継がれ、儒学者の知識が科挙によって発揮される時代が到来したのである。

 隋代末期、国子監(こくしかん。国家の最高学府)の長官(国子祭酒。こくしさいしゅ)にのぼりつめた、河北省出身の儒学者がいた。名を孔頴達(くようだつ。こうえいたつ。574-648)といった。唐代になり、孔頴達は統一者である太宗(たいそう。位626-649。李世民。りせいみん)の信任を得て十八学士の1人となり、『詩経(しきょう)』、『書経(しょきょう)』、『易経(えききょう)』、『春秋(しゅんじゅう)』、『礼記(らいき)、以上の五経(ごきょう。ごけい)の国定解釈書の編纂事業を任された。
 後漢(ごかん。A.D.25-220)から魏晋南北朝時代にかけての儒学は注釈が中心であり、非統一の時代を経たこともあって地域によって注釈の統一感はなく、諸々の学説が存在する状態であった。太宗は唐の統一事業の一環として、儒学の注疏(ちゅうそ。註疏。注釈のこと。経書を解釈した注と、それをさらに解釈した疏。また、経書などの本文の字句に詳しく説明を加えたもの)を統一させようとしたのである。太宗は633年にまず山東省の学者・顔師古(がんしこ。581-645)に五経の校定(こうてい。古書などの本文の異同を他書と比較検討し、正しい本文を定めること)を任じ、五経の定本を完成させた。
 顔師古の完成させた定本を基礎に、孔頴達における国定解釈書の編纂が行われた。640年、『毛詩正義(もうしせいぎ。詩経の疏)』、『尚書正義(しょうしょせいぎ。書経の疏)』、『周易正義(しゅうえきせいぎ。易経の疏)』、『春秋正義(しゅんじゅうせいぎ。春秋の疏)』、『礼記正義(らいきせいぎ。礼記の疏)』から成る『五経正義(ごきょうせいぎ)』が成立した(二度の改訂を経て653年に完成。180巻)。経典解釈の基本文献となった『五経正義』はその後の科挙の標準テキストとなった。これまで行われてきた、経書の字句解釈を目的とし、経書注釈をおこなう訓詁学(くんこがく)はここにおいて大成された。

 太宗は儒学の注疏統一によって儒学の固定化を図ったが、宗教としては、儒教は古典宗教としてみられ、仏教や道教が注目されていた。よってこうした背景から儒教や儒学は次第に形式化され、特に儒学は科挙に合格するための道具として使われ、『五経正義』を丸暗記すれば合格できる構図が出来上がってしまった。さらに定本化・注疏統一によってその後の注釈が出にくい状態を作り出してしまう結末となり、共通した教養だけが繰り返され、盛唐(8C初-8C半)の時代が到来しても、儒教・儒学の進化は停滞せざるを得なかった。

 中唐(8C半-9C半)の時代は安史の乱(755-763)による混乱で国家体制も弱体化が進み、貴族勢力は没落が激化、官僚勢力の台頭がおこった。儒者官僚が増えることにより、彼らの発言権が次第に強くなり、注疏の批判もわき起こった。もともと魏晋南北朝時代の、特に江南の六朝時代から続く四六駢儷体(しろくべんれいたい。1句の字数は4字句・6字句が基調)を基とする文章は華麗かつ修辞的で、美しく巧妙に表現されていた反面、四六調に合わせるための空疎な言葉遊びとして批判する文章家(文人。ぶんじん)や士大夫(したいふ。文人と地主を併せ持つ官人)ら儒者官僚が唐代に多く出現していた。彼らは駢儷体が生まれる以前の(特に春秋戦国時代頃。B.C.770-B.C.221)、しっかりとした事実や思想家の打ち立てた論理・論証を述べる文章・文体・言葉に回帰することで、唐代の形式的な儒学ではなく、真の儒学を追究できると考え、国勢が復活すると考えられた。こうして古文復興運動が儒者官僚たちの中で行われていった。その代表が唐宋八大家のメンバーである韓愈(かんゆ。768-824)であった。
 韓愈は四六駢儷体を美辞麗句の集まりと批判して古文復興を進めると同時に、仏教や道教の批判者としてその名が知られた。そのため崇仏派の皇帝からは疎遠されるなどして辛酸をなめたが、820年に才能が認められて国子祭酒を勝ち得た人物である。彼は春秋・戦国時代の、まさに儒教が生まれた時代から受け継がれる精神を古文の文章から求めていったことで、それが儒教・儒学の復興につながっていった。さらに韓愈と同じく唐宋八大家の一人である柳宗元(りゅうそうげん。773-819)も古文復興運動に参加し、盛唐から中唐にかけて活躍した李白(りはく。701-762)と杜甫(とほ。712-770)とともに、李杜韓柳(りとかんりゅう)という、四大文学者の並称が定着した。

 古文復興運動は儒教研究を再び奮い立たせ、人としての道と(とく)の規範や、物事の正しい筋道ことわり。道理、条理、倫理、理念、論理など。これらを含む概念を""という)を追求することを目覚めさせた。さらにこれにあわせて韓愈は、論文『原性(げんせい)』において性三品説(せいさんぽんせつ)という人性論を支持した。この学説は前漢(ぜんかん。B.C.202-A.D.8)の董仲舒(とうちゅうじょ。B.C.176?-B.C.104?)が、生まれながらもっている(せい。本性)を、上品は知者、下品は愚者、中品は上下の中間者と、上中下の品格に分けるといもので、韓愈はこれを道徳的な見地に立って性三品説を提唱し、独自の道徳論を展開した。またこれに異論を唱える儒学者も登場するなど、儒教研究が再燃していった。

 中唐以降の儒教における理論的諸展開は、(そう。960-1279)の時代になってさらに進化していった。それは宋学(そうがく)という、新しい儒学の誕生を見るのであった。


 隋唐時代の儒教は科挙が始まって再び脚光を浴び、立派な注釈書『五経正義』が誕生したものの、以後の注釈が停滞し、形式的になってしまいました。しかし言い換えれば、生活や社会に密着した、安定した宗教・学問でもあったと思います。孔頴達の『五経正義』はいわば学校で使用する教科書のようなもので、"ある"ということが当然の存在で、大きく取り沙汰されるものではなかったからかもしれません。ただ訓詁学が現れて以降は、儒教は経典の注釈が中心で、新たな儒教が出てくることはあまり無かったことを考えてみると、宋学が誕生するまでは、やはり儒教の勢力は他の仏教や道教に比べて、ややおとなしかったという見方も否定できません。何せ唐の仏教は玄奘(げんじょう。602-664。三蔵。さんぞう)や義浄(ぎじょう。635-713)がでたり、道教も民間に広まっていますから。

 今回の大学受験世界史の学習ポイントは唐の孔頴達が編纂した『五経正義』が科挙のテキストになったこと、後半に古文復興が行われ、韓愈や柳宗元が登場したこと、この2点に尽きると思います。他には顔師古という人物も出てきましたが、掲載している用語集もあるので中国史を難しく出題する難関大では要注意かもしれません。

ちなみに五経の説明を簡単にしておくと、『易経』は占い関係("易者"という言葉がありますね)を中心に、自然界の法則などを述べた書、『詩経』は詩歌関係の書、『書経』は古代の統治者の言行録、『春秋』は孔子(こうし。B.C.552?/B.C.551?-B.C.479)の祖国・(ろ。B.C.11C-B.C.249)をメインに春秋時代(しゅんじゅう。B.C.770-B.C.403)を綴った編年体歴史書、『礼記』は""に関する編纂書です。

 さて、次回は新しい儒学、宋学が登場します。日本にも大きな影響を与えた、あの儒学が誕生します。

(注)紀元前は年数・世紀数の直前に"B.C."と表しています。それ以外は紀元後です。
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