世界史の目-Vol.24-

古代エジプト文明(B.C.3000~)

 6690kmという世界最長の大河を誇るナイル川は、その下流で大規模な文明をひきおこした。ギリシアの歴史の父ヘロドトス(B.C.484頃~B.C.425頃)が「エジプトはナイルの賜(たまもの)」という名言を残していることからも明らかなように、ナイル川は、エチオピア高原での豪雨によって、下流域では6月水位が上昇、氾濫を起こし、11月には水が引いて、大地は肥沃な泥土が残される。この定期的な自然の働きによって、生産力の高い灌漑耕地を生み出す形となった。

 この流域には、ハム語族のエジプト人が、いくつもの小さな集落国家を形成していた。この集落国家をノモスという。ノモスはやがて、下エジプト(しもえじぷと。ナイル下流のデルタ地帯で、メンフィス中心)と上エジプト(かみえじぷと。ナイル中心部。下エジプトより上流。アスワン付近まで)に分けられていたが、B.C.3000年頃、上エジプト王メネス(在位年不詳。別名ナルメル)が上下エジプトを統一し、第1王朝を開基した。作られた統一国家では、神権的専制君主の称号として、「大きな家」を意味する"ファラオ"を用いた。

 また、文化・社会面においても、エジプト独自であった。エジプト人が創始した表意文字(象形文字)は、表音化され、書体でも様々な形で用いられた。たとえば、石碑や石棺などに刻み込まれるヒエログリフ神聖文字)は、ナポレオンがエジプト遠征の時に発見したロゼッタ=ストーンの碑文などでみられる。この碑文は、フランスの学者シャンポリオン(1790~1832)が解読に成功したことで有名である。他にも、宗教書・公文書・文学作品などに書かれるヒエラティック神官文字)という文字があり、パピルス草("paper"の語源)から作った紙にインクで書かれる。また日常的に使われる最も簡単なデモティック民用文字)もあった。ヒエログリフ・ヒエラティック・デモティックを総称してエジプト文字という。

 慣習では、多神教信仰が行われ、その主神は太陽神のラーであった。また死後の世界をつかさどるオシリス神にもとづいて、霊魂不滅と再生を信じ、死者をミイラにして保存、オシリスの審判に備え、死者の生前の善行や呪文を「死者の書」としてパピルスに記し、副葬した。学問では、ナイルの氾濫期にあわせた農作業を行う必要から、1年12ヶ月365日とする太陽暦が用いられ、後にローマで採用されてユリウス暦となった。またナイル氾濫後の土地の復元のため、測地術が実用化され、幾何学の起源となった。

 この古代エジプト王国は、31の王朝が興亡し、以下のようにと区分される。
①初期王朝期(B.C.3000頃~。第1・第2王朝)
古王国時代(B.C.2650頃~。第3~第6王朝)
③第1中間期(B.C.2120頃~。第7~第10王朝。第7・第8王朝までを古王国時代とする場合もある。)
中王国時代(B.C.2020頃~。第11・第12王朝)
⑤第2中間期(B.C.1793頃~。第13~第17王朝)
新王国時代(B.C.1550頃~。第18~第20王朝)
⑦末期王朝期(B.C.1069頃~B.C.332。第21~第31王朝)

 最初に繁栄した古王国時代では、下エジプトのメンフィスに都がおかれた。現人神(あらひとがみ)としてのファラオ専制神権政治はこの時期に確立したと言っていい。当時のファラオの偉大さは、この時代に作られた巨石墳墓ピラミッドで示される。初期王朝時代から王墓は建設されていたが、その頃はマスタバといい、ピラミッドほどの巨大さではなかった。第4王朝期に登場した暴君・クフ王(位B.C.2570頃~B.C.2531頃)は、現在のカイロの対岸にあたるギゼー(ギザ)において、ピラミッド建設者や奴隷を酷使して、平均2.5㌧の石が230万個積み上げられ、世界最大のピラミッドを造営した(完成当時の高さ146.52m、完成当時の底辺の一辺233m)。ギゼーには、クフ王以外にも2王のピラミッドが造営されている。

 第1中間期はファラオの弱体化などによりノモスが独立し、混乱の時代だった。しかし、上エジプトのテーベ(ナイル中流。現ルクソール)で再統一がおこされ、これを都に中王国時代(第11・第12王朝)がスタートした。テーベでは、守護神アモン(アメン)を有力とし、有名なカルナク神殿が残された。こうしてテーベを中心に、政治・経済・宗教において大いに繁栄したが、第12王朝末期になると、セム語系を中心とする遊牧民族・ヒクソスがシリア方面から侵入し、中王国を支配してしまった。

 ヒクソスは馬と戦車を巧みに使用し、ナイルのデルタ地帯に本拠を築き、100年余りエジプトを支配したが、テーベにトトメス1世(位B.C.1504頃~B.C.1492頃)による第18王朝がおこって新王国時代が到来すると、ヒクソスを追放してエジプトを再々統一した。トトメス1世は、テーベ西郊、ナイル左岸の岩山に、王室の石室陵墓を建設した。これを"王家の谷"という。その後は子トトメス2世が統治したが、生来病弱で早世したため、子のトトメス3世(生没年不詳)が幼少で即位した(位B.C.1479頃~B.C.1425頃/B.C.1504頃~1450頃)。しかしトトメス2世の死後実権を握ったのは、トトメス2世の正妃ハトシェプスト女王(位B.C.1473頃~B.C.1457頃/B.C.1504頃~B.C.1482頃)で、トトメス3世をおさえて"王"と称し、プント(現在地不明。紅海沿岸地域か?)に船団をおくって交易を行い、香木などがエジプトにもたらされた。軍事的な遠征は女王の在位期間は行われなかったらしく、アジア諸国からの朝貢が滞るも、徹底して平和政策をつらぬいた。カルナク神殿には彼女の大オベリスク(太陽崇拝のための石柱)が残存する。

 そして、女王の死後、新王国最大の王、トトメス3世の治世がやってくる。彼は「古代エジプトのナポレオン」とも称され、朝貢を怠ったアジア諸国へ、20年間に17回もの遠征を行った。シリア地方からナイル上流ヌビア(現スーダン)を征服し、当時の世界帝国アッシリア(B.C.2000初頭~B.C.612)やインド=ヨーロッパ語族系のヒッタイト人が建設したヒッタイト帝国なども朝貢に応じ、エジプトの帝国領土は最大となった。テーベのカルナク神殿にあるトトメス3世の葬祭殿壁面には彼の功業が記録されている。

 宗教・文化面で大規模に改革を施したのはアメンホテップ4世(異端王。位B.C.1380頃~B.C.1360頃)である。このころのテーベでは、守護神アモンが主神ラーと結合して(アモン=ラー)、広大に普及しており、これを崇拝する神官団の権力が増大していたため、王は脅威にさらされていた。アメンホテップ3世(位B.C.1338頃~B.C.1350頃)の子として10代で王位に就いたアメンホテップ4世は、この情勢を見て、遂にアモン信仰を捨て、同じ太陽神アトン(アテン)による最古の一神教崇拝を強要した。そして首都をテル=エル=アマルナに遷してエクトアテン(アケトアテン。アテンの地平線)と名付け、王もイクナートン(アクエンアテン。アテン神に有用な者)と改名した。文化面では、真実を第一義と考えたイクナートンが、これまでの伝統を捨て、写実的で生き生きとした芸術をのこした。エジプト史上、最も例外的な美術様式で、アマルナ美術とよんでいる。

 しかし、従来の伝統を捨てて行った改革は、内外含めて長く続かなかった。これまで他国と書簡を交わし(アマルナ文書。楔形文字を使用。アッカド語で粘土板に刻み込まれた)、ヒッタイト王・バビロニア王・アッシリア王相手らと外交関係を広大に保っていたが、晩年のイクナートンは、軍事を捨てて平和政策を徹底していたため、結局ヒッタイト勢力らが南下して地中海東岸のアジア領が失われた。アトン信仰も、アモン神官団の反撃にあって没落し始め、イクナートンは失意のうちに没したとされ、これによってアマルナ革命は終わりを告げ、同時に旧都テーベでは反アトンの神官団によるアモン信仰復活が企図された。

イクナートンの女婿トゥト=アンク=アトン(生没年不明)は、10代前半の時、アモン・テーベの傀儡政権として擁立され、名前も"生けるアモン神の像"を意味するツタンカーメン(トゥト=アンク=アメン。位B.C.1333頃~B.C.1323頃/B.C.1358頃~B.C.1349頃)と改められた。ツタンカーメンは年少で、もともと病弱の身だったため、地方の有力神官の勢力が台頭し、王権も衰退した。アモン信仰の復活とテーベ再遷都によって、アメンホテップ3世から続いたアマルナ時代も終焉をむかえ、ツタンカーメンも若くして死亡した。A.D.1922年、ツタンカーメンの墳墓が、"王家の谷"で発見され、そこからは豪華な副葬品が出土して話題を呼んだ。

 その後盛時が戻り、第19王朝が開基された。父セティ1世のあとをうけて即位したラメス2世(ラムセス2世。位B.C.1290頃~B.C.1224頃/B.C.1304頃~B.C.1237頃/B.C.1279頃~B.C.1212頃)は、シリアに進出して、その覇権をめぐってヒッタイト・ムワタリ王と戦った(カデシュの戦い。B.C.1275?/B.C.1286?)。その結果、現存する最古の国際条約をヒッタイト・ハットッシリ3世と結び(B.C.1269)、ヒッタイトの王女と結婚した。これにより、エジプトとヒッタイトは相互援助をおこない、エジプトはアジアから撤退した。また国内ではテーベにラメセウム、ヌビアにアブシンベルといった神殿の大建築を実施して長期治世を誇った。またセム語系ヘブライイスラエル預言者であるモーセ(モーゼ B.C.1350頃~B.C.1250頃)が生存していたのもラメス2世の時とされている。モーセは、ファラオの奴隷とされ、圧政に苦しんだヘブライの民を率いてエジプトを脱出している。これが有名な出エジプト(Exodus)である。

 B.C.12世紀ごろになると、エジプトの勢力は徐々に衰退傾向となっていく。第20王朝では、ラメス3世(B.C.1197頃~B.C.1165頃/B.C.1182頃~B.C.1151)の時、北西から侵入してきたリビア人を撃退(B.C.1178/B.C.1172)、またパレスチナに植民した"海の民"一派ペリシテ人の侵入を阻止する(B.C.1175)など、外敵の撃退は成功したものの、国内では、政治腐敗が進行して衰運著しくなった。新王国時代が終わり、第21王朝期では、異民族支配を余儀なくされ、リビア人による王朝(第22~24王朝)や、ヌビア出身のクシュ人による第25王朝が建設された。B.C.671年には、ついにアッシリアに支配されて、世界的統治をアッシリアに明け渡した。

 アッシリアが崩壊(B.C.612)したあとは、エジプト第26王朝がエジプト人の手によって独立したが、すぐさま大国アケメネス朝ペルシア(B.C.550~B.C.330)のカンビセス2世(B.C.529~B.C.522)に支配され(B.C.525)、最終的にはマケドニアのアレクサンドロス大王(位B.C.336~B.C.323)に征服されて(B.C.332)、31の王朝を誇った古代エジプト王国は崩壊し、B.C.304年にプトレマイオス朝(B.C.304~B.C.30。首都アレクサンドリア)が登場するまで、エジプトは沈黙の時代となった。

 インダス文明に続く古代文明の登場です。ピラミッド、カルナク宮殿、スフィンクスなど、エジプト文明で残された産物は、ロマンそのものですね。

 では、ポイントを幾つか説明しましょう。エジプト人はハム語族に属します。高校世界史の学習において、ハム語系が登場するのはエジプト人だけです。穴埋めで「ハム系の(   )人が・・・」ときたら間違いなくエジプト人です(ただし、ベルベル人もハム系ですので、超難関私大ではたまに出題されることもあるかもしれません)。

 「死者の書」はよくテレビ番組でも紹介されるので、見たことのある人は多いと思います。目・肩・胴体を正面から描いて、それ以外を横向きに描く独特の描法です。空間には文字を施しています。文字といえば、ヒエログリフ・ヒエラティック・デモティックはそれぞれどういう時に書かれるのかもあわせて知っておきましょう。

 古代エジプトでは、重要人物を多数登場させましたが、重要神も多数登場させました。ラー、アモン(アモン=ラー)、アトン、オシリスなどですが、出題傾向は高いです。アメンホテップ4世の時はアトンの一神教信仰で、彼以外の王の治世では多神教信仰です。

 年代ですが、古代エジプトのファラオの在位年は確証がなく、学説がいくつかあるので、だいたい何世紀頃の人物かだけをおさえておけばいいと思います。あわせて、古王国はB.C.2700頃、中王国はB.C.2000頃、新王国はB.C.1600頃にそれぞれ開始と覚えておきましょう。

 王国が発展すると、チェック項目もいろいろ出てきます。ヒクソス侵入は必須ですが、ヒクソスといえば馬と戦車の使用を知っておいて下さい。最も覚えなければならないのは新王国時代の内容です。私の頃は、トトメス3世・アメンホテップ4世・メス2世の3大王が必須でして、"トトメス、雨降ってつらい"といった覚え方を予備校で教わりましたが、新課程では、トトメス3世とラメス2世はあまり出なくなってしまいました。よって新王国ではアメンホテップ4世と、彼が実施したアマルナ改革の内容(テル=エル=アマルナ遷都、アトン一神教など)を最低限チェックしておいて下さい。またアッシリアの支配とアレクサンドロス大王の征服した年代(それぞれB.C.525とB.C.332)も知っておくと便利です。また余談ですがB.C.612年路頭に迷うアッシリア)に世界帝国アッシリアが崩壊して4王国分立時代が到来しましたが、この4王国とは、エジプト(第26王朝)・リディア(小アジア南西部。世界最古の鋳造貨幣使用)・メディア(イラン地方)・新バビロニア(カルデア。メソポタミア地方)の4つです。リディアの鋳造貨幣は超重要で、これによってギリシアのポリスで貨幣経済が普及したわけです。

 さらにクシュ人が登場しましたが、彼らの建てたクシュ王国(B.C.920頃~B.C.350頃)は最古の黒人王国です。後にメロエ王国と改称しましたが、アクスム王国(紀元前後~572?/940?/1137?)に滅ぼされました。ちなみにアクスム王国は現エチオピアの前身です。 

 最後に、ツタンカーメンについてですが、先日彼に関するニュースをやってました。彼のミイラをCTスキャンで調査して、彼の死因を調べるというもので、従来、殺害説と病死説で論争が繰り広げられましたが、今回の調査でも分からなかったらしく、いまだ謎に包まれています。私も若かった頃に(今も若いです。一応...)、"ツタンカーメンの呪い"とかいう伝説話を聞いたりしたこともあって、このニュースには非常に興味深いものがありました。

 (2010.2記)マラリアによる病死説も浮上してます。

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