世界史の目-Vol.242-

儒教の世界・その8
明清時代の儒学

その1・孔子の誕生はこちら
その2・孟子の思想はこちら
その3・性悪説と法治主義こちら
その4・漢王朝の儒教はこちら
その5・科挙と儒学はこちら
その6・宋学の発展はこちら

その7・龍場の大悟はこちら

 陽明学(ようめいがく)の祖・王陽明(おうようめい。王守仁。おうしゅじん。1472-1529)は多くの弟子を残し、1529年に没した。そして弟子たちは、王陽明が晩年に説いたとされる四句教の1部、無善無悪の説をめぐって左右に学派分裂をおこした。そもそも無善無悪という語は、古代儒教からの流れを完全に阻むものとして徹底した論議が必要であった。

 右派(王学右派)はこれまでの儒教の道学を尊重し、修養の必要性を主張したが、代表的な人物として銭徳洪(せんとくこう。1496-1574。緒山先生。しょざん)や羅洪先(らこうせん。念庵先生。ねんあん。1504-64)がおり、特に羅洪先は心学の立場を強調しすぎて現実との乖離が生まれ、良知の拡大解釈で感情やが抑えられなくなってきている陽明学の現状を戒める役割を果たした。また朱子学(しゅしがく)の社会に一応の理解を示していたのも右派の特徴であった。
 左派(王学左派)には、王陽明の門弟子である王畿(おうき。1498-1583。龍渓先生。りゅうけい)が""・""・"知"・"物"すべて無善無悪だとして四無説をおこし、日本の中江藤樹(なかえとうじゅ。1608-48。日本陽明学の祖)にも影響を与えた(ちなみに右派の銭徳洪は四有説を唱える)。また、急進派の王艮(おうこん。1483-1541。心斎先生。しんさい)が中心の泰州学派(たいしゅうがくは)は、日常的な意の発動において良知が確立されているため、事上磨錬(じじょうまれん)の必要がなく、良知の中で生まれた欲求もそのまま実践に移すことでなる理想社会が実現されると主張した。
 そして、これら王学左派のなかで最も存在感のあった人物が、(みん。1368-1644)末の李贄(りし。李卓吾。りたくご。1527-1602)であった。

 李贄は福建省の出身で、1555年から1580年まで地方官を中心に歴任し、その後王学左派の論客と出会い、なおいっそう急進的な思想をかかげていった。1590年には『焚書』を著し、これまでの道徳や道理にとらわれ過ぎて世情に疎くなっている儒学者、朱子学者、道学者たちを痛烈に批判したため、政府より国家的圧力がかけられた。一方で彼は、南京でイエズス会宣教師のマテオ=リッチ(1552-1610。中国名は利瑪竇。りまとう)と3度会見し(1598)、キリスト教の理解も示したとされている。翌1599年には『蔵書』を著したがこれは禁書となり、迫害を逃れて北京に入るが逮捕され(1600)、獄中で自殺した(1602。李贄自殺)。彼の著書は次の(しん。1616-1912)の時代になっても禁書は解かれなかった。

 李贄は偽りのない童心(真心)を重視した人物である。陽明学の良知の究極が童心であり、純真な心を持つ人が人の本来あるべき姿で、これが年齢を重ねていくごとに私欲が生まれ、不完全者となる。童心に帰ることをで理想の社会が実現されるという思想から、明末の混乱期を生きた李贄はこの有様を不完全な人間たちが創り出した歴史として批判、礼経主義を偽善とし、孔子(こうし。B.C.552?/B.C.551?-B.C.479)や孟子(もうし。B.C.372?-B.C.289)といった儒教の聖人であっても私欲を持ち、完全者は存在しなかったとして、危険思想家・反儒教主義者・急進的自由主義者として国家の反逆者、儒教の異端児と位置づけされてしまったのであった。

 当時の明朝は、15世紀後半から続く北虜南倭の不安に加え、万暦帝(ばんれきてい。帝位1572-1620。神宗。しんそう)の治世には万暦の三征(さんせい)と呼ばれる三大戦争、つまり貴州省の土豪・楊応龍(ようおうりゅう。1551-1600)の反乱(1591-1600)、日本の朝鮮侵犯(1592-93,97-98。壬辰・丁酉の倭乱。じんしん・ていゆう。日本語名は文禄・慶長の役。ぶんろく・けいちょう)に対する援軍派遣、中国西北部の寧夏(ねいか)で起こったモンゴル人兵士・哱拜(ボハイ。1526-92)の反乱(1592)が続発、その後も東北地方の女真族との交戦もあり、結果軍事費が増大、財政が逼迫していた。このため、民に重税を課しつけ、社会の不安は大きく膨らんだ。またこの増税に関し、宦官と手を結んで政界を牛耳ようと画策する官僚たちに対して、東林派(東林党)と呼ばれる反対派が顧憲成(こけんせい。1550-1612)をリーダーに対立を深めた。顧憲成は、宰相張居正(ちょうきょせい。1525-82。任1572-82)に不満を呈して左遷され、その後万暦帝にも後継者問題に直接上奏したがために免官となった(1594)。故郷の江蘇省に帰った顧憲成は、南宋(なんそう。1127-1279)の時代に江蘇省の無錫(むしゃく)にかつてあった、二程程顥。ていこう。1032-1085。程頤。ていい。1033-1107)の学問を講じる東林書院(東林学院)を同地に再建(1604)、顧憲成はみずから講学を行い、当時の宦官中心に政情を動かす明朝政府を批判した。また東林党は陽明学についても王学右派を支持し、無善無悪を主張する王学左派の思想を行き過ぎとして批判した。しかし人の欲求については左派の教説をすべて否定したわけではなく、その欲求の調節や統制を行うことで""を窮めることができるとした。顧憲成は1612年に没したがその後も東林書院は後継者が続いた。

 東林党に対して、宦官と結んだ官僚たちは非東林派(非東林党)を結成し、東林党と大きな政争へと発展していった。万暦時代末期には宦官・魏忠賢(ぎちゅうけん。1568-1627)が非東林党と結託した。魏忠賢はその後、天啓帝(てんけいてい。帝位1620-27)に接近して権勢を振るい、朝廷を批判する東林党の壊滅を画策した。逆に東林党は"24の大罪"をかかげて魏忠賢の追放を図ったが、結局皇帝を背後に強権を握った魏忠賢が東林党の大弾圧を行い、その要人たちは悉く逮捕され、東林書院も閉鎖となった。しかし魏忠賢も天啓帝没後に即位した弟の崇禎帝(すうていてい。毅宗。きそう。帝位1627-44)に睨まれて謀殺され(1627)、この政争は終わった。

 明代に官学となった朱子学であったが、こうした状況から宦官の専横など王室や政局、さらには社会の大混乱をきたしてしまい、修学修養の必要性が疑問視された。また、主観的な行動を重視した陽明学も現実との遊離が顕在化し、空論と化してしまった。このため、東林党の主張を尊重していた崇禎帝は、学問というのは社会問題の改善のためになくてはならないとし、徐光啓(じょこうけい。1562-1633)といった暦学・数学者を重用、経世致用の学(けいせいちよう。治世に役立つという意味)という実学(じつがく。社会に有益な学問の意)に基づく国政改革を施した。代表的な作品として、徐光啓の農業書である『農政全書(のうせいぜんしょ)』、および暦書の『崇禎暦書(すうていれきしょ)』、学者・宋応星(そうおうせい。1590頃-1650頃)の著した産業技術図解書の『天工開物(てんこうかいぶつ)』などがあり、万暦帝時代にでた本草学者・李時珍(りじちん。1518-93)の薬物書の『本草綱目(ほんぞうこうもく)』も再版された。他にも計成(けいせい。1582-1642)作の造園技術書、『園冶(えんや)』が崇禎帝時代に刊行された。
 こうした風潮から、儒学においても確実な証拠を探ることを重視して古典に帰り、経書や歴史書を文献に研究や解釈を客観的に行い、当時書かれた内容を明らかにして、真意を探る傾向が生まれた。それは経学(けいがく。経書解釈の学問)を追究する際、これまでの代(そう。960-1279)や代(みん。1368-1644)で研究されてきた"理"や"性理"などの宋学(そうがく。宋明理学。そうみんりがく)に代わり、代(かん。B.C.202-A.D.8、A.D.25-220)の古文学(こぶんがく。古文経学)の実証的研究が重視されるようになり、さらには経学だけでなく、歴史学や音韻学も研究対象になった。これが考証学(こうしょうがく。漢学。かんがく)で、明末清初にでた黄宗羲(こうそうぎ。1610-95)や顧炎武(こえんぶ。1613-82)、王夫之(おうふうし。1619-92)らが活躍した。黄宗羲の父(黄尊素。こうそんそ。1584-1626)は東林党であったが、魏忠賢の大弾圧に遭い獄死しており、黄宗羲は父の遺志を継いで、復社という東林党の流れを汲んだ秘密結社に参加、清朝に仕えず郷里の浙江省で考証学に専念、『明夷待訪録(めいいたいほうろく)』などを著した。黄宗羲は清朝によって南に追いやられた明朝政権を再興するため、1649年に日本を訪れて援軍要請したこともあった(これを"日本乞師"という。にほんきっし。当時日本は鎖国のため、要請は不成功に終わる)。復明運動に積極的だった儒学者は他に、日本を訪れ水戸藩主徳川光圀(とくがわみつくに。1628-1701)に招かれて後の幕末志士に影響を与え、日本に帰化した朱舜水(しゅしゅんすい。1600-82)が有名である。
 顧炎武や王夫之も清朝に仕えず反清復明活動を行った。陽明学を批判した顧炎武は政治経済、地理、天文、歴史など諸学問を結集した『日知録(にっちろく)』や、音韻についての『音学五書(おんがくごしょ)』などを著し、王夫之は『春秋(しゅんじゅう)』や司馬光(しばこう。1019-86)が著した編年体の歴史書『資治通鑑(しじつがん。294巻)』の研究を行い、『春秋家説(しゅんじゅうかせつ)』『春秋世論(しゅんじゅうせろん)』『読通鑑論(どくつがんろん)』などを残した。彼ら考証学者の登場で、儒教だけにとらわれない、様々な分野の学問に広がって研究された。
 清朝になり、考証学は彼らを模範に引き継いだ閻若璩(えんじゃくきょ。1636-1704) によって確立され、彼は清朝考証学の祖とされた。清朝では、乾隆帝(けんりゅうてい。帝位1735-95)から嘉慶帝(かけいてい。帝位1796-1820)の時代にかけて全盛を極めた。このため、この時代の考証学を"乾嘉の学(けんか。乾嘉学派とも)"と称され、戴震(たいしん。1724-77。著書『孟子字義疏証(もうしじぎそしょう)』など)、銭大昕(せんたいきん。1728-1804。『続文献通考(ぞくぶんけんつうこう)』『大清一統志(だいしんいつとうし)』などを編纂)、段玉裁(だんぎょくさい。1735-1815。著書『設文解字注(せつもんかいじちゅう)』など)、恵棟(けいとう。1697-1758。著書『易漢学(えきかんがく)』など)といった著名な考証学者がでた。とくに銭大昕は全100巻の『二十二史考異(にじゅうにしこうい)』は、過去の名だたる歴史書を追究した大作で、のちの中国史学研究に多大な影響を与えたとして、銭大昕としてだけでなく清朝考証学を代表する作品である。

 しかし清朝では満州民族の漢人支配の一環で"文字の獄"や"禁書"といった厳しい言論統制策があったため、こうした学者たちの政治的な指摘などは処罰の対象とされた。よって考証学は経世致用の学問としての性格は失われていき、古典研究中心の学問に変わっていった。そして、乾隆帝の治世後半では『春秋』の注釈書『公羊伝(くようでん)』を正統としてこれを研究した公羊学(くようがく)が再興した(董仲舒の時代に一時隆盛。とうちゅうじょ。B.C.176?-B.C.104?)。公羊学は江蘇省の荘存与(そうぞんよ。1719-88)やその外孫の劉逢禄(りゅうほうろく。1776-1829)らによって始められ、清朝の衰退が見え始めた道光帝(どうこうてい。帝位1820-50)の治世では、儒教の原点を現在に反映させようとした公羊学派常州学派。じょうしゅうがくは)の活動もおこり始めて、清朝末期の康有為(こうゆうい。1858-1927)をはじめとする変法自強運動を高揚した変法派たちに大きな影響を与えた。
 こうして公羊学の隆起と同時に考証学は衰退していった。辛亥革命(1911-12)を担った革命家でもあり、古文経学を重視して清朝で培った考証学を"国学"と言わしめた浙江省の章炳麟(しょうへいりん。1869-1936)が最後の考証学者として名を残した。

 清朝滅亡後の中華民国では、旧文化や旧道徳の一掃が行われ、儒教もその対象となった(文学革命(1917)に始まる新文化運動での儒教弾圧など)。また戦後の中華人民共和国においても文革時代(1966-77)に儒家批判する動きがあった。しかし21世紀に入ると、北京オリンピック(2008)の開会式で『論語(ろんご)』の「顔淵(がんえん)第十二」にある"四海之内、皆為兄弟也(四海の内皆兄弟たらん=世界中の人々はみな兄弟だ)"を朗唱するなど、儒教の再認識も行われている。

 儒教の祖・孔子の故郷である曲阜(きょくふ。山東省)には、孔子を祀る孔廟(こうびょう。コンミャオ)、孔子の子孫の邸宅である孔府(こうふ。コンフー)、孔子とその一族の墓所である孔林(こうりん。コンリン)があり、これらは三孔(さんこう)と呼ばれ、1994年、ユネスコの世界遺産に登録されている。


 「儒教の世界」は遂に完結です。明清時代でしたが、今回は文化史に登場する人たちが続々と登場しました。それだけに大学受験の世界史には頻出用語が満載となりましたね。ではさっそく学習ポイントを見て参りましょう。

 陽明学の大トリとして登場しました李贄(李卓吾)は陽明学左派で、古来の儒教を批判して男女平等を解いた人です。難関大で登場します。銭徳洪、羅洪先、王畿、王艮といった左右両派の面々は受験で書かせることはないと思いますし、出たとしても文献や出題文にみかける程度でしょう。ただ、陽明学左派は日本でも影響を与え、本編登場で藤樹書院を開いた近江聖人、中江藤樹(著書『翁問答(おきなもんどう)』)をはじめ、その門下の熊沢蕃山(くまざわばんざん。1619-91。著書『大学或問(わくもん)』『集義和書』)、大坂町奉行与力を引退後洗心洞(せんしんどう)という私塾で陽明学を講義し、1837年"救民"の旗を立てて反乱を起こした大塩平八郎(おおしおへいはちろう。1793-1837。著書『洗心洞箚記(せんしんどうさつき)』)らがでました。この3人は日本史受験生にとっては重要人物です。

 経世致用の実学では、まず実用書の3大作、つまり徐光啓の『農政全書』、宋応星の『天工開物』、李時珍の『本草綱目』は儒学のテーマ史や考証学よりは明清文化史では必ず出てくる重要用語です。徐光啓関連はマテオ=リッチ(イタリア人)の口述を漢文で著した『幾何原本』や、イエズス会宣教師・アダム=シャールドイツ人。中国名"湯若望"。とうじゃくぼう。1591-1666/68?)と西洋暦学書を翻訳に関わった『崇禎暦書』も余裕があれば知っておきましょう(アダム=シャールは頻出人物です。重要です)。そして、考証学ですが、明末清初の黄宗羲、顧炎武、王夫之は難関私大では重要人物、記述形式であっても書かせる場合はあります。ただ、王夫之は3人の中ではマイナーですので、余裕がなければ前者2人だけでも覚えましょう。3人の共通点は満州族の王朝には仕えず、明の再興に努めた人たちです。黄宗羲の著書『明夷待訪録』、顧炎武の著書『日知録』、王夫之の著書『読通鑑論』も余裕があれば知っておきましょう。
 清朝の考証学者は、乾隆帝から嘉慶帝にかけての時代にたくさん登場しました。受験生が覚える人たちは、戴震、段玉裁、そして大成者銭大昕ですが、こちらは逆に前者2人よりも銭大昕が最も翌出題されます。この人の名は覚えて、余裕があれば編纂に加わった『大清一統志』と『続文献通考』もキーワードとして知っておくと無難です。
 あと、考証学のあとに出た公羊学も覚えて下さい。公羊学は康有為の変法運動でも登場します。本来は"常州学派"といいますが、これは入試には出題されないと思います。

(注)紀元前は年数・世紀数の直前に"B.C."と表しています。それ以外は紀元後です。
(注)ブラウザにより、正しく表示されない漢字があります(("?"・"〓"の表記が出たり、不自然なスペースで表示される)。哱拜(ボハイ。1文字目は口偏に孛、2文字目は左が手、右が拝の右側)。程顥(ていコウ。へんは景、つくりは頁)。閻若璩(えんじゃくキョ。王偏に劇の左側)。銭大昕(せんたいキン。日偏に斤)

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