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世界史の目-Vol.248-

我が祖国よ

 1802年に阮福暎(げんふくえい。グェン=フック=アイン。1762-1820)が始めた阮王朝(グェン。1802-1945。首都はベトナム中南部のフエユエ)。阮福暎は初代皇帝・嘉隆帝(ザーロンてい。帝位1802-1820)として即位し、国号・越南国(えつなんこく。ベトナム。1802-1887)の初代皇帝として国政を行った。なお、越南という国号は中国・朝(しん。1616-1912)によって認められた国号で、2代目皇帝・明命帝(ミンマンてい。帝位1820-41)の治世には"大越南"の意味合いで国号を"大南(だいなん。ダイナム)"と自称した。
この頃は宗主国(保護国に対し外交や軍事などの宗主権を持つ)である清朝の保護下にあったが、19世紀半ばになるとインドシナを狙うフランスがベトナム南部(コーチシナ)に攻め入り(仏越戦争。コーチシナ戦争。1858-62)、フランスは都市サイゴン(現ホーチミン市)を攻め落とし、同市とコーチシナ東部3省の割譲を承認した(1862サイゴン条約)。翌1863年フランスはカンボジアを保護国化し、1867年にはコーチシナ西部3省を占領した(コーチシナ全域支配)。

 1870年代においてもフランスはベトナム北部のトンキン(東京。ドンキン。現ハノイ)を占領(1873年)、これは長続きしなかったが、1882年に再度占領したのを皮切りに、翌1883年にはベトナム中部のアンナン安南)を占領、同年の第一次フエ条約1883。フランス全権大使の名をとりアルマン条約とも)でアンナンはフランスの保護下に置かれた。翌1884年の第二次フエ条約(パトノートル条約)で、越南全土の保護国を確認した(ベトナム保護国化1883,84)。これにより清朝とフランスとの間に清仏戦争(1884-85)が勃発、トンキンは火の海となった。ここでは広東省出身で、ベトナムに亡命して阮朝につかえた劉永福(りゅうえいふく。1837-1917)が、もともと1867年に清に対抗して編成した黒旗軍(こっきぐん)でもって、矛先をフランスに転換して応戦し活躍した。結果、1885年の天津条約で講和し、清朝は越南の宗主権を放棄、トンキンとアンナンのフランスによる保護権を承認した。清朝との関係が断たれてフランスの支配となったが、阮朝の名目的な権限は許され、王宮も残された。時の阮朝第8代皇帝であった咸宜帝(ハムギてい。帝位1884-85)はフエを離れて北方から対仏徹底抗戦の姿勢をみせたが、フランスは咸宜帝の退位を宣言して、第4代皇帝嗣徳帝(トゥドゥックてい。帝位1847-83)の甥にあたる9代目皇帝の同慶帝(ドンカインてい。帝位1885-88)を即位させた。

 ベトナム北部のトンキン、中部のアンナン、南部のコーチシナ、そしてカンボジアがフランスの保護下に置かれ、1887年、ついにフランス領インドシナ連邦仏印。1887-1945)が形成され、ジャン=アントワーヌ=アーネスト=コンスタンス(1833-1913)が初代インドシナ総督に就任した(任1887-88)。その後フランスはタイの支配下にあったラオス諸国にも迫り、タイと仏泰戦争(1893)で対戦後、ラオス保護国化(1893)を決めて1899年にインドシナ連邦に編入した(ラオス、仏領インドシナ連邦編入)。これにて、インドシナ半島のフランス支配が始まった。10代目仏領インドシナ総督で、のちにフランス大統領に就任するポール=ドゥメール(任1897-1902。仏大統領任1931-32)や、11代目総督ジャン=バチスト=ポール=ボー(任1902-07)らによる仏領インドシナ統治が推進され、政治、経済、社会の諸改革を通じて植民地支配を強固にしていった。司法制度を強化し、体制に反するベトナム人は極刑に処せられた。重税を課せられ、外出や日用品の購入は身分証明書がないと許可できなかった。さらに酒類はフランス人の専売のもとで売られ、新聞や印刷物は仏領インドシナ政府の許可のもとに発行された。こうした圧政から、民族主義の立場で反仏と独立を叫ぶベトナム国民も多く、愛国者や知識人層を中心に各地で民族運動が勃発したが、結局はフランスの容赦ない圧力で次々と挫折していった。

 こうしたベトナム民族運動に積極的に参加し、阮朝でもベトナム再興の機会をうかがっていたが、フランスの圧力にねじ込まれたままであった。同慶帝は1889年1月に若くして亡くなり、第5代皇帝であった育徳帝(ズクドゥクてい。帝位1883)の子である成泰帝(タインタイてい。帝位1889-1907)が即位した。成泰帝は欧州文化に興味を持っていたが次第にフランスの圧政に不満を持ち始め、反仏精神を顕示するようになった。また、1904年2月、アジアでは日本がロシアと日露戦争(1904-05)で激突し、日本が連戦連勝を重ねていったことが刺激となり、ベトナム民族運動は昂揚していった。その中でベトナム北中部、ゲアン省出身の儒家の出で、10代から民族運動に関わっていた知識人ファン=ボイ=チャウ(潘佩珠。1867-1940)が決起した。彼は1904年、当時皇族で最もベトナム独立を志していたとされる人物で、阮福暎の直系(5代目)にあたるクォン=デ(彊柢。1882-1951)を盟主に、反仏と主権回復(独立)、そして阮朝の立憲君主制樹立を基本精神とする秘密結社・維新会(いしんかい)を結成した。この組織には、のちのベトナム民主共和国北ベトナム)の初代主席(任1945-69)および初代首相(任1945-55)に就任するホー=チ=ミン(1890-1969)の兄姉も入会していた。また他方では、ベトナム南中部のクアンナム省出身の知識人ファン=チュー=チン(潘周楨。1872-1926)のように、フランスからの独立は共通の意識ではあるが、保守的な帝政を否定した共和政樹立に向けた啓蒙民族運動を展開する人たちもいた。 

 ファン=ボイ=チャウはフランス抵抗による武器の援助を日本に求めて訪日を計画、1905年に日本へ渡航した。ファン=ボイ=チャウは、戊戌の政変(1898.9)で日本亡命を余儀なくされた変法派梁啓超(りょう けいちょう。1873-1929)と知り合い、彼を通じて日本の重要人物と会う機会ができるのであった。その人物たちとは当時憲政本党(分裂した憲政党を旧自由党系が引き継ぎ、締め出された旧進歩党系が組織)所属だった犬養毅(いぬかいつよし。首相任1931.12-1932.5。1899年に梁啓超が設立した中華同文学校の名誉校長に就任) 、憲政本党党首をつとめていたもと首相の大隈重信(おおくましげのぶ。1838-1922。首相任1898,1914-16)、国家主義やアジア主義(欧米のアジア植民地支配に対抗し、アジアは連帯精神を必要とする考え方)を掲げた政治団体・玄洋社(げんようしゃ)総帥の頭山満(とうやまみつる。1855-1944)らであった。頭山は、1905年に孫文(そんぶん。1866-1925)らによる中国同盟会(中国革命同盟会)の結成を援助した人物としても知られる。その孫文と交流のあった政治運動家の宮崎滔天(みやざきとうてん。寅蔵。1871-1922)もファン=ボイ=チャウを激励した人物であった。なお、犬養毅の仲介で、ファン=ボイ=チャウは中国同盟会発足寸前の孫文と、横浜で会見したが、お互いの主張に隔たりがあり、手を組むことはなかったものの、お互いを精神的に影響力の持つ存在として認め合ったとされている。

 ファン=ボイ=チャウはベトナムの窮状と軍事支援を彼らにうったえた。犬養・大隈らは皇族を盟主とする反仏組織であっても秘密結社であり、国際情勢も配慮する必要もあったため、彼らを直に承諾することを避けた。孫文を例に挙げると、彼が興中会結成して翌1895年に広州(広東省)で武装蜂起しようとしたものの、密告によって失敗、1900年の恵州(広東省)蜂起も再び失敗たことで、孫文はこれらは得策ではなく、革命精神を強化するには同志を集めることが優先であると考えた。ファン=ボイ=チャウも同様、武器を集めて蜂起するよりも人材を育成することが得策であることを犬養・大隈らに教わった。そのためには、独立を望むベトナムの若い知識人たちを強国・日本に遊学(留学)させることが重要であった。ファン=ボイ=チャウはこれらを促すべく、維新会の活動拠点を日本において、維新会の盟主クォン=デに日本への亡命をすすめた。1905年7月、ファン=ボイ=チャウはクォン=デをフエの王宮から呼び出し、ベトナムの優秀な若者たちとともに日本を渡ることに同意を求めるため、一時ベトナムに帰国した。
 クォン=デも同じくベトナムの独立をなによりもまず考え、日本に協力を求めるべく、家族との長きにわたる離別を覚悟に、日本へ向けてベトナムを脱出する決心をし、フランスのインドシナ総督府によるフエの王宮警備が厳重である中、見破られないよう変装して渡航、翌1906年に訪日した。

 こうして、日露戦争の戦勝国である日本の政界の賢人たちに大いなる知恵を授かった、維新会の日本での活動が始まった。ファン=ボイ=チャウは日本の先進性に驚嘆し、同1906年ベトナムへ向けて『ベトナム亡国史』等を著し、遊学を志す若いベトナム知識人の日本渡航を促進させた。留学生は盛時で200人にもおよび、東京・新宿の東京振武学校(とうきょうしんぶがっこう。留学生の軍事教育を担う)や神田の東京同文書院(日本のアジア主義団体、東亜同分会が1901年上海に設立した高等教育機関・東亜同文書院に続き、翌1902年に東京にも開設した)などに入学していった。この動きは東遊運動(ドンズーうんどう。風潮東遊。フォング=チャオ=ドン=ズー)と呼ばれた。"東遊"とは東、つまり東方の日本に学べという意味である。ファン=ボイ=チャウは維新会に加えて、1907年、留学生をとりまとめる"公憲会"も発足した(クォン=デが会長に就任)。
 東遊運動はファン=チュー=チンにも影響を与えた。ファン=チュー=チンは主として教育面での育成に尽力し、ベトナムに帰国して11代目総督ジャン=バチスト=ポール=ボーに産業振興や教育発展など、ベトナムの近代化をうったえた。また彼は集めた資金で、福澤諭吉(ふくざわゆきち。1835-1901)が設立した蘭学塾、慶應義塾(けいおうぎじゅく)に倣って、トンキン(現ハノイ)に東京義塾(トンキンぎじゅく。教育・財政・宣伝・著作の4部門開設)を開講(1907)、学費を無料にして生徒を集めた。

 東への遊学が盛んになったベトナムでは、阮朝皇室に異変が起こった。反仏を主張していた成泰帝がフランスのインドシナ総督府によって退位させられ、子が維新帝(ズイタンてい。帝位1907-16)として、幼少で即位した。フランスはベトナムの東遊運動が仏領インドシナ経営を阻害し、民族運動を助長させるものとしてこれを取り締まる必要に迫られた。結果1907年6月10日、パリで、日仏協約が日本・フランス間で締結されることになった。締結内容は、信頼関係の強化、清の独立と領土保全を約し、清およびアジア全土における両国の勢力範囲および特殊権益の相互承認、日露戦争の結果の承認などであったが、当然、フランスが支配する仏領インドシナを日本は承認しなければならなかった。さらに日本は日露戦争で戦ったロシアと翌7月末に日露協約(第一次1907.7、第二次1910.7、第三次1912.7、第四次1916.7)を結んで満州、朝鮮、外モンゴルをめぐるそれぞれの権益を相互承認したことで両国の関係を改善していったが、そのロシアがフランスと露仏同盟(1891-1917)を結んでいるがゆえ、日本の南満州や朝鮮半島の権益を守るためには、日本のフランスへの譲歩も必要であった。フランスはこの協約で公憲会の解散および東遊運動の関係者全員の身柄引き渡しを迫った。
 このため日本はベトナムの東遊運動への支援を自粛する方向に動いていき、日本政府は留学生の国外追放へと動きはじめた。ファン=チュー=チンも農民抗租運動を首謀した容疑で逮捕され、東京義塾も強制閉鎖させられた(1908)。公憲会は解散させられ、日本の援助が断ち切られたベトナム維新会は、資金が底をつきはじめた。

 1906年末、ファン=ボイ=チャウの仲間で、東遊運動の一環で日本に来ていたベトナム民族主義者の阮泰拔(げんたいばつ。グェン=タイ=バット。1883-1915)が静岡県(旧遠江国)の旧磐田郡東浅羽村(現・静岡県袋井市梅山)で行き倒れになっていたとき、同村出身の医師、浅羽佐喜太郎(あさば さきたろう。1867-1910)に手厚い介抱を受け、さらには東京・神田の東京同文書院入学への学費まで援助を受けた。東遊運動が日本からの支援を得られなくなる中で、ファン=ボイ=チャウは浅羽佐喜太郎医師に請願するしか他はなく、ためらいはあったものの無理を承知の上で、阮泰拔を通じて現在のベトナムの窮状を文書にて浅羽佐喜太郎医師に伝えた。浅羽佐喜太郎医師は協力の意志を伝え、ファン=ボイ=チャウに大金(1,700円。現在ではこの金額のおおよそ2万倍以上の価値に相当か)を援助し、彼の活動に賛辞を送った。

 日仏協約により、1909年、ついにファン=ボイ=チャウ、クォン=デ、そして東遊運動の波に乗って日本に渡ってきた留学生全員に、国外追放の命令が下った。日本を離れる前、ファン=ボイ=チャウは阮泰拔を通して、大金を提供した浅羽佐喜太郎医師と対面し、深い友好関係を築いた。酒が酌み交わされ、楽しい歓談が進んだ。日仏協約締結時、犬養毅は留学生の退去費に困惑しているファン=ボイ=チャウに対し、乗船券を手配したり、大金を贈与したそうだが、浅羽は日本政府のフランスに対する愚鈍な外交、ベトナムの独立を夢見て日本へ渡ってきたベトナム国民を見捨てた犬養毅、大隈重信らを"腰抜け"と痛罵して、ファン=ボイ=チャウを大いに励ましたと言われている。言うまでもなく、ファン=ボイ=チャウにとって、浅羽佐喜太郎という人物は誰にも変えられない恩人であり、生涯にとって決して忘れられない人物であった。
 ファン=ボイ=チャウと浅羽佐喜太郎医師は再会を誓ったが、1910年、浅羽は43歳の若さで没した。かねてより肺病を患ったうえ、同年夏に東浅羽村をおそった大洪水の救済に奔走し、病状が悪化したといわれる。

 ファン=ボイ=チャウらは離日して以後、香港、タイを転々としたが、1911年に清朝で辛亥革命(しんがいかくめい。1911-1916間)が勃発、翌年中華民国が誕生した。これに刺激を受けたファン=ボイ=チャウらは維新会を再編、広東にて秘密結社・ベトナム光復会(こうふくかい)を設立、クォン=デが引き続き盟主となり、ファン=ボイ=チャウは革命軍を組織して、辛亥革命にならった、武力での解放を計画した。反仏精神は維新会から引き継がれたが、立憲君主制樹立を目指した維新会とは異なり、辛亥革命の影響下に誕生した光復会は、ベトナムの民主共和制の実現を目指したことに特徴があった。とりわけ孫文三民主義(「民族独立」・「民権伸張」・「民生安定」)の精神で中国に共和制をもたらしたことで、ファン=ボイ=チャウは同様の精神をベトナムに吹き込もうとしたのであった。光復会はさっそく行動に出てサイゴンやトンキン(ハノイ)などで武装蜂起し、総督府関係者を暗殺するなどテロ行為を強行したが、孫文ら中国からの援助は期待外れに終わり(孫文は1913年から3年ほど日本へ一時亡命した)、フランスの警衛も強力であったため、光復会の活動は停滞を極めた。さらには1914年、ファン=ボイ=チャウも仏領インドシナ総督の要請で動いた袁世凱(えんせいがい。1859-1916)率いる革命軍に逮捕され投獄(1914-17。著書『獄中記』はこの間に執筆)、活動はいっきに縮小した。一方クォン=デは1915年、日本へ再渡航、隠遁生活を送った(クォン=デはその後もフエへの帰還を何度も夢見て帰国をはかったもののかなわず、1951年4月、日本で没した。69歳だった)。

 フランスの弾圧は徹底強化され、1916年5月には光復会の武装蜂起に呼応した維新帝が父である成泰帝とともに反仏クーデタを起こし失敗、親子共々マダガスカル島東方のレユニオン島に流刑となった。このため阮朝は完全にフランス主導でコントロールされ、同年フランスの監督下で帝位交代が行われ、同慶帝の子が啓定帝(カイディンてい。帝位1916-25)として即位した。啓定帝は次の保大帝バオダイてい。帝位1926-45)の父である。
 さらに第一次世界大戦(1914-18)の勃発で、ベトナム国民はフランスの要請で増兵用として戦場に駆り出された。ベトナム国内でも反仏活動が後を絶たず、勃発しては逮捕され投獄されるの繰り返しであった。さらにフランスは阮朝王室内に反仏精神の出ないよう、科挙の効力を弱めて親仏寄りの人材を官吏に任用するなどの行為に出た。しかし大戦中の1917年ロシア革命(ロシア三月革命。ロシア暦二月革命)が勃発、1919年には共産主義政党による国際組織、コミンテルン(第3インターナショナル。1919-43)が誕生し、民族解放を掲げた革命を支援する活動に出た。こうして、新たにベトナムで民族運動が高まっていった。

 ファン=ボイ=チャウは1917年に釈放された。浅羽佐喜太郎医師の死を知らずにファン=ボイ=チャウは1918年に浅羽家を訪れ、佐喜太郎の死を知らされたときは驚嘆と悲痛のあまり号泣した。ファン=ボイ=チャウは恩人、浅羽佐喜太郎医師を顕彰し、浅羽村村長の特別な取り計らいで記念碑を建築した(1918。建設費用の足りなかったファン=ボイ=チャウの、恩人を敬う義理堅い気持ちに感動した村長が、建築費を補填したといわれる)。
 その後ファン=ボイ=チャウはロシア革命勃発によって台頭した社会主義/共産主義の思想にも触れ、北京大学でロシア政府関係者と会談する機会を得たが、これに触発された大きな行動はなかった。また1924年(1925年?)、ファン=ボイ=チャウは杭州(浙江省)で阮愛国(グェン=アイ=クォック。1890-1969)という、広東にあるソ連領事館関係者と会談した。阮愛国は20代にフランスへ渡り、ロシア革命に刺激を受けフランス社会党に入党し、ベトナム独立を願って"安南愛国者協会"を組織し(この協会にはファン=チュー=チンも参加した)、1919年のパリ講和会議で「安南人の主張」という請願書を提出したことで知られた人物であった。その後フランス共産党結成に参加し、コミンテルンにも携わり、マルクス=レーニン主義の思想を持ったベトナム愛国者であった。両者はベトナムのフランスからの独立という共通の目標で意見統一したが、ここでもファン=ボイ=チャウは阮愛国との間に根本的思想に隔たりがあったらしく、意見交換のみに終わり、ファン=ボイ=チャウにとって社会主義/共産主義の影響は参考程度に終わったとされている。

 ファン=ボイ=チャウはこの頃、孫文の中国同盟会を1912年に改組した国民党に倣い、ベトナム光復会を"ベトナム国民党"と改組することを決めた(1924/25?)。1919年に同じく孫文が結成の中国国民党に倣い、1927年に結成されたベトナム国民党とは別であるが、1930年、同党代表の阮太学(グェン=タイ=ホック。1902-30)のもとで起こったベトナム東北のイェンバイ蜂起後に内部分裂を起こした党は、その後ファン=ボイ=チャウ派と合流している。
 光復会を改組して継続することを宣言したファン=ボイ=チャウであったが、依然としてフランス官憲には手配されていた。実は信頼する仲間がファン=ボイ=チャウを裏切っており、上海のフランス領事館にファン=ボイ=チャウの活動や行動予定を密告していた。1925年5月11日、留学生援助のため、上海駅を下車したファン=ボイ=チャウはついにフランス官憲に手錠をかけられ、港で待機していたフランス軍艦に移乗させられ、ハノイに護送された。移送中、ファン=ボイ=チャウは、1905年の初訪日から始まった20年間の海外活動を"奔馳二十年、結果僅一死(奔走すること20年、結果として一死あるのみ)...."と始まる一編の詩を作っている。逮捕時、「巣南(サオナム。ファン=ボイ=チャウの称号)が死すとも、革命の火、消えず」と発し、自身は死を覚悟しつつも、同志が自身の遺志を受け継ぐことをうったえた。

 逮捕されたファン=ボイ=チャウはその後、ハノイのホアロー裁判所にて裁判を受けた。ヴェトナム国民を配慮し、死刑ではなく終身刑の判決が下ったが、それでもファン=ボイ=チャウの支持者や民族運動家たちは判決を不服として終身刑反対と恩赦の要求を掲げたデモ活動をおこし、この運動はベトナム全土に拡大、混乱を来した。仏領インドシナ総督アレクサンドル=ヴァレンヌ(任1925-28)は事態を収拾できず、結果、文書による活動を行わない条件で恩赦が下り、ファン=ボイ=チャウの釈放が決定され、フエで軟禁生活を強いられた。他方で1926年、前年にサイゴンに戻ったファン=チュー=チンが病没、20世紀初頭から革命と独立を信じて支援してきた支持者たちは彼の死に涙し、フランス支配からの脱却を誓った。また阮愛国は1925年、広東で反仏の民族主義組織「ベトナム青年革命同志会」を創立した。これは1930年に香港で成立するベトナム共産党(のちインドシナ共産党に改称)の前身となった。

 日本に渡って学識を積むという東遊運動を奨めてベトナム国民の愛国精神を常に奮い立たせたファン=ボイ=チャウは、ロシアや中国よりも、日本を範とすることでベトナムの独立・解放が成し遂げられることを信じた。第二次世界大戦(1939.9-1945.8)中、日本はドイツ、イタリアら枢軸国の一員であり、一方インドシナを支配するフランスは1940年6月、ドイツに降伏し、親独政権(ヴィシー政権。1940.6-1944.8)にあった。そして1940年9月末、日仏協定によって、日本の北部仏印進駐が決行された。インドシナ半島に第二の国家が進軍してきた。ファン=ボイ=チャウが東遊運動の拠点となった日本であった。
 ファン=ボイ=チャウは日本が北部仏印進駐を決行して1ヶ月後の10月29日、ベトナムの独立と解放を最後まで願うことを休まず、75歳で永眠した(ファン=ボイ=チャウ死去1940.10.29)。最後の言葉は"おお、我がベトナムよ"であった。"ベトナム"という語を発することを禁じられたフランス領インドシナで、ファン=ボイ=チャウが決死の覚悟で最後に投げかけた言葉であり、最後の抵抗であった。

 日本はその後南部仏印進駐も決行(1941.7)、1945年3月、日本軍の明号作戦(めいごう。1945.3.9)によって、ベトナムはフランスの保護国状態から解放され、フランス領インドシナは解体、日本の支配下に置かれるベトナム帝国(1945.3.11-45.9.02)となり、阮朝の皇帝であった保大帝バオダイてい)は初代ベトナム帝国皇帝(帝位1945.3.11-1945.8.30)となった。しかし日本が無条件降伏し敗戦(1945.8.15)、翌々日より阮朝を打倒すべく、独立にむけて尽力する阮愛国が結成したベトナム独立同盟会ベトミン。1941.5結成)がデモ活動を始めた。デモはやがて大規模と化し、8月17日のいわゆる「八月革命」の勃発で阮朝は危機に陥った。そして、8月30日、バオダイはついに退位、日本が降伏文書にサインした9月2日にベトナム帝国および阮朝は滅亡し、王政は崩壊した(阮朝滅亡。1945.9.2)。同時に、阮愛国のベトミンがベトナム民主共和国北ベトナム。1945-76)を樹立、阮愛国によるベトナム独立宣言を発表、阮愛国は国家主席(任1945-69)と首相(任1945-55)に就任した。思想こそ違えど、ベトナムを独立させることに生涯を捧げた阮愛国も、ファン=ボイ=チャウと同様、真の愛国者であった。生前に成し遂げられなかったファン=ボイ=チャウの遺志を見事受け継ぎ、独立国家であり、民主共和制を勝ち取った阮愛国、この人物こそ、独立民主国家ベトナムを支え、独立を認めないフランスと命をかけて戦うホー=チ=ミンであった。

 ベトナム民主共和国は、サイゴンにベトナム国(1949-55)を樹立させてバオダイを擁立(元首1949-55)したフランスを相手に、第一次インドシナ戦争(1946-54)を交えることになる。

参考文献・・・明成社 『日越ドンズーの華―ヴェトナム独立秘史 潘佩珠の東遊運動と浅羽佐喜太郎』 田中孜著


 2004年8月31日に始めた『世界史の目(第143話まで高校歴史のお勉強)』は、248話でまる10年を迎えました。前身であった旧神戸校時代から続いたこのコーナーが、まさかここまで続くとは夢にも思わなかったです。これもひとえに皆様の支えがあったからこそ続いたと思っております。この場を借りて厚く御礼申し上げますと共に、今後も『世界史の目』をよろしくお願い申し上げます。
 一口に歴史といっても楽しい歴史もあれば重苦しい歴史もあり、たくさんのロマンと感動を後世の人たちに与え続けています。時が流れると同時に物事がいろいろ変わっていくのが歴史です。また単なる過去の既成事実でもその後の研究で内容が変わったりする不思議なものでもあります。また追跡や追究の仕方によって、いろいろな形に変わっていくのも歴史です。それだけに歴史というものは非常に魅力的で素晴らしいと思います。今後もいろいろな歴史を探っていきたいと思います。

 さて記念すべき今回は、ベトナムの英雄史をご紹介いたしました。高校で習う世界史では、ベトナム史は歴史的英雄がよく登場しますので、同じアジア国民として知ってほしいです。古くは徴姉妹(チュンしまい。43年没)、丁部領(ていぶりょう。ディン=ボ=リン。924-979)、李公蘊(りこううん。リー=コン=ウアン。974-1028)、西山(タイソン)の阮氏3兄弟、そして本編登場の阮福暎、ファン=ボイ=チャウ、ファン=チュー=チン、ホー=チミンといった具合です。非常に愛国心溢れる人たちだらけです。今回はベトナムが越南と呼ばれた時代からのお話で、特にフランスにカンボジアやラオスと合わせて支配され、フランス領インドシナと呼ばれた時代を紹介しました。昨年には日越国交樹立40周年を記念した、東遊運動の時代におけるファン=ボイ=チャウと浅羽佐喜太郎の友情を描いたテレビドラマが公開されて注目が集まりましたが、ベトナムの歴史には、まだまだ日本では知られていない歴史がたくさんあるのですね。

 では、今回の大学受験世界史の学習ポイントを見て参りましょう。フランスのインドシナ進出史は重要で、フランス史、中国史、東南アジア史、いずれも出題頻度が高いです。本編にも登場した仏越戦争の結果、コーチシナ東部3省とサイゴン(現ホーチミン市)をサイゴン条約(1862)でフランスに割譲します。翌1863年フランスはカンボジアを保護国化、1867年にはコーチシナ西部を獲得、1883年と1884年のフエ条約(表記は"ユエ条約"もある)でベトナムを保護国化。この結果勃発した1884年の清仏戦争では、黒旗軍の劉永福が清側に立って活躍するも破れ、1885年の天津条約で清はベトナムの宗主権を放棄し、ハノイにフランスの総督府が置かれ、ここにコーチシナ、ベトナム、カンボジアを合わせたフランス領インドシナ連邦が1887年にできます。そしてフランスは1893年に保護国化したラオスも仏領インドシナに編入させ、広大な植民地を築きます。この流れは出題頻度が高いので注意しましょう。

 それではファン=ボイ=チャウ絡みです。最初に結成した維新会、ついで光復会はマイナー事項ですが、知っておくと便利です。ちなみに光復会は中国同盟会に合流した章炳麟(しょうへいりん。1869-1936)の同名の組織もあります。章炳麟の光復会は用語集にも出てるので要注意ですね。そして東遊運動は超重要項目で、絶対覚えましょう。日露戦争が刺激となりましたから、日露戦争後のお話です。残念ながら浅羽佐喜太郎や犬養毅との絡みは入試には登場することは稀だと思います。

 ファン=チュー=チン絡みでは、東京義塾の名前を知っておれば安心です。ホー=チミンはベトナム青年革命同志会、インドシナ共産党、ベトナム独立同盟会(ベトミン)の3組織を知っておきましょう。

(注)紀元前は年数・世紀数の直前に"B.C."と表しています。それ以外は紀元後です。
(注)ブラウザにより、正しく表示されない漢字があります(("?"・"〓"の表記が出たり、不自然なスペースで表示される)。

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