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世界史の目-Vol.249-

ルクセンブルク家の栄華
~ベーメン王とドイツ王~

 13世紀後半の神聖ローマ帝国(962-1806)。1254年、時の皇帝コンラート4世(王位1237-54,帝位1250-54)が急死、結果シュタウフェン家は断絶、第二次シュタウフェン朝(1215-54)は途絶えた。そして1254(1256?)年から73年の間、ドイツ王が神聖ローマ帝国の帝位につくことがない大空位時代へと突入した。1273年に当時まだ弱小貴族であったハプスブルク家から、ルドルフ=フォン=ハプスブルク(1218-91)がドイツ王ルドルフ1世(ドイツ王位1273-91)として選出され、大空位時代を終わらせたものの、ローマ教皇より皇帝戴冠は果たせず、強力な皇帝権を伴った復活とまではいかなかった。この動きは、大空位時代の到来によって生まれた皇帝権の弱体化と、ドイツ王を選出する強力なドイツ諸侯、つまり選帝侯(選挙侯)の強権化が背景にあった。弱小の君主であれば、選帝侯たちは都合よくドイツ国家を動かせたからであった。

 選帝侯の強権でもって、当時まだ勢力の弱かったハプスブルク家による帝政は、ルドルフ1世の治世で終わった。ルドルフ1世の行政や軍事などの諸政策はドイツ国家の安定をもたらし、次期王位に子のアルブレヒト(1255-1308)を推すはずであったが、かえってハプスブルク家の強大化をおそれた選帝侯たちに睨まれ、アルブレヒトの選定を渋ったのであった。結果、ライン川中流の小貴族・ナッサウ家からアドルフ=フォン=ナッサウ(1250-98)がドイツ王として選出されたが(ドイツ王位1292-98)、やはり皇帝戴冠はなかった。ところが形勢が変わり、今度は勢力を上げたアドルフの存在が疎ましくなった選帝侯たちは、アドルフを廃してアルブレヒトを王位にたてた(アルブレヒト1世。王位1298-1308)。ハプスブルク家として2人目であったが、やはり勢力を上げたアルブレヒト1世に対して選帝侯たちはハプスブルク家の世襲に反発した。結局アルブレヒト1世は一族の内紛により暗殺されるという壮絶な最期を遂げたことで(命日である5月1日はハプスブルク家におこった"暗黒の日"とされる)、次期王位として選帝侯たちが選出したのは、これもまた弱小勢力であった、高地アルデンヌ地方に居城がある小貴族、ルクセンブルク家であった。

 元来ルクセンブルク家はフランスの貴族だったアルデンヌ家を祖に持ち、同家からでたジークフロイト(ジーゲフロイト。ジークフリート。922?/928?-998)が963年に現ルクセンブルク大公国(1815年ウィーン会議にて成立)の首都であるルクセンブルク市の一帯を支配し、小さな城砦(リュシリンブルフク。lucilinburhuc)を築いた。この"リュシリンブルフク"が"ルクセンブルク"の語源とされている。
 1308年、ルクセンブルク家からドイツ王として選出されたのは、本来ルクセンブルク伯(伯位1288-1310)のみに地位がとどまるはずであった、ハインリヒ7世(王位1308-13)という人物であった。アルブレヒト暗殺によりドイツ王位がめぐってきたハインリヒ7世は、1308年にドイツ王となった。彼はドイツ王として、当時混乱していたイタリア情勢を沈静させるため遠征を起こした(1310)。翌1311年には子ヨハン(1296-1346)をベーメンボヘミア。現チェコ西部)王の妹と結婚させたことにより、ヨハンはベーメン王ヤンとして即位した(ベーメン王位1310-46)。ハインリヒ7世は続く1312年に枢機卿より皇帝戴冠を果たして念願の神聖ローマ皇帝となったが(帝位1312-13)、南イタリア遠征のさなかに没した。このためベーメン王ヤンは父の後を継いでルクセンブルク伯ヨハン(伯位1313-46)としても即位した。ベーメンではヤンに始まるルクセンブルク家の支配が4代続くことになり(ベーメン=ルクセンブルク朝1310-1437)、勢力を強化していった。

 ハインリヒ7世の死によって、ドイツ王位および神聖ローマ帝位が空いた。選帝侯たちは自身の権力保持のため、ルドルフ1世以降、君主の強権化を抑えようとする風潮にあったが、今回も同様にルクセンブルク朝の強勢を嫌ったため、結局バイエルンヴィッテルスバハ家から出たルートヴィヒ4世(ドイツ王位1314-47。皇帝戴冠は1328年)と、その対立王としてハプスブルク家から出たフリードリヒ3世(美王フリードリヒ。ドイツ王位1314-30。戴冠なし。1325年から対立が解消されルートヴィヒ4世と共同統治)が即位した。ルクセンブルク伯ヨハンは、ハインリヒ7世で始まった、ルクセンブルク家の神聖ローマ帝国による帝位世襲とはならなかったため、自身の子カール(1316-78)に帝位奪還を託した。そのカールはベーメンの支配下にあったモラヴィア辺境伯(伯位1334-49)を父ヨハンから引き継いだ。カールが地盤を固めている間、フリードリヒ3世は1330年に没し、高齢にさしかかったルートヴィヒ4世が単独統治者となったことで、ルクセンブルク家としてのドイツ王位奪還の機会が訪れた。

 病気のためヨハンはのちに失明したにもかかわらず(彼は"ヨハン盲目王"の呼称がある)、百年戦争(1339-1453)の一戦場となった北フランスのクレシー(クレシーの戦い。1346)でフランス援護による対英戦に挑んだ。しかしヨハンは戦地で陣没(ヨハン戦死。1346)、結果、子カールはルクセンブルク伯も引き継ぐこととなった(ルクセンブルク伯位1346-53)。そして、ルクセンブルク家はヨハンの遺志を果たすべく、子のカールをルートヴィヒ4世の対立王としてたてたのであった(ドイツ王位1346-78)。そう、ルクセンブルク家の君主として燦然と輝く、カール4世の登場である。
 翌1347年、ルートヴィッヒ4世が没し、カール4世はついにドイツの単独統治者となった。ヨハン没後はベーメン王カレル1世としても王位につき(ベーメン王位1346-78)、神聖ローマ帝国の都をベーメンの中心都市であるプラハに遷し、プラハ城を再建してこれを王城とした。またカールは青年期にパリで養育を受け、語学において高い教養を身に付けた経験から、ドイツ語圏において最初の大学であるプラハ大学(現在のカレル大学)の創設を決めた他(1348)、カレル橋の建設(1357年着工)などプラハの有力都市化およびベーメンの発展に尽力した。こうした功績により、カール4世は"文人皇帝"、"ベーメンの父"と称された。

 カール4世は1355年に戴冠を受けて、ついに神聖ローマ帝国皇帝カール4世としてその名を轟かせた(帝位1355-78)。この間ルクセンブルク伯もルクセンブルク公へと昇格し、カールの後を受けてルクセンブルク伯となっていたヨハンの子ヴェンツェル1世(伯位1353-55)はルクセンブルク公ヴェンツェル1世となった(公位1355-83)。
 同1355年、カール4世が召集したニュルンベルク帝国議会、および翌1356年に召集したメッツ帝国議会において、皇帝カール4世はいわゆる"金印勅書(黄金文書)"を発布した。これは、これまでの悪習であった、選帝侯の強権によって弱小貴族からしか王位を継承できない状態から脱するための手段であり、君主を選定する聖俗の選帝侯を7人定め(7選帝侯)、選挙王制の安定化をはかったのである。7選帝侯とは3名の聖職諸侯と4名の世俗諸侯で定められ、内訳はケルン大司教、マインツ大司教、トリーア大司教、ザクセン選帝侯、プファルツ選帝侯(ファルツ選帝侯。ライン宮中伯)、ブランデンブルク辺境伯(ブランデンブルク選帝侯)、そしてベーメン王の7名である。これにより、選帝侯の格付けや権力が定まり、過去のルートヴィヒ4世と同時に対立王としてフリードリヒ3世が選ばれるような重複選挙といった不正・不合理を防ぐことが可能となった。 また皇帝選出に関して、ローマ教皇の承認も必要としなくなり、これまでローマ教皇との結びつきを重視するために神聖ローマ皇帝がとってきたイタリア政策を第一とする考え方が弱まることで、カール4世は強い皇帝権によって統一された領邦国家体制によって、強力なローマ帝国を築くことを目指していった。
 しかし結局は選帝侯を強化したことだけが一人歩きし、皇帝権強化というよりは諸侯の強権化、つまり領邦(帝国を構成する地方諸侯の国家的性質をもつ領域や有力都市)の主権国家的性質をかえって助長することになってしまい、領邦の自立化がはかられて帝国の統一性は妨げられる形となっていく。

 カール4世は1378年に没し、ブランデンブルク選帝侯をつとめていた子のヴェンツェル(1361-1419。伯位1373-78)が選出され、ドイツ王ヴェンツェルとして即位し(ドイツ王位1376-1400)、ルクセンブルク家から2代にわたってドイツ王が誕生した。ヴェンツェル王は即位と同時にベーメン王ヴァーツラフ4世として即位し(ベーメン王位1378-1419)、1383年には初代ルクセンブルク公をつとめていたヴェンツェル1世の死去に伴い、ルクセンブルク公ヴェンツェル2世(公位1383-1419)として即位した。王位が柔軟に継承されたルクセンブルク家のドイツ支配は順調のように思えた。しかしヴェンツェル王は力を発揮できず、ドイツ諸侯たちにその無能ぶりを指摘され、結果ヴィッテルスバハ家出身のプファルツ選帝侯ループレヒト3世(侯位1398-1410)を新たなドイツ王ループレヒトとして選出し(ドイツ王位1400-10。戴冠なし)、ヴェンツェル王は廃位された。結局父カール4世が取り戻そうとした神聖ローマ皇帝の権威はドイツ諸侯によるヴェンツェル王の廃位によってたちまち後退し、結局はルクセンブルク家は2代で途絶えてしまった。

 ただ、ループレヒト王も非力なまま1410年に没し、プファルツ選帝侯の世襲はならなかった。結果選帝侯によってドイツ王に選出されたのは、カール4世の子で1387年からハンガリー王ジグモンド(ハンガリー王位1387-1437)としてハンガリー王国(1000?-1918,1920-46。ハンガリー=ルクセンブルク朝は1387-1437)の統治を任されていたジギスムント(1368-1437)であった(ドイツ王位1410-37)。ジギスムント王の即位によって、ルクセンブルク家のドイツ支配が再び始まった。

 ジギスムントはハンガリー王ジグモンドとして、ハンガリーに迫るオスマン帝国(1281-1922)対策として、ドイツ諸侯だけでなく英仏ほか欧州諸国、そしてローマ教皇からの支援を受けて、ジグモンドなりの十字軍を組織し、1396年、オスマン帝国皇帝のバヤズィト1世(帝位1389-1402)の軍に立ち向かった。これが世に言うニコポリスの戦いであったが大敗を喫し、権威は失墜した。ところが汚名挽回の機会をうかがっていたところにドイツ王推薦の話が舞い込んできた。選帝侯から選出されドイツ王に即位したジギスムントであったが、当時はニコポリスで大敗を喫したジギスムント王を快く思わない諸侯もおり、モラヴィア辺境伯(伯位1375-1411)を担っていたカール4世の甥ヨープスト(1351-1411)を推薦する選帝侯もいた。結果ヨープストも共同統治者として王位についたのだが(王位1410-11)、即位してまもなくヨープスト王が急死、結局ジギスムント王の単独統治に落ち着いた。

 オスマン帝国はニコポリスの戦いに戦勝後、ティムール帝国(1370-1507)にアンカラの戦い(1402)で大敗を喫し、バヤズィト1世は捕虜となり小アジア中部のアクシュヒルで没し、オスマン帝国の勢力は一時弱体化したが、再び勢力を盛り返し、ヨーロッパに再び危機感が漂い始めた。ヨーロッパは当時教会大分裂大シスマ。1378-1417)という、ローマ=カトリック教会の最高権威であるはずの教皇が、ローマ教皇と南仏のアヴィニョン教皇、そしてピサ教会会議(1409)で擁立された新しい教皇が鼎立する異常事態であり、ローマ=カトリック教会で西ヨーロッパ世界を統一するという形が崩れかかっていた状況であった。
 ハンガリーでのジギスムント(ジグモンド)王はローマ教皇との協調をはかり、聖職叙任権の承認を得るなど君主権を強化していた。領邦の自立化が進むドイツでは神聖ローマ皇帝としての権力強化を必要とするため、さらなるローマ教皇との親密化が必要であった。ジギスムント王はニコポリスの敗戦の時、捕虜になる寸前にホーエンツォレルン家出身のニュルンベルク城伯ヨハン3世(伯位1397-1420)に助け出された縁もあって、ヨハン3世と共同統治していた彼の弟で同城伯フリードリヒ6世(伯位1371-1440)にブランデンブルク選帝侯の地位(ジギスムントの侯位1378-88,1411-15。1388-1411間はヨープストが没するまで担当)を譲り(フリードリヒ6世はブランデンブルク選帝侯フリードリヒ1世となる。侯位1415-1440)、ジギスムントは神聖ローマ皇帝としての信用回復と帝権強化に集中した。神聖ローマ皇帝と謳っているが、この時点でジギスムント王は教皇からの戴冠を受けておらず、単にドイツ王と称する立場でもあった。神聖ローマ皇帝はローマ=カトリック世界における最高の世俗支配者であり、ローマ皇帝の称号たる尊厳者(いわゆるアウグストゥス)でもあるが、ローマ=カトリック世界における聖俗すべての最高権威であるローマ教皇に認められてこそ神聖ローマ皇帝であるため、ローマ教皇の権力を回復させる必要があり、大シスマ解消にむけて、ジギスムントの提唱で宗教会議開催にいたった。これが有名な1414年開催のコンスタンツ公会議である(1414-18)。この公会議でもって、鼎立状態であった3教皇の廃位が決まり、あらたにマルティヌス5世(位1417-31)が即位した(1417。大シスマ解消)。ルクセンブルク家におけ大々的な宗教政策であった。

 ルクセンブルク家が支配するベーメンであるが、ベーメン王もかつてカール4世(ベーメン王カレル1世)が決めた七選帝侯の1人であり、コンスタンツ公会議開催中は、ドイツ王を退位させられたヴェンツェル王が依然としてベーメン王ヴァーツラフ4世として統治していた。ヴァーツラフ4世が即位して4年目の1382年に、妹のアン(アンナ。1366-94)がイングランド王家のプランタジネット朝(1154-1399)最後の国王リチャード2世(王位1377-99)と結婚したが、アンはチェコ語訳の聖書を携えてイングランド王室に嫁いだ。当時のイングランド王は英語訳の聖書を所有していなかったため、かねてからローマ=カトリックの教義、聖書、そして聖職者のあるべき姿に統一性を感じていなかったオックスフォード大学教授のジョン=ウィクリフ(1320?-84)が、自身の学識を著書にて大いに主張し、聖書英訳を始める改革を行ってローマ=カトリック教会を批判した。ウィクリフは1384年に没したが、ベーメンとイングランドとの結びつきにより、ベーメンの領域内にもウィクリフの影響が波及し、プラハ大学の学長をつとめていたチェック人(チェコ人)の神学者、ヤン=フス(1369-1415)はウィクリフの著書に共鳴していた。当時ベーメンではチェコ人とドイツ人が対立を繰り返していたが、ドイツ人第一主義の大学の中でも激化しており、フスの教会批判はルクセンブルク家創設のプラハ大学にとって民族対立を助長するとして彼を警戒した。当時のベーメン王ヴァーツラフ4世(ヴェンツェル王)は退位させられる頃であり(前述)、プファルツ選帝侯ループレヒト3世との対立が激化していたが、当然ループレヒト3世は次にドイツ王となる人物であるため、ドイツ人を支持し、ローマ=カトリック教会を支持する立場であった。このためヴァーツラフ4世は1409年に学内会議での決定権など大学内のチェコ人を有利にもたらすクトナー=ホラ勅令(クトナー=ホラは現チェコ中部)を置き土産的に発布し、翌年ドイツ王を退位させられたのであった。この勅令で学内のほとんどのドイツ人はプラハ大学を退き、ライプチヒに移って同年ライプチヒ大学を建設することになる。この後押しでフスはウィクリフの教義をさらに広めていくはずであったが、プラハの大司教やローマ=カトリック教会との対立は完全に避けられなくなり、フスに対して弾圧を始め、ベーメン王国内にあるウィクリフの書物の閲覧や教義の伝道の禁止を命じ、1411年フスとその支持者たちは破門とプラハ追放処分が下された。しかしフスは挫けずに活動を続け、教会批判を行って支持を集めていき、弾圧を受けながらもフス派の教義は国家的規模となっていった。そしてフス派の勢いはベーメンの外に飛び越えてヨーロッパ中に知れ渡ったのである。
 こうした状況の中、1410年のジギスムントの即位でルクセンブルク家の神聖ローマ帝国の支配が戻った。そしてニコポリス戦で敗北したジギスムントはブランデンブルク選帝侯を捨て、神聖ローマ皇帝として強力な皇帝権を取り戻すために、ローマ教皇の威厳回復を求めた。また、教会側は大シスマの解消とウィクリフやフスによって掻き回された教会批判の収束と信頼回復を求めた。これが1414年に始まるコンスタンツ公会議のすべてであった。

 ジギスムント王の異母兄であるヴァーツラフ4世(ヴェンツェル)はベーメン王としてフス派を支持していたが、兄王の取り仕切る神聖ローマ帝国とベーメンのチェコ人との狭間に当惑していた。結果として公会議はウィクリフの学説は異端として著書発禁および回収・焚書が決まり、1415年、ウィクリフの遺体は掘り出されて著書とともに灰にされ、テムズ川に投げ込まれた。そしてフスは生身で生きている存在であったため、焚刑(火刑)の処分が宣告された。ジギスムント王はこれまでのフスの活動を誤りとし、フス自身の思想を撤回することを求めた。ベーメンにおいてはベーメン王ヴァーツラフ4世の後継者がジギスムント王と決まっており、ジギスムント王はドイツ人第一主義でもってベーメンを統治する強権をコンスタンツ公会議で見せつけ、フスに審問した。しかしフスはこれまでの思想活動は誤りでないことを審判で毅然と主張した。ジギスムント王はこの世に存在するフス派への見せしめとして、1415年7月、フスは異端者の象徴である悪魔の帽子をかぶせられ、火中に消えていった。遺灰はライン川に投げ込まれた。

 フスの火刑はベーメン国民に悲嘆をもたらした。ベーメン王ヴァーツラフ4世は、弟のドイツ王ジギスムントがフスを処刑したことに多大なる衝撃を受けた。その上、多くのベーメン国民の心はヴァーツラフ4世のもとを離れていった。プラハは圧倒的にフス派の反ローマ=カトリックに占められていたが、1419年、ヴァーツラフ4世はドイツとベーメンの架け橋になるべく、弟のドイツ王ジギスムントを介してローマ教会の許しを請い、宗教的対立緩和に尽力した。結果ローマ=カトリック教会が譲歩したことで、プラハにおけるローマ=カトリック教会が復活、ベーメンでのドイツ人の活動も許されることになった。しかしベーメンのフス派の国民は承認するはずもなく、フス派急進派のヤン=ジシュカ(1374-1424)らが立ち上がり、プラハ市庁舎を襲撃してドイツ人のプラハ市長を市庁舎の窓から投擲(とうてき)する騒動にまで発展する(第一次プラハ役人投げ捨て事件。1419。第二次は1618年にベーメン反乱の一環として投擲がおこり、三十年戦争の勃発へとつながる)。ヴァーツラフ4世は神聖ローマ帝国(ローマ=カトリック教会)とベーメン国民(フス派)の間に立たされたこの局面を打開することができず、ショックのあまり、同1419年に没した(ヴェンツェル(ヴァーツラフ4世)死去。1419)。同年、混迷するベーメンにはジギスムントが即位し、ベーメン王ジクムント(王位1419-37)としてベーメン王となった。これでハンガリー政策はますます疎かになり、ハンガリー国民はニコポリスの敗戦に加え、ベーメンをも破壊した君主としてさらに非難が高まり、しかもフス派の勢力がハンガリーにも波及して、ハンガリー語訳された聖書が出回ってフス派に同調する人々も現れた。しかもベーメンではフスの火刑に対する衝撃は止むことなく、ジクムント王の即位に不満なベーメン国民(特にフス派国民)は反乱が激化し、プラハの教会やドイツ人宅、カトリック信者宅を襲撃していった。

 ドイツ王ジギスムントがベーメン王ジクムントとして即位した直後、ドイツ人とチェコ人という民族対立、カトリックとフス派という宗教対立が合わさり、ジクムント王に対して反抗する姿勢を見せた。ジクムントはニコポリス戦の時と同様、十字軍と称してドイツ諸侯軍とローマ教皇軍と連合してベーメンへ派兵し、全面戦争へ突入した。十数年にわたって展開することになるフス戦争の勃発である(1419-36)。フス派のヤン=ジシュカは1420年にジクムント王に盾突きチェコ南部にフス派のチェコ系住民とともに立てこもり、軍事要塞都市を建設した。これが現在の南ボヘミア州にあるターボル市である。ジクムント王が提唱した十字軍は何度もヤン=ジシュカのフス派軍と戦うも、敗戦を繰り返す始末であった。しかしジクムントは同じ轍を踏むことを避けるため何度も軍をベーメンに送り込んだ(ジクムント王のこうした弾圧はやがてチェコ人のナショナリズムを高揚させ、ドイツ人からの民族的独立を意識させるようになる)。一方フス派はドイツ各領邦やポーランドにも侵入して荒らし回る行動に出て行くが、フス派の内部は穏健派や急進派など対立が深まっており、また1424年には急進派のまとめ役ヤン=ジシュカが病死するなど安定を欠き、やがて弱体の方向に向かっていった。

 フス戦争のさなかにジクムントは1431年に反カトリックの温床となってしまったプラハ大学に対して活動規制を行った。父カール4世(ベーメン王カレル1世)が力を込めて建設した大学を、子のジギスムントが処分することになった(大学はその後活動再開)。そして、神聖ローマ皇帝ジギスムントとして1433年5月にローマ教皇より念願の戴冠を受けることになり、名実ともにジギスムントは神聖ローマ皇帝となった(このとき神聖ローマ帝国の紋章を"双頭の鷲"に変更している。ジギスムントの肖像画にもその紋章が描かれている【外部リンクから引用】)。結果、形勢が逆転してジクムントの十字軍が勝利を収め、フス戦争は収束していった。フス戦争に勝利したジギスムントはベーメン王としてベーメン貴族より認められ、ルクセンブルク家における神聖ローマ帝国、ベーメン、ハンガリーの君主として君臨することになったが、戦争で荒廃した国土を復旧させる政策など、戦後処理で問題は山積していた。

 それ以上に大きな問題であったのが、後継者問題であった。神聖ロ-マ皇帝として、ついに頂点にのぼりつめたジギスムント帝であったが、後継者となる男子を授かっていなかった。ヴェンツェル、ヨープストもともに相続する男子がおらず、ジギスムント帝の娘エリーザベト(1409-42)はハプスブルク家オーストリア公アルブレヒト5世(公位1404-39)に嫁いでいた(1422)。結局ジギスムント帝は相続すべき男子を残さぬまま、1437年末に没した(ジギスムント帝死去1437.12)。これによりルクセンブルク家は断絶、同家の帝国支配は終わりを告げ、ベーメン=ルクセンブルク朝もハンガリー=ルクセンブルク朝も自動的に終焉を迎えた。結果、ハプスブルク家のアルブレヒト5世がドイツ王アルブレヒト2世(王位1438-39。戴冠なし)として即位し、同時にハンガリー王アルベルトとして(王位1437-39)、そしてベーメン王アルブレヒトとして(王位1438-39)ルクセンブルク家の所領を継承、ハプスブルク家の栄華が到来することとなる。

 ハインリヒ7世より始まったルクセンブルク家の国家支配は断続的な時期があったものの、ドイツ諸邦、ベーメン、そしてハンガリーという広大な地域において君臨、王家として名を馳せることに成功し、"ルクセンブルク帝国"ともいうべき偉大な歴史を作ったといえる。しかしドイツ、ベーメン、ハンガリーの3国間はその後もハプスブルク家において何度も抗争する舞台となっていく。


 今回はハプスブルク家の全盛期が訪れる前の時代、ルクセンブルク家の全盛期を、ドイツ、ベーメン、そしてちょっぴりハンガリーも加えてご紹介しました。第77話第176話などと重複する内容が多かったですが、世界史的には非常に重要な時代なだけに、宗教面、政治面、外交面などいろいろな側面で語られます。今回はルクセンブルク家を主役にたててご紹介しましたが、時代は宗教、民族、内部対立など、それこそハプスブルク家の時代と同様であるものの、中身はそれに匹敵するぐらいの内容ばかりです。金印勅書、ニコポリスの戦い、教会大分裂、コンスタンツ公会議、フス戦争という世界史の重要ワードてんこ盛りの時代にルクセンブルク家の栄華があったわけですね。ちなみに今年はコンスタンツ公会議が開催されて600年の節目であります。

 さて、今回の大学受験世界史の学習ポイントを見て参りましょう。前述の重要ワードは当然頻出100%と思って学習しましょう。金印勅書は1356年(私が受験生の時代、金印勅書のひとみごろで覚えました)カール4世の発布です。超重要です。あとカール4世はベーメン王カレル1世としてプラハ大学を創設しましたが、この内容はマイナー事項ではありますが、覚えておくと便利です。あと7人の選帝侯(本編はこちら)も余裕があればその内訳も知っておくとよろしいです。
 ルクセンブルク家の皇帝の中で、受験で覚えるべき人物はカール4世とジギスムント帝ですが、ジギスムント帝は現課程ではかなり地味な扱いになっております。ニコポリスの戦いでオスマンのバヤジットに敗れたこと、教会大分裂を終わらせるべく、1414年にコンスタンツ公会議開催を提唱したこと、フスの火刑を決めたこと、フス戦争に尽力したことなど考えると、カール4世と同様の重要な人物なのですが、今のところ受験ではマイナー事項です。でも覚えておくべき人物で。難関大では名前を書かせる問題も出てくるかもしれません。なお、ルクセンブルク家が支配したベーメンでは、教材によってはボヘミアの表記もあるので注意が必要です。いうまでもなくチェック人(チェコ人)の国で、現在のチェコです。首都はプラハ。チェコ人はポーランド人、スロヴァキア人(スロヴァク人)と同様、西スラヴ人です。本編ではモラヴィア辺境伯という用語が出てきましたが、もともとチェコ人はカトリック国家のモラヴィア王国(大モラヴィア王国。9-10C)を建国して歴史に登場しています。このカトリック系の王国も地味に有名なのでチェック(別にだじゃれではありません)しておきましょう。

 さて、次回は区切りの250回です。次回もよろしく!!

【外部リンク】・・・wikipediaより

(注)紀元前は年数・世紀数の直前に"B.C."と表しています。それ以外は紀元後です。
(注)ブラウザにより、正しく表示されない漢字があります(("?"・"〓"の表記が出たり、不自然なスペースで表示される)。

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