世界史の目−Vol.25−

宗教改革と6人の王妃

 イギリス・テューダー朝(1485〜1603)の創始者ヘンリー7世(位1485〜1509)は、これまでの中世封建社会にかわり、王室の中央集権化、いわゆる絶対王政を主張して王権の強い国づくりをめざした。この時代、1479年には、イベリア半島でカスティリャ王国とアラゴン王国が合併してスペイン王国が成立し、フェルナンド5世(アラゴン王位1479〜1516。スペイン王位1479〜1504)とイサベル1世(カスティリャ・スペイン王位1474〜1504)の両王のもとで、中央集権の基礎をきずき、強いカトリック王国をめざしていた。

 ヘンリー7世の長男アーサー(1486〜1502)は、1501年、フェルナンド5世とイサベル1世の子キャサリン=オブ=アラゴン(カザリン。1485〜1536)と結婚した。しかし、アーサーは生来病弱の身体で、翌年16歳で早世した。これにより、キャサリンとの結婚相手を、アーサーの弟ヘンリ(1491〜1547)に選び、両国間で交渉が続けられた。1509年、ヘンリー7世死後、そのヘンリが即位、ヘンリー8世(位1509〜47)となり、同年キャサリンと結婚した。

 当時、ヘンリー8世は、スペインのカルロス1世(位1516〜56。神聖ローマ皇帝カール5世。位1519〜56。祖母がイサベル1世。叔母がキャサリン)と共に、1513年、1522年の2度、フランス進撃を行った。戦費が苦しくなると、その調達のため、本国で強制公債を発行して国民から嫌がられたこともあった。しかし一方で、ドイツでルター(1483〜1546)が宗教改革をとなえた時(1517)、ヘンリー8世は、ルターを批判する論文を公表し、ローマ教皇レオ10世(位1513〜21)から"信仰擁護者"の称号を与えられる(1521)など、伝統の信仰には忠実であった。ただ、反皇帝派の新教諸侯との抗争に苦悩するカルロス1世(カール5世)の援護も背景にあった。

 また、ヘンリー8世は、百年戦争(1339〜1453)の敗北以降、弱体化したイギリスの国際的地位を引き上げようと、大法官トマス=ウルジー(1475頃〜1530)を登用した。しかし、ウルジーの政策は成功しなかった。

 ヘンリー8世とキャサリンとの間には8子が誕生したが、成長したのは女子メアリ(のちのメアリ1世。位1553〜58)ただ1人で、他6人は夭逝(ようせい。若くして逝くこと)した。男子の王位継承者を欲したことから、男子が育たないことにヘンリー8世は大いに失望した。やがて、王妃の侍女アン=ブーリン(1507〜36)を寵愛するようになったヘンリー8世は、1527年以降、キャサリンと別居するようになった。そしてキャサリンとの離婚をローマ教皇クレメンス7世(位1523〜34)に届け出たが、キャサリンはカルロス1世の叔母にあたるため、離婚の承認を教皇から得られなかった。この時、教皇に交渉に当たったのが大法官トマス=ウルジーだった。ウルジーは、離婚訴訟が失敗したことで大法官の地位を剥奪(1529)、反逆罪に問われてロンドンに護送中、病死した(1530)。代わりにウルジーの秘書だったトマス=クロムウェル(1485頃〜1540)や外交使節としてヘンリー8世に重用された法律家トマス=モア(1478〜1535)が台頭、特にモアはウルジーの後を受けて大法官に就任した(任1529〜32)。モアは、ヘンリー8世に信任され、俗人から大法官にまでのぼりつめたが、王の離婚問題には、常に反対だった。議会で教皇への上納税廃止(十分の一税など、ローマ教会に入る税収が、この決議によってイギリス国王の手におさめられることになる)が成立するなど、王が教皇との対立を深化させたことで、1532年、モアは大法官を辞職した。

 離婚問題は、ケンブリッジ大学教授トマス=クランマー(1489〜1556)が解決策を提示し、ついにキャサリンとの結婚を無効にした(1533)。国王はクランマーをカンタベリ大司教に任命、同年アン=ブーリンとの結婚の合法性を承認させた。教皇クレメンス7世はこの行為に対して、教皇の最後の切り札である破門を投げかけ、教会からの除外を国王に宣した。同時に、カトリック国スペイン、とくにキャサリンの甥カルロス1世との関係が悪化した。キャサリン自身もイギリスにとどまって王妃を名乗り、離婚を認めようとはしなかった。

 ヘンリー8世は、ローマ教皇との訣別を正式に決め、1534年、"イギリス国王をイギリス国教会(イングランド国教会。Anglican Church)の唯一最高の首長"と宣言した。これが国王至上法首長法。Act of Supremacy)である。これはローマからイギリス国教会が分離独立したことを表した。しかし国王自体がカトリック信者であったため、イギリス国教会の教義は、発足当時、カトリックと大差なかった。旧教離脱を強行した国王を公然と非難したトマス=モアは、同年ロンドン塔に投獄され、反逆罪に問われて、翌1535年斬首刑となった。ローマ教会はモアを殉教者として聖人に列した。

 また、旧教離脱に猛然と反発した修道院に対し、国王はトマス=クロムウェルらを使って修道院解散を断行させた(1536,1539)。広大な修道院の所領を没収したことにより、王室財政の基盤は確立、絶対王政を確固たるものにした。さらに所領の一部は安価で国民に分与したことで、国民の動揺は大きなものにはならなかった。1539年には、カトリック教義と大差のない、イギリス国教会の信仰箇条6ヵ条を発布して、カトリック(旧教)に対するプロテスタント(新教)の教義を決定づけた。

 これによりイギリスはスペインとの同盟は崩壊、またヘンリー8世とカルロス1世(カール5世)との関係も破綻した。これを機にヘンリー8世はプロテスタントの教義にもとづいて、カトリック系の教育施設を廃止するなど、カトリック弾圧を大規模に行い、多くの旧教派貴族が幽閉された。

 一方、王室では、アン=ブーリンとの間には4子誕生したが、やはり成長したのは女子のエリザベス(のちのエリザベス1世。位1558〜1603)1人だけであった。ヘンリー8世は男子を産まないブーリンに対して、寵愛を失ったばかりか、彼女に姦通罪の汚名を着せて、遂に1536年、アン=ブーリンをロンドン塔に幽閉、斬首刑に処した。

 アン=ブーリンの処刑からわずか10日後、ヘンリー8世は、ブーリンの女官をつとめていたジェーン=シーモア(1509〜1537)と即座に結婚した。シーモアとの間に誕生したのは1子のみ(1537)であったが、病弱ながら、国王待望の男子であった(エドワード。1537〜1553)。しかしシーモアは産褥熱のため出産直後に死亡した。それから2年余間、国王は独身を続けた。この頃からヘンリー8世は体調が悪変している。

 1539年、ヘンリー8世は、トマス=クロムウェル大法官が派遣した宮廷画家ホルバイン(1497/98〜1543)によるクレーフェ公女アン(1515〜1557)の肖像画を見て、その美貌を気に入り、翌年、クレーフェ公国がドイツ系プロテスタントにもかかわらず政略結婚を交わしたが、結婚当初からなじめず、1年も経たない内に離婚、再婚失敗の責任をトマス=クロムウェルに押しつけ、彼を処刑した(1540)。その後国王は、アン=ブーリンの従姉妹で、クレーフェ公女アンの侍女だったキャサリン=ハワード(1521〜1542)を気に入り、同年、30の歳の差ながらキャサリン=ハワードと結婚するも、彼女の不倫関係が暴露され、アン=ブーリンと同様、姦通罪でロンドン塔に幽閉、斬首刑に処した(1542)。

 そして、6回目の結婚が行われた(1543)。相手は宮廷に仕えていたキャサリン=パー(1512〜1548)で、父はヘンリー7世に仕えていた。熱心なプロテスタントで、英才教育を受けて育ったキャサリン=パーは、結婚後も、病床のヘンリー8世をよく看護し、また王妃という立場として、庶子のため王位継承権を与えられていなかったエリザベスやメアリを継承者として認めた。さらに次期継承者エドワードには教育を指導して、ヘンリー8世の期待に応えた。しかし、ヘンリー8世の身体は処置不可能となり、1547年、キャサリン=パーに看取られて病没、1547年、ヘンリー8世が唯一残した男子継承者・エドワードが、エドワード6世(位1547〜53)として9歳で王位に就いたのだった。

 わがまま王ヘンリー8世のお話です。離婚によって宗教改革が実行されたわけですが、ルターやカルヴァンがおこなった宗教改革とは、全く志向が異なりますね。プロテスタント大嫌いの彼が、離婚のためにカトリックを敵に回してイギリス国教会をおこす有り様は、当時の国民にとって、どのように映ったのでしょうか?

 さて、今回のポイントですが、まずテューダー朝国王を継承順に覚えておきましょう。ヘンリー7世→ヘンリー8世→エドワード6世→メアリ1世→エリザベス1世の5人です。創始者ヘンリー7世は、ランカスター家(赤ばら)の傍流で、ばら戦争(1455〜85)で敵ヨーク家(白ばら)を敗ってテューダー朝を開いた人です。

 そしてヘンリー8世ですが、国王至上法(首長法)の名前と発布年(1534)は出題頻度の高い項目ですので、必ず覚えましょう。のちのエリザベス1世が制定する統一法(1559)とワンセットで覚えた方がいいですね。私は、首長ミシミシ(1534)、ゴクッと統一(1559)と覚えました。ところで、本編に登場したトマス=クロムウェルとは、例のピューリタン革命(1642)に登場したクロムウェル(オリヴァー。1599〜1658)とは別人です。

 エドワード6世は、父の時代には不明確だったカトリックとイギリス国教会との区別をつけるため、トマス=クランマーやヒュー=ラティマー(1485頃〜1555)らに国教会の規則書を編纂させて、1549年、"一般(共通)祈祷書"として制定発布し、新教としての国教会を確立させようとしました。イギリス国教徒の代表として行ったエドワード6世唯一の功績です。

 メアリ1世とエリザベス1世のお話ですが、彼女たちもなかなか内容の濃い時代を作りましたので、内容はまたの機会といたしましょう。この時代も宗教改革の影響は縦横に展開します。

 あと、ドイツ画家ホルバインが登場しました。ネーデルラント出身の人文主義者エラスムス(1469〜1536)と親しく、『ヘンリー8世像』『エラスムス像』といった肖像画を得意としていました。ちなみにエラスムスの主著「愚神礼賛(ぐしんらいさん)」は、エラスムスがイギリス滞在中に執筆したもので、本編でも登場したトマス=モア(彼もエラスムスの親友)に捧げたものです。またトマス=モアといえば、主著『ユートピア』も重要ですね。これは当時の、領主や地主らによる、牧羊のための開放農地取り上げ、いわゆる囲い込み(エンクロージャー)を批判した内容が書かれています。羊が人間を食べるお話として有名で、"ユートピア"は"U-topos(=no-place)"というモアの造語だそうです。

 最後にヘンリー8世の6人の王妃については、入試にはまず出てこないので覚える必要はありませんが、余裕があれば、最初の王妃キャサリン=オブ=アラゴンは知っておいた方が良いでしょう。宗教改革にかかわりますからね。キャサリンとだけ覚えても良いです。個人的に私が学生時代に良く聴いていたイギリスのロック・キーボード・プレイヤー、リック・ウェイクマン氏のアルバムに「ヘンリー8世と6人の妻(A&M)」というのがあり、全6曲の収録でしたが、それぞれの曲のタイトルが6人の王妃の名前でした。中ジャケットに6人の王妃のプロフィール(肖像画付)が書いてあります。興味があれば是非聴いてみてください。

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