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世界史の目-Vol.250-

紀元前24世紀の統一国家

 古代メソポタミア。現在のイラクにほぼ相当するメソポタミアは北部がアッシリア、南部がバビロニアと呼ばれるが、バビロニアは南部がシュメール(Sumer)、北部がアッカド(Akkad)と地域区分されている。かつて、現バグダード南方の古代バビロン東方にキシュ(Kish)と呼メソポタミアの地図(クリックで拡大)ばれる都市国家があった。シュメールの歴史では紀元前2900年頃より王朝が形成されていったとされるが、この頃のシュメールの文明を"初期王朝時代"と呼び、紀元前24世紀半ばまで続くことになる。この間、ウル(Ur)、ウルク(Uruk。ウルクは"イラク"の名の由来とされるが諸説あり)といった都市国家が数々の王朝を引っさげて歴史に登場しているが、キシュも同様で、大洪水などの神話時代をへて、最初に王権勢力を持った国家と言い伝えられており、4つの王朝を誕生させた有力国家であった。紀元前27世紀頃とされたキシュのエンメバラゲシ王は900年間王として君臨したという伝説的要素が強いものの、その実体は確認されており、キシュの最古の君主として知られている。古代メソポタミアの史料として「シュメールの王名表」という古代の伝承テキストがあるが、これによるとキシュの第一王朝は伝説上の王も含めて、実に23人の王が君臨した。エンメバラゲシ王は22代目の王とされ、彼の子アッガ王の死で第一王朝が終わり、シュメールの政権はキシュからウルクにうつり、ギルガメシュ王などを誕生させたウルク第一王朝に取って代わったという。

 キシュは第3王朝(B.C.2500年頃?~B.C.2330年頃?)で、古代メソポタミア文明における数少ない女王(クババ女王。同王朝は彼女一代限り)を誕生させた王朝としても知られ、その子プズル=シン王(B.C.24世紀?)によってキシュ第4王朝が始まったとされるが、いずれも伝説的な要素が強く、歴史的事実を解明することは困難である。ただし、キシュの王はメソポタミアを支配する王として特別な称号として位置づけられており、シュメール文明でうまれた数々の有力都市の支配者であってもキシュ王として呼ばれ、これがシュメールの覇者としての意味合いを持ったとされている。当時の有力都市国家であったラガシュ(Lagash)はなぜか「シュメール王名表」には記載されてはいなかったが、ラガシュ第一王朝(B.C.26C?-B.C.24C?/B.C.23C?)の王で、紀元前25世紀頃(?)に都市国家ウンマ(Umma。現イラク南東部のディ・カル県内。中部にウルがあった)と戦争し、ラガシュの都ギルスに"ハゲワシの碑文"を残した伝説的なエアンナトゥム王も、キシュを占領したわけではないが"キシュの王"を名乗ったといわれている。キシュの王は"世界王"の意味が込められたのである。

 プズル=シン王の後、キシュ第4王朝の王についた子ウル=ザババ王(B.C.24C?)は、他の王と同様在位年は伝説的な域を出ないが、彼の治世で、庭師として仕えたラーイブムという人物がいた。ある日彼はユーフラテス川に流されていく籠に入った男児を発見、救出して彼を育てた。彼の母は巫女(古代メソポタミアにおいて神聖な儀式として認められた売春行為があり、"神聖娼婦"の用語が存在する)であったとされ、その出自を隠すために川に流されたという。男児はその後ウル=ザババ王の酌を担当する役人に取り立てられた。この人物が、古代メソポタミアにおける重要人物で、紀元前24世紀にアッカドの大帝国を建設する統一王、サルゴン(アッカド王位B.C.2334?/B.C.2371?-B.C.2315?/B.C.2279?。サルゴン1世)である。

 サルゴンの在位年や生没年は不確かな内容が散在し、論争も多く現在でも伝説の中で語られ、その伝説も様々で、諸々のタイプが存在する。たとえば、ウル=ザババ王がサルゴンを暗殺しようとして失敗した伝説がある。ある日サルゴンはシュメール神話における戦闘の女神イナンナ(他には豊穣の女神、愛の女神とも。アッカドではイシュタルと呼ばれる)の愛を交わし、その間にウル=ザババ王が死んでしまうといった夢を見た。サルゴンが見た夢の内容を知ったウル=ザババ王はサルゴン暗殺を部下に命じたが、女神イナンナに阻止され、暗殺は失敗したという。

 キシュから自立したサルゴンはアッカド地方にアガデ(Akkad? Agade? Akkade?)という都市を建設し、ここを拠点とした。アッカドという語は首都アガデから派生したといわれている(諸説あり)。シュメール初期王朝時代を終わらせたサルゴンは、紀元前24世紀にアガデの王となり、セム語系のアッカド語を話す民族を統治する国家を誕生させた。これがアッカド王朝アッカド帝国。B.C.24C-B.C.22C)であり、アッカド帝国の住民はアッカド人と言われた。

 サルゴンが台頭する以前は、ウルク第3王朝(B.C.24C?/B.C.23C?)の唯一の王として君臨したルガルザゲシ王(B.C.24C?/B.C.23C?)の治世があった(これについても諸説あり、年代がはっきりしない)。ルガルザゲシ王はもともとウンマの王であったが、ラガシュ第一王朝の最後の王ウルカギナ(B.C.24C?/B.C.23C?)を屈服させてラガシュを征服し、のちウルやウルクなど有力都市を次々と制圧してシュメール統一を果たし、"国土の王"を自称してウルクを拠点にウルク第3王朝を建設した人物であったとされる。さらに"下の海(=ペルシア湾)"から"上の海(=地中海)"までを制圧した王としても記録されている。そのルガルザゲシ王を倒してウルク第3王朝を滅ぼし、アッカド帝国を建設したのがサルゴンであったとされるが、一方でサルゴンはキシュ第4王朝の王位をウル=ザババ王から簒奪したという伝説もある(ところが「シュメールの王名表」にはウル=ザババ王はキシュ第4王朝の最後の王ではなく、その後6代続いている)。さらにはウル=ザババ王は自立しようとするサルゴンを倒すため、ウルクと同盟を結んだといった記録もあり、キシュから離れたサルゴンがウルク第3王朝のルガルザゲシ王を倒すまでのプロセスは謎に包まれている。いずれにせよシュメール国家であるウルク第3王朝のルガルザゲシ王を倒したサルゴンは力を存分に発揮して、ウルク北方でキシュから南東の方にある都市ニップル(Nippur)のエンリル神殿(エンリルはシュメール国家において、王権を与える神で、女神イナンナと並んでシュメールの最高神)に連行し、同王朝を滅ぼしたという。結果、シュメール地方も支配領域に入れてメソポタミア南部のバビロニアを統一、サルゴンはシュメールとアッカドの支配者として頂点にのぼりつめた。一方でメソポタミア北部のアッシリア地方も支配下に置いたことで、サルゴンはこれまで誰にも為し得なかった全メソポタミア統一を果たした。その後サルゴン王は領域を拡張し、五千余人規模の常備軍を編制してシリアやペルシアに派兵して積極的支配政策を行い、"日がのぼる地域(=エラム地方。ペルシアのスサ付近)"から"日が沈む地域(=シリア地方)"までの領域を支配したと言われている。こうしてアッカド王サルゴンは古代オリエントに大きくその名を残すことになった。メソポタミアの覇者となったサルゴン王は"アガデの王"だけでなく、ルガルザゲシ王がかつて自称した"国土の王"をしのぐ、"世界の王"、"全土の王(シュメールとアッカドの王)"、そして"戦闘の王"として崇められるのであった。

 紀元前23世紀にサルゴン王は没した(サルゴン没。B.C.2315?/B.C.2279?)。その後リムシュ(B.C.23C?)、マニシュトゥシュ(B.C.23C?)の二人の息子が順に王位を継承した。「シュメールの王名表」ではリムシュ、マニシュトゥシュの順に王位に就いたとされるが、近年では継承順が逆の説も出ている。二人の王座は短命で、両者とも暗殺という形でその生涯を終えている。しかしサルゴン没後に起こった反乱の鎮圧や、ペルシア地方が中心に征服活動の充実、シュメール文化の保護、青銅によるアッカド王像の制作など実にサルゴンの息子らしい功績をおさめたとする記録が多く残っている。

 アッカド帝国の最大支配領域を現出した王が、4代目のアッカド王、ナラム=シン(B.C.23C?/B.C.22C?)である。ナラム=シン王はマニシュトゥシュの子とされる。エラム地方、エブラ地方(シリア北部)、小アジア(アナトリア)南東部を次々と制圧したナラム=シン王は、占領都市に軍を駐屯させて、中央から派遣された官僚に統治させた。シリア北東部に"ナガル"の名で知られたテル=ブラク(Tell Brak)の地には、ナラム=シン王の占領後、壮大な離宮が建てられたという。結果、東地中海岸地域、ユーフラテス川上流域、ペルシア湾岸、イラン高原地域と四方八方へ遠征を繰り返し、木材や鉱物など同地の物産が帝国に運ばれて繁栄を極めた。さらに"神"を意味する角が生えた冠をかぶり、領民に対して自身を神として崇拝させるという君主の神格化によって王権の絶対化を図った。支配地にもさまざまな神がおり、民はこれらを崇拝していたため、被支配地の住民にとってアッカド王は全土の王であるのみでは物足りなく、王だけでなく神でもあることで支配地の神と対抗することができた。この功績によって、ナラム=シン王はサルゴン王の"全土の王"にかわる"四方世界の王"と称されるに至った。ナラム=シン王が神であることあらわす戦勝碑(スサで出土)では、ザグロス山脈(イラン南西部。ペルシア湾岸沿い)にて山岳民族ルルビ族を討つ姿があり(【外部リンク】から引用)、当時の君主の偉大さを窺い知ることができる。

 伝説では、ナラム=シン王はエンリル神殿を破壊したことでエンリル神の怒りに触れ、エンリル神はエラムの山岳民族グティ人(グティウム人)をアッカドの領域に差し向け、そこを荒らさせたといわれ、さらに強大な王権を持ったがために、人々の反発も増えて反乱が続発していったことで、アッカド帝国は衰退へ向かったとされる。ナラム=シン王の後を引き継いだ息子のシャル=カリ=シャリ王(B.C.23C?/B.C.22C?。"全王の王")の時代になると、グティ人のみならずアムル人エラム人フルリ人などの多くの異民族の侵入に悩まされた。結局シャル=カリ=シャリ王は暗殺されたが、「シュメールの王名表」によれば、彼の没後、"Then who was king? Who was not the king?(当時誰が王で、誰が王でなかったか?)"と記されるほどグティ人の侵入は激しかったとされており、アッカド帝国は空位・無政府の状態が続いたといわれている。記録に残っているのは、イギギ(B.C.23C?/B.C.22C?)、ナヌム(B.C.23C?/B.C.22C?)、イミ(B.C.23C?/B.C.22C?)、エルル(B.C.23C?/B.C.22C?)ら4人が王を自称して競い合う乱立期で、3年ほど続いたらしく、その後ドゥドゥ(B.C.23C?/B.C.22C?)が21年王位に就き、その後を子のシュ=トゥルル(B.C.23C?/B.C.22C?)が15年統治したとされるが、シュ=トゥルル王の統治が終わったことで、統一国家アッカド王朝の、いちおうの終焉とされている(諸説あり)。その後政権がアガデからウルクにうつるも(約30年の治世。ウルク第4王朝)、途中グティ人の政権奪取による支配時代が起こった。最終的にグティ人はウルクに奪還され(ウトゥ=ヘガル王のウルク第5王朝。B.C.22C?)、グティの支配時代は終わったとされるが、アッカド帝国の終末期はさまざまな見解があり、いまだ謎が多い。
 一方ウルカギナ王の死で第一王朝を終わらせていたラガシュでは、アッカド帝国の支配下に置かれた間も、当時アッカド王だったリムシュ王に対して反乱を起こすなど地方政権として勢力を維持し続け(ラガシュ第二王朝。B.C.23C?-B.C.22C?)、アッカド帝国が衰退するに乗じてラガシュ第二王朝の活動は活発化、アッカドから自立して独自の貿易を開き、強力な政権を築いたとされる。

 その後のメソポタミアでは、ウトゥ=ヘガル王の娘婿(?)で部下としてウルを軍事支配していたウル=ナンム(B.C.22C末-B.C.21C初)がウルで自身の政権を発足させた。これがウル第3王朝(B.C.22C-B.C.21C)であり、最後のシュメール人国家であった。ウル第3王朝は世界最古の法典であるウル=ナンム法典を産んだ王朝として名高く、また多くの神殿やジッグラトなどの建造物を残すなど、シュメール文化の集大成的存在として重要な意味を持つ。しかし勢力は続かず、多くの地方政権が誕生して王朝から離反していき、その中でアムル人(アッカド人説もあり)の将軍イシュビ=エッラ(B.C.2017?-B.C.1985?)が反抗、都市イシン(メソポタミア南部のニップル南東)でイシン朝(第一次イシン朝。B.C.21C末-B.C.18C)を開いた。ウル第3王朝はエラム人に征服され、シュメールの時代は終わった。ウル第3王朝の最後イビ=シン王(B.C.21C)はアッカド語も使用しており、サルゴン即位以降、国王が"シュメールとアッカドの王"として君臨していることから、アッカドに関連する時代をサルゴン王からイビ=シン王までと捉える場合がある。ただし「シュメールの王名表」 は第一次イシン朝の君主までが記載された。

 ウル第3王朝滅亡後、イシン=ラルサ時代と呼ばれる時代に突入する(B.C.21C初-B.C.18C半。ラルサはウルク南東の都市。Larsa)。この時代はアムル系民族が中心的に活躍し、拠点もウル、ウルク、ラガシュ、キシュ、そしてアガデにかわり、イシン、ラルサ、マリ(Mari。シリア。現テル=ハリリ。ユーフラテス中流)、そしてバビロンへと変わっていき、活動規模も大きくなっていくが、彼らの活動は次の時代となる古バビロニアバビロン第1王朝。B.C.1830-B.C.1530)の時代への大きな布石となっていった。古バビロニアのように全メソポタミアを征服する国家、ひいてはオリエント統一を果たす大帝国が次々と誕生していくが、この歴史の流れはメソポタミアを最初に統一し、永続的な支配政権を創り出したアッカドの政権が原点にあるのは相違ない。 


 節目の第250話はメソポタミア文明のアッカド時代が中心となりました。個人的にはシリーズ物にしてもう少し広範囲にわたってご紹介したかったです。アッシリアやシュメールの先史時代(紀元前6000年紀のウバイド文化など)も盛り込みたかったのですが、どうしても複雑になりますので、それぞれ別の機会にご紹介したいと思います。記念すべき250回目は、4000年以上前にメソポタミア統一を果たしたアッカド人のお話となりました。シュメールとアッカドを統一した帝国として歴史に登場します。しかし相当古い時代の話であり、神話、伝説の領域を出ませんので、詳しい年代や世紀に確定的なものはありませんが、非常に壮大なロマンを駆り立てられる奥深い時代であります。

 さて、大学受験の世界史における重要ポイントです。メソポタミア文明を学習するにおいて、一番最初に登場するシュメールで、その次がアッカドです。タイトルにあるようにアッカド人は紀元前24世紀にメソポタミア統一を果たします。実はこの"統一"というのも不確実性があって、アッシリア帝国(B.C.2000年紀初-B.C.612)やアケメネス朝ペルシア(B.C.550-B.C.330)のように世界帝国的規模で紹介されないのも、アッカドが帝国と呼ばれるかどうかもわからないぐらいに史料が乏しいからで、実際のアッカドが支配した領域も不明です。どちらかといえば、「シュメールを支配した強い国家」というのが一番無難な表現といえます。受験生にとっては、シュメール人→アッカド人→アムル人(古バビロニア。バビロン第一王朝)→ヒッタイト人の順に歴史が変わること、シュメール人の次に出てきたのがアッカド人であること、紀元前24世紀にサルゴン(受験世界史の表記では"サルゴン1世"となっています)が統一したことを重要項目として知っておきましょう。難関大では、アッカド滅亡後にウル第3王朝がおこってシュメールが政権を奪還すること、アッカド人はアッカド語を話すこと、アッカドの領土最大は"四方世界の王"であるナラム=シン王であること(余談ですがこの"四方世界の王"という言葉の派生が"四天王"であるらしい)、首都をアガデに置いたことなどを知っておくと万全だと思います。

 さて、記念すべき第250話をご紹介いたしましたが、再度の充電期間に入らせていただきます。まだまだご紹介したい世界史は山ほどありますので、毎度毎度のお願いですが、どうぞお見捨てにならないよう、気長にお待ち下さいませ。

(注)紀元前は年数・世紀数の直前に"B.C."と表しています。それ以外は紀元後です。
(注)ブラウザにより、正しく表示されない漢字があります(("?"・"〓"の表記が出たり、不自然なスペースで表示される)。

【外部リンク】・・・wikipediaより

地図はMERCATOR1.60にて作成。

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