世界史の目-Vol.251-

尊厳者への喝采
~光と闇、血塗られた運命~

 紀元前1世紀の共和政ローマ(B.C.509-B.C.27)。第2回三頭政治(B.C.43)で頭角を現した、ユリウス氏族出身のガイウス=ユリウス=カエサル=オクタウィアヌスオクタヴィアヌス。B.C.63-A.D.14) は、アクティウムの海戦(B.C.31)でエジプト併合(B.C.30)を実現させ、ローマ凱旋とともに"第一の市民(つまり「元首」)"を意味する"プリンケプス"の称号をえた(B.C.29。プリンケプスは"プリンス"の語源となる)。プリンケプスはセナトゥス(元老院)の議員においても最も権力のある者であり、のちに"皇帝"の意味にとらえられるようになった。

 B.C.27年、オクタウィアヌスはすべての特権・大権を元老院に返上する演説を行った。正真正銘のローマ共和政の復興を宣言するものであった。これはB.C.29年の凱旋式において、これまで内乱の1世紀(B.C.133-B.C.27)を勝ち抜いてきた勇者は、自身に集まる全権力を保持したがために元老院や反体制派の反感を買い、不遇の死を遂げていったことに対し、二度と同じ過ちを繰り返さないための宣言であった。この演説に歓喜した元老院は、オクタウィアヌスこそローマの全権を与えるにふさわしい人物であると決め、まず軍の称号"インペラトル"をオクタウィアヌスに与え、オクタウィアヌスはローマ軍のすべてを自身の管理下におくこととなった。さらに、演説から3日後、元老院はオクタウィアヌスに"尊厳者"を意味する"アウグストゥス"の称号を与えることを決断し、10年間、この全権を保持してほしいとオクタウィアヌスに懇請した。オクタウィアヌスは何度か辞退を申し入れたが、元老院の説得によりこれを承諾し、自身の名に称号を入れ、インペラトル=カエサル=アウグストゥス(位B.C.27-A.D.14)と改名した。

 開かれた状態は戦時中であることを意味するヤヌス神殿の扉は、B.C.29年、オクタウィアヌスによって閉じられた。かつてのヤヌス神殿の扉は共和政ローマ時代におこったポエニ戦争(B.C.264-B.C.146)の終戦後6年間のみ、閉じられたままであったが、オクタウィアヌスはローマが完全な平和をもたらしたとして、その扉を閉じたのである。共和政は安定し、オクタウィアヌスは"尊厳者"の称号によってその後様々な称号、特権が次々と贈られていった。コンスル(執政官)およびコンスル任期満了(1年)後に就くプロコンスルでの強力な命令権(インペリウム)や、属州管理全権、護民官全権、最高神祇官の権限、"国父"の称号などである。はじめは10年間の全権保持と言われていたが契約更新を要請され、結局はA.D.14年に没するまでその権限を掌握したこととなった。その間は国家的平和が持続し、世に言うパックス=ロマーナ(ローマの平和)を現出したのであった。このB.C.27年の全権返上演説にはじまるオクタウィアヌスの慎重な行動は、結果、その元老院から全権を贈与される形で頂点に立ったのである。ローマ皇帝というこれまでなかった職位ではあるが、数ある強力な大権すべてを掌握した者、これがオクタウィアヌスであり、彼が頂上に登り詰めたことによって、「ローマ皇帝、インペラトル=カエサル=アウグストゥス」の名を得ることに成功したのであった。文字通り、帝政ローマ(B.C.27-A.D.395)の開始であるが、彼は"ローマ皇帝"の呼称であると元老院の反発を招くとして、あくまでも共和政のもとで職務に就くことを希望し、B.C.29年に与えられた称号である"プリンケプス"の呼称を好んだ。こうして"プリンケプスの統治"を意味する"プリンキパトゥス=ローマ(元首政ローマ)"が到来したのであった。一般に帝政ローマでは軍人皇帝時代(235-284)が終わり、ディオクレティアヌス(位284-305)が即位して専制君主政ドミナートゥス)に移行するまでの時代が元首政と呼ばれる(ただし異説あり)。

 アウグストゥスには同じB.C.63年生まれの親友がいた。共和政時代から彼を助け、アクティウムの海戦でも軍功を残し、帝政後もアウグストゥスの良き腹心として彼を補佐し続けた生涯の友、マルクス=ウィプサニウス=アグリッパ(B.C.63-B.C.12)である。エクィテス(ローマ騎士階級。貴族階級であるパトリキの次階)の出であり、これは父がエクィテス階級だったアウグストゥス(当時の名はガイウス=オクタウィウス=トゥリヌス。本編では便宜上アウグストゥスで統一する)と同じである。両家ともに裕福ではあったが、アウグストゥスの母がガイウス=ユリウス=カエサル(B.C.100?/B.C.102?-B.C.44)の姪だったこともあり、政界進出はアウグストゥスの家系の方が上であった。カエサルの紹介で、まだ少年だった2人は知り合い(B.C.45?)、親友同士となったが、アグリッパは体力が強く、アウグストゥスは弱かった。
 カエサルは若い二人を従軍させた後、彼らの将来性を期待してギリシアのアポロニア(アポッロニア。元アルバニア西南部)に2人を留学させた。カエサルはアウグストゥスに次期後継者として指名するも、体力面および軍略面をサポートするアグリッパの必要性を強く願った。こうして二人はカエサルによって莫逆の友として助け合い、将来のローマを背負う若き勇者として期待された。しかし、直後にカエサルが暗殺され(B.C.44)、アウグストゥスはカエサルの継承者として政界をリードするようになった(この頃にガイウス=ユリウス=カエサル=オクタウィアヌスと名乗るが、本編では便宜上アウグストゥスで統一する)。そして彼には無二の協力者であるアグリッパが陰で支えた。カエサル暗殺にショックを隠せないアウグストゥスに対し、アグリッパはすぐさまアポロニアを出て、カエサルの後継者としてローマに上るべきだと激励し、軍隊を編制したとされている。後のアクティウムでの戦役においても常に親友のために戦ったアグリッパは、戦略面で大いにアウグストゥスをサポートした。
 帝政に移ってもアグリッパはアウグストゥスへの理解と協力は惜しむことなかった。B.C.23年にアウグストゥスが病に倒れた際、彼はアグリッパを呼び寄せた。病床のアウグストゥスは、アグリッパを自身の次期プリンケプス継承者として指名したのであった。そしてアグリッパはアウグストゥスと妻リウィア=ドルシッラ(B.C.58-A.D.29)との間にできた唯一の実娘ユリア(大ユリア。B.C.39-A.D.14)と結婚した(B.C.21)。大ユリアはアグリッパと結婚前、アウグストゥスの甥にあたり、これまでのプリンケプス後継者最有力候補とされていたマルクス=クラウディウス=マルケッルス(B.C.42?-B.C.23)とB.C.25年に結婚していたのだが、そのマルケッルスが2年後のB.C.23年に病死してしまい、アウグストゥスは後継者の最有力候補をアグリッパに指名したことで、大ユリアをアグリッパと結婚させるに至った。
 そのアグリッパであるが、アグリッパはかつて二度結婚していた。最初の妻は裕福な騎士階級の娘ポンポニア=カエサリア=アッティカ(B.C.53-?)という女性で(B.C.37年頃に結婚)、ウィプサニア=アグリッピナ(B.C.36?-A.D.20)という娘をもうけた。そのウィプサニア=アグリッピナは、リウィアの連れ子でアウグストゥスの継子となったティベリウス=クラウディウス=ネロ(B.C.42-A.D.37)と結婚した(B.C.20)。ティベリウスは由緒あるクラウディウス氏族の出である。
 アグリッパの2人目の妻はアウグストゥスの姪クラウディア=マルケッラ(大マルケッラ。B.C.41-?)といい、B.C.28年に結婚、娘ウィプサニア=マルケッラ(B.C.27-?)をもうけていたが、アグリッパが大ユリアとの結婚のため、離婚を余儀なくされた。

 アグリッパの軍事面の強いサポートのもと、アウグストゥスはインペラトルとして、ローマで始めて常備軍を編制し、皇帝直属の軍隊を創設した。ローマ市民の志願兵からなる15万の正規軍で、勤務年数は20年、退役時には多額の退職金が支払われた。さらにローマ属州(プロウィンキア。イタリア半島以外でローマが征服した地)の属州民からなる15万の補助軍(アウクシリア)も編制され、当然正規軍より待遇は劣るが、退役時にはローマ市民権が付与された。各地の軍は属州総督や軍団長に指揮された。また役務を終えた兵士は年金保障を受けることができ、これが世界初の年金制度とされる。こうして、アウグストゥスが施した軍事改革によって、安定した軍隊を常置することができたのであった。また属州の管理もコンスルやプラエトル(法務官)、プロコンスルに関わった者が総督や軍団長を担当し、同地の統治も安定した。アウグストゥスの元首政が元老院の体制やこれまでの共和政を尊重する政治であることがここに理解できる。

 アウグストゥスは公共事業面でも大いに活躍した。その中の一つが、"粘土建築のローマから、大理石建築のローマに"生まれ変わる、ローマ建築事業の大改革である。これは、カエサルの時代から計画していた、ローマの中心であったフォロ=ロマーノ(ラテン語名ではフォルム=ロマヌム)の大改装を受け継いだ一大事業であり、コンコルディア神殿、ディウウス=カエサル神殿、アウグストゥス凱旋門、元老院の議場となるクリア=ユリア、法廷や行政などに関する集会施設のバシリカ=ユリア、演説用の大演壇ロストラ=アウグスティなどの建造をすすめ、ローマの発展に努めた。
 さらにアウグストゥスは治水部門にも懸命であったが、この部門ではアグリッパの功績なくしては語れない。アグリッパは以前からローマ水道の大整備にも取りかかっており、B.C.33年頃にはユリア水道を建設していた。共和政時代のB.C.312年に建設されたアッピア水道に始まるローマ水道は、最後の建設となったアレクサンドリア水道(A.D.226年建設)まで、500年かけて11水道が建設されたが、中でもアグリッパによるB.C.19年完成のヴィルゴ水道は有名であり(現在の観光名所であるトレヴィの泉は移設前、ヴィルゴ水道施設の一部だった)、アグリッパは水道局を組織して送水を緻密に管理し、ローマ水道の安定に努めた。一方で、南フランスのガール水道橋ポン=デュ=ガール【外部リンク】から引用。世界遺産)の建造(B.C.19?)を命じたのもアグリッパとされている(諸説あり)。
 ちなみにアグリッパは遡ることB.C.25年、パラティヌスの丘(パラティーノ)に万神殿である初代パンテオンを建造したが、そのパンテオンの南方にローマ史上初の大衆大浴場(テルマエ)の建設にも着手し、アグリッパ浴場と呼ばれる大型の公共浴場を建設した。同浴場は、B.C.19年に完成したヴィルゴ水道から水が引かれ、規模が拡張された。ローマを政治、経済、軍事、そして文化面においても、世界最高の国家にするアウグストゥスの姿勢を、アグリッパが見事に具現化した結果といえよう。

 その文化面では、アグリッパに並ぶアウグストゥスのもう一人の友人で、政治・外交のエキスパートであるガイウス=マエケナス(B.C.70-B.C.8)の功績も大きい。マエケナスはエトルリア系出身のエクィテス階級の出である。アウグストゥスがアクティウムの海戦に出陣中はローマ市政を任されたほどの手腕である。マエケナスはローマの文化保護および文学・芸術の奨励を任され、古代ローマのラテン文学の第一人者となるヴェルギリウス(ウェルギリウス。B.C.70-B.C.19。大叙事詩『アエネイス』をはじめ『農耕詩』『牧歌』が有名)や、『叙情詩集』を残したホラティウス(B.C.65-B.C.8)らを保護して帝政ローマにおけるラテン文学の黄金時代を築いた功労者となった(マエケナスが文化人のパトロンとなったことから、文化および芸術、スポーツの支援を意味する"メセナ"という語は彼の名Maecenasに因む)。アウグストゥスの治世にラテン文学の隆盛があったのはマエケナスの尽力であった。
 また『ローマ建国史』を著したイタリアの歴史家ティトゥス=リウィウス(リヴィウス。B.C.59?-A.D.17)もアウグストゥスに恩顧を受けた人物として有名である。リウィウスの残した功績は14世紀以後のイタリア=ルネサンスにおいて、ダンテ=アリギエーリ(1265-1321)やニッコロ=マキャヴェッリ(マキャヴェリ。1469-1527)に評価された。またアウグストゥスの庇護は受けなかったが、恋愛詩で名を馳せたオヴィディウス(オウィディウス。B.C.47?-A.D.17?)もアウグストゥス時代に活躍した詩人である。ただオウィディウスの書く恋愛詩は、性描写が過激であったため、アウグストゥスには好まれずむしろ怒りを買う始末で、処罰を受け国外追放となった。

 アグリッパやマエケナスの協力で国内統治を安定させたアウグストゥスは、その間外政も怠らず、国境画定を目的とする外征計画をたてた。アウグストゥスが元首政を始めるはるか以前から、ローマは東方の強国、アルサケス朝パルティア(B.C.248?-A.D.226?。中国では"安息"と呼ばれた。あんそく)と戦争を展開してきたが、アウグストゥスの時代で講和が実現(B.C.21)、ユーフラテス川を国境(リメス)とした。この講和では次代の軍指揮者と言われた若きティベリウス=クラウディウス=ネロ(前述)が講和の調印に参加した。ティベリウスは、彼と同じリウィアの連れ子でアウグストゥスの継子となっていた弟のネロ=クラウディウス=ドルスス(大ドルスス。B.C.38-B.C.9)とともに、アウグストゥス政権下で軍歴を積み重ねた。B.C.15年にはチロル地方を始め、スイス東部や現ドイツのバイエルン南部、ドナウ上流部などからなるラエティア地方をティベリウスと大ドルスス兄弟が征討、同地方を属州とし、ローマ北東方面の安全がはかられた。一方、西方においてもB.C.19年、アグリッパの軍功によってヒスパニア(現イベリア半島)征服に成功し、3つの属州に編成した。

 すべてが順調に進行するアウグストゥスだったが、悲しい出来事が起こった。B.C.12年、長く苦楽を共にしたアグリッパが没した。51歳だった。体力の強いアグリッパが、体力の弱いアウグストゥスよりも早く没してしまった。アグリッパはパンノニア(ドナウ川中流域である現在のハンガリー西部から、クロアチアにかけての領域)征討の途中であった。アグリッパは次期後継者としてアウグストゥスから全幅の信頼を寄せられていただけに、アウグストゥスの精神的打撃は大きかった。
 さらにB.C.8年、アウグストゥスのもう1人の片腕であったマエケナスも没し、これまで政権の精神的支柱として陰からアウグストゥスを支え続けた同志たちを失ってしまった。マエケナスは元首政が始まって数年のちに国政から勇退していたが、臨終の際に全ての財産をアウグストゥスに相続すると言い残したことから、アウグストゥスとの親密な交流は続いていたとされる。

 亡くなったアグリッパは、妻大ユリアとの間にアウグストゥスの血が通った5人の子を残していた。彼らのうち、男児はガイウス=カエサル(B.C.20-A.D.4)、ルキウス=カエサル(B.C.17-A.D.2)、アグリッパ=ポストゥムス(B.C.12-A.D.14)、女児はアグリッピナ(大アグリッピナ。B.C.14-A.D.33)、ユリア(小ユリア。B.C.19?-A.D.28)であったが、B.C.17年にはガイウスとルキウスがアウグストゥスの養子となって次期プリンケプス後継者候補として養育され、ポストゥムスはアグリッパの家系を継ぐことが決められていた。

 アグリッパの葬儀において、弔辞を読み上げたのは、プブリウス=クィンクティリウス=ウァルス(B.C.46-A.D.9)という政治家および軍人で、アグリッパと彼の2人目の妻大マルケッラとの間にできた娘ウィプサニア=マルケッラとB.C.14年に結婚、B.C.13年にティベリウスとコンスルに共同就任したこともある実力者で、アウグストゥスの信任でのちに有力な属州の総督になる人物である(後述)。
 友の死で打ち拉がれたアウグストゥスであったが、外征は国家政策の1つであり、このまま途絶えるわけにはいかなかった.。アグリッパ没後のパンノニア遠征はティベリウスが引き継ぎ、3年間の激戦の末、ついにティベリウスはアグリッパが為し得なかったパンノニア平定を果たし、パンノニアはローマの属州となった(B.C.9)。
 アグリッパの遺業は他にもゲルマニア遠征があった(ゲルマニアはライン川東方、ドナウ川北方に位置)。B.C.16年にガリア(現在のほぼフランスあたり)に侵入したゲルマン人によってガリア総督が殺害され、ローマの軍団旗を奪われたことに対し、アウグストゥスはゲルマニア征服を急いでいた。アグリッパが没したB.C.12年、ティベリウスはローマの国境をライン川からエルベ川にまで前進すべく、B.C.9年にコンスルに就任した弟の大ドルススとともにゲルマニアに進軍、ゲルマンの諸部族を次々と撃退させたが、大ドルススは戦地からの帰途で落馬事故に遭い、重傷を負った。アウグストゥスは、勇猛果敢に戦いながらゲルマン人をゲルマニアの奥深くまで追い込んだ名将ドルススに、その軍功を称え、ゲルマニアの覇者を意味する"ゲルマニクス"の称号を贈ったが、大ドルススはこの称号を彼の息子に名前として与え、その後死亡した(大ドルスス死去。B.C.9)。29歳の若さだった。
 こうして名付けられた大ドルススの子がゲルマニクス(B.C.15-A.D.19)である。母はマルクス=アントニウス(B.C.83-B.C.30)とアウグストゥスの姉オクタヴィア(小オクタウィア。B.C.69-B.C.11)との間に生まれたアントニア(小アントニア。B.C.36-A.D.37)という人物で、アントニアが4歳のころにアントニウスは没しており、実質の育ての親はアウグストゥスであった。アウグストゥスは大ドルススの死を深く悼み、大ドルススと小アントニアの子であるゲルマニクスを重宝し、彼も将来有望な後継者の一人として数えられた。その後ゲルマニクスはアグリッパと大ユリアの娘である大アグリッピナと結婚した(B.C.5年以後?)。

 こうした戦役の間、アウグストゥスはアグリッパの死によって再度浮上した時期プリンケプス後継者問題に頭を抱えることになった。アウグストゥスは、ガイウスルキウス(2人はアグリッパと大ユリアとの子。アウグストゥスの孫にあたる)を将来のプリンケプス後継者としていたが、後見人となるはずであった父アグリッパが亡くなったことにより、未亡人となった大ユリアの再婚相手を彼らの後見人とし、その人物を次のプリンケプス後継者とすることに決めた。
 その再婚相手として選ばれたのは、アグリッパの下で軍事経験を積んで功績を挙げ続けるティベリウス=クラウディウス=ネロであった。しかしティベリウスは、アグリッパの最初の妻ポンポニアとの間にできた娘ウィプサニア=アグリッピナと結婚しており、ウィプサニア=アグリッピナをこよなく愛した。またティベリウスはB.C.14年頃に一男(ドルスス=ユリウス=カエサル。小ドルスス。B.C.14?-A.D.23)をもうけたばかりで、幸せな家庭を築いていた。

 アウグストゥスは、後継者問題に決着をつけるため、ティベリウスとウィプサニア=アグリッピナを強引に離婚させ、娘の大ユリアと強制的に結婚させることにした(B.C.11)。ティベリウスはこの結婚を気に入らず、ウィプサニア=アグリッピナへの愛情は断ち切れないでいた。しかも大ユリアは多情な女性として知られており、アグリッパの妻であった時もティベリウスを籠絡しようとした逸話も残っている。しかしティベリウスはアウグストゥスの王命のため、その後はウィプサニア=アグリッピナと出会ってもあえて声をかけることはしなかったとされ、気に入らない大ユリアを愛することを決めたが、やはりウィプサニア=アグリッピナへの未練は消えなかった。そして、大ユリアとの間にできた子もうまく育たず夭逝したのをきっかけに、夫婦仲の悪化は公然化、B.C.6年、ティベリウスはエーゲ海南部のロドス島(小アジア沿岸部。世界七不思議の1つである巨像が置かれたとされる島)に隠棲、同島に引きこもるようになった。これをきっかけに大ユリアの本性が露呈、他に愛人を作るようになった。さらには元妻ウィプサニア=アグリッピナはティベリウスと離婚直後、元老院議員ガイウス=アシニウス=ガッルス(B.C.?-A.D.33)と結婚し6子に恵まれ、ガッルスもB.C.8年にコンスルに就任し、小アジアで属州総督を担ったことでティベリウスはガッルスへ激しい嫉妬が生まれた。

 ティベリウスの隠棲に対してアウグストゥスは非常に頭を悩めた。ゲルマニア遠征の最中でもあり、アグリッパ亡きローマ軍はティベリウスの指揮なしでは続けられなかった。これはアウグストゥスがこれまでの遠征をすべてアグリッパ任せにしていた結果であった。軍の有能な指揮官であるティベリウスのゲルマニア戦線離脱は大きく、アウグストゥス自身も戦略面では継子であるティベリウスとは大きな相違があるため、すでにこの場にいないアグリッパの存在を大いに痛感させられた。

 そしてB.C.2年、ティベリウスのいないローマでは大きな判決が下された。大ユリアは姦通罪に問われ、B.C.2年アウグストゥスによりティベリウスとの離婚を命じられたのである。大ユリアと愛人関係となった男性たちは国外追放となり、大ユリアもイタリア半島西のティレニア海に浮かぶパンダテリア島(現・ポンツィアーネ諸島の1つであるヴェントテーネ島)に5年間幽閉処分となり、その後イタリア半島南端のメッシーナ海峡のレギウム(現・レジョ=ディ=カラブリア)へ移送された。
 そして、アウグストゥスにとって耐えられない出来事が起こる。孫ガイウス=カエサルはB.C.1年、大ドルススの娘クラウディア=リウィア=ユリア(リウィッラ。B.C.13-A.D.31)と結婚し、続くA.D.1年にコンスルに就任して、当時ローマに占領されていたアルメニア地方の治安安定のための軍務についていたが、当時アルメニアを掠奪しようと企むパルティアの介入があり、A.D.3年ガイウスはパルティアと一戦を交えることになったが為に負傷し、翌4年、ローマへの帰途で24歳の若さで没してしまった(ガイウス=カエサル死去。A.D.4)。実はガイウスが没する2年前のA.D.2年、ヒスパニア遠征に従軍していたガイウスの弟ルキウス=カエサルも遠征途中のガリアで19歳の若さで病死しており、彼らを後継者とする構想が脆くも崩れ去った。

 ルキウスが没したA.D.2年、、ティベリウスはようやくロドス島からローマへ帰還した。この年はアウグストゥスに"国父(国家の父。Pater Patriae)"の称号が贈られた年であるが、もう1人の孫ガイウスも失ったアウグストゥスはA.D.4年、後継者問題に決着をつけるべく、新たな命令を下した。ティベリウス、ガイウス、ルキウスらの弟で、アグリッパ家を継いだアグリッパ=ポストゥムスの2人を、次期プリンケプス後継者として指名し、二人をアウグストゥスの養子にしたのである。そしてさらにその次の後継者については、亡くなった大ドルススの子である若いゲルマニクスにするため、彼をもアウグストゥスの養子にしたのであった。これにて、ティベリウスとゲルマニクスは、名をティベリウス=ユリウス=カエサルゲルマニクス=ユリウス=カエサルとそれぞれ名乗るようになった。しかしポストゥムスはアウグストゥスの妻リウィア(つまりティベリウスの実母)には好かれず、粗暴な性格が故に後継者から外され、養子縁組も流れてローマから追放処分を受けたため、次期プリンケプス後継者は正式にティベリウスに決定した。

 ゲルマニアは大ドルススを失って以後、ティベリウスが引き継いでこれを征服した。ゲルマニアの属州化を進めるため、A.D.7年ゲルマニア総督に就任したのはプブリウス=クィンクティリウス=ウァルス前述)であった。これまではティベリウスと共同でコンスルに就任し、数々の属州で総督を務めたウァルスが、ローマ軍団(レギオン)のうち、XVII団、XVIII団、XIX団(レギオンは数字で表され、それぞれ17団,18団,19団)の3個軍団を率いてゲルマニアに入った。

 迎え撃つは、ゲルマン系ケルスキ族のリーダーであるアルミニウス(B.C.16-A.D.21)という、ローマ軍にしてみれば当時のゲルマン諸部族でもただならぬ強敵であった。アルミニウスは、ローマ軍に所属した軍歴があり、しかもローマ軍の指揮官の地位にまで上り詰めるほどの卓越した軍事的才能を持ったことで、エクィテスの地位を得、しかもローマ市民権を獲得していた。A.D.9年、アルミニウス率いるケルスキ族をはじめとする1万数千の諸部族の軍が、ウァルス率いる3個軍団をはじめとする2万数千の軍に対し、トイドブルク森(ウェストファリア地方にあったとされる)において奇襲攻撃した(A.D.9。トイドブルク森の戦い)。ウァルスの3個軍団は瞬く間にアルミニウスのゲルマン軍に包囲され、3日間におけるこの戦いによって3個軍団は全滅、ウァルスは自殺、ローマ軍の完全なる敗北であった。戦敗の報をきいたアウグストゥスは「Quintili Vare, legiones redde!(ウァルスよ!私の軍団を返せ!)」と嘆き、エルベ川からライン川へ後退、結局北境はライン川にとどまることになった。結局、ゲルマニア遠征は失敗に終わった。

 すでに年齢が70歳を過ぎていたアウグストゥスは、ローマ軍の威圧が極端に下がったライン以東に対し、ゲルマン軍がガリア地域への侵入を阻止するため、ティベリウスに新たなゲルマニア総督を命じた(A.D.10)。さらにA.D.13年には護民官職権や執政命令権など、元首であるアウグストゥスが持っていた大権を譲り受けた。ティベリウスは同年、前年にコンスルを経験したゲルマニクスにゲルマニア政策を任せた。その年には、ゲルマニクスと妻である大アグリッピナとの間に、のちにカリグラ(カリギュラ)の名で知られるガイウス=ユリウス=カエサル=ゲルマニクス(A.D.12-41)が生まれた。

 後継者問題が解決したアウグストゥスは、その後胃病に倒れた。アウグストゥスは財産の3分の2をティベリウスに相続し、"アウグストゥス"の称号を譲ることを遺言を記した。残りの3分の1はアウグストゥスの妻リウィアが相続し、リウィアもユリウス家の一族とされてユリア=アウグスタ(アウグストゥスの女性形)の称号を授かる。そしてA.D.14年8月19日、アウグストゥスはナポリの町ノラで、765歳の生涯を閉じた(アウグストゥス死去A.D.14)。初代プリンケプスであり、国家の父であり、そしてローマ帝国(B.C.27-A.D.395)の初代皇帝として君臨した偉大な尊厳者は、"If I have played my part well, clap your hands, and dismiss me with applause from the stage."の言葉、日本語に訳すと「私の役割を上手に演じることができたのなら(=勤め上げたのなら)、拍手喝采の中で舞台から降ろさせてくれ」の言葉を死の直前に交わしたとされている。アウグストゥスの遺灰はローマ市内のアウグストゥス廟(【外部リンク】から引用)に納められたが、この廟は莫逆の友であったアグリッパの遺灰も納められていた。

 A.D.14年、これによりティベリウスはアウグストゥスのすべての権利を譲り受け、アウグストゥスを継ぐ第2代ローマ皇帝(位A.D.14-37)として、即位した。ユリウス氏族の出であるアウグストゥスの後、外戚であるクラウディウス氏族の出であるティベリウスが継いだことで、5代目のネロ帝(A.D.54-A.D.68)までをユリウス=クラウディウス朝(B.C.27-A.D.68)と呼ぶのである。ティベリウスは次期後継者として、自身の子であるが最初の妻ウィプサニア=アグリッピナとの間にできた実子の小ドルススではなく、生前のアウグストゥスが指名したとおりにゲルマニクスを指名した。そのゲルマニクスはゲルマニアでの戦役を17年まで続け、奪われた3つの軍団旗のうち2つを奪還する軍功を挙げ、その後もシリア総督などをつとめたが、悲劇的にもA.D.19年にアンティオキアにおいて病没した(ゲルマニクス没。A.D.19)。

 アウグストゥスが没したA.D.14年、ティベリウスはロドス島隠遁の原因の1つとしても考えられた大ユリアに経済制裁を加え、身分を剥奪して生活を窮乏させ、父アウグストゥスが亡くなった14年に大ユリア自身も亡くなった(大ユリア没。A.D.14)。またかつての先代アウグストゥスの後継者で、ティベリウスと後継者を争っていたアグリッパ=ポストゥムスも同14年に処刑した(ポストゥムズ没。A.D.14)。さらにティベリウスは最初の妻ウィプサニア=アグリッピナの再婚相手であった元老院議員でもとコンスルのガイウス=アシニウス=ガッルスに対しても判決した。ティベリウスは、アウグストゥスの後継者に指名されたことで、アウグストゥスの養子となるため、生涯最愛の女性であったウィプサニア=アグリッピナと強制的に離婚させられ、その後ウィプサニア=アグリッピナはガッルスと結婚していた(前述)。ガッルスは20年にウィプサニア=アグリッピナに先立たれた後、同じくゲルマニクスに先立たれ未亡人となった大アグリッピナにも近づくなどの行為に出たことで、大アグリッピナと共に国家反逆の幽閉処分を受け(A.D.29/30)、ガッルスは33年に死亡、大アグリッピナはアウグストゥスの娘でティベリウスの妻だった大ユリアが流刑となったパンダテリア島に流され、ガッルスが没した同年、大アグリッピナも死亡した。ティベリウスにおけるこうした一連の一族に対する粛清は、彼の治世において重要なある人物が大いに関わっていた。それは、ルキウス=アエリウス=セイヤヌス(20-31)という人物であった。

 先代のアウグストゥスが片腕であり心の親友としてアグリッパを重用したのと同様、ティベリウスはエクイテス出身の有能な軍指揮官であるセイヤヌスを片腕とした。アウグストゥスが没したA.D.14年、パンノニアでローマ軍団による暴動が起こり、ティベリウスの子である小ドルススが鎮圧にあたった。その後パンノニアは収まったが、小ドルススをサポートした一人として、セイヤヌスの尽力があったとされている。その後もセイヤヌスはティベリウスに随行して支持を取り付け、ティベリウスもまた彼を重用した。しかし一方で、小ドルススは、権力が集中するセイヤヌスを次第に警戒していくようになった。その後皇帝だけでなく元老院からも支持され、ますます勢力を強めていったセイヤヌスではあったが、以前のアグリッパのようにはならなかった。皇帝の寵愛を受けたことで、自身の勢力を強めたことが、セイヤヌスの暴走へと化していったのである。

 A.D.23年、セイヤヌスを警戒していた、そしてゲルマニクス亡き後の有力なプリンケプス後継者であった小ドルススが突然、謎の死を遂げた(小ドルスス没。A.D.23)。ティベリウスはその後、ローマでの政務に憂いを感じ、A.D.27年頃からナポリ湾に浮かぶカプリ島に隠棲する行動が見られ、行政、軍事などをローマにいるセイヤヌスに任せるようになった。
 しかしローマにはアウグストゥスの妻で"ユリア=アウグスタ"として君臨するもう一人の有力者リウィアがいた。リウィアもまたローマ市民や元老院、官僚から支持が高く、"国家の母"の権威を恣にした。ティベリウスは同等に権限を誇るリウィアを疎ましく思っており、セイヤヌスとしても同様であった。ところが29年にリウィアが86年の生涯を閉じた(リウィア死去。A.D.29)。セイヤヌスにとっては、ティベリウスの障害となりうる人物は、勢力を拡大するセイヤヌス自身に対しても障害であった。セイヤヌスはティベリウスの現状を利用して権力掌握を図ったにすぎない人物としてとられるようになった。しかしこうした中でもセイヤヌスは、自身の彫像をティベリウス像のそばに置き、誕生日をローマの祝日にして盛大に祝うなど、権勢を思う儘に操った。

 ゲルマニクスと小ドルススという優秀な後継者を失い、権力を二分してきたリウィアが亡くなり、当のティベリウスはカプリ島に隠棲、ローマを指揮するのは近衛隊長セイヤヌスという、ローマは異常な事態に陥った。表向きではパックス=ロマーナの真っ直中であるものの、アウグストゥスの平和時代とは見事にかけ離れた状態であり、元老院はこれを許すはずもなくティベリウス帝とセイヤヌスへの不信感が募り始めた。A.D.31年にティベリウスとセイヤヌスは共にコンスルへ就任して支持をはかったものの、カプリ島から動かないティベリウスとローマから動かないセイヤヌスとの共同統治は不可能であり、1年もたずに両方ともコンスルを辞任することになった。セイヤヌスは勢力拡大に執心した結果、ついに本性を現し、ティベリウスを自身の障害として排除する陰謀を企てるようになった。

 ティベリウスは先代アウグストゥスとアグリッパのような関係のように、忠実な部下セイヤヌスを期待していたが、ここで、一つの疑惑が生まれた。小ドルススの死に関してであった。小ドルススの妻はガイウス=カエサル(前述)のもと妻であり、ゲルマニクスの妹であるリウィッラであった。つまりリウィッラはガイウス小ドルススと、アウグストゥスの称号を贈られるべき有力な後継者の妻として、また同様に有力な後継者だったゲルマニクスの妹として、自身にも権力が集まるはずであった。しかし彼ら3人とも先立たれ、すべて失敗に終わる憂き目を見た人物とされていた。とはいえリウィッラは実権の掌握をあきらめることはなく、実は夫である小ドルススが没する前から、リウィッラは小ドルススではなく権力の掌握者セイヤヌスを選び、セイヤヌスに近づいて不倫の関係を交えていたのである。セイヤヌスは正妻のアピカタ(?-A.D.31)と離婚し、自身に嫌悪を抱く小ドルススを亡き者にし、果てはティベリウスから帝位を奪うという条件でリウィッラとの結婚を約束した。そのためには外濠を埋める必要があり、結果、小ドルススはリウィッラを使って毒殺されたのであった。33年に没したガッルス大アグリッピナの排斥(前述)も、ティベリウスの感情を巧みに利用した、セイヤヌスの煽動であった。その後ゲルマニクスと大アグリッピナとの長子ネロ=カエサル=ゲルマニクス(A.D.6-31)、次子のドルスス=カエサル(A.D.7?-33)にも刃を向けたセイヤヌスは、小ドルススが没して次期後継者として有力であったネロ=カエサル=ゲルマニクスと弟ドルスス=カエサルを陥れ、長子ネロ=カエサル=ゲルマニクスは流罪、次子ドルスス=カエサルも幽閉処分(後継者最有力候補の兄ネロを憎むドルスス=カエサルに対し、セイヤヌスはドルスス=カエサルの味方として抱き込む罠をしかけ、計略にかけた)となり、二人とも再び政務に就くことはなかった。この二人もセイヤヌスが裏で仕掛け、カプリ島にいるティベリウスの命で制裁されたのである。ちなみにその間、二人の弟であるカリグラはまだ成年に達していないため、アウグストゥスの妻リウィアが預かっており、A.D.29年のリウィア没後大ドルススの妻小アントニアに預けられていた。

 ローマでユリウス=クラウディウス家による陰惨な事件が続発しているにもかかわらず、カプリ島から帰還しないティベリウスに対して、元老院も、国民も、尊厳者としての信用を完全に失ってしまった。ティベリウスとセイヤヌスがコンスルを辞任して以降、ティベリウスはセイヤヌスのローマ管理に疑念を持ち始めた。帝国の大権掌握者である以上、重臣の心を熟知する必要があった。セイヤヌスの次をねらう者、ティベリウス自身の後を継ぎし者、ティベリウス自身とセイヤヌスを疎ましく思う者が次々と粛清されるという、アウグストゥスとアグリッパの時代にはなかったことであった。のち、セイヤヌスの陰謀に荷担しているのがリウィッラであることを、リウィッラの母である小アントニアが知り、この情報はティベリウスに知れた。

 A.D.31年、ティベリウスはついに裁断を下した。アポロ神殿で、元老院によるセイヤヌスへの新たな職権贈与の儀式を開催したが、当然これは偽の儀式であった。儀式が終わると、コンスルのプブリウス=メミウス=レグルス(?-A.D.63)は、セイヤヌスの全権力を剥奪し、死刑判決を宣言した。開催中の元老院は、議員の拍手喝采に包まれた。結果、当夜において、セイヤヌスは処刑、その後家族・親族、そしてセイヤヌスに取り巻いていた元老院議員はすべて粛清された。そこで、妻アピカタが残した遺書に夫セイヤヌスが自身と離婚し、小ドルススの妻リウィッラと密通・結託してセイヤヌスの敵だった小ドルススを殺害したことも明らかになり、リウィッラも死罪は免れず、同年に没した(リウィッラ死去。A.D.31)。

 ティベリウスはセイヤヌスの事件以来、完全に孤立し、ローマから離れた島で余生をおくるだけの皇帝に変わり果ててしまった。セイヤヌス事件直後、事件を逃れたカリグラが小アントニアのもとを離れてティベリウスのいるカプリ島に入り、皇帝に引き取られたが、カリグラは父であるゲルマニクスの死、母である大アグリッピナの流罪、兄であるネロ=カエサル=ゲルマニクスとドルスス=カエサルの謀殺をティベリウスの所為であると恨んでいた。ローマ市民にも見放され、とりわけ元老院からは対立を余儀なくされたティベリウスも完全な人間不信に陥っており、その後の施政も周囲の反感を買うばかりであった。

 A.D.37年、ナポリのミセヌムに置かれた離宮において、ティベリウスは77歳で没した(ティベリウス死去。A.D.37)。一説では、カリグラの暗殺説もあるという。アウグストゥスの平和な治世40年と比べても、ティベリウスの治世23年は暗く悲惨な事件が多かったため、初代尊厳者であるアウグストゥスの辞世に告げた、"拍手喝采のまま"世に別れを告げるとはほど遠く、ローマ市民は2代目尊厳者を授かったティベリウスの、ようやく訪れた死を、皮肉にも拍手喝采でもって歓喜を表したのであった。

 同A.D.年、カリグラがガイウス=ユリウス=カエサル=アウグストゥス=ゲルマニクスとして尊厳者の称号を授かり(位A.D.37-41)、第3代ローマ皇帝に即位し、ユリウス=クラウディウス家は引き継がれていった。


  本編制作時は2014年でしたので、没後2000年企画としてアウグストゥスを取り上げるはずが、忙しくてアップするまでに相当時間がかかってしまいました。最後の更新からかなり日が空きましたが、皆様、覚えていただけているでしょうか。今回は大長編となってしまい、アウグストゥスだけを取り上げるつもりが、結果的に次帝のティベリウスまでご紹介することになりました。2014年だけならアウグストゥスだけでもよかったのですが、久々の更新と言うことで、超ボリュームアップでお送り致します。ローマを"永遠の都"にした第一人者オクタウィアヌス("永遠の都"という名称も彼の時代が発祥です)と友アグリッパの華やかな時代、一方でティベリウスの悲しみに満ちた時代、よって後半に進むにつれて内容がドロドロしてしまっています。最後まで気持ちよく読んでいただきたかったのですが、史実なのでお許し下さい。

 ユリウス=クラウディウス家はかなり複雑で、アウグストゥス→ティベリウス→カリグラ→クラウディウス(B.C.10-A.D.54。位A.D.41-54。ゲルマニクスの弟)→ネロと、直系の嫡男が皇帝になることはなく、養子縁組によって後継者を残して王朝を維持していきました。アウグストゥスがユリウス氏族で、後は外戚だったクラウディウス氏族出身となります。アウグストゥスもかの有名なガイウス=ユリウス=カエサルB.C.100?/B.C.102?-B.C.44)の後継者となるために彼の養子になった人物です。このため内乱が本当に絶えませんでしたので、市民におけるパックス=ロマーナ(ローマの平和)であっても、名門でのお家騒動の苦悩はずっと続きました。ティベリウス時代は序の口で、カリグラやネロの治世は狂乱に満ちた時代であり、『ゲルマニア』の作者タキトゥス(A.D.55?-A.D.120?)は帝政ローマをするどく批判した歴史家で有名です。さて、その家系ですが、似通った名前が次々と出てきて、しかも後継者を決めるための養子縁組(孫が息子になることも多かった)も絡んで、かなり複雑になっていきましたので、今一度整理してみましょうか。

 本編における大学受験での学習ポイントはこうしたドロドロ劇の部分ではなく、アウグストゥスがオクタウィアヌス時代、つまり共和政末期の内容(B.C.43年の第2回三頭政治、B.C.31年のアクティウムの海戦、B.C.30年のエジプト併合)と、元首政に出る重要用語("尊厳者"、"プリンキパトゥス"、"プリンケプス")を覚えなければいけません。またアウグストゥス時代は文化保護に努めたため、本編にあったように、叙事詩人ヴェルギリウス(著書『アエネイス』)、叙情詩人ホラティウス、歴史家リウィウス(『ローマ建国史』)らが歴史に名を刻みます。彼らの存在は文化史ではメジャー級なのでかならず覚えましょう。あと、ドロドロ劇の中で知っておいた方が良いのは、まれに難関大の一般入試で、ゲルマン民族とA.D.9年にトイドブルク森で戦ったことを知っておくとよろしいでしょう。

 ちなみに、ティベリウスの治世にはキリストの磔刑が行われたともされています。これに関与したとされるユダヤ属州総督ポンティウス=ピラトゥス(ピラト。任A.D.26-36)がティベリウス時代の人物です。

【外部リンク】・・・wikipediaより

(注)紀元前は年数・世紀数の直前に"B.C."と表しています。それ以外は紀元後です。
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