世界史の目-Vol.252-

中国王朝の貨幣

 (いん。B.C.1600?-B.C.1046?)の時代に始まったとされる貝貨経済。貝貨は文字通り、商品価値、あるいは素材価値を持った貝(当時は子安貝。タカラガイなどに相当)を実物の貨幣として用いられたものであり、それらは一種の貨幣経済として流通された。貨幣の"貨"をはじめとして、"財"、"買"、"貸"、"賣(売の旧字体)"など、経済関連を表す漢字にに「貝」の字が含まれるのは、そのゆえんである。

 次の王朝、(しゅう。B.C.11C-B.C.256)の王室弱体化にともない、封建下の諸侯たちが自立する傾向となり、春秋時代(しゅんじゅう。B.C.770-B.C.403)および戦国時代(B.C.403-B.C.221)が到来した。貝貨は春秋時代まで使われたが、春秋時代では青銅器が普及したことと、富国政策をかかげる諸国の生産力が高まり、製鉄や製塩などといった商工業が発展した影響などから、貨幣は貝貨に代わって、青銅で作られた貨幣が用いられるようになった。青銅器製の武器や祭器の普及により、交換経済が発達、青銅貨幣の誕生を見ることになったのである。春秋戦国時代における青銅貨幣には斉(せい。春秋B.C.1046-B.C.386。戦国B.C.386-B.C.221)や燕(えん。B.C.1100?-B.C.221)で普及した刀貨(とうか。刀銭。とうせん。刀の形状)、春秋時代の晋(しん。B.C.11C-B.C.376)および晋が分裂した戦国時代の韓(かん。B.C.403-B.C.230)・魏(ぎ。B.C.403-B.C.225)・趙(ちょう。B.C.403-B.C.228)で普及した布貨(ふか。布銭。ふせん。鍬の形状)、(そ。?-B.C.223)で普及した蟻鼻銭(ぎびせん。アリの鼻に似ているが、外観は貝貨に近い)、魏や(しん。B.C.8C-B.C.206)で普及した環銭(かんせん。円銭。えんせん。円形に穴の空いた貨幣)などがある。環銭の穴は正方形の"方孔"と円形の"円孔"がある。B.C.221年に秦が中国統一を果たすと、貨幣も全国的に環銭使われるようになり、通貨として流通した。円形に穴の空いた形状は環銭が最も古く、5円玉や50円玉など日本の貨幣の原点を知ることができる。

 やがて環銭は秦の時代に"半両銭(はんりょうせん)"として生まれ変わった。始皇帝(位B.C.221-B.C.210)は国家統一事業の一環として貨幣統一を行い、貨幣の重さを半分にした(当時の重さの単位が""で、1両の半分の重さ。約8グラム)。前漢(ぜんかん。B.C.202-A.D.8)の武帝(ぶてい。位B.C.141-B.C.87)の時代になると、過度の外征によって遠征費がかさみ、財政が逼迫したことをうけて、5銖(しゅ。24銖で1両の重さ。約3グラム)の貨幣、つまり五銖銭(ごしゅせん)を鋳造し、(とう。618-907)の初頭まで用いられた。

 後漢(ごかん。25-220)滅亡後、魏晋南北朝時代(220-589)が到来し、統一の機会が長く失われた中国では、長く使われた五銖銭が粗悪になっており、鋳造改革はの時代になっておこされた。これが開元通宝(かいげんつうほう。【外部リンク】から引用。"開通元宝"と読む説もある)で、621年に誕生、以後300年にわたり使用され、円形で中心に方形の穴を開けた形状も通例となった。また、日本の"富本銭(ふほんせん。683年初発行)"や"和同開珎(わどうかいちん。わどうかいほう。708年初発行)"などは、開元通宝を模して鋳造されたと言われている。
 開元通宝は2銖半(唐代における1銖は1グラム半)の重さで、当時1両の10分の1にあたる重さであった。開元通宝の登場で両替も統一され、1両を10(せん)とし、1銭は10分(ぶ)、1分は10厘(りん)となり、ここで"銖"の単位は使われなくなったが、のちに日本で江戸時代(1603-1868)に一金(いっしゅきん。日本での"分"の4分の1、"両"の16分の1)として、"銖"を由来とする単位が使われた。

 代では"(こう。ホン)"とよばれる同業者ギルド(同業者組合)が、草市(そうし。江南地方を中心にできた定期市。もともとは城郭内の一定区域に設けられた""に対し、城外の非公認の交易場を指した)の商工業者によって次々とつくられていき、商業は活発化した。元来、"行"という語は隋唐代では"商店街"を意味したものであったが、交易の発展に伴い次第に同業者ギルドの意味として使われていった("行"の語は現在でも"銀"などの用語にその名残がある)。さらには遠隔地交易の発達や銭貨で納付することを基本とする両税法施行(780)に伴い銅銭の流通が活発化したが大量輸送に困り、また唐の末期になると地方が銅銭の外部流出をきらい、これにかわる送金手形制度(送金為替手形)が求められた。これを飛銭(ひせん)とよぶ。現金ではなく現在の為替のような証明書でもって取引の支払をするのである。唐代では飛銭制度で使われる手形を、「交子(こうし)」と呼んだ。
 (そう。960-1279。北宋は960-1127。南宋は1127-1279)の時代になると、地方の草市は城郭内の市と規模が変わらなくなり、小規模な商業都市と化すものもあった。これらは(ちん)・市(し)・店(てん)などと呼ばれ、商業がさらに発展した。飛銭においても、現金の代わりに取引に使われる手形が、現金と同様の価値をしっかりと持つようになっていった。
 北宋時代、銅の生産に乏しかった四川地方では、銅銭ではなく鉄銭を発行したのだが、その重さでは流通手段として相当不便であり、これに代わる手形、交子が大いに必要とされた。交子は全国一律で価値が変わらないため、銅より価値の低い鉄の銭貨を用いた四川には好都合であった。四川の中心地である成都の交子発行者(金融業者など)たちで結成された"行"は北宋政府に四川での交子発行の必要性を訴え、政府もこれを認めた。四川で政府公認の交子が発行されることにより、その重要性が他のどの手形(当時は「会子。かいし」「交鈔。こうしょう。交抄とも。」「交引。こういん」「銭引。せんいん」などの手形があった)よりも重用された。北宋第4代皇帝である仁宗(じんそう。位1022-63)の治世に、交子は政府発行とされて民間での発行はできなくなった。やがて政府は兌換用の本貨幣を準備した上で、交子を兌換紙幣として流通することを決めた。この交子こそ、世界初の紙幣として誕生するのである。その後、南宋時代になると、会子も紙幣として政府発行され、さらには中国東北地方におこった王朝(きん。1115-1234)では交鈔を紙幣化し、王朝(げん。1271-1368)でも流通紙幣として用いられた。
 しかしこれら手形から誕生した紙幣はその利便性から大量発行され、紙幣価値が下がり極端なインフレーションを招いて、流通価値を失ってしまった。金や元では交鈔の乱発で経済混乱におちいり、それぞれ弱体、滅亡の要因となっていく。

 四川では鉄銭であったが、北宋時代での基本の銅銭では、開元通宝に加えて宋元通宝(そうげん)、太平通宝(たいへい)、淳化通宝(じゅんか)、至道通宝(しどう)など元号が改まると同時に鋳造された。これら宋代の銅銭を"宋銭(そうせん)"と呼び、これまでで最大の流通を誇った。さらに宋銭は、日本における平清盛(たいらのきよもり。1118-81)の政権時代(12世紀後半)、日宋貿易における重要な貿易品として日本に大量に輸出された。宋銭の単位は1個が1文(もん)で、1000個で(かん)と呼ぶ。宋銭による商業流通は主に宋代になって組合勢力の強くなった"行"に加え、手工業者によるギルド、"(さく)"らの結成によりますます発展した。

 (みん。1368-1644)では、建国者である洪武帝(こうぶてい。こうぶてい。太祖。位1368-98。朱元璋。しゅげんしょう)の時代は、銅銭のみを正式な通貨として認められていた。主な銅銭に大中通宝(だいちゅう)、洪武通宝(こうぶ)などがある。通貨を銅銭に一本化していた理由として、宋代から民間での取引で徐々に広まりつつあった、不足した銅銭の代替として銀の地金(じがね)などの銀塊が銀貨代わりとなって流通していたことが挙げられる。さらに1375年、洪武帝は宝鈔(ほうしょう。大明宝鈔。だいみょう)と呼ばれる紙幣発行も行い、1392年には通貨を宝鈔に一本化、ついには銅銭の使用をも禁じた(1392-1435)。
 第3代皇帝の永楽帝(えいらくてい。成祖。せいそ。位1402-24)の治世では永楽通宝(えいらく)が鋳造されたが、国内では銅銭の流通禁止によって流通規模がきわめて小さく、主に日本との勘合貿易(1401-1549。日明貿易)での日本への輸出品として鋳造された(日本では"永楽銭"と呼ばれる)。

 宝鈔は貨幣と交換できない不換紙幣で、当然政府による銀貨鋳造がなかったため、民間で使われていたとも兌換できなかった。しかも流通は一方通行で、回収もされず発券されるがままであったため、たちまちだぶついて価値は下落していった。当時民間では相変わらず銀が根強く、紙幣の信用価値よりも重要視されたため、次第に宝鈔は使われなくなった。
 そもそも通貨代わりの銀塊や銀の地金は馬蹄銀(ばていぎん。【外部リンク】から引用)などが秤量銀貨(しょうりょうぎんか)として使われた。含有量が不定で量目(りょうめ。重さ)がまちまちの銀塊や銀地金などを貨幣として交換取引などに使用するためには、天秤にかけて交換価値を計る秤量貨幣であることが条件であった。中国の秤量銀貨は銀錠(ぎんじょう)と呼ばれる。秤量銀貨は重さに価値があるため、よって価格の表示は刻まれない。重さの単位として(りょう。テール)が使われ、さらに両の10分の1の重さを""、その10分の1を""とし、約40グラムにあたる1両の銀貨から2キロ近い50両の銀貨まで存在した。宝鈔が失敗し、銀貨を発行しなかった15世紀の明国はその後銅銭による流通を復活させたが、これ以上に銀の勢いは増していった。 
 明代後半になると、明朝国内の銀が不足し、日本から日本銀を大量に流入(16世紀)、またフィリピンのマニラ(スペインが1571年建設)を貿易拠点としたスペインからも大量のメキシコ産の洋銀(メキシコ銀。墨銀。ぼくぎん)を輸入し、明国内における銀の流通は自然化していった。やがて銅不足におちいった状況から、銀を正式通貨として認めるべく政府も動き、時の明朝第14代皇帝、万暦帝(ばんれきてい。1572-1620。神宗。しんそう)の治世下、張居正政権(ちょうきょせい。第47代内閣大学士任1572-82)によって、田畑に課された地代や労働で納める夫役(ぶやく。労役)といった賦役の他、複雑化していた税を一本化することを目指して、丁税(ていぜい。壮丁、つまり16~59歳の成年男子対象の人頭税のこと。人丁)と地税(田畑税)を銀で納めるという一条鞭法(いちじょうべんぽう)を断行した。両税法以来の税制大改革の施行であった。のちに丁税は丁銀(ていぎん)、地税は地銀(ちぎん)と呼ばれた。これにて張居正政権では「万暦年造(ばんれきねんぞう)」といった銀貨が鋳造された。

 明朝での銀の流通が完全に定着し、東アジアでは銀は基軸となっていった。次の清朝(しん。1616-1912)においても、明時代と同様、銀を中心に銀を通貨として使用した。当時の銀は庫銀(こぎん)と呼ばれたが、その理由は庫平(こへい)と呼ばれた秤(はかり)を基準に使用したことによる。また量目の単位である"両"は"庫平両"と呼ばれた。清朝においても一条鞭法を中心に税の徴収を行っていたが、康煕帝(こうきてい。聖祖。せいそ。位1661-1722)の即位50周年目にあたる1711年、一条鞭法を改革することになった。前年の段階で成年に達した男子(壮丁。そうてい)を調べたところ壮丁男子は2462万人が登録されていたが、清朝統一以降の人丁数の不正や貧困層の滞納、そして納税免除権の濫用(あらたな壮丁を戸籍登録させず、納入分は納税官や地方官の懐に収まるなどの不正)など、丁銀の明確な徴収は得られない状況であった。そこで、2462万人の壮丁男子を固定の丁銀として、これ以後あらたに壮丁となった男子を盛正滋生人丁(せいせいじせいじんてい)というカテゴリーに括り、彼らの丁銀は地銀に繰り込まれる形で免除され、一本化された地銀を銀で納める地丁銀制度の施行に踏み切った。これにて地主が地銀を納める形が一般化し、税制は簡素化されたのであった。次の雍正帝(ようせいてい。世宗。せいそう。位1722-35)の治世で地丁銀制度はほぼ全国に行き渡った。これまで税を逃れていた壮丁以上の年齢層に戸籍登録を行わせたところ、壮丁以上の人数が明らかになり、極端な人口増加となった。

 銀の流通は王朝発展の屋台骨となり、1792年にはチベット専用の銀貨("乾隆宝蔵"。けんりゅうほうぞう)も発行された。銅銭の発行に関しては、少額取引用として使用されるにとどまり、高額取引に際しては秤量貨幣(馬蹄銀などの銀錠)が使われた。そして、銀を本位貨幣(正貨)とする銀本位制がしかれ、銀と銅銭を併用するに至り、双方の交換比率も変動した。
 19世紀前半ではイギリスに茶、絹、陶磁器を輸出し、イギリスはその代価を銀で支払ったことで、大量の銀が清国に流入した。ところが、アメリカ独立戦争(1775-83)に敗れたイギリスは北米植民地の財源を失い、さらに銀の国外流出を嫌って清との片貿易をイギリス、清、インドとの三角貿易(清からイギリスへ茶・絹・陶磁器、イギリスからインドへ綿織物、インドから清へアヘン。イギリスの輸入分の代価を、イギリスの支配下にあったインドのアヘンにあてる)に切り替えて打開を図ろうとした。清朝ではアヘン吸引が習慣化したうえ、アヘン禁輸を施行するもアヘンの密貿易は年々増加(1800~40年間でおよそ10倍の量に増加)、清朝国内ではアヘンの代金として支払う銀の保有量が激減するほど、国内のおよそ80%の銀が国外へ流出していったことで、イギリスと対立、やがてアヘン戦争(1840-42)へと突入することになる。
 銀の大量流出となった清国は、銀の保有量激減にともない銀貨の価値が高騰した。そして、銅銭(当時の銅銭は"制銭"と呼ばれる。せいせん。明代後半からの呼称)との交換比率も急激に変わっていった。雍正帝没後即位した乾隆帝(けんりゅうてい。高宗。こうそう。位1735-9)の時代では、約37グラムの銀1両は銅銭700文ほどの交換であった。しかし銀の流出が始まった1830年で銅銭1200文、アヘン戦争勃発前で銀1両につき銅銭2000文の交換価値に跳ね上がった。地丁銀の納入は銀納のため、銅銭の使用が生活基盤だった農民などは所持する銅銭を銀に交換しなければならず、結局支払うべき納税額が跳ね上がる結果となり、生活が貧窮と化した状況下から、反清の太平天国(たいへいてんごく。1851-64)がおこるなど、、治安はひどく悪化した。なお、太平天国の指導者であった洪秀全(こうしゅうぜん。1814-64)や石達開(せきたっかい。1831-63)らも太平天国用の銅銭を発行している。

 太平天国の動乱が収まり、その後到来した近代化運動(洋務運動。1860-94)の発展によって、清朝の国勢はやや安定した。光緒帝(こうしょてい。位1875-1908)の治世下、1887年には穴のない銀貨「光緒元宝(こうしょげんぽう)」が広東省で発行された。この銀貨は1枚の量目を規定の約0.72庫平両にし、"庫平7銭2分"と表記され、量目と品位を一定化して発行された。これは、量目で価値を決めるこれまでの秤量貨幣と異なり、規定された量目や品位に基づいて作られ、価格の表示があり、その個数を計数して交換取引できる計数貨幣(けいすうかへい)であった。この銀貨は「(えん。""の旧字体。銀圓)」が単位で、1枚を1圓とした。洋銀が円形だったことに因む「圓(yuan)」は、別称として同音字の"元(げん。yuan)"も代用した(銀元)。銀圓(銀元)は中国全土に広まっていく一方で、重さの"両"を単位とした銀両(銀圓や銀元に対して、これまでの庫銀は銀両という)は小規模化していった。1900年では「大清銅幣(たいしんどうへい)」や「光緒元宝」といった銅貨(銅元)も5種類(1文銅貨、10文銅貨など)発行された。

 その後、清朝が滅亡(1912)して中国王朝時代が終わり、1933年には長らく機能してきた銀両は廃止され、すべて銀元に切り替えられた(廃両改元。1933.4。はいりょうかいげん)。そして1935年、蔣介石(しょうかいせき。1887-1975)率いる中華民国国民政府は、貨幣統一を目指し、政府系銀行の発行する不換紙幣の銀行券を法定貨幣(法幣という。ほうへい)とし、その価値はイギリスポンドとリンクさせて、法幣1元を1シリング2.5ペンスとする固定相場制を導入する改革を行った(幣制改革。1935.11。へいせいかいかく)。長らく中国王朝を支えてきた銀本位制は名実ともに終焉を迎え、管理通貨制度の時代へと突入した。翌1936年にはアメリカドルとも関係をきずいたが、長期にわたる日中戦争(1937-45)の影響で法幣は下落を続け、1948年に廃止となった。その後は兌換制度に戻るも、内乱の影響で混乱を極めた。

 1948年末、中国共産党は中国人民銀行を設立、新たな銀行券を発行した。これが人民元(じんみんげん。中国では"人民幣"と表記。じんみんへい)であり、中華人民共和国の通貨として現在に至っている。 


  今回は中国の貨幣・通貨の歴史を、王朝時代を中心にご紹介しました。世界で始めて流通紙幣を誕生させた中国歴史の非常に興味深い内容でした。本編では多くの貨幣が登場しましたが、一度画像検索してみて、その形状やデザインを堪能してみて下さい。

 さて、量も多いのでさっそく今回の学習ポイントです。通貨は政治経済や現代社会では避けられない単元ですし、大学受験の世界史Bでも、テーマ史などでかなり出題されやすい分野なので要チェックです。日本史においても、どの時代でも出題される重要な頻出項目です。今回は世界史での学習ポイントを挙げておきます。
 古代は子安貝の貝貨から登場します。春秋戦国時代の青銅貨幣は形状やデザインも把握しておく必要があり、さらに難関大だとそれらはどの国家で流通されたかをも知る必要があります。本編にあったように刀銭→斉や燕、布銭→晋(戦国時代からは韓・魏・趙に分裂)、蟻鼻銭→楚、環銭(円銭)→魏や秦で、それぞれ普及します。秦朝の統一後では半両銭が、前漢武帝の時代には五銖銭がそれぞれ登場します。半両銭や五銖銭はメジャー級の用語なので、必ず知っておきましょう。
 唐の開元通宝は621年に世に初めて登場しております。唐の初代皇帝である高祖(こうそ。位618-626。李淵。りえん。566-635)の時です。難関大では李淵(高祖)の時に出ることを問う問題がたまにあったりしますので注意が必要です。また送金手形制度の飛銭も覚えましょう。
 そして、行と作の組合が強力化し、商業の活発化がみられた宋代では、宋銭(銅貨)の流通が海外まで及び、そしてついに世界初の紙幣・交子の誕生を見ます。もともと手形として使われた交子は、北宋時代に紙幣として流通し、南宋時代には会子も紙幣として使われます。この交子と会子がいつの時代に紙幣として出現したかが重要なポイントです。商業活発化の大きな担い手となった行(同業者組合)と作(手工業者組合)も重要ですね。行は隋唐では商店街、宋代では同業者組合へと発展します。
 そして交鈔も登場しました。金朝や元朝で使用された紙幣として重要です。ともに乱発によって国家を疲弊させております。元では特に滅亡を加速させた要因としてこの項目が挙がることが多いので注意ですね。
 あと本編では出てきませんでしたが、宋代で貨幣が広く使われた背景の1つとして、海外貿易の要所である広州、泉州、明州(めいしゅう。寧波。にんぽー)、杭州などに置かれた貿易管理局、市舶司(しはくし)も忘れてはいけませんね。市舶司は8世紀前半、唐の玄宗(げんそう。位712-756)の時代には置かれています。
 世界初の紙幣として誕生した交子ですが、ちなみに、世界初の貨幣鋳造を行った国家は小アジアにあったリディア王国(B.C.7C-B.C.547)です。大学受験で学習する古代オリエント史の中でも最頻出項目です。

 明では、永楽通宝をはじめとする明銭が出回ったこと、商業や手工業がさらに発達したことが重要ですね。本編未登場ですがその商業では、あちらこちらに物産を売買する客商(きゃくしょう)が現れ、官僚と結びついて巨万の富を得た客商に安徽(あんき)省の新安商人が行った商売や、山西省の山西商人が行った金融業がいることが入試で出題されやすいです。
 また明では朝貢貿易体制であり、海禁制度(貿易統制。密貿易や倭寇、輸入過熱による貨幣流出を防ぐのが目的)がありましたが、のちに緩和されて16世紀にはヨーロッパ人も数多く来航しました。こうした背景から、日本銀やメキシコ銀が大量に入りこみ、銀が中心の経済になっていきます(余裕があれば、メキシコ銀は直接メキシコから渡ってくるのではなくて、フィリピンのマニラを経由することも知っておきましょう)。結果、唐の両税法以来の税改革として、銀で租税(丁銀と地銀)を納入する一条鞭法を実施します。非常に大事な項目です。

 そして最後の清朝ですが、貨幣に関する出題はありません。租税は銀納で変わりませんが、丁銀を地銀に繰り込む地丁銀制度が施されたことが大事です。両税法、一条鞭法とともにかなり出題されやすい項目です。貿易においては本編未登場ですが、乾隆帝は1757年に貿易を広州港だけ開けて、13の政府公認の特許商人組合、公行(コホン。広東十三行)に任せました。公行はアヘン敗戦後の南京条約(1842)で廃止されるまで続きます。

 中華民国時代の貨幣制度も1935年の幣制改革など、けっこう受験に重要な項目があったりするのですが、本編は中国王朝の貨幣がメインでありましたので、中華民国以降の中国における貨幣は、また別の機会で紹介したいと思います。ちなみに中華人民共和国で使用される人民元は、元、角(jiao。1元=10角)、分(fen。1角=10分)の単位を使用しています。

 最後に、本編では馬蹄銀が登場しましたが、日本の江戸時代では金と銀が経済を握っており、東日本は小判などの金貨、西日本は丁銀などの銀貨が中心でした(江戸の金遣い、上方の銀遣いとよく言われます)。江戸時代では、銀貨が重さを価値とした秤量貨幣、金貨が数を価値とした計数貨幣として、それぞれの価値がはかられました。

【外部リンク】・・・wikipediaより

(注)紀元前は年数・世紀数の直前に"B.C."と表しています。それ以外は紀元後です。
(注)ブラウザにより、正しく表示されない漢字があります(("?"・"〓"の表記が出たり、不自然なスペースで表示される)。蔣介石(ショウかいせき。くさかんむりに將)

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