世界史の目-Vol.253-

ドイツ分断時代・前編
~緊迫の外交、対立の導火線~

 第二次世界大戦(1939.9-1945.8)の敗戦国となったドイツは、アメリカ、イギリス、ソ連(ソヴィエト社会主義共和国連邦。1922-91)の3首脳によるポツダム会談(1945.7)に基づき、アメリカ、イギリス、ソ連、フランス4カ国による分割管理となり、首都ベルリンも同時に4分割された。その後世界はアメリカ、西ヨーロッパらを中心とする資本主義・自由主義をかかげる西側陣営と、ソ連、東ヨーロッパら社会主義・共産主義をかかげる東側陣営に分かれたいわゆる冷戦の構造となっていき、4分断されたドイツ内でも混乱にまみれた。その混乱は1948年6月に起こった、米英仏管理区域でのドイツマルク発行(西側管理地区通貨改革)に対するソ連の反発で始まった。この騒動に伴うソ連のベルリン封鎖(ベルリンは分断されたドイツの東側管理地区の中に位置しており、その中で米英仏が占領する西ベルリン地域への交通網をソ連が封鎖した。西側は陸の孤島と化した西ベルリン地域へ、いわゆる"空の架け橋"といわれた大空輸作戦を強行する)など、4分断ドイツから冷戦構造に拍車がかかる結果となり、ドイツは4カ国管理から、東西に2分割管理の状態へと変わっていった。

 1949年5月23日にドイツの西側管理区域はライン左岸のボン市を首都に定めて連邦共和国臨時政府を樹立、ドイツ連邦共和国西ドイツ1949.5.23-1990.10.3)が成立した。西ドイツ初代首相には、リスト教民主同盟CDU。カトリック中央党が母体の保守・中道政党)初代党首のコンラート=デナウアー(1876-1967)が就任し(首相任1949.9-63.10)、自由民主党(FDP)のテオドーア=ホイス(1884-1963)が初代連邦大統領に選ばれた(大統領任1949.9-59.9)。

 一方で、ソ連がつとめる東側管理地区のドイツでも、社会主義体制をしくドイツ民主共和国東ドイツ1949.10.7-1990.10.3)が成立した。首都は東ベルリン市だが、同市はもともと旧ベルリン市の主要都心区域にあたり、東ドイツ側では、首都を単に"ベルリン"とした。
 ドイツは社会主義国家として、ソ連型の社会主義体制をとっていく。東ドイツの初代大統領は、ドイツ社会主義統一党SED。1946年にドイツ共産党KPDドイツ社会民主党SPDが合体)の代表者であったヴィルヘルム=ピーク(1876-1960)が就任したが(大統領任1949.10-1960.9)、ピーク没後に大統領制は廃止となった。また政府にあたる閣僚評議会の議長が首相となり、初代首相はドイツ社会主義統一党のオットー=グローテヴォール(任1949-64)が選ばれた。大統領制が廃止となった後は憲法が改正され、国会にあたる人民議会にて、選出された国家評議会のメンバーが国家元首の機能を管理し、国家評議会議長国家元首として東ドイツのトップリーダーとなった。初代議長はドイツ社会主義統一党の第一書記をつとめたヴァルター=ルブリヒト(1893-1973)が選ばれ、国家元首となった(任1960.9-1973.8)。
 ウルブリヒトはソ連の社会主義に則り、農業の集団化や産業の国有化を推進した。1950年には東側陣営で構成されるCOMECON(コメコン)、つまり経済相互援助会議(1949-91)にも東ドイツ加盟を果たした。ところが順風満帆と思われた矢先、当時のソ連共産党書記長で東側陣営の代表的指導者であったヨシフ=スターリン(任1922.4-53.3)が死去(1953.3)、直後に起こった東ドイツの労働者による反ソ暴動(東ベルリン暴動6月17日事件。1953.6.17)が勃発した。ウルブリヒトは軍事部門である兵営人民警察(KVP)の発動に加え、ソ連軍に支援を要請し、暴動を鎮圧した。ウルブリヒトは、ピーク大統領の没後、純粋な東ドイツの指導者として、ソ連の援助を受けながら、さらなる社会主義政策を推進していった。国営システムと労働者を主体にした国家政策であったが、結果的にはこの体制に反対する若者や知識人たちの、国外への逃亡行為を生んでしまった。特に西ベルリンへの逃亡は、東ドイツだけでなくソ連においても驚異であった。農業集団化による失地農民や、産業国有化による技術者たちがおこした西ベルリン逃亡は通算して200万以上に及んだ。

 の間も西ドイツ(ドイツ連邦共和国)ではアデナウアー首相の政権であった。西ドイツ発足以前より、冷戦突入後にアメリカでおこされたマーシャル=プラン(1947.6)による欧州復興援助(1948-51間)を受け、朝鮮戦争(1950-53)の特需効果も手伝い、ライン川および工業の盛んであったルール地方を中心とする経済は急成長を遂げ、戦前を超えた高い経済水準を現出した(1950年、この経済復興は『経済の奇跡』と呼ばれた)。こうした飛躍的な復興・再建を現出したのは、経済大臣ルートヴィヒ=エアハルト(任1949-63)の功績が非常に大きく、"エアハルトの奇跡"とも呼ばれるほどであった。エアハルトは大臣就任前の経済管理局長時代に、戦後のハイパーインフレ対策を収拾するために施した、前述の1948年の西側通貨改革を任された経済のエキスパートで、西ドイツに自由主義市場経済を推進した立役者であった。
 またアデナウアー首相は1955年6月まで外務大臣を兼任しており(外務大臣任1951.3-55.6)、優れた外交手腕で西ドイツの国際的地位を築いていき、フランスをはじめとする旧連合国との関係改善に尽力した。フランス外相ロベール=シューマン(任1948-53)が掲げるシューマン=プラン(1950.5)に盛り込まれた、石炭業と鉄鋼業における西ヨーロッパの経済的な統合および共同運営をすることで、フランスと西ドイツ間の関係改善と平和構築を推進するというものである。結果的に1951年4月のパリ条約に基づいて、フランスと西ドイツに加えて、イタリア、ベネルクス3国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)も参加して調印、これがECSC、つまりヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(1951調印。1952発効)の設立となった。アデナウアー率いる西ドイツはその後、1954年10月のパリ協定で主権を回復(1954.10)、1955年5月北大西洋条約機構NATO。西側の軍事機構)への加盟1955.5)を果たした。これにより西ドイツ国内では再軍備が進み、1956年には徴兵制度を導入した。

 アデナウアー外交はこれにとどまらず、1955年9月にソ連との国交回復を果たし(1955.9西ドイツ、ソ連と国交回復)、アデナウアー首相の訪ソの際、ソ連の捕虜となっていたドイツ兵の帰還に成功した。しかし一方で、西ドイツの外交政策の姿勢として、東ドイツを承認する国家とは国交を結ばないという宣言を行い、東ドイツとは徹底的に対立を極めた。これは、ECSC結成時の担当者だったヴァルター=ハルシュタイン(1901-82)が、ドイツ国家もドイツ国民も2つと無く、西ドイツを正統なドイツ人民による民主主義国家であることを主張し、東ドイツの存在を認めないことを基点に、ソ連を除いた東ドイツ承認国とは断交する原則に基づいたものであり(ハルシュタイン原則)、アデナウアー首相もこの姿勢を通した。この原則の発表により、東西ドイツの統一は困難を極めた。西ドイツは、これより先に東ドイツで起こった東ベルリン暴動で、勃発した6月17日を、西ドイツでは東ドイツ国家に盾突いた東ドイツ市民を大いに称え、"ドイツ統一の日"という祝日を設置した。
 アデナウアーとハルシュタインはさらに西側諸国との結束を固めるため、1957年3月、フランス、ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、イタリア、そして西ドイツといったヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)の加盟6カ国とローマ条約を締結、石炭や鉄鋼だけでなく原子力資源の共同機関の必要からーロッパ原子力共同体EURATOM)と、経済全体の統合・管理を目指すーロッパ経済共同体EEC)の設立へと発展していった。こうして欧州の共同機関はECSC、EURATOM、EECの3機関で協力体制を築き、東側陣営を圧倒する強化組織となった。

 戦下における西ドイツのこうした外交は、東側陣営に影響を与え、冷戦対立の緊張は増長された。1955年5月、西ドイツのNATO加盟の影響で、東側も軍事同盟の強化を急ぎ、直後、ポーランド人民共和国(1952-89。東側陣営)の首都ワルシャワで、ソ連を盟主に当時のポーランド、アルバニア、ブルガリア、ハンガリー、ルーマニア、チェコスロヴァキアなどが加盟する軍事機構を設立することを締結した(ワルシャワ条約。1955.5。発効は翌6月)。これが西側のNATOに対抗した東側の軍事同盟、ワルシャワ条約機構1955.9-1991.7)である。東ドイツも兵営人民警察(KVP)を東ドイツ国家人民軍(NVA)に改組した翌1956年、東側陣営の一国としてワルシャワ条約機構に加盟した。

 1953年の東ベルリン暴動以降、顕著となった東ドイツ国民の西ドイツへの逃亡は、東ドイツの技術者、知識人、自営業者、自営農民、反東独派らを中心に増加を続けた。ベルリン市も東西分断の状態であったが、東西間の移動が比較的可能であったゆえ、東ドイツ国民はベルリン市内で経由して西側へ流れていった。こうした頭脳の流出は東ドイツ側にしてみれば危機的状況であった(1958年から62年にかけてのベルリンのこうした危機的状況は、1948年の通貨改革およびベルリン封鎖事件に続く、第二のベルリン危機であった)。1960年、国家元首となったウルブリヒトは、翌1961年8月、当時のソ連第一書記だったニキータ=フルシチョフ(任1953.9-64.10)と会談、直後に東西間のベルリンの交通網を遮断し、西ベルリン一帯を包囲するため、大規模な石壁の建設を開始した。これが「ベルリンの壁」である(この事情を東ドイツ国民に理解してもらうため、ウルブリヒト政権は"反ファシズム防壁"の構築を名目にたて、プロパガンダを始めた)。最終的に壁は1975年まで建設が続けられ、全長155kmに及んだ。

 当時、西ベルリン市長を務めていたヴィリー=ブラント(西ベルリン市長任1957.10-66.12。西ドイツで再建されたドイツ社会民主党(SPD)に所属)は、東ベルリン暴動後の対応に努めていた。1963年6月、アメリカ大統領ジョン=フィッツジェラルド=ケネディ(大統領任1961.1-1963.11。第35代。民主党)が、西ドイツ首相アデナウアー首相よりも先に西ベルリンに訪問、ブラント市長と会見した。同月26日、ケネディ大統領は西ベルリン市内の演説で「Ich bin ein Berliner(イッヒ・ビン・アイン・ベルリーナー。「私はベルリン市民である」)」の言葉を発し、西ドイツ国民、とりわけ西ベルリン市民が歓喜した。この演説によって、ケネディを招いたブラント市長の評価がにわかに上がっていった。

 一方、アデナウアー首相は高齢もあってベルリンの壁構築後の西ベルリンを訪れることはなく、国民はブラント市長の方に支持を集めていったが、ブラント市長が籍を置くドイツ社会民主党(SPD)は、アデナウアーが籍を置くキリスト教民主同盟(CDU)ほど支持を勝ち取っていなかったため、1963年の首相選出にブラントは敗れたものの、SPDの活躍は目覚ましく、国民の支持をいっきに集めた。アデナウアーは体調不良を理由に首相を辞任し(1963.10。ただし1946年から続いたCDU党首は1966年まで歴任)、彼に代わって、このとき副首相(任1957-63)を務めていたエアハルトが首相に就任した(任1963.10-66.12)。エアハルトが首相在任中、アデナウアーは1967年4月に亡くなり、ケルン大聖堂で国葬が行われた(アデナウアー死去。1967.4)。
 相に就任したエアハルトは無所属であったが、経済部門を任されていた頃は自由民主党(FDP。1948結成。西ドイツ3番目の政党。連立政権発足の為の有力政党)の支持があった。その後エアハルトはCDUにも支持され、首相に就任した1963年に入党した。1966年まで首相を務め、1966年から翌67年まではCDU党首も務めた。

 アハルトに代わり、CDU党首及び首相に就任したのはクルト=ゲオルク=キ-ジンガー(党首任1967-71、首相任1966.12-69.10)で、この政権ではこれまで対抗政党であったドイツ社会民主党(SPD)と連立政権(大連立)樹立を果たした。これにより、SPD所属のブラント西ベルリン市長の国政参加が現実となり、市長を辞任したブラントは、西ドイツ副首相および外相の任命を受けた(副首相兼外相任1966.12-69.10)。

 ベルリンの壁が建設された後の東ドイツ(ドイツ民主共和国)では、1962年に軍事強化による徴兵制を導入し、またソ連との関係強化をはかって、1964年にソ連との間に友好相互援助が約された。また1968年におこったチェコスロヴァキアの自由化運動(いわゆる"プラハの春")の際も、ワルシャワ条約機構の加盟国としてソ連と共に軍事介入を行った。一方、経済部門では新経済システム(NOS)を導入した(1963)。これは計画経済を基準とするも、西ドイツ経済を超えることを目標に、各企業の経営上の自主性を重視して利潤の拡大を目指して計画をたて、その計画目標が達成の際には報奨を付与するといったものであった。しかし社会主義国の経済政策ではないとの非難を受けるなど、必ずしも成功したとはいえず、新経済システムはウルブリヒトの代で終わった。しかしながらウルブリヒトは社会主義国東ドイツとしての国家運営を充分に果たし、東ドイツの国家安定に尽力したとともに東側諸国の中心国家として躍進したことで、ソ連より絶大な評価を得た。1968年、東ドイツは憲法改正を行い、東ドイツが社会主義国家であることが規定された。
 こうして、分断された東西のドイツは冷戦の最前線に経たされながらも、独自の道を歩んでいくのであった。


  ずいぶんと更新が途絶えておりました。ご無沙汰でございます。今年最初の"世界史の目"でございます。現代史の中でも世界史では必ず出題される戦後の東西冷戦時代。東西冷戦の象徴となったのが、東西ドイツの分断です。今回は戦後のドイツにスポットをあててみましたが、まずは分断時代の話を、前後編スタイルでご紹介させていただきます。今回は西ドイツはアデナウアー政権、東ドイツはウルブリヒト政権時代のお話が中心となりました。

 では、大学受験における学習ポイントです。冷戦におけるドイツ史では、米英仏ソの4カ国分割管理でスタートです(米英仏ソの4カ国分割管理はドイツだけでなく、オーストリアも行われました)。言うまでもなくソ連がドイツの東部を管理することになります。ちなみに南部はアメリカ、西北部はフランス、西南部はイギリスで、4カ国を色分けして分断された地図を資料集などでよく見かけます。同じく、ベルリンも同じように分断され、これも資料集で色分けして分断された図をよく見かけますので、知っておきましょう。また分割管理と同時に、ナチスの解体も行われ(非ナチ化)、国際軍事裁判、いわゆるニュルンベルク裁判(1945-46)も実施されました。冷戦の最前線となった東西ドイツですが、最初に起こった大事件は1948年のベルリン封鎖です。これは重要で、西側管理地区の通貨改革が原因です。必ず覚えましょう。

 1949年に東西ドイツが成立します。まず、資本主義国である西ドイツは、正式にはドイツ連邦共和国といい、首都はボンに置かれます。政府はキリスト教民主同盟の党首アデナウアーが首相をつとめます。一方、社会主義国である東ドイツは、正式にはドイツ民主共和国といい、首都は(東)ベルリンです。政治はドイツ社会主義統一党が政権を担い、大統領と首相がいる政体でスタートしましたが、1960年に大統領制度は廃止され、国家元首が政治を仕切ります。東西ドイツの区別がしっかり整理できるようにしておきましょう。

 50年代は西ドイツで覚える所が多いです。アデナウアー政権の絶頂期にあたりますが、エアハルト経済大臣の尽力で"経済の奇跡"と呼ばれる高度経済成長を現出します。"西ドイツの経済復興"や"奇跡の経済復興"などの表記で記載されている用語集もあります。経済部門では他に、フランスのシューマン外相のシューマン=プランで発足したECSC(ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体。1951調印)にも参加しましたが、1957年に締結したローマ条約でEEC(ヨーロッパ経済共同体)とEURATOM(ヨーロッパ原子力共同体)にも参加しており、西ヨーロッパ諸国と強固な関係を築いていきます。この3機関も重要ですが、イギリスが参加していないことも注意で、イギリスはEFTA(ヨーロッパ自由貿易連合)を1960年に発足させ、北欧諸国やスイスなどと貿易の協力体制をきずいていきます。
 西ドイツの主権回復も50年代です。1954年10月に調印されたパリ協定です。これにより再軍備も認められ、NATO加盟も果たします。西ドイツのNATO加盟(1955.9)は重要ですが、パリ協定や西ドイツ再軍備も用語集で見た限り、教科書に載せられる頻度数は高いです。西ドイツはNATO加盟と同時にソ連との国交を回復しますが、東ドイツとは断交状態です。アデナウアーの、"ドイツ国民の国家は西ドイツのみ"の精神を貫いたからです。
 一方の東ドイツは、西ドイツのNATO加盟に対抗して、1955年に発足したワルシャワ条約機構にも加盟します(1956)。冷戦時代の東西それぞれの軍事機構は、西がNATO(北大西洋条約機構)、東がワルシャワ条約機構です。 

 最後にベルリンの壁ですが、1961年8月に建設が始まりますが、これは西ドイツへ亡命する東ドイツの労働者や有能な技術者が増加したのが原因です。壁が構築されたあとも、亡命者が後を絶たずに壁を越えようとしましたが、3000人もの逮捕者が出て、死者もたくさん出ました。余裕があれば、ベルリンの壁を作った理由も知っておくと良いでしょう。

 さて、東西ドイツのその後の展開は?西ドイツでは予想外の外交が始まります!!後編に続く!

【外部リンク】・・・wikipediaより

(注)紀元前は年数・世紀数の直前に"B.C."と表しています。それ以外は紀元後です。
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