世界史の目-Vol.254-

ドイツ分断時代・後編
~オーデル=ナイセ線と東方外交~

前編はこちら

 ドイツ連邦共和国西ドイツ1949.5.23-1990.10.3。資本主義国。首都ボン)では、キリスト教民主同盟CDU)とドイツ社会民主党SPD)との大連立政権が誕生した。西ドイツ3代目首相をつとめるクルト=ゲオルク=キ-ジンガー(CDU党首任1967-71、首相任1966.12-69.10)は、当時西ベルリン市長で、SPD党首をつとめていたヴィリー=ブラント(1913-92。西ベルリン市長任1957.10-66.12。SPD党首任1964-87)を西ドイツ副首相および外相に任命した(副首相兼外相任1966.12-69.10)。西欧諸国では、西ドイツが参加するヨーロッパ石炭鉄鋼共同体ECSC)、ヨーロッパ原子力共同体EURATOM)、ヨーロッパ経済共同体EEC)の共同体制がさらに発展し、1967年7月、3共同体の運営機関が統合されて、ヨーロッパ(諸)共同体、いわゆるEC(European Communities)となり、経済面のみならず、政治面でも欧州統合を目指す共同体へと前進した。
 これに対しドイツ民主共和国東ドイツ1949.10.7-1990.10.3。社会主義国。首都は東ベルリンだが、東側では単に"ベルリン"とした)では、国家元首をつとめるヴァルター=ウルブリヒト国家評議会議長任1960.9-1973.8)を中心とするドイツ社会主義統一党SED)による社会主義国家の建設がすすめられ、ソ連(ソヴィエト社会主義共和国連邦。1922-91)をはじめとする東ヨーロッパ諸国との関係を強固にしていった。東ヨーロッパでは、1955年に東側諸国が参加する軍事組織、ワルシャワ条約機構1955.9-1991.7)を設立し、東ドイツも翌1956年に加盟、西のNATO北大西洋条約機構)に対抗した。 

 東西ドイツ間では、西ドイツ初代首相であったコンラート=アデナウアー(首相任1949.9-63.10)が提唱した"ハルシュタイン原則"に基づき、つまりドイツ国家もドイツ国民も二つと無く、西ドイツを正統なドイツ人民による民主主義国家であることから、東ドイツの存在を認めず、東ドイツをドイツ国家と認める東ヨーロッパ諸国とも断交した(ソ連のみ国交回復。1955.9)。これに対して東ドイツ側も、多くの住民が西ドイツへ流出していくのを恐れ、1961年8月にベルリンの壁を建設した。東ドイツと西ドイツは、東西冷戦(1945-89)における、最も緊張度の高まるところにあったのである。

 西ドイツでは、SPD党首で副首相兼外相を務めるブラントの支持が高まっており、強勢化したSPDは大連立政権内でもCDUを上回る支持力であった。そしてキージンガー首相の人気も当時の内政不安定と相まって下降をたどり、1969年10月に行われた連邦議会選挙でキリスト教民主同盟(CDU)がドイツ社会民主党(SPD)に敗北、キージンガーは首相職を退いた(キージンガー首相退任。1969.10。CDU党首は1971年までつとめる)。大連立も解消され、CDUは野党に回り、ブラント人気で躍進したSPDはドイツ自由民主党FDP)と連立を組み、ブラントは副首相兼外相から西ドイツ第4代首相に昇格した(ブラント首相就任。首相任1969.10-1974.5)。西ドイツにおけるSPDからの初めての首相となった。

 ブラントは、キージンガー政権時の外相任務として、これまでのキリスト教民主同盟の主張する、ハルシュタイン原則に基づく東側諸国との断交ではない、社会民主党による独自の考え方を打ち出した。それは東側諸国に対しても外交関係を正常化させる政策である。外相としてのブラントは、東側諸国のルーマニア社会主義共和国(1945-89。1965年までルーマニア人民共和国)やユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国(1945-92。1963年までユーゴスラヴィア連邦人民共和国)にも国交正常化を働きかけようとした。
 首相就任後はソ連や東ドイツをも含めた、東側諸国との外交関係の正常化を打ち出した。ブラント政権は、これまでの"ハルシュタイン原則"に基づいた東ドイツとの対立に異を唱えて、東西冷戦の最前線に立つ東西ドイツ同士、及び東側諸国との関係改善と和解に乗り出したのである。世に言う、『東方外交』である。東方外交の中心は、ソ連、ポーランド(ポーランド人民共和国。1952-89)、東ドイツであった。

 そのポーランドとは、東西分断前のドイツとの国境問題があった。この問題は、第二次世界大戦(1939.9-1945.8)後の処理を話し合う、アメリカ、イギリス、ソ連の首脳が集まったポツダム会談(1945.7.17-45.8.2)で挙げられた。この会談におけるソ連の提案で、ベルリン東部で、ズデーテン山脈北東部から北西に流れるオーデル川(オーダー川、オドラ川)と、その支流でズデーテン山脈中部から流れ、アイゼンヒュッテンシュタット市(現ドイツ・ブランデンブルク州の東部)南東方で合流するナイセ川(ニサ川)を"オーデル=ナイセ線"として、ドイツとポーランドの暫定的な国境線とした。これにて、大戦後のドイツは大戦前と比べて、ドイツ国土の約4分の1にあたる広大な東方領土を喪失した(これにより、ポーランドに旧ドイツ領土がもたらされ、大量のドイツ人が同領土から追放される事件が起こった)。東西分断後、このオーデル=ナイセ線を認めたのは東ドイツであった。1950年7月、当時の東ドイツ初代首相オットー=クローテヴォール(首相任1949.10-64.9)は、ポーランドとゲルリッツ条約を結び、同国境線を"平和の国境線"として承認した。

 ポツダム会談におけるソ連の発案で世に登場したオーデル=ナイセ線であったが、ポツダム会談後に、アメリカのジェームズ=バーンズ国務長官(任1945-47)が"ドイツ政策見直し"に関する演説(1946.9)で、「ポーランドにとって有利であることを支持する」としつつも、「この国境線の決定は最終解決が得られた時である」とし、ソ連提案の新しい国境線画定がアメリカ、イギリス側の完全な合意ではなかったと見受けられた。こうした背景から、分断後、当時のハルシュタイン原則を頑なに守る、アデナウアー政権率いる西ドイツは、オーデル=ナイセ線の画定を認めなかった。西ドイツは、東ドイツをドイツ国家と認めないため、その東ドイツがポーランドとドイツ国境をゲルリッツ条約で画定したことを西ドイツは到底受け入れられないとし、国境画定を不承認としたのである。東ドイツが早々と承認したのとは対照的であり、明らかにドイツが東西に袂を完全に分かった、象徴的な事件であった。
 西ドイツのブラント首相は、このオーデル=ナイセ線の画定により、冷え切った東側諸国との関係を改善するため東方外交に乗り出した。ハルシュタイン原則を放棄を宣言したブラント首相は1970年に、東ドイツ首相を努めていたヴィリー=シュトフ(第2代首相任1964-73。SED所属)と会談、東西ドイツ首脳会談を実現させた。つづいて、ソ連との武力不行使を約束するモスクワ条約(1970.8。ソ連・西ドイツ武力不行使条約)を締結、ブラント首相はソ連首相アレクセイ=コスイギン(首相任1964-80)とともにモスクワで調印、西ドイツによるオーデル=ナイセ線の承認と東方領土の領有権放棄、相互の主権尊重および相互武力不行使を取り決めた。そして1970年12月、ワルシャワ条約(1955年の同条約とは別)において、オーデル=ナイセ線こそがドイツとポーランドとの国境線であると認め、西ドイツとポーランドとの間に国交正常化がもたらされた(ただし野党に回り、これまでのハルシュタイン原則を貫いていたキリスト教民主同盟はこの決定を批判したこともあって、西ドイツの議会批准は1972年まで待たされた)。ワルシャワに赴いたブラント首相は、ゲットー(ユダヤ人隔離地域のこと。1943年4月にワルシャワのゲットーでナチスに対する武装蜂起がおこり、多数のユダヤ人が犠牲となった)の英雄記念碑の前で両膝をつき、両手を組んで黙祷、謝罪の意を表明した(ブラント首相の跪き。1970.12.7)。戦前・戦中とにらみ合ったドイツ、ソ連、ポーランド3国における領土問題はこうして平和的解決に向かい、その立役者であるブラント首相はノーベル平和賞を受賞した(1971)。

 ポーランド外交をひとまず終えたブラント首相は、続く東ドイツとの外交に乗り出した。1971年9月に4カ国ベルリン合意(ベルリン協定。4分割占領されたベルリンを支配する米英仏ソ4カ国のベルリン支配に関する諸問題の緩和)、および1972年5月の通過合意(交通通行合意。西ベルリン地区と西ドイツ間の通行保障の合意)を経て、ソ連、ポーランドと続く、東方外交の第3段階、東ドイツとの条約承認へと向かった。
 その東ドイツでは、ウルブリヒト議長が高齢と体調不良を理由に、1971年頃から徐々に活動を縮小し、SED第一書記(任1950-71)や国防評議会議長(任1960-71)の座を退いた。SED(ドイツ社会主義統一党)の第一書記および国防評議会議長にはエーリッヒ=ホーネッカー(1912-94。SED書記任1971-89。国防評議会議長任1971-89)が受け継いだ。

 1972年12月、東ベルリンにおいて、東西ドイツ基本条約が締結された。東西ドイツにおける関係の基礎内容が相互に承認された。東西の主権国家としての相互承認、相互の正常な善隣関係の樹立などが約され、翌1973年6月に発効された。ボンとベルリンには両国の大使館が設置された。
 その後もチェコスロヴァキアやハンガリー等と関係正常化を取り決めるなど東方外交を推進した西ドイツは、東ドイツとともに、1973年9月18日、国際連合へ同時加盟を果たした。

 東ドイツの国内では、国連加盟から遡ること1ヶ月半前、ウルブリヒトが没し(ウルブリヒト死去。1973.8)、国連加盟を見届けることができなかった。ウルブリヒト没後の国家元首(国家評議会議長)は副議長をつとめていた、もとヴァイマル共和国(1919-33)の初代大統領フリードリヒ=エーベルト(大統領任1919-25)の息子フリードリヒ=エーベルト(同名。1894-1979)が短期代行し(議長代行任1973.8-73.10)、その後シュトフが首相退任後に国家元首をつとめた(議長任1973.10-76.10)。その後シュトフは1976年10月に国家元首の座をホーネッカー第一書記に譲り、シュトフは首相に再任された(第4代首相任1976-89)。ホーネッカー第一書記は東ドイツの第3代国家評議会議長として名実ともに東ドイツのトップリーダーとなった(議長任1976.10-1989.10)。

 一方の西ドイツの存在は国際的にも重要国となり、同時に西ヨーロッパの共同体制も発展した。1973年1月、ECにイギリスら3カ国が加盟し、規模がさらに拡大化した(拡大EC1973.1。イギリスの他にはデンマークやアイルランドが加盟)。当の西ドイツ、ブラント首相は1972年に首相秘書としてSPD(ドイツ社会民主党)党員のギュンター=ギヨーム(1927-95)を雇った。しかしギヨーム秘書の正体は、東ドイツの警察及び諜報機関「シュタージ」の一員で、1956年に妻と難民を装い西ドイツに入国、ブラント首相の傍らでスパイ活動を行っていた。これにより、西ドイツの極秘事項は東ドイツへ、もしくはソ連など東側へ筒抜けとなる大問題となった。1974年4月にボンでギヨーム夫妻は逮捕されたが、ギヨーム事件によるブラント首相の支持率低下は避けられず、事件の責任をとり、ブラント首相は引責辞任(ブラント首相辞任1974.5)、財務相をつとめていたヘルムート=シュミット(財務相任1972-74。SPD所属)が首相に就任した(シュミット首相就任。任1974.5-1982.10)。ブラントは、SPD党首を1987年までつとめ、1976年には国際的な顔として社会主義インターナショナル第二インターナショナルの流れをくむ、各国の中道左派政党の緩やかな国際協議機関)の議長に就任した(任1976-92)。

 1975年7月、ヘルシンキ(フィンランド首都)において開催された、全欧安全保障協力会議CSCE。the Conference on Security and Cooperation in Europe。1995年より現在の欧州安全保障協力機構へ発展。OSCE。Organization for Security and Co-operation in Europe)では欧米諸国35カ国の首脳が参加、各国の主権平等、武力不行使、内政不干渉、領土保全、基本的人権の尊重、安全保障などの諸原則を宣言した(ヘルシンキ宣言。1975)。これは東西冷戦構造からの緊張緩和(デタント)の象徴となった。西ドイツのシュミット首相、東ドイツのホーネッカー議長はそろってCSCEに参加し、ヘルシンキ宣言に署名した。

 米英仏ソの、かつての連合国によって東西に分断されたドイツは、2つのドイツ国家間の緊張が緩和されていくのと同時に、今度は東西ドイツを発信として、冷戦体制となった東西諸国間も、ヘルシンキ宣言採択を契機として、緊張緩和に望みをつないだ。80年代が到来し、新たな局面を迎えることになる。


  分断ドイツ時代の激動を、前後編に分けてご紹介させていただきました。西ドイツでは東方とは外交しないアデナウアー政権から、東方外交を推進するブラント政権へと移り、東ドイツではウルブリヒト政権からシュトフ政権を経て、ホーネッカー政権へと移りました。当時の東西ドイツを代表する有名な政治家が次々と登場しました。冷たい戦争の最も緊張感の漂う東西ドイツ両国の、スリリングなお話でした。

 さて、大学受験での学習ポイントを見て参りましょう。世界史ではいわゆる現代史の部類に入ります。政治家の名前は、西ドイツの方が覚える量が多いです。アデナウアー、ブラント、シュミットは名宰相です(2014年度改訂版の用語集ではシュミット首相の名前は消えていますが、重要人物に変わりはない)。そして、ノーベル平和賞受賞者であるブラント首相はよく出題されます。"東方外交"とセットで覚えておきましょう。

 その東方外交ですが、内容で重要なのは、ポーランド関連ですと国境線である"オーデル=ナイセ線"が最重要項目でしょう。これを国境としたことで、東プロイセンなど東方領土がドイツからなくなりました。用語集では、"西ドイツ=ポーランド国交正常化"といった項目などで出ています。ブラントがワルシャワ・ゲットー蜂起の英雄記念碑でひざまずき、緊張緩和(デタント)の突破口となります。入試にはあまり出題されないと思いますが、用語集の説明文にも記述がありますので、余裕があれば知っておいたほうが宜しいでしょう。
 西ドイツとソ連との間では、"ソ連=西ドイツ武力不行使条約"が重要です。本編では"モスクワ条約"とも表記しましたが、西ドイツはブラント首相が、ソ連はコスイギン首相がそれぞれ調印しています。ソ連は、中国との対立(中ソ対立)などの問題から、西側諸国との緊張緩和のとっかかりが欲しいところでしたが、西ドイツがソ連とこの条約を結んだことは非常に大きく、他の東欧諸国とも関係正常化がいっきに進んでいきます。
 そして、東西両ドイツ間の外交は1972年の東西ドイツ基本条約です。"西ドイツだけではなく、東ドイツもドイツ国家である"と表明し、相互に主権ある国家であると認めた条約です。東ドイツは認め、西ドイツが認めなかったポーランドとの国境も、西ドイツはオーデル=ナイセ線であると認めました。そして、ブラントの東方外交は1973年の東西両ドイツの国連同時加盟へと実を結びます。この一連の内容は知っておく必要がありますね。あとその延長として全欧安全保障協力会議(CSCE。1975)のヘルシンキ宣言に、西ドイツのシュミット首相と東ドイツのホーネッカー議長(用語集では"ホネカー"の表記もある)が調印して、東西ドイツの正常化にむけて前進します。余裕有れば全欧安全保障協力会議やヘルシンキ宣言も知っておくとよろしいかと思います。

 あと、西欧の共同体制ですが、EC(ヨーロッパ共同体)が出てきました。1967年にECSC、EEC、EURATOMをまとめていう呼び名です。なおややこしい話ですが、現在のEU(欧州連合。1993発足)において、これまでECと総称された3共同体の1つだったEEC自体が、EU発足に合わせて"EC"と改称しており(2009年まで)、名前も"経済"がとれて"ヨーロッパ共同体"といいましたので、1967年にECSC、EEC、EURATOMを統合した総称の"EC"を"ヨーロッパ諸共同体"、EUにあった"EC"を"ヨーロッパ共同体"と表記を詳しく使い分ける場合があります。非常に複雑ですが、受験では1967年のEC=ヨーロッパ共同体で覚えておけば宜しいでしょう。
 また1973年の拡大ECはイギリス、デンマーク、アイルランドが加入したことも知っておきましょう。フランスのシャルル=ド=ゴール大統領(任1959-69)がEEC時代からイギリスの加盟を嫌がっていたことも有名です。

 さて、この話、実はまだ続きがあります。当然現在のドイツになるまでの道程は放っておくはずがございません。東西ドイツが統一するその日まで、次回で詳しく見ていきましょう。

【外部リンク】・・・wikipediaより

(注)紀元前は年数・世紀数の直前に"B.C."と表しています。それ以外は紀元後です。
(注)ブラウザにより、正しく表示されない漢字があります(("?"・"〓"の表記が出たり、不自然なスペースで表示される)。

世界史の目に戻る
参考文献

Copyright (C) KOBE MANTOMAN SHIDOU SENMON GAKUIN All Rights Reserved.