世界史の目-Vol.256-

ある遣唐留学生の生涯

 中国・朝(とう。618-907)の第9代皇帝、玄宗(げんそう。位712-756)が実現させた安定政治、いわゆる"開元の治(かいげん。713-741)"の時代。開元時代にも日本から派遣された使節、いわゆる遣唐使(けんとうし。630-894間)が2回、実施された。この2回のうち、1回目の遣唐使は第9次(数え方により第8次とする場合もあり)にあたり、遣唐押使(けんとうおうし)である多治比縣守(たじひのあがたもり。668-737)が節刀(せっとう。[補足])を賜り、彼を筆頭に遣唐大使の大伴山守(おおとものやまもり。生没年不詳)、遣唐副使の藤原馬養(ふわらのうまかい。694-737。入唐後に藤原宇合に改名。読み同じ。藤原式家の祖となる。しきけ)が使節として550余の大使節団を形成、717年に出発した。経路は南路[補足]で進み、杭州(こうしゅう。現・浙江省)あるいはその近郊に到達し、その後長安(ちょうあん。現在の西安。しーあん。唐の首都)に移動、遣唐留学生を残してひとりの犠牲者も出ずに翌718年帰国し、この回の遣唐使の任務が終了した。

 唐に残された遣唐留学生で有名な人物としては、のちに太政官(だいじょうかん。行政を担当する高官の総称)の橘諸兄(たちばなのもろえ。684-757)の下で重用された学者・吉備真備(きびのまきび。695-775)や僧・玄昉(げんぼう。?-746)らがいたが、他に、当時10代半ばで彼らと共に留学生として唐に渡り、渡航後、を唐風に仲満(ちゅうまん)、のち朝衡晁衡。ちょうこう)と改め、唐で科挙(官吏の登用試験)を受験してこれに合格、さまざまな官職を歴任し高官にのぼりつめ、日本に帰国せず異国の地にて没した遣唐留学生もいた。これが阿倍仲麻呂(あべのなかまろ。698?/701?-770)である。

 阿倍氏は、孝元天皇(こうげんてんのう。第8代。位B.C.214?-B.C.158?)の第1皇子・大彦命(おおひこのみこと。大毘古命。おおびこのみこと。生没年不詳)の子、武渟川別[補足]たけぬなかわわけ。生没年不詳)を祖とする、皇別(こうべつ補足)氏族出身である。阿倍氏は皇別氏族が主に任じられる臣(おみ)の姓を賜り、重職の地位をきずいた。飛鳥時代(592-710)には阿倍内麻呂(あべのうちまろ。?-649)がでて、大化の改新(改新の詔646.1)の時は左大臣(さだいじん)に任じられた補足斉明天皇(さいめいてんのう。位655-661補足)の治世では、阿倍比羅夫(あべのひらふ。生没年不詳)が将軍として北方の蝦夷(えぞ。えみし)討伐を行い(658年)、また朝鮮半島での白村江(はくすきのえ。はくそんこう。朝鮮半島の錦江近郊。クムガン)での戦役でも活躍した(663年。白村江の戦い)。大宝律令(701年制定)の体制がしかれると、阿倍内麻呂の子 である阿倍御主人(あべのみうし。635?-703)が右大臣に任じられた。その後阿倍氏は、皇族以外の姓では最高位にあたる"朝臣(あそみ[補足])"を賜るなど、有力な中央氏族として厚遇を受けた。
 阿倍仲麻呂は698(701?)年、畿内の大和国(やまとのくに。現・奈良県)で生まれた。大宝律令下での中務省(なかつかさしょう。朝廷近侍の最重要職)の大輔(たいふ。四等官の二等目にあたる次官(すけ))を務めた阿倍船守(あべのふなもり。生没年不詳)の子で、船守は阿倍比羅夫の孫(弟説もあり)といわれる。仲麻呂の兄弟には、美作(みまさか。岡山県北東部)の国司をつとめた阿倍帯麻呂(あべのおびまろ。生没年不詳)がいた。裕福な家庭で育ち、幼少の頃から学才豊かで、10代半ばで従八位(じゅはちい。位階の1つ。正八位と正九位の間)の上位を受けており、律令下における蔭位(おんい。蔭位の制。父祖の位階によって、その子以降も一定の位階が与えられる)によって、立身出世は確実であった。しかし仲麻呂は異国の高度な文化や学問を志し、遣唐留学生として前述の717年の第9(8?)次遣唐使に参加した。当時の遣唐使船は4隻編成で、乗船定員は1隻につき100人であるものの、耐久性・安全性も完全ではなく、大波、高潮、風雨など気象条件によって犠牲になる使節も少なくなかった。仲麻呂が乗った船には、吉備真備や玄昉らも同船し、仲麻呂の傔人(けんじん。ともびと。護衛の従者)である羽栗吉麻呂(はぐりのよしまろ。生没年不詳)も同行した。大阪湾、瀬戸内海と渡り、南路で九州北岸から大海原(東シナ海)を横断して大陸に行き着くという過酷なルートであるが、旅の道中は大波の衝突や船の揺れから来る船酔いに襲われるなど困難を極めた。
 717年夏に出発した使節団が、入唐して長安にようやく到達したのは10月頃であった。遣唐押使の多治比縣守率いる使節団は、宮廷での会見等諸行程を済ませた後、留学生を残して唐を後にし、718年、団員全員無事に帰還を成し遂げた。

 唐に残った阿倍仲麻呂は、官吏養成の教育機関である国子監(こくしかん)に入学、高度な教養を積み、科挙での合格率が1~2%と言われる進士科(儒学、策論、詩賦で構成)に挑み、日本人留学生としては異例ともいうべき、見事これに合格したのである。そして721年(725年?)、仲麻呂は門下省補足(もんかしょう)に属する左春坊司経局校書(さしゅんぼうしけいきょくこうしょ)の任命を受けた(任721?/725?-727?/728?)。左春坊は皇太子の家政機関を指し、司経局校書はこれに所属する書室の図書係をいう(場所は洛陽とされる。らくよう)。次期皇帝に近侍する官職であるため、仲麻呂の才能を大いに評価したものといえる。この頃仲麻呂は名を仲満、のち朝衡(または晁衡。前述)と中国風に改めた。726年に科挙に合格した詩人の儲光羲(ちょこうぎ。707-760?)は、友人となった朝衡についての詩を残しており、はるか遠くにある日本から学問を究めるために留学し、容姿が美しく才識豊かで、重職を立派につとめていると賞賛した。さらに朝衡は、儲光羲の他にも、のちに"詩仙"とよばれた李白(りはく。701-762)、のちに"詩聖"とよばれた杜甫(とほ。712-770)、のちに"詩仏"とよばれ、山水画にも通じた王維(おうい。699?/701?-759?/761?)ら著名な文化人とも交流を深めていった。

 727年(728年?)、朝衡は左拾遺(さしゅうい)の任命を受けた(任727?/728?ー731)。左拾遺とは、右拾遺とともに、皇帝に過失があった場合に諫め補う官職で、皇帝のそばに仕える重要な職務である。また731年には左補闕(さほけつ)という、左拾遺と似た門下省所属で諫言専門の官職に任命され、官位も従七品の上に昇格した。
 733年、第10次(数え方により第9次とする場合もあり)の遣唐使が入唐した。船は4隻で、多治比広成(たじひのひろなり。?-739)が遣唐大使をつとめた。朝衡は、翌734年に従五品の下の昇格と、玄宗の子である儀王(ぎおう。710?-765)の陪従を司る「儀王友」の役職を任命されることが決まっており、帰国はできなかった(朝衡は玄宗の強い信任を得たため、玄宗に引き留められたという説もある)。結果、吉備真備や玄昉ら留学生、朝衡の傔人をつとめた羽栗吉麻呂(羽栗は唐の女性と結婚し、2子を授かる)らは朝衡を残して帰朝することになった。734年、朝衡に見送られて出航した遣唐使船であったが、荒天により4隻はともにはぐれ、大使多治比広成、吉備真備や玄昉、羽栗吉麻呂らが乗船していた第1船は種子島(当時は多禰島)に帰航を果たし、無事に帰京できたものの(735)、遣唐副使であった中臣名代(なかとみのなしろ。?-745)が率いる第2船は江南に漂着、一度長安に戻り、再度出帆して736年に帰国を果たした。115人を乗せた第3船はさらに南の崑崙国(こんろんこく。くんるんこく)に漂着したとされるが、この国は中国名で林邑(りんゆう)、つまりチャンパ王国(192-1832)とされている。しかし一行は現地でとらえられた挙げ句、疫病で力尽きる者や現地兵に殺害されるなどし、第3船で生き残ったのは遣唐判官(はんがん)をつとめた平群広成(へぐりのひろなり。?-753)を含む4名のみであった。第4船は難破して消息不明となった。

 平群広成は735年までとらえられていたが、唐の援助を受けて脱出に成功し、長安に戻ることができた。長安に戻った平群は朝衡と再会した。朝衡はこのとき儀王友の職務についていた(任734-751)。朝衡は、唐の羈縻(きび。支配地の異民族族長に自治の許可を与えた間接統治策)の政策下に置かれ、なおかつ日本との関係も比較的安定していた渤海(ぼっかい。698-926)を経由して帰国することを助言した。平群は渤海を経由し、739年7月にようやく出羽国(でわのくに。現・山形県および秋田県)に帰還、10月に入京を果たした。

 この間、唐の宮中では738年に玄宗が寵愛する武恵妃(ぶけいひ。正名不詳。"恵妃"は皇妃の称号。?-738)が没した。玄宗は皇后だった王皇后(おう。?-725)を724年に廃后しており、武は皇后に最も近い妃であった。すると玄宗は武恵妃の子、李瑁(りぼう。?-775)が735年に結婚し、妃となった楊玉環(ようぎょくかん。719-756)を寵愛するようになった(740)。結局、楊玉環は745年貴妃として迎えられ(楊貴妃。ようきひ)、彼女を溺愛するようになったため、政務は緩み、"開元の治"にも翳りが出始めた。さらに749年頃にはこれまでの徴兵制度、いわゆる府兵制(ふへいせい)が廃止となり、傭兵中心となる募兵制(ぼへいせい)に全面移行したが、751年、唐軍は西アジアに誕生したばかりのイスラム帝国、アッバース朝(750-1258)と、現在のキルギスに位置するタラス河畔で交戦したものの(タラス河畔の戦い。751)、唐軍は大敗して中央アジアの覇権を奪われ、唐の西域の勢力は後退していった。
 この頃、朝衡は、752年に衛尉少卿(えいいしょうけい。宮門兵士管轄および武器管理)の任命を受けた(任752-753。官位は従五品の上)。年齢も50を過ぎ、入唐して35年の歳月が流れ、朝衡は第10次の遣唐使以来、20年近くも日本の遣使との出会いがなかったが(746年に第11次遣唐使が計画されたが中止になった)、752年になって、第12次の遣唐使が長安に来ることになった。日本国内で禁じられている、無許可で得度(出家して僧侶となること)を受ける私度僧(しどそう)が増加傾向にあることを懸念している聖武天皇(しょうむてんのう。位724-749)の要請であった。正式な手続きを経ずとも僧侶となった私度僧は、非課税や刑罰減免が僧の特権として与えられるため、厳しい対策が必要であると考えた聖武天皇は、厳しい戒律を守ることによって成仏をめざす律宗の採用を決め、戒律に名高い唐の僧侶を必要としていたため、第12次遣唐使はこの僧侶を同行させることが目的であった。

 752年というのは、政権を握ろうとする楊国忠(ようこくちゅう。楊貴妃の又従兄にあたる。?-756)と、節度使(せつどし。辺境防衛の指揮官)をつとめていた安禄山(あんろくざん。705-757)との対立がいよいよ強まり、近く大規模な内乱が勃発するかもしれない不穏な気運が高まっていった年である。玄宗の信任を得ている朝衡は、翌753年に衛尉少卿から昇級した衛尉卿、および秘書監(秘書省長官。宮中の図書館長)の任命と従三品に昇叙されることが決められていた。まさに閣僚級の地位を賜ることになる。朝衡は、時同じくして、久しい遣唐使が唐に来ることを大きく期待すると同時に、盛唐時代から後退していくこの国に別れを告げ、母国へ帰ることを望むようになったと思われる(諸説あり)。

 第12次遣唐使は、遣唐大使に藤原清河(ふじわらのきよかわ。?-778)、遣唐副使には大伴古麻呂(おおとものこまろ。?-757。第10次遣唐使で遣唐留学生として入唐経験あり)ともう1人、かつて朝衡と共に唐に遣唐留学生として渡航した吉備真備が任命されていた。一行は752年春に出発、夏場に明州(めいしゅう。現在の寧波市。ニンポー)に入港、一行が長安に到着したのは秋頃とみられる。朝衡は歓喜でもって出迎え、再会に胸を躍らせた。なお、清河と古麻呂は元旦における朝賀の儀式(会場は長安の大明宮)で玄宗に謁見したが、席次が新羅(しらぎ。シルラ。356-935)に次いで2番目だったことで新羅の使者に抗議し、新羅に席を替わらせたという逸話がある(日本と新羅の朝賀席次争い。753)。
 朝衡は第12次遣唐使の一行と共に、日本に帰国することを玄宗に申し出た結果、日本へ派遣される使節として帰国を許されることになり、藤原清河、吉備真備らと帰国することが決まった。753年、明州(諸説あり)にて催された朝衡の送別会が行われ、参加した王維は「送秘書晁監還日本國(秘書監の晁衡、日本国へ還るを送る)」を詠んで朝衡との別れを惜しんだ。百人一首に撰された朝衡の「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠(みかさ)の山に 出でし月かも」は、30余年を唐で過ごし、いよいよ母国へ帰ることになった朝衡が、大空を仰ぎ、眺めやると、かつて故国の春日にある三笠山("春日山"の名で知られる奈良県の山)に出ていた月と同じ月であると感慨に耽った有名な歌だが、この明州での別れの宴席で、友人たちを前に詠んだとされている(諸説あり)。また王維が朝衡に贈った「送秘書晁監還日本國」の返しに、朝衡は「銜命還国作(陛下の命を受けて母国へ帰る歌)」を作り、厚く変わらぬ友情を誓い合った。

 753年11月半ば、4隻の第12次遣唐使の船がいよいよ揚州(ようしゅう。江蘇省の都市)から出航することとなった。第1船には藤原清河遣唐大使、第2船には大伴古麻呂遣唐副使、第3船には吉備真備遣唐副使、第4船には4人の遣唐判官が分乗し、朝衡は第1船に搭乗した。また、日本側の目的であった律宗の僧侶は第2船に搭乗したが、この僧はこれまで、743年から10年に渡って、実に5回も渡航に挑んだが果たせず、しかも5回目の際には両眼が不自由になるなど苦渋を味わった。しかし日本の地に降り立つ決意が堅かったため、藤原清河大使に乗船を求めたが、当時の唐僧は海外への渡航を禁じていたため、皇帝玄宗はこれを認めなかった。唐僧の渡航許可勅書が下りなかったことで藤原清河大使は僧の乗船をいったん諦めた。しかし副使の大伴古麻呂の独断で、僧を密かに第2船に乗船させたのである。この僧が、日本の南都六宗の1つ、律宗の普及に尽力した鑑真(688-763)である。

 第12次遣唐使が日本への帰航に向けて出発した。東シナ海は荒れやすく、気象の変化も激しいため、いつの渡航においても順風満帆とはいえず、第12次も例外ではなかった。変わりやすい天候は今回も風雨を伴い波を高くさせて4隻の船を襲い、またもや遭難した。大伴古麻呂副使および鑑真を乗せた第2船と、吉備真備副使が乗る鑑真が携えた経典、仏舎利、仏像などを積載した第3船は同年にいったん阿児奈波島(あこなわじま。現・沖縄島)、つづく屋久島に寄港したあと、第2船は薩摩国(さつまのくに。現・鹿児島)の秋妻屋浦(あきめやのうら。現・南さつま市の坊津。ぼうのつ)に帰着した(鑑真来日。753.12)。鑑真にしてみれば10年目、6回目にして悲願達成であった。そして第3船は翌754年1月、紀伊国(きいのくに。現・和歌山。三重の一部含む)の牟漏崎(むろさき。現・東牟婁郡太地町の燈明崎。ひがしむろ。たいじ。とうみょうざき)に漂着した。第4船は破損が生じ迷走を余儀なくされるも754年4月、薩摩国の石籬浦(いしがきのうら。現・南九州市。旧・頴娃町石垣地区。えい。いしがき)に漂着した。
 藤原清河、朝衡(阿倍仲麻呂)が乗船した第1船は阿児奈波島を出航したあと南方へ流されてしまった(出航後の座礁もあったとされている)。長安では第1船の遭難の報が入り、一部では朝衡らが遭難死したと誤報が伝えられた。このとき朝衡の友人であった李白は七言絶句の「哭晁卿衡(晁衡を失い嘆く)」を詠んで追悼したとされる。実際は、南へ流された第1船は、無情にもかつてチャンパ王国まで流された平群広成の船と同じルートで流されていた。しかし、かろうじて唐の領内であった安南都護府(あんなんとごふ。南海方面の諸民族と辺境を管理する軍事機関)管轄の驩州(かんしゅう。演州。えんしゅう。現・ベトナム北中部のゲアン省ヴィン市)に漂着した。遭難死の誤報が伝えられたのは、漂着地での現地人による激しい襲撃があったとされるためで、ここで第1船の一行の多くが殺害されたといわれる。藤原清河と朝衡は危うく難を逃れ、755年になってようやく長安にたどり着いた。生きて長安にたどり着いた、奇跡の生還ではあったが、この年の11月に勃発した安禄山の反乱、つまり安史の乱(755-763)の危機にさらされ、またしても大難の渦に巻き込まれることになった。その後日本はただちに遣唐使の再度派遣を試み、第13次遣唐使を759年に渤海経由で送ったが、安史の乱が激化したため断念、朝衡はその後も藤原清河とともに唐で足留めとなっていた。結局、藤原清河は河清(かせい)と称し、唐の朝廷で特進秘書監の任命を受けて、中国の官人として玄宗に仕えることになった。

 安史の乱勃発後、戦火が広がり、安禄山軍の猛攻で長安が制圧されたため、玄宗は蜀(現・四川省)へ逃れることとなるが、756年、途中の馬嵬(ばかい。現・陝西省興平市。せんせい。こうへい)で宰相楊国忠、妃である楊貴妃が護衛兵のクーデタにより殺害され、玄宗は退位して帝位を三男の李亨(りきょう)に譲位した(玄宗退位756粛宗即位。しゅくそう。位756-762)。玄宗は太上皇帝(たいじょうこうてい。皇帝が存命中に退位した後に贈られる尊号。上皇)となった。朝衡は長安到着後、再度唐の官吏として任命を受けるが、受けたのは玄宗が太上皇となって以後のことであった(760)。この時朝衡には、位階は第12次遣唐使として出航する前に与えられる予定だった従三品を賜り、左散騎常侍(ささんきじょうじ。門下省所属の皇帝に侍従する官職)に任命された(任760-761)。しかも左散騎常侍の任命と同時に、南海の安南都護府(757年から766年までの安南都護府は"鎮南都護府"と呼ばれていた。ちんなん)の都護(長官)の任命を受け、南海方面へ赴任となった(任760-761)。

 762年、玄宗太上皇帝、粛宗と相次いで没したが(玄宗崩御762。粛宗崩御。762)、宮中では粛宗時代から宦官(かんがん)の介入が激しくなっており、朝政が乱れていた。粛宗没後、長男が代宗(だいそう。位762-779)として即位してもこの情勢は変わらなかった。しかし代宗は、ウイグル軍の力を借りて、長らく続いた安史の乱をようやく鎮め(安史の乱終結763.1)、長安に平和が戻った。
 安史の乱が長引いたことにより、遣唐使は長らく見送られており(その間も、船が破損するなどして唐に到達できず)、759年の第13次遣唐使から、777年の第16次遣唐使まで、遣唐使一行は大陸に現れなかったのである。その第16次遣唐使が帰国の機会であった河清(藤原清河)であったが、直後に没したため帰国がかなわず、娘が遺志を受け継いで日本へ向かう事態となった(藤原清河客死。778)。
 一方の朝衡は、都護を下りた後も都護府にとどまり、766年には安南担当の節度使に任じられ、軍指揮官となった。そして770年1月、長安にて70余の生涯を閉じ、日本への帰国はついに夢語りに終わった(朝衡没阿倍仲麻呂没。770)。没後、従二品の品位を賜り、山西省の潞州(ろしゅう)の大都督(軍政の指揮統括官)の任命を贈与された。異国の地において、長く高官として皇帝に仕えた偉人として、唐朝、日本の両国からその功績が大いに讃えられたのであった。 


 今回は256回目にして初である、日本の偉人を主人公といたしましたが、あくまでも異国の歴史にその名を残した日本人として、世界史の人物として紹介させていただきました。ですので、"阿倍仲麻呂"ではなく"朝衡"の名で話を進めていきました。百人一首の一句である「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」も登場しました。阿倍仲麻呂といえば、個人的には歌詠み人のイメージが非常に強いですが、高い位階を賜るほどの偉大なお役人様として歴史にその名を残しています。また、阿倍仲麻呂が、文献によっては"安倍仲麻呂"の表記が見られるように、安倍氏の末裔の1人として、平安時代中期の陰陽師(おんみょうじ)、安倍晴明(あべのせいめい。921-1005)も挙げられる(諸説あり)など、阿倍/安倍の名は時代を超えても活躍しております。一説によると、大阪の阿倍野の"阿倍"は、阿倍氏から来ているという説があります。安倍晴明が大阪生まれであることも何か関連があるのでしょうか。

 ではさっそく、大学受験世界史における今回の学習ポイントを見てまいりましょう。朝衡こと 阿倍仲麻呂は世界史にも登場する重要人物です。豊臣秀吉や聖徳太子ほど重要項目ではないものの、教科書や用語集も登場します。世界史分野では、唐の玄宗に仕え、帰国できず唐で客死した人物のみで覚えておけば宜しいかと思いますが、世界史でも出題頻度は小さいです。やはり日本史や、国語の古典などで知るべき人物で、こちらの分野では出題頻度はめっぽう上がります。余談ですが、日本史の出題で、阿倍仲麻呂ではなく、朝衡を答えさせる問題も稀にあり、日本史用語集では朝衡の項目も記載されています。あと、日本史ではウルトラ級に有名な鑑真ですが、世界史の問題で書かせることはまずありません。日本史であれば律宗(南都六宗の1つ)、唐招提寺など、関連キーワードは盛り沢山です。
 また阿倍仲麻呂の仲間として李白、杜甫、王維も登場しました。世界史受験生とすれば、このお三方の方が重要です。玄宗の時代、安史の戦乱期の詩人たちであることも要チェックです。杜甫は漢文でも「国破れて山河あり」で有名な『春望』を学習しますね。

 最後に1つ。11世紀後半における院政期(1068-1221)の文化の代表として絵巻物がありますが、本編にも登場した、吉備真備関連の絵巻物『吉備大臣入唐絵巻』があります(【外部リンク】)。唐にいる吉備真備が帰国できるまで無理難題に挑戦し、霊鬼と化した阿倍仲麻呂に助けをもらいながら、最後に勝利を果たすというストーリーで、非常に興味深いですね。

[補足]天皇より授けられた刀を意味し、この刀を持つことで統帥権や指揮権などの権力や権威がいっそう高められた()。

[補足]遣唐使船の経路の一つ。7世紀では朝鮮半島西岸部を通り、山東半島に至る北路が中心で、8世紀には五島列島から東シナ海を西へ直進し、現在の江蘇(こうそ)省や浙江(せっこう)省あたりの長江河口に至る南路や、南西諸島に沿って東シナ海を横断する南島路などが中心。ただし南島路は実際にはなかったとする説もある()。

補足]『日本書紀』では"武渟河別"の表記もあり。『古事記』では"建沼河別命"と表記されている()。

補足]初代天皇である神武天皇(じんむてんのう。B.C.660?-B.C.585?)誕生以後の天皇・皇子の子孫である氏族を皇別氏族という。対照的に、天神。天孫など、神武天皇誕生以前の神代の子孫とする氏族を神別(しんべつ)氏族という()。

補足]左大臣は行政担当の高官であるが、最高位の太政大臣(だいじょうだいじん)が常置ではないため、実質上は左大臣が政府の最高官である()。

[補足]天武天皇(てんむてんのう。位673-686)の治世である684年に制定された、八色の姓(やくさのかばね)の1つ。八色の姓とは8階の姓(かばね。家柄や地位を示す称号)で、上から真人(まひと。1位。皇族)、朝臣(あそみ。2位。皇族ではない臣下)、宿禰(すくね。3位。連(むらじ)の姓を持った神別氏族)、忌寸(いみき。4位。直(あたえ)の姓を持った国造(くにのみやつこ。地方官)や渡来人系の氏族)、道師(みちのし。5位。対象氏族の詳細不明)、(おみ。6位。上位4姓から外れた旧来の臣。臣は皇別氏族が主)、(むらじ。7位。上位4姓から外れた旧来の連。連は神別氏族が主)、稲置(いなぎ。8位。旧来は国造や県主(あがたぬし)とともに地方の支配者を指したが、のちに姓として使用。)。

補足]天智天皇(てんちてんのう。てんじてんのう。位626-672)、天武天皇の母。皇極天皇(こうぎょくてんのう。位642-645)として君臨。のち重祚(ちょうそ。復位すること)して斉明天皇となった()。

補足]唐の中央政府最高機関である三省中書省。ちゅうしょ。門下省。もんか。尚書省。しょうしょ)の1つ。門下省は、中書省で立案起草された詔勅や、臣下の上奏文を審議する機関である()。

【外部リンク】・・・wikipediaより

(注)紀元前は年数・世紀数の直前に"B.C."と表しています。それ以外は紀元後です。
(注)ブラウザにより、正しく表示されない漢字があります(("?"・"〓"の表記が出たり、不自然なスペースで表示される)。玄"昉"・・・げん"ぼう"。日へんに方。"傔"人・・・"けん"じん。にんべんに、"簾"のたけかんむりとがんだれを除いた部分。"潞"州・・・ろしゅう。さんずいに路。

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参考文献

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