世界史の目-Vol.257-

北海の覇者クヌーズ

 ヨーロッパ大陸北部、グレートブリテン島、スカンディナヴィア半島南部に囲まれた北海(ほっかい。North Sea)。現在のイギリス、ベルギー、オランダ、ドイツ、デンマーク、ノルウェーに囲まれた、原油・ガス等の資源が豊富な海域である。ノルマン人(北方系ゲルマン人。ヴァイキング)の一派で、現在のデンマークがあるユトランド半島に定住したデーン人の海賊活動はこの北海を通して行われた。ヴァイキングの主立った海賊活動期は9世紀初めから11世紀半ばのおよそ250年間であるが、その中でデーン人は830年代の頃よりブリタニア(グレートブリテン島)侵攻を試みた。当時のブリタニアにはアングロ=サクソン系のヘプターキー七王国(449?-829?。年代の特定には諸説あり)があったが、七王国のうちウェセックス王国(6C-1066)を除く六王国がすでに消滅しており、六王国はデーン人に征服されていた(イングランド東部の、ヨークからロンドン北部一帯のデーン人支配地域をデーンロウと呼ぶ)。七王国のブレトワルダ(七王国時代におけるアングロサクソン諸国の優れた君主に与えられる称号。大王)で、イングランド統一を果たしたエグバートエグベルト。サクソン人のウェセックス王。ウェセックス王位802-839。イングランド王位825-839)も晩年はデーン人の侵入に悩まされ、またアルフレッド大王(ウェセックス王位/イングランド王位871-899)の治世においても領域に侵入するデーン人の討伐に対策を迫られた。878年の討伐ではアルフレッド大王がデーン軍を破り、同年のウェドモアの和議でデーン人はアルフレッド大王に屈服する形で支配下に入り、ウェセックスとデーンロウとの平和的な共存策をうちたてた。しかしその後、デーン人は数度にわたってアルフレッド大王率いるウェセックス王国に襲いかかるが、軍隊を強化したウェセックスの防衛力にはね飛ばされた。結局アルフレッド大王の時代では、デーン人がイングランドの国王になることはできなかった。

 デーン人の拠点となったユトランド半島では、9世紀前半頃に、スキョル家のゴーム王(ゴーム=デン=ガムレ王。老王とも。デンマーク王位936?-958?)が初代国王となった最古のデンマーク王朝、イェリング朝(スキョル朝とも。936?-1042)が興っていた。ゴーム王の子で2代目デンマーク王となったハーラル1世(位958?-985?。青歯王とも)の治世において、これまでの北欧信仰からキリスト教への改宗を受容し、962年に誕生した神聖ローマ帝国(962-1806)からも協力を受けられるようになり、国家体制は強化された。版図においてもスウェーデン南部のスコーネ地方、ノルウェーを支配下にいれ、次のスヴェン1世(位985-1014。双叉髭王とも。そうさひげおう)はノルウェーの国王としても立った(ノルウェー王位999?/1000?-14)。

 スヴェン1世の治世には、デーン人によるイングランド征服の機会を得た。それは1013年のことである。927年に全土統一を達成したウェセックス王国は、イングランド王国(広義ではエグバートが即位した825年から、1707年まで。狭義では927-1707)のウェセックス朝(871-1013,1014-16,1042-66)として強国と化していた。しかし時の国王エゼルレッド2世(イングランド王位978-1013,1014-16。無策王とも)は、デーン税(デーンゲルド)と呼ばれる地租を国民に徴収し、たびたび侵入するデーン人に対してこれらを宥和料として支払い、平和を維持しようとしていたが、デーン人の襲来は止むことがなく、デーンゲルドによる財政負担により国内の反発も大きくなっていった。こうした背景から、エゼルレッド2世はイングランドの領内に在住していたデーン人を弾圧し、多くのデーン人を虐殺した(1002)。これを機にデンマーク王スヴェン1世のイングランド侵攻は激化し、エゼルレッド2世は交戦に破れて退位(1013)、2番目の妃である妻エマ985?-1052)がノルマンディー公(リシャール1世。公位942-996)の娘であったことから)、子のエドワード(1003?-66)とアルフレッド=アシリング(1005-36)らとともにノルマンディー公国(911ー1259)に亡命した。そして空いたイングランド王位にはスヴェン1世が立ち(イングランド王位1013-14)、ウェセックス朝を断ってイングランドにおけるデーン朝を誕生させた(第一次デーン朝。1013-14)。デーン人によるイングランド征服であった。

 ところが、スヴェン1世は翌1014年に急死したため、第一次デーン朝はわずか1年で終わった。デンマークでは長子のハーラル2世(デンマーク王位1014-18)が即位したがノルウェー王位には就けず、ノルウェーを手放した。第一次デーン朝が崩壊したイングランドではウェセックス家が復活、エゼルレッド2世が復位した。

 ハーラル2世は失われた支配地の奪還に向けて、ハーラル2世の弟で、父スヴェン1世時代からイングランド遠征に加わっていたクヌーズカヌートクヌートとも。995-1035)を戦地に送り込んだ。クヌーズは父王が築いたデーン人のイングランドを復活させるため、幾度となくイングランド侵攻を重ねた。エゼルレッド2世はデーン関係についてはデーンゲルドで防ぐ事以外無策な行政であったため、臣下の離反も相次いだ。1016年4月、エゼルレッド2世は失意の内に病没し、直後に子のエドマンド2世が即位した(王位1016.4-1016.11。剛勇王とも)。エドマンド2世の母はエマではなく、エゼルレッド2世の最初の妻エルフギフ(970?-1002。ヨークの貴族の出)の子である。
 エドマンド2世は剛勇王の名にふさわしく、クヌーズ率いるデンマーク軍との攻防は優勢に進み、敵軍に包囲されたロンドンを解放するなど軍功を上げた。しかし同年10月、エドマンド2世はアサンダンの戦い(1016.10.18。イングランド東部のエセックス方面)でクヌーズ軍の猛反撃にあって敗北を喫し、直後の講和でクヌーズ側はテムズ以北の領土を獲得した。一方エドマンド2世はウェセックス王としての王位は存続し、ウェセックスの領土は幾分確保できたが、クヌーズとの交渉で、先に没した方の支配地は、生き残った方に移譲することも取り決められた。するとエドマンド2世は翌月11月30日に20代後半の若さで突然謎の死を遂げた。死因は未だかつてわからず、病死説や暗殺説など挙げられるも確証がない。結局エドマンド2世の支配地はすべてクヌーズに移譲する形となり、イングランドの全領土をクヌート1世が支配することになった。そしてイングランドの重臣会議で、クヌーズが次のイングランド王クヌート1世として即位することが決まり(イングランド王位1016-35)、デーン朝が復活した(第二次デーン朝1016-42)。クヌーズは、父スヴェン1世が実現させたものの、その死で瓦解したデーン人のイングランドを再び再現させることに成功したのである。

 クヌーズには当初、ノーサンプトン伯の娘エルギフ(990?-1036以後?)と結婚しており、息子ハロルド(1015?-40)とスヴェン=クヌットソン(1016?-36)を授かった。さらに1017年、クヌーズは、かつてエゼルレッド2世の妻だったエマとも結婚、翌1018年(1019年?)、子ハーデクヌーズ(1018/19-42)が誕生した。その後娘グンヒルダ(1020-38)も生まれ、彼女はのちに神聖ローマ帝国ザリエル朝(1024-1125)の皇帝ハインリヒ3世(帝位1046-56)の最初の妃となった。
 そしてハーデクヌーズが生まれた1018年、デンマーク王である兄のハーラル2世が没し、クヌーズはデンマーク王クヌーズ2世として即位(デンマーク王位1018-35)した。また父スヴェン1世没後、手を離れていたノルウェーでは、ユングリング家(スウェーデンやノルウェーの伝統的な王家)のオーラヴ2世(ノルウェー王位1015-28)が国王であったが、クヌーズはノルウェーをも奪還するため、1026年、スウェーデン軍と組んだオーラヴ2世のノルウェー軍を相手に、スウェーデン南部のヘルゲ川付近で一戦を交え、勝利を収めた。オーラヴ2世はヘルゲ川戦の敗北で支持を失い、一時ロシアのキエフ公国(キエフ大公国。キエフ=ルーシ。882-1240)やスウェーデン地方に亡命、1028年にノルウェー王位を退いたとされる。オーラヴ2世は退位して2年後に再びクヌーズと戦いに挑むが、ノルウェーのスティクレスターで戦死した(1030。ノルウェー中部の現トロンハイム市近郊。オーラヴ2世は埋葬されて1年経ったものの、亡骸は腐乱せず、髪と爪が伸び続けていたという伝説が残る。ノルウェーでの宣教に尽力したとしてトロンハイムの旧名ニーダロスにて列聖。同地の大聖堂に祭られる)。

 ノルウェーを手中に収めたクヌーズはノルウェー王としても即位した(ノルウェー王位1030-35。オーラヴ退位直後の1028年即位説もある)。これで、自国デンマーク、イングランド、そしてノルウェーの王座を手に入れたクヌーズは、その版図を3国に加えスウェーデン南部まで拡大し、北海を取り囲む大帝国を築いた。これを北海帝国(1016-42。狭義では1030-42)と呼び、クヌーズは大王(the Great)の称号を得た。
 30代半ばで北海の覇者となったクヌーズ大王は、イングランド王として直接統治し、財政面において、かつてのデーンゲルドをヘレゲルドとして軍隊費にあて、デーン人による国家体制維持に努めた。デンマークにおいてはデンマーク王位を継承する者として、クヌーズとエマの子であるハーデクヌーズが推され、デンマーク統治を任された。ハーデクヌーズはイングランドの王位継承者としても推され、また最初の妻エルギフの子ハロルドもイングランドでは重要な後継者の一人とされた。ノルウェー統治においては、最初の妻エルギフを摂政とし、長男スヴェン=クヌットソンを父クヌーズとノルウェー王として共治させた(ノルウェー王位1030-35)。クヌーズが大王として君臨したまさにこの期間が、ヴァイキング時代におけるデーン人の全盛期であり、北海帝国は盤石ともいえる安定政権を確保するはずであった。

 しかしクヌーズ大王は大王の称号を得て数年と経たないうちに、シャフツベリ(イングランド南西部のドーセット州)で没した。1035年のことである(クヌーズ死去1035)。これにより、北海帝国は動揺し始める。まずノルウェーではユングリング家の逆襲がおこり、オーラヴ2世の子マグヌス(1024-47)が王位を継承し(マグヌス1世。ノルウェー王位1035-47。善王とも)、クヌーズ大王とノルウェー王として共治していたスヴェン=クヌットソンは退位、摂政の母エルギフと共に追放されて、デーン人におけるノルウェー支配は断たれた。20歳に満たないスヴェンは直後に没したとされる。また、確証は得られていないが、母エルギフは翌1036年以降(1040年以降?)に没したとされる。
 一方母国デンマークではハーデクヌーズがクヌーズ3世として王位に就いた(デンマーク王位1035-42)。さらにハーデクヌーズはイングランド王としても継承が約束されていたが、ノルウェー王に就いたマグヌス1世が、同じユングリング家が率いるスウェーデンのアーヌンド王(スウェーデン王位1020-50)とともに勢力を上げており、近隣のデンマークはその対策を余儀なくされたためデンマークに残る羽目となった。結局イングランドではハーディクヌーズの異母兄にあたるハロルドが実質上の統治者となり、イングランド王ハロルド1世(イングランド王位1035?-40。兎足王とも)として即位した。ハーデクヌーズはハロルドの名目上の共治者となり、イングランド王ハーディカヌート王として即位した(イングランド王位1035?-42)。ただし2人の在位期間は諸説あり、ハロルド1世は1037年までハーディカヌート王の摂政をつとめ、1037年に即位したとする見方もあり(王位1037-40)、またその場合ハーデカヌート王は1037年に一度退位してハロルド没後に復位したとする場合や(王位1035-37,1040-42)、ハロルド没後にようやく即位したとする場合もあり(王位1040-42)、2人の確定した在位期間は定まっていない。いずれにせよ1035年から1040年までのイングランドの実質的な統治者はハロルドであった。

 クヌーズの前妻エルギフの子であるハロルドと、後妻エマの子のハーデクヌーズの立場は対照的であった。デンマークを出られず身動きできないハーデクヌーズを尻目に、ハロルドは実権を掌握していった。ハーデクヌーズの助けが期待できない中、孤立した母エマは、大王没後は単なるノルマンディー出身という家柄だけが残り、クヌーズ大王の妃であったにもかかわらずハロルド政権によって冷遇されたといわれる(諸説あり)。

 しかしハロルド政権も盤石ではなかった。デーン人にウェセックスの王座を追われたエゼルレッド2世の息子たちで、ノルマンディー公国で亡命生活を強いられていたエドワードアルフレッド=アシリングの兄弟が、エマに会うためにイングランドへ戻ってきたのである。2人はウェセックス王朝時代、エマが夫であるエゼルレッド2世との間に残した子どもたちであり、父を死に追いやったデーン人を追放してアングロ=サクソン王国時代を再燃させようと、亡命先のノルマンディー公国から帰国してきたのである。明らかにデーン王朝への逆襲だった。
 アングロ=サクソンの復興を目指した2人だったが、そのうち弟のアルフレッドはハロルド支持派のだまし討ちに遭い、そこで負った目の傷がもとで落命した。エドワードはノルマンディー公国に再度逃げ戻り、エマはベルギー北西部のブルッヘ(ブリュージュ)に逃亡した。これが1037年頃とされ、名目のイングランド王だったハーディカヌート王(ハーデクヌーズ)が一度退位して摂政だったハロルドがハロルド1世として即位した説があるのも頷ける。

 ハーデクヌーズは、母エマおよび異父兄たちを不幸にしたハロルドを許すわけがなかった。ハーデクヌーズは1040年にデンマークが落ち着くと、改めてイングランドを自身の手で征服するために上陸した。しかし上陸する直前にハロルド1世が20代半ばで謎の死を遂げたため、イングランド王ハーディカヌート王として実質的な政権を掌握した。この時、ハロルドの亡骸は掘り起こされて、水辺に投げ込まれたと言われる。そして異父兄エドワードをノルマンディー公国から再び呼び戻し、アングロ=サクソンとデーンとの融和を図った。ただハーディカヌート王はイングランド王国の財政難のため国民からはあまり支持されず、また独身のため子がおらず後継者に迷い、自身の体調悪化もあって、1042年にエドワードを共治者として次のイングランド国王に推戴することを決めた。異父兄弟による2人の国王、もしくはデーンとアングロ=サクソン(ウェセックス)の連合的な王国という摩訶不思議な時代が到来するかと思われたが、直後にハーディカヌート王は20代半ばで謎の死を遂げ(ハーディカヌート王没。1042)、エドワードはウェセックス朝を復活させてアングロ=サクソン国家を再興した。彼こそが世に言うエドワード懺悔王である(証聖王。エドワード=ザ=コンフェッサー。イングランド王位1042-66)。これにてデーン人によるイングランドの支配は終わり、デーン朝は終焉を迎えた(第二次デーン朝滅亡1042)。

 イングランド統治が終わったデーン人は、ハーデクヌーズ(クヌーズ3世)を失ったデンマークにおいても、クヌーズ一族から選ばれず、ノルウェー王のマグヌス1世が国王として推戴されたことでイェリング朝は滅亡、スキョル家は断絶した(1042)。デンマークはノルウェーと同君連合となった。これにて、デーン人の黄金時代をもたらした北海帝国は崩壊した(北海帝国消滅。1042)。デーン人はその後デンマークに定住するノルマン人として、またイングランドに残ったデーン人も同地の民と同化していった。エマは子エドワードが即位し帝国が消滅したこの結果を快く思わなかったのか、ノルウェーとデンマークを掌握したマグヌス1世を次期イングランド王として支持したとされる。デンマーク、イングランド、ノルウェーといった最大版図を築き上げた北海帝国大王、クヌーズの妃であったエマの、全盛期復活をかけた、最後の挑戦であったかもしれない。しかし結果的にはマグヌス1世は選ばれず、夢は幻に終わった。エマは北海帝国が消滅して10年後の1052年に没した。

 イングランドが次にノルマン人によって支配されるのは、24年後のノルマン=コンクェスト1066)であった。


  エグバートによる七王国を統一した829年から1066年のノルマン征服までのノルマン史の中で、教科書でも1行程度に終わるクヌートのお話をご紹介しました。クヌートは本編では"クヌーズ"の表記でご紹介しましたが、私が受験生時代の時は"カヌート"の表記で知りました。ちなみにエグバートは"エグベルト"で知りました。今回詳細を調べたら、クヌートはとても1行で終わるような人物ではなかったと思いますが、高校で学習するノルマン人の活動のセクションの中では、たとえ1行程度でもアルフレッド大王やノルマンディー公ウィリアム(公位1035-1087。イングランド王ウィリアム1世。位1066-87)と並ぶ重要人物(すべて太字表記です)として位置づけされております。

 大学受験における学習ポイントですが、本編登場のエグバートは七王国統一者として、また統一後初のイングランド王として非常に有名な人物ですが、新課程版では地味な存在になり、教科書に出ていない場合もあります。しかし用語集にはしっかり掲載されているので、知っておく必要があります。また現在では"ヘプターキー七王国"だけでなく、"アングロ=サクソン七王国"の名称も使用されています。
 さて、メインのデーン人関連ですが、デーン人、クヌートの用語は重要なのはもちろんなのですが、用語集におけるデーン朝の表記はクヌートの説明内でしか発見できません。当然ながらスヴェン1世時代のデーン朝は覚える必要はないのですが、クヌートが開いた王朝はデーン朝であると頭に入れておいて下さい。また、本編メインの"北海帝国"の名は私立大の入試問題文などで見受けることもあるかもしれないですが、書かせたり、選ばせたりすることはないと思います。ただイギリスや北欧の出来事ですから、マークセンスなら北海を知っておけば何となく選択できそうですね。

 アングロ=サクソン系よりはノルマン系の臣下を重用したエドワード懺悔王が1066年になくなり、その後ノルマンディー公ウィリアムがヘースティングスの戦い(1066)でウェセックス朝における最後の王ハロルド2世(王位1066)を破り、ノルマン=コンクェストを果たして国王ウィリアム1世としてノルマン朝(1066-1154)を開いたのは周知の通りです。

【外部リンク】・・・wikipediaより

(注)紀元前は年数・世紀数の直前に"B.C."と表しています。それ以外は紀元後です。
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