世界史の目-Vol.258-

東西を結ぶ道

 広大なユーラシア大陸では、あらゆる場所で土着の民族が独自の国家を作り、それぞれ個性豊かな文化を創造してきた。これらをさらなる発展に導いたのは、東側の中国と西側の地中海諸国を結ぶ交易路によって交流が築き上げられたことに他ならない。大陸シルクロードの各地におけるこれら文化・社会の発展に大きな役割を果たした交易路は歴史的に見て、3つの道が存在した。それが、草原の道ステップの道)、オアシスの道、そして海の道である。中国で生産されたが西方にとっても重要な交易品であったことから、これらはシルク=ロードと呼ばれる(→左図。クリックして拡大)。シルク=ロードの命名者はドイツのフェルディナント=フォン=リヒトホーフェン(1833-1905)という地理学者で、1860年代後半からアジアの地質調査を経て、東アジアから西アジアにいたる交易路をドイツ語で"ザイデンシュトラーセン"、つまり日本語でいう"絹の道"の語を自身の著作品にて初めて使用した。さらにスウェーデンの地理学者で中央アジア探検したスヴェン=ヘディン(1865-1952)の探検記を「The Silk Road」が1935年に英訳されたことで、その名が広く知られるようになった。
 一般的にリヒトホーフェンが名付けたシルク=ロードは、3つの交易路の中では、"オアシスの道"のことをさすが、具体的には中国で"西域(さいいき。狭義では現在の新疆・ウイグル自治区で、かつては東トルキスタンと呼ばれた地域。広義ではパミール高原以西の西トルキスタンを合わせた全トルキスタンをさす)"を東西に横切り、乾燥地帯である中央アジアのオアシス都市を通りながら東西南アジア間を結ぶ交易路である。これらの交易路によって、中国産の絹や生糸、養蚕技術などが西方へ運ばれ、また中国にはペルシア文化やヘレニズム文化で生まれた文物が伝えられた。

 中央アジアでは、西方からアケメネス朝ペルシアB.C.550-B.C.330)のダレイオス1世(位B.C.522-B.C.486)の東方進出、そしてマケドニア王国(B.C.808-B.C.168)のアレクサンドロス3世アレキサンダー大王。マケドニア王位B.C.336-B.C.323)の東征(B.C.334-B.C.324)、セレウコス朝シリア王国(B.C.312?/B.C.305?-B.C.63)、続くギリシア系のバクトリア王国(グレコ=バクトリア。B.C.255?-B.C.130?)の進出により、ペルシア文化やヘレニズム文化の流入・発展がもたらされた。また東方からは前漢(ぜんかん。B.C.202-A.D.8)の武帝(ぶてい。位B.C.141-B.C.87)の西域外交の促進、後漢(ごかん。25-220)においても和帝(わてい。位88-105)の時代、西域都護(さいいきとご。西域統治の官)・班超(はんちょう。官位91-102)による甘英(かんえい。生没年不明)の西方派遣、(とう。618-907)代では都護体制(とご。異民族の取り締まり)および羈縻政策(きび。在地異民族族長に自治を許可した間接統治策)の推進が行われた。こうした背景から、東西のさまざまな文物が交易路および交易地を通じて相互に伝えられ、発展していった。

 草原の道はおよそ北緯50度線に相当し、黒海、カスピ海、アラル海の北側にある南ロシア、カザフスタンの草原地帯から、ジュンガル盆地(ジュンガリア)、アルタイ山麓、モンゴル高原を通り、中国に至るまでの交通路が丈の短い草原地帯になっており、この草原をロシアではステップと呼ばれる。3つの道の中で最も北方を通る交易路である。古くから遊牧騎馬民族の活動が目覚ましく、まずB.C.7世紀に南ロシア草原にイラン系(?)のスキタイが登場、遊牧を主体に戦闘集団を作り上げ、ギリシアやイランの文化を吸収して黄金製品を創造する独自の騎馬文化を形成した。その後、中国戦国時代(B.C.403-B.C.221)に匈奴(きょうど)、つづく鮮卑(せんぴ。トルコ系?モンゴル系?)、5~6世紀に柔然(じゅうぜん。モンゴル系)、6~8世紀に突厥(とつけつ。トルコ系)、8~9世紀にウイグル(トルコ系)、10世紀頃になると契丹(きったん)などのモンゴル系民族、タングート族などのチベット系民族が台頭し、独自国家を形成した。ウイグル勢力が840年に衰退した中央アジアでは、トルコ系(テュルク系)民族が分散、ステップ地帯にいたイラン系など非トルコ系遊牧民もトルコ化し、トルキスタンとなった。トルコ系民族(正確にはテュルク系)は10世紀に中央アジア南西部でおこったイラン系サーマーン朝(873-999)の影響でイスラムを受容し、急速にイスラム化が進んだ。その後、トルキスタンではサーマーン朝を滅ぼしたカラ=ハン朝(9C-1212。狭義では940?-1132)が、トルコ系のイスラム王朝としてトルキスタンを支配していく。13世紀はモンゴル民族が台頭し、大陸全土を東西に活動規模を拡大し、交易路が充実化した。

 北緯40度線付近となる、大半が砂漠地帯になるオアシスの道での輸送手段は、ラクダによるキャラバン(隊商)が主である。中国長安を出発して西へ向かい、現在の中国甘粛(かんしゅく)省の省都であり、黄河上流の南岸に位置する蘭州(らんしゅう)で黄河を渡る。甘粛省西部にある玉門関(ぎょくもんかん)とその南側の陽関(ようかん)に至る平地帯は河西回廊(かせいかいろう)と呼ばれ、前漢・武帝がその地帯に河西4郡(かせいしぐん)を設置した。西の重要関所である玉門関と陽関の"二関(にかん)"が河西回廊を守り、オアシス地域を確保した。そして河西4郡の1つで、その二関に守られた河西回廊最西端が重要地、敦煌郡(とんこう)である。こうした要地がシルクロードの中国における玄関口となり、西域へ抜けるオアシスの道が構成された。
 タクラマカン砂漠、つまりタリム盆地の大部分を占める地域には、漢の時代におよそ36からなるオアシス都市国家があったとされている("西域36国"の呼称がある)。こうした都市国家はオアシスの道の要所に存在し、交易を通じて発展、歴史にその名が残るようになった。敦煌からパミール高原に達するまで、つまり東トルキスタン側におけるオアシスの道はおもに3つのルートがある。まず敦煌を出て、当時栄えた楼蘭(ろうらん。?-4C?。かつて"さまよえる湖"として知られ、現在は枯渇した塩湖ロプノールの西岸に位置。1900~01年にへディンが発見。鄯善とも。ぜんぜん)を通り、そして北の天山山脈(てんざん)と南の崑崙山脈(こんろん)に囲まれた、タクラマカン砂漠南沿いのオアシス地域であるチャルチャン(且末。しょまつ)、ダンダーンウィルク(扞弥。うび)、ホータン(コータン。于闐。うてん)、ヤルカンド(莎車。さしゃ)などを経由してパミール高原に到達する最も古いルートがあり、西域南道(漠南路。ばくなんろ)と呼ばれる。2つめのルートは玉門関から天山山脈南麓のカラシャール(焉耆。えんき)やクチャ(庫車。亀茲。きじ。タリム盆地北方。後漢時代に西域都護府が設置)、アクス(姑墨。こぼく)、カシュガル(疏勒。そろく)などを経由し、パミール高原に到達する西域北道(漠北路。ばくほくろ)で、これら西域の両南北道は天山南路(てんざんなんろ)と呼ばれ、西域南道は天山南路の南道、そして西域北道は天山南路の北道にあたる。
 そして3つめは天山山脈の北麓沿いを通るルートで、天山北路と呼ばれる。玉門関を北に出て、現在の新疆ウイグル自治区にあるクムル市にあったオアシス都市のハミ(哈密)を経由、つづくトルファン(高昌。こうしょう)を通り、ジュンガル盆地東南のウルムチ(烏魯木齊)、ウス(烏蘇)、イリ地方と進み、アルマトイ(阿拉木圖。カザフスタン南東)、スイアブ(砕葉。イシク湖北西にあったとされる)、タラス(怛羅斯。キルギス北西)に至り、タシュケントサマルカンドブハラなどソグディアナ方面へ向かう、あるいは草原の道と合流して西進する。

 パミール高原の西方に位置するソグディアナでは、イラン系の隊商従事者、つまりソグド商人の活躍が大きい。ソグディアナを原住とするソグド商人は東西トルキスタンを広範囲に活動し、各オアシス都市の中継貿易繁栄を導かせた。ソグド人は5世紀のエフタル、6世紀の突厥、8~9世紀のウイグルなど、遊牧民族の勢力下に置かれるも独自の文化を守りつつ、商業活動に従事した。ウイグル時代には、ソグド人がもたらしたソグド文字アラム文字の系統)の文化がウイグルで芽生え、ウイグル文字を生み、その後のモンゴル勢力よりモンゴル文字へと発展した。宗教においても、ソグド人はゾロアスター教マニ教を信仰し、これが西トルキスタンでの宗教の中心であった。これら2宗教に加え、ネストリウス派のキリスト教の3宗教はササン朝ペルシア(サーサーン朝ペルシア。226-651)で信仰されていた。ゾロアスター教は5世紀、北魏(ほくぎ。386-534)時代に伝来して祆教(けんきょう)と呼ばれ、唐代にはマニ教が摩尼教(まにきょう。明教。めいきょう)として、ネストリウス派のキリスト教が景教(けいきょう)としてそれぞれ伝えられた。これらは唐代三夷教(さんいきょう)として保護された。特にマニ教は、ウイグルがウイグル帝国(回鶻可汗国。回紇可汗国。かいこつカガン。744-840)として勢力を誇っていたこともあり、マニ教を信仰するウイグルとの関係を安定させる目的で保護されていた。
 また天山北路での交易地の1つであるタラス地方は、751年、東の唐と西のアッバース朝(750-1258)による、中央アジアの覇権をめぐって争われたことで知られる(タラス河畔の戦い)。この戦争で唐は大敗し、唐の西域政策が後退、ソグディアナはアッバース朝の支配下に入り、ソグド人は他のテュルク系民族と共にイスラーム世界に融け込んでいった。タラス河畔の戦いで捕虜となった唐の紙漉き工によってサマルカンドに製紙工場が作られ、製紙法が西方に伝えられたのは有名な話である(製紙法西伝)。

 草原の道、オアシスの道という陸路と同様に重要だったのが、航海による海路、いわゆる海の道である。ラクダよりも船の方が貿易品を大量に運搬できることに利点があった。コースとしては、地中海世界と中国をつなぐルートで、紅海やペルシア湾からアラビア海に出て、インド洋を渡航する。南インドに到達後は、ベンガル湾からマレー半島やスマトラ島、インドシナ半島など東南アジアを経由し、南シナ海および東シナ海を渡航して中国沿岸部に至る。南インドが主要な貿易地点であり、ローマ帝国(B.C.27-A.D.395)を中心とする地中海世界と、当時南インドにおこっていたサータヴァーハナ朝(B.C.230?/B.C.211?/B.C.1C-A.D.3C初?/A.D..249?)との季節風貿易(季節風の風向を利用した貿易)が活発化した。そして陸路と同じくして、絹を求めてインドからさらに東の中国へ航路が延びていった。A.D.1世紀半ばにエジプトのギリシア系商人によって著されたとみられる、インド洋貿易の事情がわかる航海商業案内書『エリュトゥラー海案内記("エリュトゥラー"とはギリシア語で"赤"、つまり「紅海」の意味とされる)』では、中国をスィン(シン。の名から来ているとみられる。しん。?-B.C.206)と呼び、絹の生産地であると述べている。また東南アジアの沿岸部には交易の要衝である港市や港市国家が次々におこり、海上貿易による繁栄を築いた。

 8世紀、西方でイスラーム世界が確立すると、ギリシア系商人にかわり、ペルシアやアラブのイスラム教徒がダウ船(大三角帆で運行する船)を使って交易業に携わるようになった。彼らムスリム商人(イスラム商人)は、当初はペルシア湾岸のバスラシーラーフといった港市を拠点に活動していたが、その後中国の広州(こうしゅう。広東省)や泉州(せんしゅう。福建省)、揚州(ようしゅう。江蘇省)などへの往来が活発化し、広州では海上貿易を取り締まる役所・市舶司(しはくし)が最初に設置(8C前半)、そしてムスリム商人の居留地である蕃坊(ばんぼう)も形成されたことにより、中国ではアラビアのムスリム商人を"大食(タージー)"と呼んだ。ムスリム商人はその後も海上交易を活発化し、たとえばザンジバルキルワマリンディモンバサ、モガディシュ、ソファラなど、アフリカ東岸にある港市との貿易が発展し、象牙、香辛料、奴隷、中国産陶磁器、インド産綿布などの貿易品が取引された。特にアッバース朝が衰退し始めた10世紀頃になると、バグダッド経由が困難な場合にはこれまでのペルシア湾からアラビア海に出るルートだけでなく、紅海からアラビア海に出るルートも伸展し、カイロ市アレクサンドリア市、アデン市(紅海の入り口。現イエメンの都市)が東西海上貿易の活動拠点となって、中国、東南アジア、インド、西アジア、そしてアフリカ東岸といった広範囲にわたるインド洋交易圏が確立したのである。カイロを首都としたアイユーブ朝(1169/71-1250)やマムルーク朝(1250-1517)の時代には、王朝に保護されたムスリム商人が、この紅海をメインとしたインド洋交易圏をさらに発展させ、地中海世界とも深く結びついて、インドネシア産の香辛料、西欧諸国産の鉄や木材、アフリカ産の金や奴隷、中国産絹織物や陶磁器の取引を行うようになり、カーリミー商人と呼ばれて、各地に商館を設置して活動した。
 ムスリム商人はこれら貿易品に加え、西方へ伝えた最大の功績がある。それは中国・代(そう。960-1279)に端を発した火薬羅針盤活版印刷技術三大発明の西伝である。これらはイスラーム世界を経由し、ヨーロッパに伝えられた。14世紀以降の西欧ルネサンス期、これら発明品はさらなる実用化が促進され、特に羅針盤においては、"海の道"の大きな発展へとつながり、西欧からの"航路の開拓"が始まって、15世紀以後の大航海時代(15C半-17C半)へと続いていった。

 陸海のシルクロードは、商品の流通のみならず、各国文化の産物、人々の往来をもたらした。これらの記録は、たとえば先に挙げた海の道に関する『エリュトゥラー海案内記』のみならず、他の分野で記録した著書からも参考にすることができる。例に挙げると、仏典を求めてインドに旅立った僧、たとえば東晋(とうしん。317-420)時代の僧・法顕(ほっけん。337?-422?)で陸路でインド・グプタ朝(320-550?)に向かい、海路で帰国したことが自著『仏国記(ぶっこくき)』で記されており、当時の旅行ルートにおける状況を知ることができる。また唐代には陸路で往復した僧・玄奘(げんじょう。602-664。三蔵。さんぞう)の『大唐西域記(だいとうさいいきき)』、および海路で往復した僧・義浄(ぎじょう。635-713)の『南海寄帰内法伝(なんかいききないほうでん)』も名高い。13~14世紀では、モロッコの大旅行家イブン=バットゥータ(1304-68/69/77)は、メッカ巡礼につづくアジア、アフリカ、東欧をまたいだ、12万kmにも及ぶ旅行をおよそ30年かけて行い、『三大陸周遊記(さんたいりくしゅうゆうき)』を執筆した。またイタリアのヴェネツィア出身の商人・マルコ=ポーロ(1254-1324)は24年間の旅行であるが、そのうち17年間は中国・(げん。1271-1368)に滞在した。マルコ=ポーロは1295年海路で帰国するも、当時ヴェネツィアの交戦相手だったジェノヴァにて捕虜となり、収監中に同房者だったピサ出身の小説家ルスティケロ(13世紀後半)が、マルコ=ポーロの24年間における見聞内容を口述したものを採録した。これが『世界の記述東方見聞録)』で、西欧人のアジアへの関心はこの書で大きく高まった。

 草原の道、オアシスの道、そして海の道という、ユーラシア大陸の東西を結ぶ道は歴史的にみても大いに意義がある。これをふまえ、UNESCOユネスコ国際連合教育科学文化機関)は、交易路を通じて東西の文化交流を発展させたことの重要性を示し、その路上にあるさまざまな文化財を保護するため、世界遺産リストへの登録が努められた。1980年代後半からこの活動がおこされ、入念に話し合われて、2014年6月に開催された第38回世界遺産委員会がカタールのドーハで開催された。この会で、中国、カザフスタン、キルギスの3カ国からの計33に及ぶ遺跡、仏塔、石窟寺院などが文化遺産に登録された(「Silk Roads: the Routes Network of Chang'an-Tianshan Corridor」。"シルクロード:長安~天山回廊の交易路網")。構成された33の文化遺産の中には、敦煌の玉門関やスイアブのアク=ベシム遺跡、そして前漢の武帝時代に西方に派遣されて、シルクロードを切り開くきっかけをつくった、外政家・張騫(ちょうけん。?-B.C.114)の墓も登録されている。


  今回は中央アジアが舞台となりました。シルクロード(絹の道)は世界史のみならず、日本史や地理でもその語が使われ、さらには考古学や地学、環境学、経済学分野などでも広く研究される、神秘的でロマン溢れる分野です。TVなどでもドキュメンタリー番組や旅番組などで続々と紹介されたり、本編最後にも紹介しました、2014年の文化遺産登録などで、衰えを知らない勢いです。ただ、アラル海が蒸発しかける等の環境問題もあり、現実にも目を向けなければならないところも多々あります。

 大学受験のこの単元では、地名、国名、都市名、民族名などがたくさん登場し、古今東西にある諸国家の時代背景も把握しないと解けない問題が多いため、苦手としている受験生も多いのではないかと思います。まず、東西交流を利用する場所、つまり中央アジアに出てくる地名は知っておく必要があります。草原の道とオアシスの道は内陸アジアですが、まず草原の道に限ってはモンゴル高原からカザフ草原の一帯です。オアシスの道では中央アジア東南部のパミール高原を真ん中に、東部は北の天山山脈と南の崑崙山脈、間のタクラマカン砂漠にあるタリム盆地、西部はアラル海に注ぐアム(ダリヤ)川とシル(ダリヤ)川とその西のカスピ海です。海の道はインド洋を中心として西から紅海、ペルシア湾、アラビア海、ベンガル湾、南シナ海、東シナ海沿岸です。地図帳で確認しておきましょう。また9世紀のウイグルの登場でトルコ系(テュルク系)民族が内陸アジアに住み着いて(いわゆるトルコ化)、呼ばれるようになったトルキスタンですが、パミール高原を境に東西に分けます。東トルキスタンは現在の中国・新疆・ウイグル自治区、西トルキスタンはカザフスタン、ウズベキスタン、キルギス、トルクメニスタン、タジキスタンあたりです。

 さて、大学受験世界史の学習ポイントですが、3つの道では海の道は海沿いなので大丈夫だと思いますが、問題は草原の道とオアシスの道です。本編であったとおり、草原の道はだいたい北緯50度線あたりのステップ地帯で、オアシスの道は北緯40度線あたりです。草原の道はそれこそ遊牧騎馬民族の話題で出題されることが多いですね。登場順で申し上げますと、スキタイ(B.C.6C-B.C.4C頃)→匈奴(B.C.4C末-B.C.1C東西分裂、A.D.1C東匈奴は南北分裂)→鮮卑(6C頃まで)→柔然(5-6C)→突厥(6C半-8C)→ウイグル(8-9C)→契丹(10-12C)→モンゴル(13C以降)と続きます。
 隊商交易が中心のオアシスの道は地名や都市名がよく出題されますが、長安がスタート地点で、西域へ向かう中国の西端が、千仏洞(せんぶつどう)などがある、4世紀以降につくられた莫高窟(ばっこうくつ)で知られる敦煌です。敦煌からは3つの交易路があると本編で書きましたが(天山北路、天山南路の西域北道と南道)、この名前は問題文で書かれても解答を書かせる問題は出ないと思いますが、3ルートを地図帳でたどりながら地名を覚えるとわかりやすいです。まず最も南のルート(西域南道。天山南路の南道)はへディンの発見した楼蘭とコータン(ホータン、于闐)は知っておくと便利です(頻出度は少ない方です)。そしてその北のルート(西域北道。天山南路の北道)はクチャ(亀茲)が有名で、中国に来て仏道を広めた仏図澄(ぶっとちょう。ブトチンガ。232?-348)や、仏典漢訳に大きく貢献した訳経僧鳩摩羅什(くまらじゅう。クマラジーヴァ。344?/350?-413?/409?)がクチャの出身であるとされています。あとカシュガルもマイナー系ですが、出題されることもあります。残る1つの天山北路はタラス河畔の戦いで有名なタラスや、19世紀にロシアの占領で中国と対立し、ペテルブルクで条約を結んだことでその地が知られるイリ(1871-81年のイリ事件、1881年のイリ条約)などがルート上にありますが、シルクロード絡みではあまり出ません。最もタラス河畔の戦いでは、製紙法西伝で、交易史の1つとして出ることはありますが。西トルキスタンでは、サマルカンドとブハラといったソグディアナ地方の中心都市はきわめて重要です。あと、忘れてはならないのは、日本でも中国を経由して奈良・東大寺にある正倉院に数多くの宝物が残されていることでしょう。

 最後に海の道です。別名"海のシルク=ロード"や、絹だけでなく中国産の陶磁器も重要な交易品であったことから"陶磁の道"とも呼ばれます。インド洋交易圏を形成したルートで、沿岸部の港市や港市国家が東西あちこちに栄えました。ここでは「エリュトゥラー海案内記」、三大発明の西伝、西アジアのムスリム商人の中国・広州、泉州、揚州での活躍を知っておきましょう。

【外部リンク】・・・wikipediaより

地図はMERCATOR1.60にて作成。

(注)ブラウザにより、正しく表示されない漢字があります(("?"・"〓"の表記が出たり、不自然なスペースで表示される)。于"闐"(う"てん")・・・もんがまえの中に眞(真)。"鄯"善("ぜん"ぜん)・・・へんは善、つくりはおおざと("部"の右側)。"祆"教("けん"きょう)・・・へんは示、つくりは天。回"紇"(かい"こつ")・・・糸へんに乞。
(注)紀元前は年数・世紀数の直前に"B.C."と表しています。それ以外は紀元後です。

世界史の目に戻る
参考文献

Copyright (C) KOBE MANTOMAN SHIDOU SENMON GAKUIN All Rights Reserved.