世界史の目−Vol.26−

ギリシア独立戦争(1821〜29)

 16世紀におけるオスマン帝国(1299〜1922)は、アフリカではエジプト地方、ヨーロッパはハンガリー〜ギリシアの縦ラインから東方に位置する黒海の沿岸まで、また東はイラク・シリアまで及ぶ巨大イスラム国家であり、さらに地中海・エーゲ海・黒海の制海権を持つ、まさに全盛期で、西ヨーロッパの列強を凌ぐ勢いだった。しかし、1683年、オスマン帝国は第2次ウィーン包囲を実施するも失敗し、1699年締結のカルロヴィッツ条約でオーストリアにハンガリーなどを割譲するなど、17世紀、18世紀、19世紀と領土は縮小傾向にむかい、徐々に衰退し始めていった。

 ビザンツ帝国(395〜1453)の東方正教会(ギリシア正教会)に入っていたギリシア正教徒は、ビザンツ帝国がオスマン帝国軍の襲撃で滅亡(1453)してから約400年近くの間、オスマン帝国の支配下におかれ、圧政と宗教差別に苦しめられていた。そんな中、ナポレオン(1769〜1821)は、エジプト遠征(1798〜99)の時、エジプト先住民にナショナリズム精神(国民意識・民族意識)を高揚させ、オスマンからの解放・独立の気運を高めた。これに呼応するかのごとく、ギリシア正教徒もナショナリズムが高まり、ギリシア商人で貴族層出身アレクサンドロス=イプシランディス(1792〜1828)が、オスマン帝国から独立するためのフリーメーソン的秘密結社であるフィリキ=エテリア(ヘタイリア)をおこした(1814)。

 イプシランディスは、もともとロシア軍にも従軍し、その時の皇帝アレクサンドル1世(位1801〜25)の副官を務めたこともあり、フィリキ=エテリアはロシアの黒海沿岸都市オデッサで作られた。イプシランディスはまた、ロシア皇帝の専制と反動化に反発した革命団体デカブリスト(十二月党)とも交流して、自由主義精神をも持ち始めた。

 フィリキ=エテリアの会員数が1000人を越えた1820年、イプシランディスは同社の総司令官に就任し、武力蜂起の計画が練られた。そして、翌1821年2月、フィリキ=エテリアは蜂起し、オスマン帝国の宗主権下にあるモルドヴァ公国及びワラキア公国(両公国とも現在のルーマニアあたり)へ進軍した。これが、ギリシア独立戦争1821〜29)である。

 だがイプシランディスの軍は期待していたロシア軍による援助もなく、オスマン軍によって半年も経たずに壊滅、イプシランディスもオーストリアに亡命したがそこで捕まり獄死した。しかしギリシア軍の蜂起は、新しい司令官のもとで、その後も継続され、1822年に独立を宣言した。これにより、オスマン帝国は、エジプト太守ムハンマド=アリー(1769〜1849)の率いるエジプト軍を動かして鎮圧を図った。オスマン軍は、あのホメロス(B.C.8世紀頃の人。叙事詩人)の生地と伝えられ、ギリシア人の多いキオス島(シオ島。アナトリア西岸)に上陸して、徹底的な虐殺をおこなった(キオス島虐殺事件)。この光景は、ロマン派画家ドラクロワ(フランス。1798〜1863)の描画によって世論に紹介され(『シオの虐殺』)、独立の支持が高まった(でも発売当時は"絵画の虐殺"と酷評もされた)。西欧諸国においても文化の故郷ギリシアを守る意味で独立を援助し、各国から民間人の構成による義勇軍が集められた。『チャイルド・ハロルドの巡礼』を残したイギリスの詩人バイロン(1788〜1824)も義勇兵としてギリシアに旅立ったが(1823)、到着した数ヶ月後の翌1824年、マラリアにかかり、戦わずして病没している。

 キオス島虐殺事件に対して、ロシアも立ち上がり、イギリス・フランスと独立支援を続け、イギリス外相カニング(1770〜1827)の仲介によって、1826年、独立支援同盟を結成、翌1827年10月、3国の連合艦隊が、ナヴァリノ沖(ペロポネソス半島南西岸)で、オスマン艦隊を撃破し、ギリシアの独立を確実なものとした(ナヴァリノの海戦)。オスマン帝国はオーストリアのメッテルニヒ(1773〜1859)に支援を求めたが、この頃の彼の外交政策は、かつてウィーン会議(1814〜15)で議長を務めた時代とはまるで違っていた。アメリカのモンロー教書(モンロー宣言。1823。西欧諸国とアメリカ大陸諸国との相互不干渉を主張)によって、ウィーン体制の干渉が排除され、ラテン=アメリカ諸国の独立が促進したため、メッテルニヒは、外交の立場では居場所を失い、輝きを失っていたため、軍の支援を得られなかった。

 結局1829年、ロシアとオスマン帝国との間でアドリアノープル条約が締結された。終戦となり、ロシアはオスマン帝国にドナウ川沿岸と黒海北岸の割譲を強制、またオスマン領のダーダネルス・ボスフォラス両海峡の自由航行権を獲得した。そして遂にギリシアの独立をオスマン帝国に承認させた。翌1830年、ロンドンにてロンドン会議が開催、イギリス・フランス・ロシアそれぞれの外交官による協議の結果、ギリシアの独立が国際的に承認され(ロンドン議定書)、1832年、国境が画定されて、ギリシア王国が誕生、独立を果たすことができたのである。

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 3国(イギリス・フランス・ロシア)の支援によって、ギリシア正教徒を保護し、ギリシアは独立を達成しましたが、3国の本当の目的は、ナショナリズム精神によって民族運動を活発化させるなどしてオスマン帝国をもっと弱らせて、その間に地中海東部への進出を目指してオスマン領の権益を手に入れることでした。特にオスマンの隣国ロシアにとっては、ギリシア保護はオスマン領土を奪取するための口実だったのです。これ以降は、オスマン領土の取り合い合戦となり、当時の国際現状を総称して東方問題(Eastern Question)と呼ばれました。ギリシア独立戦争は、東方問題の中ではいわばプロローグ的なもので、その後エジプト=トルコ戦争(エジプト事件。1831〜33,39〜40)・クリミア戦争(1853〜56)・露土戦争(1877〜78)といった、東方問題における3大戦争が展開します。このあたりは非常に複雑ながらも、入試に出やすい項目ばかりで、世界史全分野の中で、最も受験生泣かせの分野と言えるでしょう。人物だけでもムハンマド=アリー、ナポレオン3世、ニコライ1世、極めつけはベルリン会議(1878)でビスマルク登場と、泣きそうなぐらいに有名人がワンサカと出ますし、条約名では、ウンキャル=スケレッシ条約(1833)、パリ条約(1856)、サン=ステファノ条約(1878)、ベルリン条約(1878)など、地名では、本編でも登場したダーダネルス・ボスフォラス両海峡、イェルサレム、セヴァストーポリ要塞、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、ルーマニア、セルビア、モンテネグロ、ブルガリア、キプロス島、ベッサラビアなど、歴史用語となると、聖地管理権問題、パン=スラヴ、パン=ゲルマンなどが登場、そしてバルカン問題へと発展していきます。ですから本日ご紹介したギリシア独立戦争はまだイントロです。これ以降の内容は、機会があれば近いうちにご紹介するといたしましょう。

 さて、今回のポイントですが、東方問題のプロローグ、ギリシア独立戦争についてのお話でしたが、ギリシアはビザンツ帝国時代からギリシア正教会の信仰であり、オスマン帝国は、スンナ派イスラム世界の盟主的存在でした。よって宗教的差別を受けていたわけです。ここで、独立運動が起こるのですが、秘密結社フィリキ=エテリアとアレクサンドロス=イプシランディスはほとんど出題されたケースがなく、彼らより義勇兵のバイロンや、画家のドラクロワの方がよく出されています。バイロンの主著『チャイルド=ハロルドの巡礼』も知っておきましょう。またドラクロワの代表作『シオの虐殺』と『民衆を導く自由の女神』は歴史資料集やテレビなどで見た人もいると思います。名作ですので覚えておきましょう。ポイントは、『シオの・・・』はギリシア独立戦争で、『民衆を・・・』はフランス七月革命(1830)を描いた作品であるということ。結構出題されやすいです。用語集によると、アドリアノープル条約やロンドン会議(1830)は、教科書の頻度数は少ないですが受験に出ることもありますので、注意しましょう。ちなみにロンドン会議は1840年開催もあり、エジプト=トルコ戦争後の処理を協議した会議で、こちらは1830年の同会議よりも出題されやすい会議です。他にも1930年に開催された、ロンドン軍縮会議もあります。補助艦保有比率を決めた会議で、日本史にも登場します。

 本編では番外でホメロスが出てきました。古代ギリシア文化のセクションで登場する彼の主著『イリアス』『オデュッセイア』の2作品もあわせて覚えておきましょう。2作品ともトロイア戦争(トロヤ戦争)を題材にした叙事詩です。また現在のルーマニアに位置するワラキア公国も登場しましたが、15世紀、専制君主にドラクルという人物がおり、その性格の残忍さから、"ドラキュラ"と呼ばれて(一説)、後の吸血鬼伝説を生む形となりました。学習にはまず出ませんが、興味深いですね。

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