世界史の目-Vol.261-

イル=ハン国・後編
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 フラグ(フレグ。1218?-65)が西アジアに建国したイル=ハン国(1256?/58?/60?-1353)は、誕生して40年近くの年月が経った。この頃は、ハン位を巡る権力争い、ペルシア人など被征服民族とモンゴル民族との闘争、そしてモンゴル民族内での部族闘争、そして国家財政の破綻も迫り、イル=ハン国の存亡危機に陥っていた。イル=ハン国の情勢安定化にむけては、まず国家運営の基本となる税制や地方制度などの諸改革を施す必要があった。

 第4代イル=ハン国のハンであったアルグン(位1284-91)の長男ガザン(1271-1304)は1295年、ガザン=ハンとして第7代ハンに即位した(位1295-1304)。父アルグンが没した1291年からガザンが即位するまで短命政権が2代続き、国家的機能の修復も施せないままであったが、フラグの曾孫にあたるガザンはモンゴル帝国(狭義1206-71。広義1206-1634)の一分身国家(ウルス)として、征服地に対するモンゴル人第一主義の見方を変え、征服地がイラン(ペルシア)系民族の地であることを重点的に考えて、民族の垣根を取り除く行政を試みた。
 これにより、ガザン=ハンは1298年、イル=ハン国の宰相(行政の長)として、ハマダーン出身(イラン西部)でユダヤ系イラン人医師のラシード=ウッディーン(1247?/1249?-1318)を登用した。ラシード=ウッディーンは、第2代ハンだったアバカ(位1265-82)の侍医として仕えた。イランのユダヤ系知識人はガザンの父アルグンの治世においても宰相として任命を受けるなど重宝された。もともとイル=ハン国はモンゴル帝国を構成するウルスでありながら、征服地が多くの民族や宗教によって構成されていたため、モンゴル人第一主義の基本精神は変わらずも、他民族・他宗教については寛容策が設けられ、非モンゴル人の要職就任は一般的であった。実はガザンも元来はチベット仏教に関心があったとされており、曾祖父フラグの妃や祖父アバカはキリスト教徒であった。

 ラシード=ウッディーンはイスラーム教徒で、アッバース朝(750-1258)の法学者アル=シャーフィイ(767-820)が広めたスンナ派系のシャーフィイ派を信仰していた。ラシード=ウッディーンは就任した宰相職を、イスラーム世界のワズィールとして行政にあたった。実はガザン=ハンがラシード=ウッディーンを登用したのは、1295年にガザン自身がイスラーム教に改宗して"イスラームの皇帝(パーディシャー=イスラーム。Pādshāh-i Islām)"を自称し、名前も「マフムド=ガザン」と改名したからであり、西アジアの主要宗教であったイスラーム教を信仰することによって、イル=ハン国のイスラーム化を促し、宗教的な統一から国家再建を行おうとしたのである。ラシード=ウッディーンがスンナ派寄りであるため、スンナ派が基本政策となるも、シーア派など他宗派にも寛容な姿勢をとった(ガザン自身がシーア派であったと見られる)。これに対し、キリスト教や仏教、ゾロアスター教などの非イスラーム教に関しては徹底して禁教策をとり、これらに関する寺院破壊や焚書政策が行われた。

  ガザン=ハンはこれに続き、税制改革を行った。これまでは各戸の保有家畜数により定まる家畜税や人頭税が税の主流であった。遊牧民族としての税制である。しかしガザン=ハンはイル=ハン国をイスラーム政策に則った国家体制にするため、これらの税をとりやめる代わりに、ハラージュ(地租)の徴収を実施し、税の安定をはかった。さらにガザン=ハンは部族の長が地方官や将軍として取り仕切っている地方に対しても改革を行った。それは彼らの恩給として、中央から分与地(イクター)を授与し、徴税権を委ねた、イスラーム世界における一種の封建制度、いわゆるイクター制の導入であった。これにより、各農村は復興し、地方軍と地方財政が掌握され、強化された。文化面においても、学芸、芸術、技術を保護し、ガザン自らも自然科学を究める一方、"ダールッスィヤーダ(サイイドの館。サイイドとはイスラーム世界における"主人"、"重要な人"を表す尊称)"と呼ばれる宿泊施設を建設し、学校(マドラサ)や礼拝堂(モスク)の建設や改修を奨励し、イラン=イスラーム文化を開花させた。こうしてさまざまな諸制度をイスラーム化することで、強い安定国家が再興し、イル=ハン国の全盛期を現出した。
 全盛期の現出には、ガザン=ハンの右腕となった宰相ラシード=ウッディーンの存在も大きい。1301年、ガザン=ハンは彼にイラン=イスラーム世界の歴史と、ガザン自身からみたモンゴル民族史の歩み、そしてモンゴル帝国を築いた一族の系譜を歴史書として編纂するように勅命した。ラシード=ウッディーンはガザン=ハンからの口述を情報として取り入れながら、各分野の有識者を動員し、時間をかけて編纂事業にあたった。
 そしてもう一人、アルグンの第3子、つまりガザン=ハンの弟にあたるオルジェイトゥ(1280-1316)も全盛期を支えた人物であった。彼はイル=ハン国の重要地域であるホラーサーンの統括を任され、ガザンの諸改革を全面的に支持し、ホラーサーンにおいてもガザンの施政方針に基づいた統治を浸透させた、兄ガザンの良き理解者であった。ガザン即位前の混乱期に主流だった一族からは疎まれたが、ガザンに信任されたモンゴル軍人チョバン(?-1327)らと協力してこれらも壊滅させ、国家安定の維持に努めた。

 盛時を現出したガザン=ハンであったが、1304年、病気により30代半ばで没した(1304ガザン=ハン没)。ガザン=ハンの後継者として、オルジェイトゥが選ばれ、オルジェイトゥ=ハン(位1304-16)としてイル=ハン国第8代ハンに即位した。彼もイスラーム教徒として、別名オルジェイトゥ=スルタンと称した。
 まずオルジェイトゥ=ハンは、新たな夏営地(遊牧民は、気候の変動に合わせて、定期的に夏営地と冬営地という移動地を設ける)としてイル=ハン国首都タブリーズの南東にソルターニーイェスルターニーヤ。モンゴル語で"クンクン=クラン")を建設した。ソルターニーイェは首都タブリーズに並ぶほどの大都市として建設され、マドラサや病院施設、バザール(イスラーム世界の市場)が建設された。中でも同市に建設されたオルジェイトゥ廟(【外部リンク】から引用)は青タイルと8基のミナレット(塔)のドーム(円屋根)で、イスラーム建築の傑作であり、2005年、ユネスコの世界遺産に登録された。

 オルジェイトゥの行政はガザン=ハン時代をほぼ踏襲した。版図もイラン全土を統一させ拡大(最後に残っていたタブリーズ東方でカスピ海南岸のギーラーンを征服)、安定政権は維持するかに見えたが、ガザン=ハン時代はイスラーム教の各宗派に寛容な姿勢をとったものの、その後はイスラームの宗派対立も徐々に表面に現れたため、オルジェイトゥはラシード=ウッディーンらスンナ派の重職者を保護しつつ、国家的にはシーア派へ移行していく策をとった。またガザン=ハンの勅命で編纂事業にあたっていたラシード=ウッディーンは、1307年にモンゴル帝国史の編纂がついに完成し、『ガザンの祝福されたる歴史』としてオルジェイトゥに献呈された。引き続き編纂にあたったラシード=ウッディーンは、結果的に全3巻(『ガザンの祝福されたる歴史』を第1巻、万国史を第2巻、地理志を第3巻。ただし第3巻は伝存せず)にまとめられ、1314年に『集史(しゅうし。蒙古集史)』として完成した。『集史』は本来ペルシア語だけでなくアラビア語版もつくられ、イスラーム世界にも広く読まれた。
 しかしラシード=ウッディーンを疎ましく思う政治家もおり、ガザン没後より、要職権をめぐって讒言などの政争に巻き込まれていくようになる。

 1313年、オルジェイトゥ=ハンは子のアブー=サイード(1304-35)をイル=ハン国の次期後継者に据え、彼にホラーサーンに統括を任じた。アブー=サイードの後見人はオルジェイトゥ=ハンに信頼されたチョバンが任命された。そして、1316年、オルジェイトゥはソルターニーイェで病没し(1316。オルジェイトゥ=ハン没)、アブー=サイードが第9代目ハンに即位した(アブー=サイード=ハン。位1316-35)。アブー=サイードは若かったため、チョバンが行政の指揮をとった。アブー=サイードの治世は廷臣の争いが後を絶たず、ガザン=ハン時代から政治を支えたラシード=ウッディーンも政争の渦に巻き込まれ、政敵によりオルジェイトゥの病没の診断を誤診と讒言されたかどで(あるいはラシードがオルジェイトゥを毒殺したと讒言された説もある)、ラシード=ウッディーンは宰相を解任され、長男とともに処刑を宣告され、1318年、刑が執行された(ラシード=ウッディーン処刑。1318)。同じく全盛期を背負った協力者であるチョバンも彼の無罪と復職をアブー=サイードに進言したが聞き入れられなかった。

 一方、ジュチ家のウルスであるキプチャク=ハン国(1243-1502)では当主ウズベク=ハン(位1313-42)の治世が訪れていた。ウズベク=ハンは、両国が国境を接するカフカス地方コーカサス地方。黒海とカスピ海に囲まれる。北側はキプチャク=ハン国、南側はイル=ハン国が支配)において、アブー=サイード率いるイル=ハン国にたびたび圧力を加えた。ウズベク=ハンはキプチャク=ハン国創設者であるバトゥ(1207-55)の玄孫(孫の孫)にあたる人物で、通商を活発に行い、首都サライ(もとはヴォルガ川下流。ウズベクの時代は上流に位置)は繁栄、キプチャク=ハン国の全盛期を現出した当主である。ウズベク=ハンはイスラーム教を採用してマムルーク朝(1250-1517)との交流をすすめ、政略結婚を通じて友好な関係を続けていた。

 一方、イル=ハン国のアブー=サイードは1319年、自身の妹であるサティ=ベク(1316?-45)をチョバンに嫁がせた。国政を任されていたチョバンは結婚を通じて権勢を振るいはじめ、一族や同志の人たちを要職に就かせたが、その中に、ラシード=ウッディーンの次男もいて、財務長官に任命されていた。父ラシード=ウッディーンを処刑したのは、まさしくアブー=サイードの命令によるものであり、一方でチョバンがガザン、オルジェイトゥの治世を支えた同志がラシード=ウッディーンであるのは、紛れもない事実であった。これにより、チョバンとアブー=サイードとの間に緊張が入り始めた。
 また1325年頃、アブー=サイードは、チョバンの娘であるバグダード=ハトゥン(?-1335)を慕うようになった。しかしバグダード=ハトゥンは1323年に家臣のシャイフ=ハサン(?-1356。大シャイフ=ハサン。本名タージュ=ウッディーン=ハサン=ブズルグ)に嫁いでいた。アブー=サイードはチョバンとバグダード=ハトゥン父娘に迫り、大シャイフ=ハサンとの離婚と、自身との結婚を強要した。バグダード=ハトゥンは大シャイフ=ハサンとの離婚は希望しておらず、またアブー=サイードの妃になることも抵抗していた。

 チョバンはバグダード=ハトゥンを不憫に思って彼女をハンから遠ざけようと諸策を講じ、娘夫婦をアフガニスタンへ移させた。この行為にアブー=サイードは激怒し、チョバンとその一族を討伐する命令を出した。チョバンは外交ではウズベク=ハン率いるキプチャク=ハン国と交戦し、私事では自身の君主アブー=サイードの討伐軍との交戦に奔走した。一族はホラーサーン東部のヘラート(現在のアフガニスタン北西部。当時はタジク人のスンナ派王朝であるクルト朝の首都。クルト朝:1253-1381)などに逃亡した。アブー=サイードは、イル=ハン国の臣従国であったクルト朝に伝令を出し、チョバンとその一族を討つように命じた。この時のクルト朝君主(ギヤースッディーン。位1308-29)はチョバンとは旧知の仲であったが、ハンの圧力には逆らえず、チョバンは殺害され、ヘラートにいたチョバンの息子をはじめとする一族も同様に殺害された(チョバン没。1327)。これにより、バグダード=ハトゥンとの結婚に反対する者がいなくなり、彼女は大シャイフ=ハサンと離婚、アブー=サイードの妃となった。バグダード=ハトゥンは無念さが残り、次第にハンに対して遺恨を積もらせていった。

 ラシード=ウッディーンに続き、チョバンを粛清したアブー=サイードに待っていたのは、混乱の時代であった。国政および外交、軍事にとって大きな存在であったチョバンが、若きイル=ハン国君主の利己心によって失われて以降、イル=ハン国には有能な部下は現れず、全盛時代を維持することができないまま、国勢は低落していった。官僚内では家臣の内紛に悩まされ行政力が低下し、チョバンを欠いた軍隊も弱体化は避けられなかった。これに付け入ったキプチャク=ハン国のウズベク=ハンは、自ら親征して領土侵寇を積極的に行った(1334)。翌1335年にアブー=サイードもこれに応えて親征した。

 果敢に戦うアブー=サイードであったが、これに相反した行為をとってしまった。彼にとって、決してしてはいけない過ちであった。アブー=サイードは、強引に妃にしたチョバンの娘バグダード=ハトゥンを疎遠する一方で、チョバンの孫で、バグダード=ハトゥンの姪にあたるディルシャード=ハトゥン(?-1351)を寵愛し始めたのである(しかも彼女は子のないアブー=サイードとの間に女子を授かったとされている)。ウズベク=ハン率いるキプチャク=ハン国軍と対戦中だった1335年、アブー=サイードは陣中で32歳の若さで病死したと伝えられているが(1335。アブー=サイード没)、真相は定かではなく、一説によれば、最愛の夫を引き離し、父をはじめ一族を皆殺しにし、挙げ句の果てに自身への愛着が薄れて姪に横恋慕するアブー=サイードに深い恨みをもつ、妃のバグダード=ハトゥンによって、彼は毒殺されたともいわれている。その後バグダード=ハトゥンは君主崩御の責任を負わされて処刑されたと伝えられている。

 アブー=サイードの死によって、フラグの嫡流が断絶し、イル=ハン国は無政府状態におちいり、国家存亡の危機が訪れた。キプチャク=ハン国と戦闘中であっただけに、動揺を恐れた政府は、フラグの直弟であるアリクブカ(アリクブケ。?-1266)の玄孫(曾孫の子)にあたるアルパ=ケウン(?-1336)を10代目ハンとして擁立、アルパ=ケウンは即位したが(位1335-36)、嫡流が途絶えたことでもはや王朝存続とは言い難く、傍系が即位したことに反対する家臣が続出しはじめた。こうした不安情勢からアルパ=ケウンは即位後まもなく高圧的な専制を行い、ハンの威厳を維持しようとしたが、即位の翌1336年に、アルパ=ケウン即位の反対派に殺害された。傍系を擁立して国家を存続させる手段は、かえって統一感を失う結果を招き、各地で他の傍系の有力者が次々と擁立され、ハンを自称したことで、イル=ハン国は滅亡寸前となった。

 1353年、最後のイル=ハン国のハンを称したトガ=ティムール=ハン(位1337-53)の暗殺でもって解体状態だったイル=ハン国はついに滅亡し、モンゴル帝国の初代皇帝チンギス=ハン(1162-1227。太祖。帝位1206-27)の家系から出たハンは西アジアに姿を消した(イル=ハン国滅亡1353)。チンギス家の子孫を自称した残存勢力によって小国家乱立状態となったペルシアは、その後1370年に強国ティムール朝ティムール帝国。1370-1507)を建国し、"チンギスの子孫"を自称したとされるティムール(1336-1405)によって、1381年以降、次々と帝国の支配下に置かれていくのであった。


 13世紀半ばから14世紀半ばまでのイランの歴史の中心は、イル=ハン国によって彩られましたが、ガザン=ハンの治世でもって全盛期が訪れたのは、13世紀末から14世紀初めのまさに国家の中間期、折り返し地点でありました。イル=ハン国をイスラーム国家に導いた主君は、名宰相ラシード=ウッディーンや名将チョバンといった有能な功労者に支えられてイル=ハン国を強大な国家として歴史に名を残しました。後編にあたる本編は、そのガザン=ハンの治世から国家滅亡までの内容を紹介させていただきました。

 全盛期はそのガザンと、次のオルジェイトゥの治世であったと思います。オルジェイトゥの時代が終わると、前述のラシード=ウッディーンやチョバンは、アブー=サイード=ハンの手で次々と粛清されていき、ハン自らその盛時を縮めてしまいました。フラグのウルスであるイル=ハン国は、アブー=サイードによってフラグの血も絶え、イル=ハン国はその後滅亡へと向かいます。イル=ハン国が滅亡すると、その残党勢力がフラグもしくはチンギスの子孫と称してペルシア各地に乱立しますが、またしてもチンギスの子孫を自称したとされるティムールによって支配下に入れられてしまいます。特にアブー=サイードによる転落に冠して、アブー=サイード時代にイル=ハン国を歴訪したとされているモロッコ出身の大旅行家、イブン=バットゥータ(1304-68/69/77)は、名著『三大陸周遊記(さんたいりくしゅうゆうき)』の中で、本編で紹介したアブー=サイードの行為(功労者の粛清や妃の略奪など)によって引き起こされた混乱の時代を憂える内容を記述しております。またカフカスで国境を接する隣国キプチャク=ハン国では折しもウズベク=ハンの時代で、国家の全盛期であり、転落の一途をたどるイル=ハン国とは対照的であったことも、イル=ハン国が晩期にさしかかっていることをいっそう目立たせる形となっています。

 さて、今回の大学受験世界史の学習ポイントです。イル=ハン国に関わる人物は2人を覚えます。まずは名宰相ラシード=ウッディーン。『(蒙古)集史』の著者として、またイル=ハン国全盛時代の名宰相として知っておきましょう。そして、彼を宰相に任命した国王ガザン=ハンです。彼の命で、イル=ハン国はイスラーム教を国教とするイスラーム国家となります。非常に重要な項目ですので覚えましょう。ちなみにイル=ハン国の滅亡に関しては、ティムール帝国によって滅ぼされたと思っていただいて大丈夫です。首都は前編に登場したマラーゲを筆頭に、本編に登場したタブリーズとソルターニーイェがありますが、タブリーズは出題されやすい項目です。旧課程ではソルターニーイェがスルターニーヤの名で用語集にも書かれてありましたが、覚える必要はございません。

 ちなみにキプチャク=ハン国の全盛期であるウズベク=ハンも重要です。イスラーム教を採用した王としても知られています。余談ですが、ウズベク=ハンに因んだ名前としてウズベク族、ウズベク=ハン国(ブハラ=ハン国)、ウズベキスタン共和国があります。

【外部リンク】・・・wikipediaより

(注)ブラウザにより、正しく表示されない漢字があります(("?"・"〓"の表記が出たり、不自然なスペースで表示される)。
(注)紀元前は年数・世紀数の直前に"B.C."と表しています。それ以外は紀元後です。

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