世界史の目-Vol.262-

灼熱の裏切り

 ガンジス川下流のベンガル地方、特にバングラデシュ人民共和国の国境と接する現インドのウエストベンガル州。その中心都市コルカタ(旧称:カルカッタ)を流れるフーグリー川は、ガンジス川からの分流で、ベンガル湾に流れ込む。フーグリー川に沿い、コルカタから北へ150kmほどの、同州の一村で、イギリスとフランスがインドの領土獲得とその支配にむけて、戦闘が繰り広げられた。この戦いをその村の名からとり、「プラッシーの戦い」と呼ばれた(1757.6)。

 インドでは、アジア貿易の独占権を担うイギリスおよびフランスそれぞれの特許会社が17世紀より存在した。すなわち、イギリス東インド会社(1600創設。1874解散)とフランス東インド会社(1604創設。1664再建。1793解散)である。18世紀には、東インド会社は貿易による商業利権獲得のみならず、植民地の経営権、および外交権、そして軍隊を保有、管理および行使する実権を与えられ、強勢と化した。イギリス東インド会社は、かねてからインド南東部のチェンナイ(旧称:マドラス)、インド西海岸のムンバイ(旧称:ボンベイ)、そして前述のカルカッタを3大拠点とする一方、フランス東インド会社はマドラス南方にあるポンディシェリ、そしてカルカッタ北方にあるチャンダンナガル(旧称:シャンデルナゴル)を2大拠点としていた。カルカッタやシャンデルナゴルを有するベンガル地方は、特に米やジュート、茶(ウェストベンガル州のダージリン市におけるダージリン・ティーで有名)の産地としてその名が知られ、それ以外にもインド産の藍や綿などの商業中心地として重要であった。このため、両国の東インド会社は、ベンガル支配をめぐり戦火の飛び交う一歩寸前まで来ていた。事実、両国はすでに北米植民地をめぐるフレンチ=インディアン戦争(1755-63)やヨーロッパにおける七年戦争(1756-63)で交戦中であった。

 ベンガルにはナワーブ(太守)と呼ばれる、ムガル帝国(1526-1858)から任命される地方長官がいた(ベンガル太守)。もともと帝国の地方官並みの地位であったが、帝国の最大版図を築いたアウラングゼーブ帝(第6代。帝位1658-1707)が没すると帝国は衰退にむかい、太守は帝国に従うも地方政権を半独立の形態に支配していった。しかしベンガルの地方政権は、シラージュ=ウッダウラ太守(ベンガル太守任1756-57。前太守の孫)の治世において大きく揺れ動く事態となった。

 シラージュ=ウッダウラ太守はベンガルを死守するため、カルカッタを拠点とするイギリス東インド会社と対立していた。アウラングゼーブ帝没後、弱体化するムガル帝国に圧力をかけたイギリス東インド会社は、無関税による自由貿易の勅許をムガル皇帝に出させた。このため、東インド会社の貿易が増大化する一方で、ベンガル地方財政の歳入は減少していく結果となった。
 さらに、カルカッタに建設していた城塞(ウィリアム要塞。1696年着工。イギリス国王のウィリアム3世に因む。王位1689-1702)をめぐり、シラージュ=ウッダウラ太守はフランスの支持を取り付けて1756年6月、ウィリアム要塞を奇襲攻撃し、占領した。要塞には大量のイギリス軍人、およびその家族がいたが、彼らは捕虜となった(捕虜の数は70名とも、146名とも言われる)。太守側と捕虜となったイギリス軍人側との間で交渉が続き、当夜のみ、全捕虜は要塞内にある地下牢に押し込められることになった。しかし、その地下牢は数人収用できるほどの狭い空間であった。この地下牢は鉄格子で遮断された小さな窓が2つあるだけで通気性が悪く、しかも6月という猛暑と湿気が彼らを襲い、一晩で全捕虜の大半が亡くなるという惨事となった(犠牲者数は45名とも、123名とも言われる)。その多くは暑さでのどの渇きと脱水症状が強烈に襲い、また通気の悪さからくる呼吸困難から半狂乱と化して、狭い空間の中でお互いを踏みつけ合い、押しつぶし合って亡くなっていった。イギリスではこの地下牢での悲劇を"カルカッタの黒い穴事件(ブラック=ホール事件)"と呼ぶ(ただしベンガル側は、イギリスとの交渉のカードとして単純に捕虜を確保する目的で行ったことであったとされ、最初から捕虜を絶命させる計画ではなかった意味合いが強く、地下牢の広さや通気性の悪さまでの情報は熟知していなかったといわれている)。こうしてシラージュ=ウッダウラ太守はイギリス排斥を掲げてカルカッタを軍事占領していった。

 しかしもともとシラージュ=ウッダウラ太守は専横の傾向が強く、宮中では彼に対する不満が囁かれるようになった。彼に不満な反太守派は、ベンガル軍幹部として軍を指導していたミール=ジャアファル(1691-1765)を次期太守継承者として擁立し、シラージュ=ウッダウラ太守と対立するイギリス東インド会社に接近するようになった。元来ミール=ジャアファルは太守候補者であったが(妻が前太守の異母妹)、シラージュ=ウッダウラ太守との後継者争いに敗れた後は、太守との対立を避けて、常に太守に忠誠を誓う部下として、太守より全幅の信頼を寄せられていた。しかし実は、当のミール=ジャアファルは太守に隠れて、裏でイギリス側に接近しようとしていた。

 そうした中、イギリス側は南インドのマドラスなどを戦地に、フランスとカーナティック戦争カルナータカ戦争。1744-48,50-54,58-63)を行っていた。フランス側はインド総督のジョセフ=フランソワ=デュプレクス(1697-1763)、イギリス側は軍司令官ロバート=クライヴ(1691-1765)がお互いに善戦した。休戦中、クライブはセント=デヴィッド要塞(南インド、カダルール地方のガディラム川河口。ポンディシェリ南方)の最高責任者となっていたが、ベンガル太守のカルカッタ占領の報を聞いたクライヴはシラージュ=ウッダウラ太守に宣戦し、翌1757年1月、軍勢を率いてカルカッタを奪還、その後も執拗に太守の陣営を攻めた。シラージュ=ウッダウラ太守はミール=ジャアファルの助言によりイギリスと休戦講和を余儀なくされたが、太守とイギリス側との対立はますます強くなっていった。太守は、ミール=ジャアファルの軍隊を一途に信頼しており、ミール=ジャアファル自身も太守を守るためにイギリスと戦うことを太守に誓った。シラージュ=ウッダウラ太守は、フランス東インド会社の軍勢と合流して、イギリス軍を迎え撃つことを決めた(ただしフランス本国はインド統治の出費に疑問を呈し、すでにデュプレクスは本国召還、解雇処分を受けており、わずかな砲兵のみ支援するにとどまった)。

 1757年6月23日の暑い朝、フーグリー川沿いの村プラッシーでの戦闘が始まった(プラッシーの戦い)。イギリス東インド会社軍はロバート=クライヴを中心とするヨーロッパ兵750、砲兵100、そして初めて迎えられたインド人傭兵(これがシパーヒーである。セポイ)2,100の軍勢であったのに対し、フランス東インド会社およびベンガル太守の連合軍の軍勢は、フランス人砲兵はわずか43であったが、ベンガル太守の軍勢はまず砲兵隊長ミール=マダン=ハーン(?-1757)らの率いる騎兵5,000および歩兵7,000、そしてミール=ジャアファルが指揮する騎兵15,000と歩兵35,000の計50,000の軍勢が加わり、総勢62,000で挑むイギリス軍に挑むことになった。数だけで言えば、ベンガル太守とフランス東インド会社の連合軍はイギリスのクライヴ軍の軍勢に対して大きく勝っていた。

 連合軍側の砲撃で朝から始まった戦闘は、圧倒的優位に素早く方が付くと思われたが、意外にも互角であった。その理由は、イギリスに接近したミール=ジャアファルの50,000の軍が出陣しなかったのである。この時点でもシラージュ=ウッダウラ太守は、ミール=ジャアファルの1つの戦法であるとして信頼していた。しかし一向にミール=ジャアファル軍は出陣しなかった。
 ミール=ジャアファルはプラッシーの交戦前、イギリス側からの買収を受け、イギリスとの単独協定を秘密裏に結んでいたのである。それは黒い穴事件の損害賠償に応じ、イギリスに全面協力して敵対するシラージュ=ウッダウラ太守に従わないと約束すれば、次期太守就任の約束と、一定地域のザミンダーリー(土地所有権および徴税権)をイギリスにより与えられるという協定であった。

 戦闘は午後も続いたが、途中スコールの影響で連合軍側は火器が水浸しになり、戦意が喪失したところをイギリス軍が猛攻撃を仕掛け、この攻撃でミール=マダン=ハーンが戦死してしまった。結局出陣しなかったミール=ジャアファルは、翌日に自軍で攻勢をかけるため、戦闘を停止して一時撤退をシラージュ=ウッダウラ太守に助言した。この時、ミール=ジャアファルはクルアーン(コーラン)を手に、太守の前で誓ったとされる。ところが戦死したミール=マダン=ハーン将軍とともに軍隊を指揮した、シラージュ=ウッダウラ太守のディーワーン、モーハン=ラール官(?-1757。イスラム国家の官庁をディーワーンと呼び、ムガル帝国では財務官や州財務官を意味する。ディーワーンの権限をディーワーニーという)はシラージュ=ウッダウラ太守に対し、撤退は敗軍を意味し、自軍も敗戦と誤解して敗走してしまうため、戦闘を続けるよう支持したが、ミール=ジャアファルを信じたシラージュ=ウッダウラ太守は、ディーワーンの助言を取り下げ、陣営に戻った。この日でイギリス軍は死傷者72名に対し、ベンガル太守とフランス東インド会社連合軍は500名の死傷者が出たとされる。
 23日夜、ディーワーンの悪い予感は的中した。敗戦と誤解したベンガル太守軍は四方に逃走してしまい、シラージュ=ウッダウラ太守もプラッシーから逃げ帰り、イギリスの戦勝という形でプラッシーの戦いは終戦を迎えた。こうした中で、何も手を出さなかったミール=ジャアファルは、軍隊を無傷のままクライヴ軍と合流し、同地を後にした。
 7月4日、ミール=ジャアファルは長男にシラージュ=ウッダウラ太守の捕縛および殺害を命じ、太守を捕らえた。最も信頼していた自身の配下が、実はイギリスと通じた完全な裏切り者であったことをシラージュ=ウッダウラ太守は知ってしまった。同日、太守はベンガルの首都ムルシダーバードにて殺害された(シラージュ=ウッダウラ太守殺害。1757.7.4)。頑なに信頼した名参謀に裏切られて、絶命した太守は、祖父である前太守と同じ墓所に埋葬された。

 イギリスとの協定通り、1757年6月、ミール=ジャアファルはベンガル太守に就任し(ベンガル太守任1757-60,1763-65)、ザミンダーリーを与えられた。しかしそのザミンダーリーで得た収入は、太守の取り分も含めて黒い穴事件の多額の損害賠償に充てねばならない事態であり、恩人であるクライヴは翌年にベンガル知事(本国により新たに創設されたベンガル地方の統治役)となったことで、ミール=ジャアファル太守は以降毎年のように多額の謝礼を贈与したことで、ベンガルの財政は予期せぬ悪化をたどった。
 さらに事態は悪化を辿った。イギリス東インド会社はベンガル地方はもとより、隣接するくビハール地方(インド北東部)やオリッサ地方(インド東部)といったを手中に収めようとしており、無関税で自由貿易をミール=ジャアファル太守に許可させた。これにより、ザミンダーリー体制で集めた税収も尽き、国庫がイギリスに搾り取られていく有様であり、一方で恩人のクライヴはミール=ジャアファル太守の政権を傀儡にすべく、親英派を宮中に送り込んでいった。このため、反英派から睨まれたミール=ジャアファルは一時的に太守を降ろされ、親英派に擁立された彼の娘婿が一時的に太守となった(ミール=カーシム。ベンガル太守任1760-63)。ただカーシムもジャアファルと同じイギリスの傀儡を強要される憂き目にあい、1763年に太守を退任、ジャアファルが復任した。
 ミール=ジャアファルは復任したものの、イギリスとの関係や待遇は以前よりも劣悪化し、イギリスから太守監視官が置かれるなど、太守権は実質的には失われ、完全にイギリスの傀儡と化した。この間イギリスはいよいよインドを手中に収める最終段階を迎え、本来の宿敵フランスと3度目のカーナティック戦争を行った。結果フランス東インド会社の拠点ポンディシェリを攻め落として1763年に戦勝、パリ条約(1763)でもって、事実上フランスはインド統治から撤退を余儀なくされた。インドにおけるイギリスの優位が決まった。
 太守を下ろされたカーシムは、ガンジス中流のアワド地方(アヨーディヤー)に政権を構える、親ムガル皇帝派のアワド太守(シュジャー=ウッダウラ。アワド太守任1754-75)に身を寄せるも、イギリス東インド会社の軍とビハールのブクサールで戦闘を交え(ブクサールの戦い。1764.10.23)、プラッシーの戦いとは比にならぬほどの大敗を被った。この敗戦の報を受けたベンガル太守のミール=ジャアファルは、翌1765年2月、失意の内に没した(ミール=ジャアファル死去。1765.2.5)。当初はイギリスを支持してベンガル太守の地位を得たミール=ジャアファルであったが、太守時代はその恩人であるイギリスから冷遇された悲惨な人生であり、灼熱のプラッシー戦でイギリスからベンガルを守ろうとした前任のシラージュ=ウッダウラ太守を裏切った付けが、恩人から裏切られた形で回ってきたとも言える生涯であった。
 ブクサールの戦いの結果、ムガル皇帝シャー=アーラム2世(帝位1759-1806。1788.8-88.10一時退位)は、イギリス東インド会社にベンガル、ビハール、オリッサのディーワーニーを授与した(アラーハーバード条約。1765.8)。この間クライヴは一時本国に帰国していたが(功績を認められ、ナイトを受勲)、1765年に再びベンガル知事としてインドに入り、ムガル皇帝シャー=アーラム2世よりその3地方のディーワーニーを認められた。ベンガル太守はミール=ジャアファルの次男が継いだが(ナジュムッディーン=アリー=ハーン。ベンガル太守任1765-66)、太守の権力はほとんどイギリスに吸い取られていた。同時にムガル皇帝権も実行力を奪い取られて、名目的な存在となり、インドはイギリスの植民地として、実効支配をすすめていくのであった。

 そして、イギリスのインド経営の功労者となったクライヴは、1767年ベンガルを離れ、帰国した。しかし、帰国後のクライヴは、大きな富を得たことで、他ならぬ大きな代償を受ける結果となった。ベンガル太守を手玉にとってその利権を手中に収めたことがインド権益で私腹を肥やした悪行として非難され、弾劾された(結果は無罪判決)。クライヴは世間からは冷遇され、病魔にも蝕まれて1774年11月、ロンドンの自宅で、自身の喉をペンナイフで切り、自殺した(クライヴ自殺。1774.11.22)。

 ベンガル地方はその後、ベンガル知事から昇格したベンガル総督(のちのインド総督)が東インド会社より任命されて統治にあたり、カルカッタのみならず、マドラス、ボンベイの東インド会社の拠点を担当した。こうした1つの貿易特許会社からスタートしたイギリス東インド会社はインド植民地を統治する組織へと移っていったのであった。


 イギリスのインド統治の第一歩を踏んだ18世紀のお話をご紹介いたしました。ベンガル太守を操ってインド覇権を確立したクライヴ、操られた3人のベンガル太守(シラージュ=ウッダウラ、ミール=ジャアファル、ミール=カーシム)の壮絶な人生を織り交ぜましたが、1770年代のインドはもっと激動です。とりあえず付記しておきますと、インドを手に入れたはずの東インド会社は実は財政難に喘ぎます。インド経営への期待感から株価が急騰し、配当金の引き上げでその支出が会社経営を圧迫します。また、ベンガルでは1770年に大飢饉が襲い1000万人(人口の3分の1)が餓死する大惨事が起こっています。当然のことながら東インド会社の租税収入が減退してしまうわけです。そして、イギリスに一定の統治権を認められていた藩王国(代表的なものとして、マイソール王国など。1339-1947)や、デカン地方のマラーター王国(1674-1849)が中心となっていたマラーター同盟(1707-1818)らの反英活動に対する軍事費がかさんでしまうという苦難が待ち受けており、結果イギリス本国政府の管理下に置かれて、ベンガル知事から昇格したベンガル総督のもとで植民地統治を行うことになります。

 さて、イギリスと内通していたミール=ジャアファルを信頼しきったシラージュ=ウッダウラ太守は、結局だまされて殺されました。太守を裏切り、イギリスの買収にのせられたジャアファルも、結局はウッダウラ太守と同じようにイギリスに裏切られて悲惨な末路をたどります。ウッダウラ太守は英雄もしくは悲劇的人物(お人好しとする評価もある)、ジャアファル太守は裏切り者の評価がそれぞれ高いとされています。そして彼らを手玉に取ったクライヴですが、イギリスのインド統治の先駆としての功労者である一方、インド権益を搾取し植民地支配でインドの人々を苦しめる結果につながったことなど、評価はさまざまで、意見が分かれるところです。
 余談ですが、クライヴが飼っていた1750年生まれ(諸説あり)のリクガメが、2006年まで生き延びたという記録があり、255年生きたという逸話があります。まさに"亀は万年"ですね。

 それでは大学受験世界史の学習ポイントにうつりましょう。18世紀はヨーロッパ、新大陸、そして本編のインドと、英仏間を中心に戦争が繰り広げられます。詳細は「Vol.104 東インド会社と植民地経営競争」を読んでいただくとして、本編の内容で重要な項目を挙げますと、"プラッシーの戦い"、"クライヴ"、"デュプレクス"、"カーナティック戦争"の4項目です。七年戦争(1756-63)がヨーロッパで行われている間、新大陸ではフレンチ=インディアン戦争(1755-63)、そしてインドではプラッシーの戦いです。英仏の植民地争奪戦の様相を呈していますが、実際のインドでの戦闘はプラッシーの戦いよりもカーナティック戦争の方が、規模は大きいです。フランスからデュプレクス、イギリスからクライヴが登場する長期にわたる戦争です。ただし、カーナティック戦争は用語集にも登場して重要なのは変わりないですが、受験ではプラッシーの戦いの方がよく出題されていますので注意が必要です。東インド会社関連では、フランス東インド会社の2大拠点(シャンデルナゴルとポンディシェリ)、イギリス東インド会社の3大拠点(マドラス、ボンベイそしてカルカッタ)は覚えなければならない項目ですが、余裕があれば、地図でそれぞれどこに位置しているかを見ておきましょう。特にマドラスとポンディシェリ、カルカッタとシャンデルナゴルは近い距離にあることをおさえておきましょう。本編に登場したベンガル太守の名(シラージュ=ウッダウラ太守、ミール=ジャアファル太守など)は、受験項目ではないので、覚えなくてもよろしいですが、ベンガル太守、ベンガル知事、そしてベンガル総督という項目そのものは用語集でも登場しますので、覚えておく必要があります。

【外部リンク】・・・wikipediaより

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(注)紀元前は年数・世紀数の直前に"B.C."と表しています。それ以外は紀元後です。

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