世界史の目-Vol.27-

オランダの誕生(1581) 

 現在のベルギー・オランダ・ルクセンブルク、いわゆるベネルクス3国を中心とする地域をネーデルラントと呼ぶ。ネーデルラントの主産業はフランドル地域(ベルギー西部・オランダ南西部)が中心の毛織物生産で、貿易ではアントワープ市が15世紀から繁栄していた。16世紀にはカルヴァンの宗教改革で、カルヴァン派プロテスタントがオランダにも波及し、ゴイセン(ヘーゼン。"乞食"の意味)と呼ばれていた。

 ネーデルラントは1556年、スペイン・ハプスブルク家の領土として支配された。時のスペイン国王はカルロス1世(位1516~56)だった。スペインは熱心なカトリック国で、次のスペイン国王フェリペ2世(位1556~98。カルロス1世の子)は、ゴイセンの多いネーデルラントに、カトリック信仰を強制し、カルヴァン派を反逆罪で処刑するなど、徹底した大弾圧を行った。カルヴァン派は、土着農村における中小貴族に多く、彼らはスペインの暴政に対して同盟を作った。スペイン軍は、これを"乞食党(=後にゴイセンと呼ばれる)"とののしり、繰り返し弾圧を行っていった。弾圧に逃れた者の中には、"海乞食(ゼー・ヘーゼン)"と呼ばれて海賊船隊をつくり、スペイン船軍を追放するなど活躍した。

 ゴイセンの反抗に対し、フェリペ2世は1567年、ネーデルラント総督アルバ公(1507~82)を派遣して恐怖政治をしき、反抗者は次々と処刑された。ネーデルラントの独立運動を図ったフランドルの軍人・政治家のエグモント(1522~68)は、この頃に捕らえられ、処刑されている。このため、毛織物生産地フランドルや、アントワープ市があるブラバントにいた商工業者1万人が他地方に亡命した。ネーデルラントの人民はこの高圧的な行政を"スペイン人の狂暴"と叫んだ。 

 この恐怖政治に立ち上がったのが、オラニエ公ウィレム("沈黙公"。1533~84)という人物である。オラニエ家とは、現在のオランダ王家の家系で、ドイツのナッサウ伯が南フランスのオラニエ公領を相続した。ウィレムはオラニエ公領を相続(1544)したのち、カルロス1世に仕え(1548)、ホラント州(ゾイデル海西側)など3州の総督に任命された(1555)が、次のフェリペ2世の治世下、ウィレムはスペイン・ハプスブルク家の反動政治に対抗してカトリックからプロテスタントに改宗し、ゴイセンを率いて、スペインからの独立運動を指導し、戦闘を開始した。1568年オランダ独立戦争の火蓋が切って落とされたのである。

 イギリスの支援もあって、ウィレム軍は一時優勢であったが、フランドルやブラバントなどのネーデルラント南部の10州(南部10州。現在のベルギー地方)は、スペイン軍による猛攻撃で、商工業の中心アントワープなどが陥落し、結果カトリックの小領主層がスペインに投降して脱落(1579)、スペイン寄りのアラス同盟が結成され、スペイン・ハプスブルク家領に留まった。このため、ホラントなどのネーデルラント北部の7州(北部7州。現在のオランダ地方)は、アラス同盟に対抗してユトレヒト同盟を結成(1579)、1581年、遂にネーデルラント連邦共和国として独立宣言を行い、ウィレムはオランダ総督統領。任1581~84)となった。統領はオラニエ家が世襲する最高官職で、ウィレムが初代統領となったのである。特に北部7州の中でもホラント州が優位を占め、同共和国はその州名から"オランダ"と呼ばれるようになった。

 オランダ総督ウィレム1世として、戦時中でも南部10州を説得するなど努力を尽くしたが、1584年、フェリペ2世が、ウィレム1世を暗殺した者に褒賞金を給付することを北部7州に流したことで、ウィレム1世は北海沿岸のデルフトで、旧教徒により暗殺された。

 スペインはその後も、オランダ独立軍(ウィレムの子フィリップスが後継)とオランダを支援したイギリスと戦った。このときスペインは、大規模な海上戦力"無敵艦隊アルマダ)"を130隻と約3万人の船兵で構成、1588年7月、リスボン(現ポルトガル首都)からアルマダを出動させた(アルマダ海戦)。しかし、当時のドーヴァー海峡の悪天候もあって、イギリス海軍が優勢となり、アルマダは壊滅、スペインは大敗北を喫し、これ以降、どの領土にいても"太陽の沈まぬ国"として君臨したハプスブルク家のスペイン帝国の植民地規模は縮小の一途を辿っていった。

 オランダでは、アントワープに代わる巨大都市アムステルダムが政治経済の中心部として大いに栄えた。1602年にはオランダ東インド会社が設立され、香辛料貿易によって東南アジア経営にのりだし、経済発展につとめた。1609年にはアムステルダム銀行も設立された。

 1609年、独立戦争は休戦となり、スペインとの和平が成立し、事実上の独立が達成された。その後、ドイツで行われた1648年ウェストファリア条約で、カルヴァン派の公認に加えて、オランダと、同時にハプスブルク家により支配されてきたスイスが、独立を国際的に承認され(オランダ・スイス独立承認)、ハプスブルク家の威信は、一時失墜した。

  オランダをメインに取り上げたのは、たぶん今回が初めてだと思います。オランダといえば、干拓地ポルダーで園芸農業が行われ、酪農が盛んで、またロッテルダムにEU最大の貿易港であるユーロポートがある、といった内容を、中学の地理で学習したことがあると思います。

 中世西欧史は宗教関連が必ず付きまといますが、今回は歴史的な宗教戦争であるオランダ独立戦争を取り上げ、オランダの誕生をご紹介しました。宗教戦争は、過去にユグノー戦争を取り上げましたが、他にはドイツの三十年戦争(1618~48)が有名です。三十年戦争の講和もウェストファリア条約なのですね。

 絶対王政下のスペインといえば、ハプスブルク家です。神聖ローマ帝国やオーストリアに加えてスペインという広大な領域を持った王家ですが、当時はフランス王家(ヴァロワ家・ブルボン家)とのデッドヒートが繰り広げられました。宗教改革や宗教戦争の際には両家あるいは両家を支える国々がきまって介入するなど、両家は永遠のライバル同士であったわけです。これによって、他諸国がそれぞれの側につくため、戦争となると大戦化し、長く続くようになりました。母国オランダでは、オランダ独立戦争を、勃発年の1568年から、ウェストファリア条約による独立承認の1848年まで指して、"八十年戦争"と呼んでいます。

 お待たせいたしました。今回の学習ポイントです。毛織物産地であるフランドル地方は、かつてイギリスとフランスとの争奪戦となった時期があり、これが他の諸々の原因とくっついて百年戦争(1339~1453)になりました。フランドルという名は、オランダ史においても重要地ですね。フランドルは州の名ですが、都市では、首都のアムステルダムをはじめ、ロッテルダム、ハーグ、アントワープ、ガン、ユトレヒト、ブリュッセル(現ベルギー首都)などが出題されます。地図帳で確認しておきましょう。

 北部7州と南部10州の相違点も知っておいた方がイイですね。まず独立した北部7州ですが、現在のオランダ地方にあたり、民族はゲルマン系、言語はドイツ語系、宗教はゴイセン(カルヴァン派)、産業は中継貿易を主としています。一方の南部10州ですが、現在のベルギー地方にあたり、フランドルも入ります。民族はラテン系、言語はフランス語系、宗教はカトリック、産業は毛織物業を主としています。

 人物では、オラニエ公ウィレムが超重要です。オラニエ家はその後イギリスの名誉革命(1688)でも登場します。イギリス国王ウィリアム3世(位1689~1702)で、同家出身です。私が高校生だった頃は、"オラニエ公"を"オレンジ公"と書かれてありました。

 フェリペ2世の妃は、イギリス女王メアリ1世(位1553~58)であります。これも有名ですね。フェリペ2世の勢力が大きかった頃は、オスマン帝国をレパントの海戦(1571)で敗り、ポルトガルを併合(1580~1640)するなど、巨大領土を誇っており、まさに"太陽の沈まぬ国"であったわけです。ちなみに、フェリペ2世がまだ皇太子フェリペの頃、航海者マゼラン(1480頃~1521)がフィリピンに到達(1521)しており、フィリピンという地名も皇太子"フェリペ"から由来しています。

 そして、無敵艦隊が登場しましたが、出動した原因は何も独立戦争だけではありませんでした。当時のイギリス王国はテューダー朝(1485~1603)で、統治者はエリザベス1世(位1558~1603)でした。異母姉メアリ1世とは違い、父ヘンリー8世の意志を継いでイギリス国教会の統一に献身的でした。当時スコットランドで、スペインがイギリス国内の旧教徒を唆して、スコットランドメアリ=ステュアート(1542~87)を擁立しようとしましたが、エリザベス1世が彼女を処刑したため(1587)、翌年スペインと開戦しました。これがアルマダ海戦です。

 最後に年代ですが、今回はたくさん太字の年代が出ました。1568年の独立戦争勃発、1579年のユトレヒト同盟結成、1581年の独立宣言~ネーデルラント連邦共和国の誕生、1588年のアルマダ海戦、1602年のオランダ東インド会社設立、1609年の休戦、1648年のウェストファリア条約...すべて大事です。でも1568年だけを覚えば、八十年戦争なので80年後の1648年までの間と言うことになります。アルマダ海戦は独立戦争が勃発して20年後ですね。それと東インド会社が登場しましたが、ついでに他国の東インド会社設立年を覚えておきましょう。イギリス東インド会社は1600年、エリザベス1世の時で、日本では天下分目の関ヶ原で戦闘があった年です。フランス東インド会社は1604年で、アンリ4世(位1589~1610)の時代に設立されましたが、設立当時は不振で、本格的な活動は60年後の1664年です。当時はルイ14世の時代で、財務長官コルベール氏(1619~83)による重商主義の一環として再建されました。

※本編で"乞食"という語を使用しましたが、飽く迄も歴史用語であるため、そのまま使用させていただきました。

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