世界史の目−Vol.29−

西太后と2人の皇帝

 中国・王朝(満州民族の王朝。1616〜1912)の末期。国内では王朝転覆・新国独立をはかった太平天国の乱1851〜64)が勃発していた。咸豊帝(かんぽうてい。位1850〜61)が皇帝として即位して数ヶ月後の時だった。この動乱は、漢人階級の義勇軍(郷勇。きょうゆう)の軍力や米英の常勝軍によって鎮まったが、やがてアロー戦争(1856〜60)にも出くわし、イギリスやフランスと戦い、1858年に天津条約、1860年には北京条約を結ばされ、清は敗北、咸豊帝は、内モンゴルにまたがる熱河(ねっか)の離宮に逃れたが、1861年病没した。咸豊帝は、こうした激動の時代を駆け抜けていった皇帝だったが、彼の側室の一人が後の清王朝をさらに揺るがすこととなった。西太后(せいたいごう。1835〜1908)である。

 西太后は清の軍事組織・八旗(はっき)の満州旗人(きじん)であった葉赫那位(エホナラ)氏の出身で、16歳で宮中に入った。18歳の時男子を産み、これが、咸豊帝没後、皇位継承した同治帝(どうちてい。位1861〜75)となる。
 この時、咸豊帝の弟で、兄を助けて難局に奔走した恭親王奕訢"(きょうしんのうえききん。1832〜98)という人物がいた。この頃、極端な排外派の満州官僚や王族、側近らは、咸豊帝に北京条約締結について批判し、王位を剥奪したが、帝病没後、帝と仲が良かった恭親王の権力拡大に恐れていた。事実、恭親王は咸豊帝の皇后の東太后(とうたいごう。西太后の妹)や、側室の西太后と手を結び、1861年、旧勢力を一掃してわずか5歳の同治帝を擁立した。そして西太后は東太后とともに摂政として行政に介入、恭親王は清朝の軍事最高機関である軍機処(ぐんきしょ)や、外交機関の総理衙問(そうりがもん)を管理する議政王大臣に任命され、政府の実権を掌握した。西太后・東太后・恭親王らによる垂廉政治(すいれんせいじ)のはじまりだった。

 同治帝の治世では、太平天国の動乱が収まり(1864)、これまでの排外的な国内情勢を反省し、和親策をとって西欧の進歩した技術や文化を摂取する方向に向かった。洋務運動と呼ばれたこの動きは、近代産業の発達、国民の育成・促進に適応されたが、国の伝統的国は維持しつつ、西欧技術をいるという"中体西用"を主張しており、清の従来根付いた行政・文化・社会自体は変化することがなかった。いずれにせよ、この時期は"同治の中興"と呼ばれて、一時的ではあるが国力は安定した。
 しかし1865年、王室では、恭親王と、行政意欲が増大した西太后との間に亀裂が入り、恭親王は議政王大臣を罷免された。恭親王はその後、清仏戦争(1884〜85)、日清戦争(1894〜95)でも失敗し、実権を失っていった。
 1873年、成年に達した同治帝は親政を始めようとしたが、ここにおいても母親の西太后に阻まれた。同治帝が迎え入れた皇后も母親に嫌がられ、同治帝は天然痘(てんねんとう)により、1875年、19歳で失意のうちに病没し、まもなく未亡人となった皇后も、懐妊中であるにもかかわらず自殺した。このため、西太后の強い推薦で、東太后と、その夫で咸豊帝の弟である醇親王奕譞(じゅんしんのうえきけん。1840〜91)との間の子徳宗(とくそう。1871〜1908)が4歳で擁立され、光緒帝(こうしょてい。位1875〜1908)となった。西太后はその後東太后とも対立、彼女を抑えた。東太后は子光緒帝が擁立して6年後の1881年、急死している。1887年、光緒帝は成年に達したが、西太后は摂政を続行、やがて光緒帝は西太后の姪を皇后にして親政を認められたが(1889)、依然として政治の実権は西太后にあった。光緒帝は西太后の姪には目もくれず、美人の側室珍妃(ちんぴ)だけを愛した。

 この間、西太后は、離宮頤和園(いわえん)の建設をおこし、光緒帝親政後、頤和園に退いたが、彼女の政治干渉は続いた。西太后はその後、海軍管理担当の醇親王に命じて、頤和園の改修工事を手がけたが、莫大な建艦費などを流用して修築、そのため、海軍の増強はできなかった。醇親王は、光緒帝の結婚と親政をみて、1891年、没した。

 1894年、朝鮮の甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)を契機に日清戦争が勃発した。海軍増強が実現できなかった清は日本の近代的軍備力に圧倒され大敗北を喫し、翌1895年下関条約で講和した。これにより、これまで清朝の政治・軍事力が"眠れる獅子"として欧米列強に恐れられていたが、小国・日本に敗北を喫したことで清の無力・弱体化をさらけ出す結果となり、西欧列強と日本の侵略は激化、中国分割をおこない、利権の争奪となった。国内においては洋務運動が完全に衰退し、中体西用による君主独裁政治を改め、変革の必要性を主張する若者の知識人勢力が増大した。また日清戦争の勝者日本の明治維新を模範とした議会制立憲君主政を熱望し、その樹立を目標に掲げた。この運動は変法自強運動変法運動)と呼ばれ、公羊学(くようがく。儒学の1つ。経世実用)を学んでいた学者康有為(こうゆうい。1858〜1927)が、同学問の立場から変法運動を提唱した。康有為は思想家の梁啓超(りょうけいちょう。1873〜1929)や譚嗣同(たんしどう。1865〜98)ら若手の仲間、さらに日清戦争で軍功をあげた袁世凱(えんせいがい。1859〜1916)らを集めて変法派の規模を高め、民間人の立場から光緒帝に接近していった。

 緒帝もまた、西太后から政権がわたったとはいえ、行政干渉を続ける西太后ら保守派の介入は続き、次第に両者との間に対立が生じ始めた。さらに光緒帝は、日清戦争の敗北を機に、年齢が一回り上の康有為の打ち出す変法に関心を示し、1898年6月、遂に「明定国是の勅令(めいていこくぜ。明らかに国是を定める)」を発布、康有為・梁啓超・譚嗣同ら変法派を抜擢して、政治改革(戊戌の変法。ぼじゅつのへんぽう)を実施した。官庁の増設、科挙制度の内容変更、北京大学の前身にあたる京師大学堂(けいしだいがくどう)創設などを行ったが、光緒帝及び変法派には、西太后ら保守派(守旧派)を抑える力は到底なく、支持力も拡大できないままでいた。さらに袁世凱が変法派を見限って守旧派に接近、変法派の情報を横流しするなどの背信行為を行い、袁は西太后から信任を得た。結局同年9月、守旧派は変法派の弾圧を決行、変法はわずか100日余で挫折した("百日維新")。光緒帝は紫禁城内に幽閉・監禁、譚嗣同ら同士の多くは逮捕・処刑され、康有為と梁啓超は難を逃れて日本へ亡命した。混乱の中、光緒帝が最も愛した珍妃も1900年、井戸に投げ込まれて死亡した。こうして変法派は一掃され、西太后の摂政が復活、排外主義を主張する保守派政権によって、変法運動は衰退していった。

 中国では、典礼問題があって以来、キリスト教の布教を禁じてきたが、先の北京条約で布教が公認され、各地に教会が建設されていた。このため、排外的な住民や官憲らはしばしば宣教師や信徒と対立し、キリスト教の布教に反対する仇教運動(きゅうきょう)が起こった。列強の中国分割などによる大陸侵略により、国民は世情不安に悩み、さらに生活の貧困化にあえぐ中、情勢に応じてつくられた排外的な宗教結社や武術結社に入会していくようになった。その中で、山東省で起こった、棒術・剣術・拳法などを巧みに取り入れた義和拳(ぎわけん)を修練する排外的宗教(武術)団体・義和団(ぎわだん)が台頭した。お札を呑み呪文を唱えると、刀や槍(やり)をはね返すといった「刀槍不入(とうそうふにゅう)」、またキリスト教根絶を願う「除教安民(じょきょうあんみん)」でもって、信者を狂信的に集めていった。清朝の地方官憲は、彼らを支持し、排外運動に利用しようとして、清の援助・西洋の滅亡という新しいスローガン「扶清滅洋(ふしんめつよう)」の旗を掲げさせ、一般外国人・外国製品・外国施設を襲撃させようとした。勢力は20万人、山東省から華北一帯にまで勢いが拡大した義和団は、官憲の一部も合流、1900年6月、遂に北京に侵入し、日本・ドイツの外交官を殺害、さらに各地の教会を襲撃して宣教師・信徒を殺害していった。帝国主義列強が敷設した鉄道も攻撃された(義和団事件)。
 各国公使館を包囲した義和団を見て、西太后を中心とする排外的保守派は義和団を支援することに決し、同月列強に宣戦布告した(北清事変)。当時アメリカはフィリピンと、イギリスはアフリカ諸国と戦闘中であったため軍隊はあまり出せず、地理的に近い日本とロシアが列強連合軍の主力となり、合わせて8カ国の共同出兵となった(日本・ロシア・アメリカ・イギリス・ドイツ・フランス・オーストリア・イタリア)。連合軍は8月、北京を占領、近代兵器によって義和団を壊滅させた。北京占領後、西太后は西安(シーアン)に逃れた。鎮圧後の1901年、清朝は列強と北京議定書(辛丑和約。しんちゅうわやく)を締結、巨額の賠償金、列強の北京駐兵権などが決められ、領土割譲まではいかないが、独立国でありながら実質植民地的支配を受けた、いわゆる半植民地状態は深まっていた。

 議定書締結後、西太后らは北京に帰還し、やむなく保守的な姿勢を改め、立憲政治へむけて、諸制度の改革に努めた。光緒帝は幽閉・監禁から解放されることを望むも、1908年、光緒帝は38歳で、幽閉されたまま悲劇的最期を迎えた。そして、光緒帝が急死した翌日、西太后も73歳で没した。臨終が近づく西太后が、死ぬ前に光緒帝を殺害したとの噂も流れた。光緒帝没後、彼の弟の長子溥儀(ふぎ。1906〜67)が宣統帝(せんとうてい。位1908〜12)として皇帝に就いた。

 その後、中国は孫文(そんぶん。1866〜1925)の指導による辛亥革命1911.10.10)によって、宣統帝は退位を迫られて、清朝は滅亡した。翌1912年1月1日、南京を都に、アジアで最初の共和国・中華民国が誕生、皇帝のいない、王室のない、共和政が実現された。

 「歴史のお勉強」ではおきまりの、長〜い中国史シリーズです。過去には唐王朝、国共合作、匈奴との戦いをご紹介しましたが、今回は、2人の皇帝(同治帝・光緒帝)を振り回し続けた西太后の駆け抜けた時代をクローズアップさせていただきました。

 本編には登場しなかったですが、近代、列強と初めて戦闘を交える形となったアヘン戦争(1840〜42)の勃発によって、清王朝の動揺〜衰退が始まるわけで、その後国内での太平天国の大乱を経て、アロー戦争→日清戦争→北清事変と、年代を重ねるにつれて戦闘規模が拡大していくのですね。そして辛亥革命で締めくくりというわけです。

 今回の西太后ですが、彼女の生涯を扱った中国制作の映画も見たことがあります。とにかく豪傑というか気骨稜々というか、彼女を敵に回すと自身が危うい、といったイメージがありますね。本編に登場した同治帝の皇后、東太后、光緒帝らは、西太后によって殺害されたという説もあるほどで、中国史に登場する女性においては、則天武后(624〜705)と並んで怖い存在のようです。

 では、本日の学習ポイントです。高校世界史では、西太后が登場するのは戊戌の政変の箇所のみです。ですので、変法派を弾圧した保守派の1人として覚えておきましょう。恭親王・醇親王・東太后・珍妃・譚嗣同あたりは試験問題で見たことがないので、覚えなくてもいいと思います。人物としては、咸豊帝・同治帝・光緒帝・宣統帝の4人の皇帝、変法派の康有為・梁啓超、その変法派を裏切った袁世凱は知っておきましょう。袁世凱は、どちらかといえば辛亥革命以降でクローズ・アップされます。また本編に登場していませんが、太平天国の大乱を起こした洪秀全(こうしゅうぜん。1813〜64)、その大乱を平定に努力した郷勇である湘軍(しょうぐん)の曾国藩(そうこくはん。1811〜72)と淮軍(わいぐん)の李鴻章(りこうしょう。1823〜1901。下関条約でも活躍)、同じく常勝軍のアメリカ人ウォード(1831〜62)、イギリス人ゴードン(1833〜85)あたりも知っておきましょう。
 用語では、義和団は「扶清滅洋」を唱えましたが、太平天国でも同じ四字熟語の「滅満興漢(めつまんこうかん)」といったスローガンがあります。

 あと、この時代には多くの条約名が出てきました。アヘン戦争後の講和では、南京条約1842)・虎門寨(こもんさい)追加条約(1843)・望厦(ぼうか)条約(1844)・黄埔(こうほ)条約(1844)の4つ。不平等条約として、日本にも衝撃が走りました。アロー戦争後の講和は、天津条約(1858)・北京条約(1860)の2つ。日清戦争後の講和は下関条約(1895)、北清事変後の講和は北京議定書(1901。辛丑和約)です。ちなみに、1860年の北京条約についてですが、アロー戦争後の講和を調停したのがロシアで、調停の報酬として、沿海州(ウスリー江以南)をロシアに割譲しています。ロシアの東方進出の場面でも北京条約が出てきますので注意してください。あと、天津条約についてですが、1885年にも天津で交わされています。まず、清仏戦争後の講和で、清がヴェトナムへの宗主権を放棄した条約。よってフランス領インドシナができるわけです。また清は同年に、フランスと同様、天津で日本と条約を交わしています。朝鮮で起こったクーデタ・甲申事変(こうしんじへん。1884)後の日清間の出兵の取り決めで、両国間の出兵は事前に連絡し合いましょうというもの。これにより1894年に日清戦争が起こるまでの9年間、朝鮮は日清間の武力衝突が回避できました。

 最後に、1898年といえば、今回では、戊戌の変法が登場しましたが、実はこの年、世界中でいろいろな動きがありました。アメリカはスペインと米西戦争で開戦、戦後パリ条約でフィリピン・グアム・プエルトリコの領有、またハワイを併合しています。イギリスは中国分割で威海衛(いかいえい)と九龍半島(クーロンはんとう)を租借、フランスはそのイギリスと、アフリカでファショダ事件を起こしています。ドイツでは鉄血ビスマルクが没し、ロシアでは社会民主労働党が結成、その後ボリシェヴィキ派とメンシェヴィキ派に分裂していきます。また中国分割で旅順・大連(りょじゅん・たいれん)を租借しています。最後に、わが日本では、自由党と進歩党が合併して憲政党が結成され、大隈首相、板垣内相の隈板(わいはん)内閣が誕生しています。まさに激動と呼ぶにふさわしい年ですね。

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 恭親王奕"訢"→「ごんべんに斤」 醇親王奕"譞"→「ごんべんに"環"のつくりの部分」 

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