世界史の目−Vol.30−

ユリウス=カエサル(Julius Caesar)

 B.C.(紀元前)509年に都市国家ローマ民会による貴族共和政となり、パトリキ貴族)が構成する元老院(最高の立法・諮問機関。任期終身)、及び執政官コンスル。統領。任期1年。2名。最高政務官)をはじめとして、大神官・法務官プラエトル。司法)・検察官・財務官・独裁官ディクタトル。非常事態時の臨時最高職。コンスルから1名)などの政務官職が設置された。一方でプレブス平民。一般市民)も、立法に参与する平民会(民会の1つ)とこれを主宰する護民官(平民会議長。平民を護る。元老院や執政官の決定に拒否権を持つ)を擁していた。平民はその後勢力を増し、これまでパトリキしか就けなかった政務官職に進出、ノビレス新貴族)と呼ばれたり、属州(ぞくしゅう。ローマが占領した領土)の徴税請負などで金融資本家としても台頭し、エクイテス騎士)と呼ばれ、元老院身分につぐ階層をなした。

 こうした中、パトリキやノビレスからなる元老院議員が構成した、元老院の伝統的権威を重視する保守的な閥族派(ばつぞくは。オプティマテス)が生まれた。一方で、平民の権力拡大を望み、ノビレスやエクイテスへの野心的進出も視野に入れながら護民官を重視する平民派(へいみんは。ポプラレス)も生まれ、両派は対立し始めた。特にB.C.1世紀における閥族派のスラ(B.C.138〜B.C.78)と平民派のマリウス(B.C.157頃〜B.C.86)との対立(B.C.88〜B.C.82)が代表的である。両者は都市国家ローマの権力でもって、両派の兵を用いてお互いに殺し合っていった。名将ポンペイウス(B.C.106〜B.C.48)、騎士出身のクラッスス(B.C.114頃〜B.C.53)ら有能な軍人に恵まれたスラは、マリウスのローマ不在に乗じてマリウス派を武力で全滅させ、B.C.82年、遂にスラは無期限でディクタトルに就任し、平民派弾圧にむけた閥族派独裁の恐怖政治を行った。ポンペイウスは3個師団の私兵でもって平民派を討ち、クラッススはローマ市民から没収させた財産を得、"ディヴス(富豪)"と呼ばれた。閥族派の迫害に逃れようと、各地を転々とした平民派の中には、あのユリウス=カエサル(ジュリアス=シーザー。B.C.100〜B.C.44)がいた。

 カエサルはローマの古い名門ユリウス氏の出身で、最初に結婚した妻が平民派政治家の娘であったため、彼も平民派とみなされていた。やがてスラ政権による平民派の弾圧は、彼の死(B.C.78)でもって終焉となり、カエサルもローマに帰省してB.C.77年から政治に携わった。当時弁論家として名の知れたキケロ(B.C.106〜B.C.43)と並ぶほどの雄弁家で文才もあり、B.C.69年に財務官就任、B.C.63年には終身大神官となり、翌62年にプラエトルにまで上り詰めた。プラエトルは属州の総督になることができる、コンスルの一段下の官職で、カエサルはただちにヒスパニア(現スペイン地方)の総督に任命されて功績をあげ(B.C.60)、ローマ市民からの支持率を上げた。しかし、一平民派の人間として、元老院は彼の台頭に危機感を抱き、カエサル自身も元老院と対立した。

 一方のポンペイウスとクラッススは、スラの死後、剣奴(剣闘士として見世物にされた奴隷)出身のスパルタクス(?〜B.C.71)がおこした大奴隷反乱(B.C.73〜B.C.71)を鎮定して軍功をあげ、B.C.70年、2人は同時にコンスルに選出された。2人は、スラの恐怖政治時代を見直し、護民官の職権を回復させるなど、派閥党争の緩和に努め、平民派の主張を理解しはじめ、カエサルとも接近した。その後もポンペイウスは地中海の海賊を討伐し(B.C.67)、スラ時代から続いた小アジア(アナトリア。現トルコ地方)にあるポントス王国とのミトリダテス戦争(B.C.88〜B.C.63)を平定、ここを属州とした。しかしこの頃から元老院は彼らの出過ぎた活躍に妬み、また彼らの平民派への接近が元老院を怒らせ、次第にポンペイウスは元老院と対立を深めていった。

 B.C.60年、遂にカエサルはポンペイウス・クラッススと密約を結び、3人で元老院を抑えて国政を分かち合うことを決意し、第1回三頭政治(B.C.60〜B.C.53)によって実力による支配体制を強行、カエサルは翌B.C.59年にコンスルに選出された。ポンペイウスはヒスパニア、クラッススは強国パルティア(B.C.248頃〜A.D.226)があるシリア地方、そしてカエサルはいまだ未開のガリア地方の軍令権を得て、統治した。このとき「国父」の尊称を得ていたキケロは、カエサルらの三頭政治に反発して、一時国外追放を受けている(B.C.58)。

 B.C.58年、カエサルはケルト系民族のいるガリア地方(現フランス地方)やブリタニア(現イングランド地方)地方へ赴き、同民族を平定、そして初めてライン川も渡ってゲルマン人も抑えた(ガリア遠征。B.C.58〜B.C.51)。この時カエサルに従軍した部将の中に、のちにカエサルの副官として活躍するアントニウス(B.C.82〜B.C.30。閥族派出身)もいた。アルプス以北をローマ領としたカエサルは、遠征地に高額の租税を課し、巨富を得た。ガリア遠征が終わったカエサルは、B.C.51年、簡潔な文体で遠征の経過を記述した『ガリア戦記』を発表している。こうしてカエサルは三頭政治以上の活躍を見せ始めたので、ポンペイウスは彼を嫉視するようになった。カエサルの娘ユリアはポンペイウスの妻となっていたが、B.C.54年にユリアが死亡し、姻戚関係が途切れたことで、カエサルとポンペイウスとの破綻は決定的となった。この間、クラッススはコンスルに再選出され(B.C.55)、遠征地パルティアとの戦争のため、息子とユーフラテス川を渡ってシリア地方にむかうも、パルティア軍の反撃にあい、B.C.53年、同川沿いの町カルラエで息子と共に戦死し、ここに第1回三頭政治は事実上終結した。

 クラッスス戦死による三頭政治の崩壊は、残されたカエサル、ポンペイウスの統治権も喪失したのに等しかった。元老院は威信回帰のため、カエサル軍の解散とローマへの召還を決議した。カエサルを妬むポンペイウスも遂に妥協・結託して元老院と手を結び、カエサルと戦闘を交えることを決意した(B.C.49)。

 生まれ故郷ローマが敵となったカエサル軍は、この時ガリアから南下し、イタリア北国境を流れるルビコン川にいた。B.C.49年1月、カエサルは「(さい)は投げられた」と発して、軍を率いてローマを進撃した。カエサル自ら内乱に身を投じた形となり、ローマを占領した。翌B.C.48年、ポンペイウスは、ギリシア北部テッサリア地方のファルサラスで、カエサル軍と戦闘を開始(ファルサラスの戦い)、カエサルはポンペイウス軍を撃破、彼をエジプトへ追い込んだ。折しも、エジプトはプトレマイオス朝(B.C.304〜B.C.30)の治世で、内紛が起こっていた。ポンペイウスは同地で、プトレマイオス王の刺客に暗殺された。
 同じくエジプトに入ったカエサルは、内紛でプトレマイオス朝の王位を奪われていたクレオパトラ7世(B.C.69〜B.C.30)と親しくなり、内紛に介入して戦った。さらに彼女を窮地から助け、王位を回復させた(B.C.48)。この時、カエサルはクレオパトラと愛人関係になり、子カイサリオンが産まれている。また同地で、太陽暦を知った。このとき、ポンペイウス側に従軍してカエサルと争っていたブルートゥス(B.C.85〜B.C.42)・カッシウス(B.C.83?〜B.C.42)らは、後にカエサルに許されて、カエサル側につき、諸官職を歴任している。

 その後カエサルは東方の小アジアにも軍を送り、同地で栄えていたポントス王国軍に対して進撃した。同国の町ゼラでポントス王ファルナケスをすぐさま敗り(ゼラの合戦。B.C.47.8)、カエサルはローマへ"来た、見た、勝った"と書き送り、戦勝の迅速さを主張した。その後北アフリカの元老院派を制圧してローマに凱旋帰国、B.C.46年、彼は任期10年のディクタトルに選ばれ、権力はカエサルただ一人に集まった。カエサルの天下統一が現実的なものとなり、さらにB.C.44年、元老院はカエサルにある称号を献じた。これは"命令権(インペリウム)"が与えられたローマ最高の軍指揮官という意味から転じて、戦勝後、凱旋式前の将軍に「戦勝凱旋将軍」の称号として献じた"インペラトル"というものである。これは"皇帝"を意味する"エンペラー"の語源にもなった。インペラトルの称号を得たカエサルは軍の、神職の最高司令官となり、文字通り、ローマの頂点に立った。元老院議員を選任するのも、政務官職を任命するのも、護民官の神聖権もすべてカエサルの思いのままになった。これにより民会による貴族共和政は消え去っていき、徐々に帝政の傾向へ進むのであった。

 インペラトルの称号を得て以来、カエサルは救貧策として無産市民に土地を分配し、穀物を安価で供給した。奴隷解放もすすめ、属州での徴税請負を廃止、また属州民にはローマ市民権を与えた。またエジプトの太陽暦を使用してユリウス暦を作成、1582年のグレゴリ暦制定まで使用された。数々の改革を迅速に行ったカエサルは、政治経済的にも文化的にも優れた人物として、市民からは絶大な支持率を誇り、彼を神格化した。

 B.C.44年、カエサルはアントニウスをコンスルに選出(1月)、カエサル自身はディクタトルの任期を終身とした(2月)。そして、かつてクラッススが為し得なかったパルティア遠征を企画したが、このとき、ある噂が流れた。遠征するからには、自身の地位をさらに明確なものにするため、「王」の称号、つまり"ローマ帝国"の必要性をカエサルが主張しているというもので、かつての貴族共和政の復活を目指している共和派の残党達は、"カエサルが王位につけば、共和政は完全に消滅し、元老院も完全に倒れるだろう"と考え、カエサルに対する反感を強め始めた。その中で、ポンペイウス死後、カエサルと長きにわたって行政を共にしてきたブルートゥスは、自身が共和政創建者を子孫に持つことに誇りを持ち、同士カッシウスらと暗殺を共謀、3月15日、パルティア遠征直前の元老院議会開催中、席上でカエサルは共和派の暗殺一味によって暗殺された。信任の厚く、息子のように可愛がっていたブルートゥスが暗殺一味の中にいるのを発見したカエサルは、驚きと悲しみが同時に湧きながら"わが子よ、お前もか!!"と発し、暗殺者が剣をカエサルに向けた時、カエサルは抵抗をあきらめ、そのまま刺されたといわれる。

 カエサルの死は、民衆と兵士に深い悲しみを与えた。火葬されたカエサルの遺体は夜空の星となって、神ユリウスとされた。カエサル暗殺時にローマに滞在していたクレオパトラ7世と子カイサリオンは、エジプトへ帰国し、親子で共同統治を行うことを宣言した。またカエサルを信頼し続けたアントニウスは、彼を神と崇め、カエサルに倣った雄弁ぶりで追悼演説を行った。しかしこの時、あのキケロが政界復帰する。国外追放をうけたあと、帰国を許されてからはポンペイウスを支持していたためにカエサルに疎まれ、B.C.47年、政界から退いていた。その後は執筆業を行い、ラテン散文のモデルとされたが、家庭では離婚・娘の死別などの悲劇に見舞われ、気持は政治一筋に傾いた。共和政治の復活を希望しながら、カエサルの失脚を願っていた。そして、カエサル暗殺後、元老院に復帰したキケロは、アントニウスを自身の敵とみなし、反アントニウスの演説を、得意の雄弁ぶりで行い、カエサルの遺言で彼の養子となった当時19歳のオクタヴィアヌス(B.C.63〜A.D.14。母はカエサルの姪)の方を支持し、しかもカエサルを暗殺したブルートゥスらをかくまった。ブルートゥスらはカエサル暗殺後、市民の反発でローマから離れ、アジア属州の総督となったが、重税を属州民に課すなどして同地でも反発を受けていた。

 アントニウスは、遂に決断した。翌B.C.43年、カエサルの部下で、彼がディクタトルの時に副官を務めたレピドゥス(?〜B.C.13頃)と、オクタヴィアヌスを引き入れて国家再建三人委員となり、第2回三頭政治B.C.43)を開始したのである。元老院・政務官職を抑えて、政権独占を行った。アントニウスはヘレニズム地方(ギリシア・エジプト等)、レピドゥスはアフリカ地方(エジプトを除く)、オクタヴィアヌスは西方の全域を統治権とした。

 当然の如く元老院のリーダー、キケロは三頭政治に反発したが、アントニウスの部下によって暗殺され、ローマでさらし首となった(B.C.43)。ブルートゥス・カッシウスらも、翌B.C.42年、アントニウス、オクタヴィアヌスらの軍とギリシャのフィリッピで戦い、ブルートゥスとカッシウスは敗れて自殺(フィリッピの戦い)、カエサルの敵討ちを果たした。第2回三頭政治は、当初こうした閥族派・反カエサル派の残党を一掃するためだけの恐怖政治だったと言える。結局レピドゥスはオクタヴィアヌスと対立して政界から退かれ、アントニウスもオクタヴィアヌスの姉オクタヴィアと結婚したものの、統治先のエジプトで女王クレオパトラに魅惑をうけ、オクタヴィアと離婚したことで、オクタヴィアヌスと対立を深め、アクティウムの海戦B.C.31)で敗れた。アントニウスはB.C.30年アレクサンドリアで自殺、クレオパトラ7世も敗戦でオクタヴィアヌス軍に捕らえられ、同年毒蛇に身を咬ませて自殺、子カイサリオンも殺された(プトレマイオス朝滅亡)。

 プトレマイオス朝の滅亡とともにエジプトを併合B.C.30)し、地中海を制覇したオクタヴィアヌスは、こうして100年以上続いたローマの内乱を終わらせた。そして元老院の威厳を維持しつつ、オクタヴィアヌス自身は「尊厳者アウグストゥス」の称号を得(B.C.27)、共和政の中での政務官職をすべて手中におさめ、国政の主となった。共和政を尊重した帝政ローマの誕生であった。カエサルのローマ建設は、元老院に嫌がられ、志半ばでくい止められたが、カエサルが暗殺されて17年後、後継者アウグストゥスによって、誰からも認められた、皇帝による行政を実現することができたのである。

 最後までお読み頂きましてありがとうございます。とうとう連載30回目を迎えました。連載開始当初は、ここまで発展するとは思いませんでしたね。また初期の作品は、話のプロセス重視より、いつもここで紹介する学習ポイントを重視してましたので、内容も簡潔でしたが、Vol.6の「唐の興亡」ぐらいからプロセス重視になりましたし、学習ポイントも話が終わってから別コーナーにて設けました。さらにこのあたりから私個人のマニアックさも出て参りました(^^;)当面はこの形式で続くと思いますので、難解な内容であっても決して抗議の投稿はしないで下さいね。話が難しくても学習のポイントのコーナーで分かりやすく説明しますから。(~v~;)

 さて、区切りの作品ということで、個人的ではありますが、非常に興味深いシーザーことユリウス=カエサルを取り上げました。世界史の分野の中でもこの人のお話は好きで、学生の時代にいろいろと調べたりしたことがあります。なおアウグストゥスが皇帝となって元首政を行ってからはVol.4「元首政ローマ」で紹介してありますのでそちらも合わせてご覧下さい。

 部下には厳しさと優しさをたずさえ、敵には寛大な措置をとって赦し、多くの人に指示されたカエサルのバイオグラフィーを見てみると、この人ほど皇帝に相応しい人物はいないだろうと思わせるぐらいの人物ですね。結局ローマで初の皇帝となるのが養子のオクタヴィアヌスですが、個人的な意見を言わせてもらえば、カエサルが皇帝になりえなかった決定的な要因とは、元老院を完全に敵に回していたことでしょう。いつの時代でも保守派と急進派は争いますが、カエサルが政治に関わる前から平民派の環境内にいただけで迫害を受けたわけですから、常に元老院の抑制、元老院による貴族共和政からの脱却を考えていたのではないでしょうか。しかしオクタヴィアヌスはカエサルのやり方とは異なり、共和政の伝統は尊重する、つまり元老院には低姿勢であり、属州を元老院と分割して統治するやり方で帝政を行っています。事実、この後にパックス=ロマーナ(ローマの平和)をもたらすことになるわけで、カエサルもオクタヴィアヌスも同じ平民派出身ですが、時代・情勢が変わるとここまで運命は異なっていくのですね。

 さて、カエサルの時代は、俗に言う"内乱の1世紀"といいまして、当時、元老院議員は、外敵との戦争で捕らえた奴隷などを使用して大所領を経営し、果樹栽培などを行っていました。これをラティフンディアといいます(重要!)。このためイタリアの中小土地所有農民は没落していくのですね。彼らは、戦争が始まると重装歩兵として従軍していきますので、農地を放置してしまい荒廃化が進むと、やがてこの土地はラティフンディアによって買い占められるため、窮乏化していって、無産市民となってしまいます。無産市民はローマに流れて為政者に接近して援助を受けるようになります。援助といっても、食糧や金品をもらうだけでなくて、競技会に参加したり、見世物にされたりする、いわゆる"パンとサーカス(見世物)"状態となるのです。でも為政者は彼らを支持者にとりこめば自分にも利益が入るし、場合によれば権力もぐんぐん上がるので争いごとも多くなります。為政者は規模が大きくなるにつれて、農民は減少、作物も手に入らない、しかも軍隊の保持ができない、為政者は閥族派と平民派で争うとなると、ローマの社会的な崩壊も免れなくなります。
 そこで没落阻止にむけて、平民派が元老院に対抗して行ったものに、平民派のグラックス兄弟(兄ティベリウス:B.C.162〜B.C.132、弟ガイウス:B.C.153〜B.C.121)の改革があります(超重要!!)。言うまでもなくクラッススとは別人です。グラックス兄弟は、護民官となって、こうした中小自作農の没落化阻止につとめ、ラティフンディアによる大土地所有の制限を平民会で議論し、この法案を通過させたのですが、元老院の怒りをかって、2人は弾圧されて改革も挫折しました。市民同士の闘争もより激しくなっていきます。前述の"内乱の1世紀"はこのグラックス兄弟の改革から始まります。

 この期間は、ユグルタ戦争・同盟市戦争・ミトリダテス戦争などの侵略戦争などもあり、軍力の消費は激しい中で、カエサルが登場するわけです。この後は、本編でお話ししたとおりです。

 さてようやく今回の学習ポイントにこぎつけました。どうしても好きな分野だと喋りたくなっちゃうのが私の悪いクセです。スミマセンm(_ _)m
まず、ローマ貴族共和政の政治機関はたくさん出てきますが、覚えなければならないのは元老院、コンスル、ディクタトル、平民会、護民官の5つです。民会には種類があって、平民会が設置されるまでは、兵員会(ケントゥリア)という民会もあり、もともとは兵員会のみが有力な立法権を持っていました。兵員会は貴族だけでなく平民も参加していますが、平民はほとんど参加者としての立場を与えられず、また財産額によって等級が分かれるというしくみで、貴族主体の民会だったわけです。そのため、財産額に関係のない平民会の設置となりました。平民会が議決した法律が国法と認められるまでにはかなりの時間を要しており、十二表法(B.C.450頃)・リキニウス=セクスティウス法(B.C.367)・ホルテンシウス法(B.C.287)の3法を制定してやっと確立するのです。本編には出ませんでしたが、この3つの法は知っておいて下さい。

 また、ここでの登場人物の整理は必ず行っておきましょう。特に2つの三頭政治の3人、計6人は重要ですよ(第1回:カエサル・ポンペイウス・クラッスス 第2回:オクタヴィアヌス・アントニウス・レピドゥス)。また余裕があれば、出てきた登場人物が平民派か閥族派か知っておけばもっと理解しやすくなります。平民派では、マリウス、カエサル、オクタヴィアヌス等、閥族派はスラ、ポンペイウス、アントニウスです。
 キケロという人物も登場しました。彼はローマ文化のセクションで登場しますが、肩書きは散文家、あるいは雄弁家で覚えておきましょう。また著書『国家論』は入試にはあまり出ませんが、アテネの哲学者プラトン(B.C.427〜B.C.347)も同名の著書があるのでまぎらわしくなるのでここにおいて覚えておいた方が楽です。。どちらかといえば、プラトンの『国家論』の方が頻出かもしれません。

 さらにユリウス暦も登場しました。たぶんご存知だと思いますが、7月のJulyはユリウス=カエサル(Julius)、8月のAugustはアウグストゥス(Augustus)から来ているのですね。ユリウス暦以外にもこんなお話があります。「帝王切開」を英語で"Caesarean Operation"と言いまして、"Caesarean"は"カエサルの"とか"帝王の"という意味の形容詞、"Operation"は手術という意味です。つまりこれは、カエサルが帝王切開で生まれたという伝説に基づいた言葉なんです。しかしカエサルは、切開手術で生まれていないとされており、また本編にあったようにローマ皇帝になっていません。"Caesar"は英語では"シーザー"と発音します。これに似た発音で"scissor(=シザー)"という単語があり、「はさみで切る」という意味で、"scissors(=シザーズ。はさみ)"の動詞形があるのですが、"scissor"を"Caesar"と誤訳したのではないかといわれています。でも、間違った訳であれ、現代でもこうした言葉が使われるぐらい、長い歴史を経てもカエサルの社会的影響は大きいのですね。当然これは試験には出ませんが、影響といえば、モスクワ大公イヴァン3世(1440〜1505。位1462〜1505)や雷帝イヴァン4世(1530〜84。位1533〜84)が"ツァーリ(Czar)"というロシア皇帝の称号を使用しましたが、この名の由来もカエサルの名から来ています。こちらは試験に出ますので要チェックですよ。

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