世界史の目-Vol.33-

西欧封建社会

 古代の帝政ローマ末期、主君などの有力者が、その保護下の者に奉仕を要求する条件として、土地の使用権を貸与する恩貸地制度(おんたいちせいど)が存在していた。またフランク王国(481~987)など、ゲルマン人の間でも、自由民が有力者から生活保護を受ける代償として、有力者への忠誠を誓って、その従者(従士)となる風習があった(従士制度)。これらローマとゲルマンにおける2つの制度が結合し(8~9世紀頃)、西欧における封建制度が成立したとされている。

 10世紀以降、恩貸地は(ほう)・封土(ほうど)・知行(ちぎょう)などと呼ばれて、これらの授受によって主従関係が成立する。つまり、封土を与える主君、封土を受けて保護された臣下(家臣)といった立場ができあがり、封土を受けた臣下は主君に忠誠を誓って、主君が要求する軍務・奉仕に従うというものである。この主従関係は封建法によって定められており、封土を媒介として、1対1の双務契約でおこなわれ、どちらか一方が契約を破れば、君臣関係を破棄することができるというもので、一方的な支配従属関係ではなかった。当初この封土を媒介とした双務契約は一代限りであったが、次第に世襲化された。また、臣下に関しては、複数従臣制がとられた。つまり主君Aと家臣Aの関係でありながら、家臣Aは主君Bとも主従関係を結ぶというもので、双務契約であるから主君Aと主君Bとの間には何ら関係は成立せず、あくまで主君と家臣との1対1の契約である。中には45人以上の主君と双務契約を行った臣下もいたという。古代中国・周王朝(B.C.11C~B.C.256)や日本の武家政権で行われた封建制度とは明らかに体質が異なっていた。

 8~9世紀の間、西ヨーロッパでは、イスラム教徒の地中海進出、アジア系民族マジャール人(ハンガリー人の祖)や、北ゲルマンの一派ノルマン人ヴァイキング)といった異民族の侵入、フランク王国の分裂などが重なって、人々は自衛のために、付近の有力者の臣下となって土地を託し、主従関係を結んだ。有力者は自身の支配地と臣下をもつ領主階級、いわゆる諸侯となって自立し、城壁を築いて、臣下をまとめて、軍事奉仕を行う騎士団として編成した。

 こうして国王大諸侯など、地方の有力な自治代表)・中小諸侯騎士の階級が幾層にも重なり、ひとつの階層制ができあがった。中心となるのは、名目上国王ではあるが、実際は地方の有力者の一人として位置づけられ、場合により諸侯の臣下となる場合もあった。
 ただ、国王・諸侯は、基本的には騎士身分に属し、戦士として、また封建的貴族として形成された道徳・風習・倫理があり、勇武と忠誠の強調、キリスト教信者としての異教との敵対、女性・弱者の保護などを守った、世に言う騎士道精神が共通に備わっていた。それらの徳目や、登場した英雄などは文学で表現された(騎士道文学)。フランク王国・カール大帝(742~814)が行ったスペイン遠征(778)の場面による、騎士ローランの武勲と友愛を詩につづった『ローランの歌』は11~12世紀に成立したフランス最古の武勲詩であり、騎士道文学の代表として数えられた。騎士道文学は、各地の宮廷や貴族の館などに来るフランスのトゥルバドゥールや、ドイツのミンネジンガーなどと呼ばれる吟遊詩人によって吟じられた。

 産業形態では、商業社会から自給自足の自然経済体制、つまり農業社会に移行しており、貴族の立場である国王・諸侯・騎士、さらに教会に携わる聖職者らは、封土を所有・支配する領主として、封土に含まれる耕作者、つまり農民をも支配することになる。この領地は、領主直営地(直接経営地)・農民保有地(託営地)・共有地(森林・牧草地・原野。入会地)などで構成され、荘園と呼ばれた。直営地では、農民は週2~3日ほど賦役(ふえき。労働地代)の義務を負い、収穫された全作物は荘園領主のものとなる。農民は直営地での賦役により保有地の支給を受ける。保有地では、農民は保有分に対し貢納(こうのう。生産物地代。収穫した作物など)を荘園領主に納入し、残りは農民のものとなる。このため農民の労働意欲は直営地より、保有地の方が高かった。この直営地と保有地を中心に形成された古典荘園は、フランク王国のカロリング朝時代(751~987)に始まり、10世紀頃には西欧全域に普及した。

 荘園は主君から領主へ保証された領地であるから、荘園内では、領主は国王や国王が差し出した役人の手から逃れる特権を持った。不輸不入権(インムニタス)と呼ばれるこの特権は、国に対して裁判や課税などの免除が認められ(不輸)、役人の立入りを禁じ(不入)、荘園は領主にとって一種の私有地状態であった。よって所領内での領主は、農奴に対して、自由な裁量で領主裁判権を行使するのが可能なため、各国内では一般的に権力の分散化傾向にあり、封建制度の絶頂期であった11世紀から13世紀ごろの王権は弱かった。

 農民農奴(のうど)と呼ばれた半自由民であった。家族・居住地・農耕具の保有権は認められるが、移転や職業選択の自由がないばかりか、賦役・貢納だけでなく、教会へ納める十分の一税(収穫の1/10)や、荘園領主へ納める結婚税(領外婚姻税)・死亡税(マンモルト)といった搾取をうけた。また中世初期、農民の集落はふつう散財しており、荘園もひとつの土地にまとまってはおらず、分散していたため(分散荘園)、一村に複数の領主による荘園が存在する現象がみられた(一村多領主制)。よって荘園領主は荘司(ウィリクス)という所領の管理役人を派遣し、実際には荘司が治めていた。しかし、前述の9~11世紀ごろに見られたマジャール人やノルマン・ヴァイキングの侵入などの混乱が起こってからは、農民は次第に領主の近くに移住して、分散がなくなり、ひとつにまとまり始めた。よって領主は一村多領主制から一村一領主一荘園となった。よってこれまで保有地や直営地などを垣や堀などで仕切りを作っていたが、それもすべて取り除かれ(開放耕地制)、牛や馬に耕運用の有輪犂(ゆうりんすき)を悠々と引かせることができた。
 また牛馬の登場によって二圃制(にほせい)の農法がおこった。耕地の半分は休耕地(休閑地)となり、そこに牛馬を飼って地力を高め、翌年にそこを耕地としてもう一方を休耕地とする農法である。二圃制はやがて三圃制(さんぽせい)となり、春耕地・秋耕地・休耕地として、3年で一巡させて地力の低下をより防いだ。牛馬耕、有輪犂の登場、三圃制の普及といった農奴の生産力向上を背景に、領主は直営地での賦役以上に保有地での貢納を重視するようになり、直営地の多くは農民保有地として分割され、保有地からの貢納が中心となった。こうして古典荘園の時代は終わり、地代荘園純粋荘園)と呼ばれるようになっていった(フランスでは11~13世紀ごろ、イギリスでは14世紀ごろ)。

 生産物の増加は人口の増加を促進させ、また十字軍の活動により交易路が開かれ、さらに貨幣経済が浸透すると、商業も活発化し、商人・職人も現れ、都市も発展した(中世都市)。貨幣経済は、荘園領主にも影響を受け、現物以上に貨幣を必要とし始めた。貢納も現物納から金納へと発展していった。
 労働地代から生産物地代、そして貨幣地代へと移行するにつれて、生産力を向上させた農奴の地位も向上して発言権が増大し、領主裁判権や、貢納などの課税からの解放を主張し始めた(中世農奴解放)。生産物を市場で売り、貨幣を貯えた農民は、身分的解放を条件に多額の貨幣を領主に支払っていった。こうして、荘園制は徐々に崩壊していくことになる。

 英仏間におこった百年戦争(1339~1453)の時期、農奴解放はさらに促進された。決定的な要因は1346年から1350年にかけて西欧全域に流行したペスト黒死病)による農業人口の激減である。全人口の3分の1が失われた西ヨーロッパでは、領主経営を困難なものにした。農業労働力の確保にともない、領主は農民が収める地代を下げ、保有地の売買・貸借を認めて身分的束縛を緩めた(「封建制の危機」)。こうして農奴は、わずかな地代を領主に納めるだけの、独立した小土地保有者の自由民となった。彼らはヨーマン独立自営農民)と呼ばれ、特にイギリスで多く見られた。

 一方地主と化した領主は、自立したヨーマンの拡大に不満を抱いていた。地代を軽減させたことにより経済力も衰え、窮乏化していくことで、昔の華やかな封建社会を再度望み、支配と搾取の再強化をはかって、農奴制の再現を試みた(再版農奴制)。こうした封建反動は、農民を怒らせ、激しい農民一揆が続発した。百年戦争の初期にあたる1358年、北フランスでは、戦費負担による重税に苦しめられた農民が、初期の敗戦後に起こった無給傭兵による村荒らしを機に挙兵した。貴族が農民を"土百姓(=ジャック)"と嘲ったことからジャックリーの反乱と名付けられ、指導者ギヨーム=カルル(?~1358)を中心に領主の館を次々と襲撃した。しかしカルルが捕らえられ処刑された後は、国王や諸侯によって徹底的におさえつけられ、反乱は鎮圧された。
 イギリスでも、1381年農民一揆が起こった。百年戦争における戦費調達から、政府が人頭税を国民に賦課したことに激怒した煉瓦工(れんがこう)のワット=タイラー(?~1381)が農民や手工業者、農民出身の説教僧ジョン=ボール(?~1381)らを率いて挙兵し(ワット=タイラーの一揆)、ロンドン進軍を実行して一時はロンドンを占領した。僧ジョン=ボールは"アダムが耕しイヴが紡いだ時、誰が貴族であったか"と反乱農民に高唱させ、反乱は拡大した。タイラーは国王リチャード2世(位1377~99)と会見し、農奴制廃止、地代軽減を直訴した。しかし、ロンドン市長の謀略によってタイラーは国王面前で斬殺され、ジョン=ボールも殺されて一揆は終息に向かった。しかしこれ以後も農民一揆は続発したため、再発防止のために農民の要求の多くは認められて、農奴解放は進んだ。

 こうした荘園制・封建制の崩壊により、軍事力・経済力を失った中小諸侯や騎士は、国王や大諸侯により所領を没収され、宮廷にすがって彼らの官僚廷臣。ていしん)となり、領主としての存在価値が薄れていった。彼らの没落に追い撃ちをかけるかのように、14世紀ルネサンス時代、戦術の変化がおこり、これまでの弓矢刀槍にかわって、火器(火薬・火砲)が用いられるようになった。攻城用として大砲が登場、15世紀末~16世紀初めの頃には小銃(火縄銃)が使われるようになり、戦闘形式は騎馬戦から歩兵戦へと移った。これによって騎士は戦闘の主力から消え去り、徴募された民兵や職業軍人である傭兵(徴兵とちがい、傭兵は給料がある)などによって構成される常備軍の形成が進んだ。16世紀、官僚と常備軍に支えられて王の権力は増大し、17世紀におこった王権神授説(王権は神から授かったものだから、人民はこれに背くことはできないという説)の登場で、国王の中央集権的国家体制、つまり絶対主義王政を築いていくのである。

 現代に言う"封建的"という言葉は、言い換えれば"専制的"とか"強圧的"というのですかね。上の人が下の人の意志を無視して、指示をおしつけるという意味で扱われますが、そもそも「封建制度」や「封建社会」といった言葉は国々によってしくみが大きく異なっていました。代表的なのは日本の武家政権時代と古代中国・周時代です。

 さて、今回は、世界史をお勉強している人にとっては、あまり好きではない分野だと思います。世界史は内容別に分けるとだいたい「通史」・「文化」・「社会」で構成されますが、今回は「社会」の分野になるでしょう。場合によっては「文化」以上に嫌う分野かもしれません。何せ、時代の流れをあまり感じないところですからね。ですので、封建制度の誕生から崩壊するまでの経緯を、多少無理しながらも通史的要素も含ませて書かせていただきました。

 日本の封建制度は鎌倉~江戸時代の間になります。主君と家臣が御恩(新恩給与・本領安堵)と奉公(京都大番役・鎌倉番役・御家人役)の主従関係によって結ばれ、農民は領主に生産物地代を納めます。西欧と違う点は、"忠臣は二君(にくん)にまみえず"というように、 日本は双務契約でも複数従臣制でもなく、2人以上の主君に仕えたり、主君との契約を破棄して別の主君に仕えたりすることはタブーでありました。

 古代中国の封建制度は、王が王族・功臣らに封土を与えて諸侯にして、貢納と軍事義務を負わせました。主君直属の家臣は(けい)・大夫と呼ばれて、封土(采邑。さいゆう)を受けて忠誠を尽くし、軍政を担当、世襲化されました。周の封建制度は、血縁中心の氏族的関係を優先する形式がとられたことが大きなポイントです。

 他にもいろいろな封建制度があります。イスラムではセルジューク朝(1038~1157)やマムルーク朝(1250~1517)で適用されたイクター制が、オスマン帝国(1299~1922)ではそのイクター制が発展してティマールと名付けられました。いずれも、主君より封土を受けた臣下は軍事義務を負います。東ヨーロッパでは、ビザンツ帝国(395~1453)のプロノイア制があります。これは、すぐれた軍事奉仕を行った地方有力者に、皇帝が恩恵として土地を与え、公有地の管理を任せる制度です。

 西ヨーロッパの封建社会は、封建制度と荘園制度の融合で成立した社会と言えるでしょうね。さて、今回のポイントですが、言うまでもなく前述の、他域の封建制度との比較は説明できるようにしておきましょう。西欧では、一言で表すなら、"双務契約の主従関係"ですかね。この"双務契約"という言葉は大事です。
 荘園制度では、直営地と保有地の区別、地代のしくみ(賦役・貢納など)と変化(生産物地代→貨幣地代)、農法(三圃制)、農奴における賦役と貢納以外の負担(結婚税・死亡税・十分の一税。十分の一税は教会に納めるのがポイント)というように、覚えるところはたくさんあります。
 また封建反動期におこった2つの農民反乱も合わせて覚えておきましょう。ジャクリーの反乱はフランス、ワット=タイラーの一揆はイギリスで発生したことを覚えておいて下さい。穴埋めで「14世紀、イギリスで(         )という農民一揆が起こった」という出題があれば、まよわず「ワット=タイラーの一揆」って書けます。ちなみにタイラー以外で活躍したジョン=ボールも知っておきましょう。

 最後に、封建制度の最終段階となった"絶対王政"なる用語が登場しましたが、王政のよりどころとなった「王権神授説」は誰々が主張していたかを知っておいて下さい。イギリス人思想家のフィルマー(1589/90~1653)、イギリス・ステュアート朝の王ジェームズ1世(位1603~25)、フランス人神学者のボシュエ(1627~1704)、フランス・ブルボン朝の王ルイ14世(位1643~1715)の4人は知っておきましょう。 

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