世界史の目−Vol.34−

インドシナ〜20世紀の戦乱〜

 1887年、フランスは東南アジア・インドシナ半島で、フランス最大の植民地・インドシナ連邦仏領インドシナ仏印。1887〜1945)をつくり、ハノイに総督府を置いていた。第一次世界大戦が終わった1920年代、愛国派のナショナリズム(インドシナ民族運動)が盛んになる中で、知識人層の中からホー=チ=ミン(1890〜1969)が現れた。彼は21歳の時フランスへ渡航、またロシア革命(1917)の影響を受けてマルクス主義・レーニン主義に傾倒、1920年にフランス共産党に入党して活躍、1924年にはモスクワの共産組織コミンテルン(第3インターナショナル。1919〜1943)の大会にも参加し、中国・広東に渡り、1925年、"ベトナム青年革命同志会"を結成してインドシナ民族運動に活躍した革命家だった。
 またホーは、青年革命同志会を基盤として、1930年、ベトナム共産党インドシナ共産党)を結成、対仏運動に力を注いだ。ところが、1940年9月、南進政策を目指す日本が北部仏印進駐を実行に移し、ハノイに進出、国内の民族運動は、反仏と反日をかかげた運動に発展した。翌1941年ホーは帰国し、共産党を中心にベトナム独立同盟会ベトミン)を組織して対抗した。同年、南部仏印進駐も始めた日本軍だったが、1945年3月、太平洋戦争(1941〜45)での日本の敗色が濃くなったことで、日本軍はクーデタによってフランスの植民地政権を倒し、インドシナ連邦の解体を実施、ベトナム王朝・(げん)皇帝・保大帝バオ=ダイ。位1925〜45)によるベトナム帝国の独立を、日本の要請に応じて宣言した。しかし、日本の降伏はほぼ決定的となっていた時期であった。やがてインドシナ連邦解体後にラオスカンボジアも独立を訴えた。
 同1945年8月、ホー=チ=ミンは、日本の無条件降伏の3日前、ベトミンと共産党らの呼びかけで総蜂起をおこし、日本は敗退、バオ=ダイ政権を倒し、阮王朝は滅亡した("八月革命")。翌9月、ホーはハノイでベトナム民主共和国の独立を宣言、ホー=チ=ミンは大統領に就任した(任1945〜69)。

 かし、フランスは、旧植民地での建国を認めず、1946年12月、ベトナム全土で軍事行動を開始した(第一次インドシナ戦争。1946.12〜1954.7)。この間フランスはベトナム民主共和国に対抗して、アメリカの支持をもとに、バオ=ダイを国主席とするベトナム国(1949.6)をサイゴンに建国した。
 1954年5月、フランス軍は、ベトナム北西部にあるディエンビエンフーに大規模な基地を建設し、パラシュート部隊を送り込んだ。しかし周辺の盆地に大砲を配備した大量のベトミン軍に包囲され、大敗した。同1954年、4月から7月にかけてジュネーヴで会議が開催(ジュネーヴ会議)、休戦について議論された。アメリカ・イギリス・フランス・ソ連・中国・ベトナム民主共和国・ベトナム国らが参加、7月、中国代表の尽力で休戦協定が調印された(ジュネーヴ休戦協定)。内容は、@フランス軍のインドシナ撤退A南北ベトナムの暫定的軍事境界線を北緯17度線とする。B南北統一選挙を1956年7月に実施Cカンボジアとラオスの独立承認、などが取り決められたが、アメリカと"南"のバオ=ダイ率いるベトナム国は調印しなかった。フランス撤退後、"南"はアメリカが指揮をとることになる。

 オ=ダイは、ベトナム国での主席だったが、親仏政権であり、アメリカの介入してからは、彼はフランスに留まっていた。よって1955年の国民投票で、アメリカに推されたゴ=ディン=ディエム(1901〜63)がバオ=ダイを追放してベトナム国首相となった(任1956〜63)。ベトナム国はゴ=ディン=ディエム親米政権によるベトナム共和国(1955.10。南ベトナム)に生まれ変わり、休戦協定を無視した独裁政治を展開、次第に悪政の変化を遂げていった。
 一方、北緯17度線以北のベトナム民主共和国北ベトナム)は、ホー=チ=ミン大統領による社会主義国建設を目指していった。よって、ベトナムは南北両断の形態となった。

 ゴ=ディン=ディエムの悪政は、反政府組織の結成を促した。1960年、政権打倒をめざす愛国派や共産主義者、平和主義者らは、種々の宗教信仰者をも交えて南ベトナム解放民族戦線(ベトコン。"ベトナムの共産主義者"という意味)をベトナム統一にむけて結成、農村を中心に反政府ゲリラ活動を開始した。政治腐敗が進む中、解放民族戦線は徐々に発展をとげ、結局ゴ=ディン=ディエムは1963年のクーデタで暗殺された。これを機に、親米政権が誕生するたびにクーデタが勃発し、2年の間に13回のクーデタと9回の内閣交替が起こる羽目となった。この南ベトナム解放民族戦線の抵抗運動の背景には、北ベトナムの支援があった。

 この情勢をみてアメリカは、軍事行動を決意した。契機となったのは1964年8月2日である。この日、アメリカ駆逐艦マードックスが、トンキン湾(トンキンは北部ベトナムの旧称)で、3隻の国籍不明の魚雷艇から攻撃をうけたとアメリカ国務省が発表、4日にも2回目の攻撃を受けた(トンキン湾事件)。5日、アメリカ艦載機軍は北ベトナムの海軍基地を報復爆撃した。そして7日のアメリカ議会で、第36代ジョンソン大統領民主党。任1963〜69)の要請により、「米軍に対するいかなる武力攻撃をも撃退し、侵略阻止のため、必要な一切の措置をとる」という特別権限が圧倒的多数で可決された。この特別権限は、北ベトナムへの宣戦布告とも理解できるものであり(結局、宣戦はなかった)、ジョンソン大統領の指令のもと、南ベトナム解放民族戦線への北ベトナムの支援を絶つためと称し、1965年2月、米軍による北ベトナム爆撃北爆)を突如開始、3月南ベトナムへの米軍戦闘部隊の直接介入が始まった。ベトナム戦争1965〜73)の勃発である。

 戦争は長期にわたった。1967年にはアメリカ軍に韓国・フィリピンの兵力が加わり、69年末には兵力54万人に達した。北では、ホー=チ=ミンによる「抗米救国」をかかげ、抗戦に力を尽くすも、1969年、終戦をみることもなく、失意のうちにホー=チ=ミンは病没した(ホー=チ=ミン死去)。しかし、北ベトナムと解放民族戦線は社会主義国ソ連と中国の支援を受け、1968年1月、北ベトナム軍と解放軍は、南ベトナムの主要都市で大攻勢に出て(テト攻勢。テトはベトナムの旧正月)、アメリカ軍や南ベトナム軍を圧倒した。アメリカは予想外の長期戦を強いられることとなり、戦線は泥沼化した。
 また、実に酷く、悲惨な戦況だった。長期にわたって、森林地帯の一掃のため、空から大量の除草剤を全土に散布(枯葉作戦)、住民はその有毒成分(ダイオキシン)に苦しみ、発育異常、奇形児の発生など、後遺症を残した。またソンミ村の大量虐殺(女性、子ども約250人犠牲)は、メディアで報道され、全世界に衝撃を与えた。

 結局、米軍の劣勢、軍事費の増大(1961年60億ドル→1968年300億ドル)、全世界のベトナム反戦運動などにより、ジョンソン大統領の提唱した"偉大な社会"政策は挫折、1968年3月には大統領選挙不出馬を宣言、北爆の部分停止を発表、5月、北ベトナムと和平協定にむけての交渉を開始した(パリ和平会談1968〜73)。この結果、10月に北爆の全面停止声明を発表し、11月に南ベトナムと解放民族戦線が参加して和平会談が拡大化された。
 翌1969年1月、ニクソン(1913〜94)が大統領に就任(共和党。任1969〜74)、ベトナム化政策をはかり、米軍の段階的撤兵を約束して、1970年から撤兵を開始した。しかし、同1970年3月シハヌーク国家元首(シアヌーク。任1960〜70)のいる社会主義カンボジアで親米右派のロン=ノル政権(任1972〜75)のクーデタがおこり、シハヌークは元首を解任され、中国へ亡命したことで、米軍と南ベトナム軍はカンボジアに入り、北ベトナムと解放民族戦線の基地を襲撃(カンボジア侵攻)、翌1971年2月、親米右派の支援と称してラオスにも入り、ラオス愛国戦線(パテト=ラオ)と戦い(ラオス侵攻)、内戦状態がインドシナ全域に拡大、北爆も再開された。ベトナム戦争は終わらず、1970年から広がった戦渦を第2次インドシナ戦争(1970〜75)とも称した。
 またトンキン湾事件をめぐって、1970年から1971年にかけて、思わぬ内容が暴露された。その内容とは、トンキン湾事件の内容に嘘があり、特に4日におこった北ベトナム軍の2回目の攻撃はなかったといわれるもので、トンキン湾事件は以前から米軍と南ベトナム軍との間で計画された、でっちあげ事件だったというものであり、衝撃が走った。

 ニクソン大統領は、1972年2月、中国へ赴いた(ニクソン訪中)。折しも中国がソ連を批判していた、いわゆる中ソ論争中ソ対立)が本格化していた頃で、ニクソンは中ソ対立を利用して米中関係の改善をはかった。

 1973年1月、パリで、アメリカ・ベトナム民主共和国(北)・ベトナム共和国(南)・南ベトナム解放民族戦線の4者間で、法的な停戦手続が行われた。アメリカ軍のベトナム撤退が調印され、3月までに撤退を実施、ベトナム戦争の終結が宣言され、パリ和平協定ベトナム和平協定)は完結した。しかし、実際は米軍撤兵が実現できただけで、アメリカは南ベトナムに武器支援を続け、戦闘は続いた。カンボジアでも8月に爆撃停止を発表、1975年3月、北ベトナム軍が南下を開始し、4月にサイゴンに入城した(サイゴン陥落)、これにより、10年におよぶベトナム戦争は完全に終結した。およそ200万人の死者を出したこの戦争は、北ベトナム及び解放民族戦線の勝利とアメリカの敗北で幕を閉じた。

 1976年4月、南北統一選挙が実施、7月には南北統一の宣言が出され、ベトナム社会主義共和国が成立した。南ベトナム解放民族戦線も解散、南ベトナムの首都だったサイゴン市はホー=チ=ミン市と改称され、統一後はハノイを首都とした。1978年にはアメリカと、そのアメリカと国交正常化をはかる中国(1979年、民主党カーター大統領によって国交正常化が実現)に対抗するため、ソ連と友好協力条約を締結した(ソ越友好協力条約)。ベトナムは反米、反中国、親ソ連派として、中国との関係が悪化していく。

 ラオスは1975年8月、パテト=ラオによる全土制圧を実現し、12月、王政が廃止されて人民革命党(共産党)のラオス人民民主共和国の樹立が宣言された(首都:ヴィエンチャン)。カンボジアでは1975年に親米右派のロン=ノル政権が打倒されてシハヌークが帰国、カンボジア共産党を中心とする左派勢力の赤色クメール(クメール=ルージュ)を率いたポル=ポト(1928〜1998)と組み内戦が激化した。1975年4月に首都プノンペンを解放、1976年1月に民主カンプチアが誕生、シハヌーク元首辞任直後、ポル=ポトは首相に就任した(ポル=ポト政権。任1976〜79)。ポル=ポトは農村主義にもとづく社会主義国建設を目指し、都市住民を強制に農村へ移住させ、親中国路線をとった。これにより、以前内戦に援助したベトナム(当時の北ベトナム)やラオスといった反中国派との関係が悪化し、カンボジア内ではベトナム支持派の革命人や解放勢力内の反対派を大量虐殺、数百万人もの犠牲者が出た。また1977年、ポトはベトナムと国交を断交したことで、翌1978年、カンボジア民族救国戦線が政治家ヘン=サムリン(1934〜 )によって結成され、ベトナムの援助を受けて蜂起し、遂に1979年1月、ベトナム軍はソ連の支援を受けてカンボジアに侵攻して、プノンペンを陥落、ポル=ポトは同地を追われた。よって同月、ヘン=サムリン政権によるカンボジア人民共和国が誕生した。1982年7月には、ヘン=サムリン政権に対抗して、クメール人民族解放戦線を結成したソン=サン派が、ポル=ポト派、シアヌーク派とともに反ベトナム3派として民主カンボジア連合政府を樹立し、内乱は続いた。この内乱の間に、ポル=ポト派によって数百万個の地雷がプノンペン中心に埋め込まれた。

 1979年2月、カンボジア侵攻を行ったベトナムに対して、中国は遂にベトナム北部に軍事行動を起こし、ベトナム領ラオカイ市を占領した(中越戦争)。ベトナム軍のカンボジア侵攻及びこの中越戦争は、第3次インドシナ戦争と称された。ベトナムは中国の行動を侵略として非難し、中国はカンボジア侵攻の懲罰を訴えた。結局実戦経験豊富なベトナムが中国軍を追い出す形となったが、インドシナでの戦争による政治・経済の混乱で、大量のベトナム難民カンボジア難民をうみだし、国際問題化とされた。

 その後ベトナム社会主義共和国は1986年以降ドイモイ刷新)といわれる経済改革をおこし、共産党政権のもとで、市場経済や外国資本導入などを取り入れながら、社会主義にとらわれない開放的な経済を展開した。1989年9月、ベトナムはソ連の働きかけにより、カンボジアから軍を撤退、1991年、中国との国交正常化が実現、1995年、ASEAN東南アジア諸国連合。アセアン)に加盟、さらにアメリカとの国交正常化が実現と、飛躍的に国際地位を上げていった。
 カンボジア人民共和国は、1991年10月のカンボジア和平協定(反ベトナム3派とヘン=サムリン派が集合)をパリで成立、翌1992年3月にUNTAC国連カンボジア暫定行政機構。アンタック)が協定にもとづいて統治を開始、1993年5月23日に制憲議会選挙がポル=ポト派抜きで実施され、カンボジア王国が樹立、シハヌーク国王による立憲君主政がしかれた。1998年、総選挙で人民党フン=セン政権が発足し、4月ASEANに加盟し、隣国と友好関係を強化していった。深刻だった内戦は、1998年4月のポル=ポトの死で同派は縮小、同年末から翌1999年3月にかけて、同派の最高幹部が投降、拘束されて内戦は終了した。しかし、地雷はいまだ同地に数多く埋め込まれたままで、懸命の地雷撤去作業が続いている。
 ラオス人民民主共和国も1986年、「新思考」に基づいた経済改革がおこされ、市場による開放経済が進展した。中国、ベトナムとの社会主義建設を促した。1991年、新憲法を制定し、1997年にはASEANに加盟している。

 インドシナとは"インドと中国の間"にあることからそう呼ばれており、やや赤道にも近く、季節風の影響を受けて、雨季と乾季をもつ熱帯気候に属します。インドシナ半島というのは、広義にはタイやミャンマーもその域に加わりますが、本編は狭義上での、旧フランス領だった3国(ラオス・ベトナム・カンボジア)に絞らせていただきました。
 ともあれ、高校世界史の中でも地味で、授業でもなかなか忘れ去られやすい東南アジアの歴史ですが、内容はいたって重要で、同じアジア人である我々も理解を深めていかねばと常に思っています。今回ご紹介しましたベトナム戦争や、ポル=ポト派の大粛清・地雷の被害、インドシナ難民問題などは、私が小学生から大学生の頃にかけて、頻繁にテレビやラジオ、新聞で取りざたされていましたので、その惨禍はたいへん痛ましく、ひどい恐怖感をおぼえていました。現在も爆破テロや民間人拘束などの事件が後を絶たないですが、このような過ちを繰り返さないためにも、過去におこった数々の痛ましい戦争における恐怖を強く実感し、平和に向けた国際協調を懸命に努めていくことが、21世紀を生きるわれわれの大きな課題だと思います。

 さて、本日の学習ポイントですが、インドシナ戦争を1〜3次と紹介しましたが、実質高校で学習する世界史の中では、1946〜54年の第一次のみインドシナ戦争と呼ばれています。第二次、第三次の呼称は使用されていないようです。さらに、第二次インドシナ戦争は、南ベトナム解放民族戦線が組織された1960年からサイゴンが陥落した1975年までの15年間をさす場合もあります。ベトナム戦争は名目上は1965〜73年間の戦闘となっていますが、あくまで1973年というのは、和平協定によって、米軍がベトナムから撤退した年であり、その後も南北間で戦闘があり、サイゴンが陥落した1975年が実際の終戦となります。ベトナム人の手による解放、社会主義圏の勝利、アメリカの反共失敗が浮き彫りとなった戦争でした。

 この分野では、最も複雑なのが、ベトナム内で作られた国や、戦線組織でしょう。おさらいしますと、まず反仏・反日によってベトナム独立同盟会(ベトミン)がホー=チ=ミンによって設立、その後ハノイでベトナム民主共和国(北側)ができます。これに対抗したのが、フランスとアメリカの支持のもと、サイゴンで建国されたベトナム国(南側。バオ=ダイがいる方)です。ハノイは北側、サイゴンは南側に位置しています(ちなみにディエンビエンフーやトンキン湾は北側に位置)。さらに南側のベトナム国はベトナム共和国(バオ=ダイの後はゴ=ディン=ディエム)、その南側でゴ=ディン=ディエム政権やアメリカの圧力に対抗して結成された戦線組織が南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)です。戦争が終わって、南北統一後、できた国がベトナム社会主義共和国(首都ハノイ)です。よって、ベトナム戦争中の国際関係は、北側が、ベトナム民主共和国・中国・ソ連の社会主義圏、南側はベトナム(共和)国とアメリカとなり、南ベトナム解放民族戦線は北側についてます。統一直後は反米・反中・親ソの関係でした。 

 ここで、インドシナの3国の、20世紀にフランスから独立するまでの成り立ちについてご説明しましょう。 

【ラオス(ラオ族が中心)】
 ランサン王国(14C〜18C)→仏領インドシナ連邦時代(1887〜1945)。この間に保護国化1893)→ラオス王国独立(1946)
 インドシナ3国の中で、フランスが保護国化した最後の国であることが大事です。

【カンボジア(クメール人)】
 扶南(ふなん。1C/2C〜7C半)→真臘の独立(しんろう。6C〜8C、9C〜15C)→タイ(シャム)やベトナムからの圧迫→フランスの保護国化1863)→仏領インドシナ連邦時代(1887〜1945)→カンボジア王国独立(1949)
 カンボジアは古代もよく出題されます。よく出るのは真臘で、真臘の全盛期はアンコール=ワットアンコール=トムといった遺跡を残したアンコール朝(802頃〜1432)です。この王朝にはスールヤヴァルマン2世という王がいて、アンコール=ワットにまつられています。
 また保護国化がインドシナ3国の最初であることも重要。

【ベトナム(ベトナム人)】
 大瞿越(だいくえつ。968〜1009)→大越(だいえつ。1009〜1802)→越南(えつなん。1802〜1887)→フランスの保護国化1883)→フランス領インドシナ連邦時代(1887〜1945)→ベトナム(阮朝)独立(1945)→ベトナム民主共和国独立(1945)
 大瞿越を国号としてからは、丁朝(てい。968〜979)と前黎朝(ぜんれい。980〜1009)が、短命ですが繁栄しました。丁朝は"かわうそ"の子といわれる丁部領(ていぶりょう。924〜979)が建国者です。ベトナム史として試験に出やすいのは、大越になってからで、大越国では李朝(り。1009〜1225)→陳朝(ちん。1225〜1400)→黎朝(れい。1428〜1527,1532〜1789)が興亡、越南国では阮朝(ぐぇん。1802〜1945)が最初で最後の王朝です。李陳黎阮(りちんれいげん)と、四字熟語として覚えましょう。
 陳朝の時代、中国・元軍の襲来があり、これを撃退させました。また文化も発展して、漢字をもとにしたチュノム字喃。じなん)という文字も生まれています。黎朝と阮朝との間には西山朝(せいざん。タイソン。1778〜1802)という王朝がありました。これは1773年、クーデタで黎朝を滅ぼして建てられた王朝ですが、阮朝を建国する阮福映(げんふくえい。1762〜1820)に滅ぼされてしまいます。阮朝の国号"越南"は、中国の秦・漢の時代に中国南部に興亡した南越(なんえつ。B.C.203〜B.C.111)という国と混同しやすいので要注意です。ベトナムは阮朝のとき、中国・清朝の宗主国でしたが、フランスがサイゴン条約(1862,1874)、フエユエ条約1883,1884)でベトナムを保護国にしたあと、清仏戦争1884)で清に勝って、天津条約1885)で遂にベトナムをフランス領としました。そして、本編につながっていくわけです。
 これ以外では、ベトナム北部におこったドンソン文化(B.C.3C〜A.D.1C)の時代、徴(チュン)姉妹の後漢の圧政に対する反乱(A.D.40)がありました。出題頻度が少ないですが、余裕があれば是非知ってもらいたい事件です。徴姉妹は"ベトナムのジャンヌ=ダルク"と呼ばれている女傑姉妹で、彼女らをまつった寺院(ハイ=バ=チュン寺)がハノイにあります。
 さらにもう1つ。ベトナム南部で、インドネシア系チャム人がインドシナ東岸で漢王朝から独立して建国したチャンパー(2C〜15C)という国がありました。この国は、中国で2C〜7C間は林邑(りんゆう)、8C中期は環王(かんおう)、9C後半は占城(せんじょう)と呼ばれていました。中国史などで意外と出題されやすい箇所です。

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