世界史の目−Vol.35−

中世のポーランド

 9世紀の初め、西スラヴのポーランド人によってポーランド王国の基礎が形成され、10世紀のミエシュコ1世(位960〜992)のピアスト王朝の時代、カトリックを受容した。しかし11世紀後半には王室に内紛がおこって王権は衰退、諸侯領へと分裂し始め、封建化が進んだ。この頃、これまで商業都市として栄えていたポーランド南部のクラクフに都がおかれ、同市は繁栄をきわめた。 

 13世紀、ドイツでは、神聖ローマ皇帝がドイツの統治を後回しにしてイタリアに干渉して遠征を行ったため(イタリア政策)、国内の大諸侯が独立をし始め、大諸侯による数多くの小国家(領邦)が建設された。ドイツ諸侯はエルベ川以東のスラヴ居住地に植民活動を開始し(東方植民)、ブランデンブルク辺境伯領(12C)やドイツ騎士団領(バルト海南岸)などが形成された。ポーランドもこのドイツ騎士団による進出を受け、プロイセンの植民が行われた(1226)。またアジア方面からは、モンゴル帝国(1206〜71)の第2代皇帝オゴタイ=ハン(太宗。位1229〜41)のもと、軍総司令官バトゥ(1207〜55)による西征ヨーロッパ遠征。1236〜42)が行われ、ポーランドにも侵入した。1241年、リーグニッツ東南で、ドイツ諸侯と連合したポーランド軍がモンゴル軍と戦った(ワールシュタットの戦い)。"死体の地"という名を残したワールシュタットで激戦を貫いたドイツ・ポーランド軍だったが、軍指揮者シュレジェン公ハインリヒ2世の戦死で敗退を余儀なくされたが、モンゴル軍もオゴタイ=ハンの病没の報を受け撤退した。この戦争で、ポーランドの封建社会は荒廃し、やがて、再統一に向けて強い王権の復活が望まれた。

 13世紀末、ピアスト家からでたヴワディスワフ1世(ウラディスワフ1世。位1320〜33)のもとで王国が再建された。その子カジミェシュ3世(カシミール3世。位1333〜70)は中央集権化をはかり、中央官職の組織や地方総代官の設置を行い、またポーランドにおける最初の法典を整備して司法制度を整えた。新しい都市の建設と育成、貨幣改革、岩塩鉱山の開発、農民やユダヤ人の保護などをおこない、また教育面ではポーランド最古の大学であるクラクフ大学を創設した(1364)。また外交では、ドイツ騎士団領と和約を結び(1343)、王領地の回復にも成功した。カジミェシュ3世は、"土と木のポーランドをレンガのポーランドに変えた"と評される、ポーランドにおける唯一の「大王」の称号を受けた国王であったが、大王没後、ピアスト朝は断絶した。

 ポーランドの北側にはインド=ヨーロッパ系のバルト語族に属するリトアニア人がいた。スラヴ系に近い要素を持つリトアニア人は、13世紀、ポーランドと同じくドイツ騎士団の脅威にさらされ、これに対抗するリトアニア公国を形成した。14世紀には周辺の公国を併合して大公国となった。1386年、リトアニア大公ヤゲウォ(ヤギェヴォ。ヤゲロー。ヨガイラ。1348/51〜1434)は、ドイツ騎士団や東方のモンゴルに負けない強力な国家を建設するため、カトリックに改宗してポーランドに近づき、ポーランド女王ヤドヴィーガと結婚(1386)、ポーランド国王となった。ヤゲウォは、リトアニアではヤゲウォ大公として、ポーランド国王ではヴワディスワフ2世(ウラディスワフ2世。位1386〜1434)として統治し、国名をリトアニア=ポーランド王国と定め、ヤゲウォ朝1386〜1572)を開基した。
 ヴワディスワフ2世は1400年、クラクフ大学を復興させるなど、文化面・教育面にも尽力、また軍事面では1410年、ポーランド北東部にあるタンネンベルク(現ステンベルク)でリトアニア=ポーランド軍を率いてドイツ騎士団を敗退させるなど、15世紀のポーランドはまさに黄金期であった。16世紀になると、バルト海東岸一帯のリヴォニア地方が、ドイツ騎士団の帰属から離れ、1558年からスウェーデン、デンマーク、ロシア、ポーランド間で、バルト海制覇をかけてリヴォニアの争奪戦が始まった(リヴォニア戦争。1558〜1583)。このときロシアの皇帝(ツァーリ)が、"雷帝"と恐れられたイヴァン4世(位1533〜84)である。結局は、どの国も決定的な勝利を収めることができず、リヴォニアはこの後ポーランド→スウェーデン→ロシアと帰属を変えていく。一方でリトアニアでは、ポーランド化が強まっていき、1569年のルブリン合同で、リトアニア=ポーランド王国としての合同が正式に成立したものの、リトアニアは、事実上ポーランドの属領であり、リトアニアは名前だけとなっていた。また領主階級でもある貴族(シュラフタ)身分が得る特権(不輸不入権など)も拡大しつつあり、直営農場で穀物を大量生産し、西欧やロシアなどの外国商人と交易を始めていき、商業は外国人に委ねられていった。封建社会が崩れていき、王権が強まりつつあった西ヨーロッパとは逆に、ポーランドは農奴制を強化していったのである。

 1572年にヤゲウォ朝が断絶したポーランドでは、選挙王制が行われるようになった。貴族、とくに大貴族(マグナート)が選挙で国王を選ぶため、貴族の独裁化が強まっていった。貴族の富裕化、農奴制強化による農民の圧迫、さらに商業における外国の介入などで、国家的には統一感がなく、やがてコサック(ロシア東南辺境への流亡民によって形成された、国境防備の自由な戦士集団。普段は牧畜や狩猟、交易などを行う自治共同体)が反乱を起こしたり(1648)、ロシア軍やウクライナ軍の侵攻が始まり、ポーランドは弱体化した。そこを急襲したのが国王カール10世(位1654〜60)の統治するスウェーデン王国で、カール10世はリヴォニアの領地確保のための遠征を行った(ポーランド=スウェーデン戦争。1655〜60)。スウェーデンは新教国で、同教のプロイセン(元ドイツ騎士団領。1511年公国)やトランシルヴァニア(現ルーマニア内)の軍とともに、ポーランド全土を大量の新教国軍で囲い込んだ。この有り様は"大洪水"と称された。この戦争によりプロイセンはポーランド王の服属から解放された(1657)。カール10世の病没後、オリヴァの和約(1660)で軍は撤退するも、戦争によってポーランドは没落を早め、1700年にはピョートル1世(大帝。位1682〜1725)が率いる新興勢力ロシアと、カール12世(位1697〜1718)率いるスウェーデンとのバルト覇権の争奪戦に、ポーランドがデンマークとともにロシア側について戦う羽目となり(北方戦争。1700〜21)、ポーランドはロシア軍の駐屯地と化し、ロシアの支配下状態に陥った。また1733年、王位継承による戦争が起こり(ポーランド継承戦争。1733〜35)、ルイ15世(位1715〜74)のいるフランスや、ロシア、オーストリアを巻き込み、国力は完全に疲弊した。この時期になると、貴族身分は諸外国からの買収の対象となっており、国家的機能を持たない地方分権化傾向であったため、常に諸外国が干渉するようになっていた。このようにポーランドはプロイセンやロシア、オーストリアなど、啓蒙絶対君主のいる強国によって、いつ国土を奪われてもいい状態だった。

 ロシア女帝エカチェリーナ2世(位1762〜96)は、ポーランドのロシア化をめざすため、元愛人だったスタニスワフ2世(位1764〜95)をポーランド国王として就任させることに成功した。そして遂に1772年、プロイセンの王フリードリヒ2世(大王。位1740〜86。1701年、公国から王国へ昇格)は、オーストリアのマリア=テレジア(1717〜80)とともに、ロシアに分割を提案、これが第1回ポーランド分割となった。ポーランドは国土の約4分の1を分割された。1793年にはフランス革命(1789〜1799)の波及でポーランド国内にも憲法制定を目指す改革派が生まれたことに乗じ、プロイセンとロシアによる2度目の分割を行った(第2回ポーランド分割)。そして1795年、オーストリアも再び加わり、3国でポーランドを攻めて、とうとう全土分割を完了し、ポーランドは消滅、最後のポーランド王スタニスワフ2世は退位した(第3回ポーランド分割ポーランド消滅)。

 ポーランド分割に際して、ポーランドの愛国者コシューシコ(コシチューシコ。1746〜1817)が必死に分割に対抗した。彼は若き頃フランスに赴きパリの士官学校を出、アメリカ独立戦争(1775〜83)にワシントン(1732〜99)の副官として参加した軍人である。帰国後、フランス革命の影響を受けてポーランド国内でも起こっていた自由主義憲法の制定に関わるもロシアの干渉で挫折し、2度目の分割を間近で見てしまった。しかし1794年にクラクフで抵抗運動がおこると、軍の最高司令官になり、農民を加えて蜂起した(コシューシコ蜂起)。農奴解放をかかげ、ロシア軍からワルシャワを解放させるなど、一時は優勢にたったが、戦傷によってロシア・プロイセン軍の捕虜となった。コシューシコが幽閉中にポーランドは消滅したが、コシューシコ自身はエカチェリーナ帝の死去(1796)によって赦され、アメリカ、そしてフランスへ亡命した。亡命先フランスは折しも皇帝ナポレオン1世(位1804〜14,15)の治世だった。ナポレオンはコシューシコにポーランド政策のための対ロシア戦への協力を求めようとしたが、コシューシコはナポレオンを信頼せず、協力を拒み、スイスへ亡命して隠棲した。亡命してからのコシューシコは、生まれ故郷をなくし、諸外国へ亡命したポーランド人たちの拠り所となり、最後までポーランドの愛国者として慕われた。没後、遺体はかつての都クラクフに埋葬された。

 ポーランドは、ウィーン会議(1814)におけるウィーン議定書(1815)で、ポーランド立憲王国として復活させたものの、事実上はロシア領内における王国で、国王も、ロシア王が兼ねるなど、純粋な復活ではなかった。フランスで起こった七月革命1830)に影響して、ワルシャワで騒乱がおこり(1830ポーランド騒乱)、1846年にはロシアからの独立を目指して、クラクフで大規模な独立運動を展開、革命政権をおこすこともあったが、一時的に鎮圧されるも、フランスで起こった二月革命1848)の影響で、ポズナニで再び反乱が起こった(ポーランド独立運動)。1863年にも農民を中心に反露独立運動(ポーランド反乱)がおこるなど、1800年代のポーランドは不安定な政情が続いた。結局これらすべての反乱はロシア軍を中心に鎮圧され、独立達成はならなかったが、第一次世界大戦終了後(1918)、アメリカ民主党大統領ウィルソン(任1913〜21)が掲げた十四ヵ条の平和原則で独立が強調され、1918年11月3日、民族自決主義にもとづいて、遂にポーランド共和国として独立を宣言し、翌1919年パリ講和会議で正式に独立が承認され、124年ぶりの大復活となった。ポーランドに先駆けてリトアニアも1918年2月、ロシアからの独立を宣言し、1920年にバルト三国エストニア・ラトヴィア・リトアニア)の一国として承認された。

 ポーランドという国は、高校世界史の中では地味な分野なのですが、意外と濃い歴史があるのですね。東欧史には欠かせない国であるような気がします。

 ポーランド人はスラヴ民族で、西スラヴ民族に属します。スラヴ民族とは、ロシア連邦西方、つまり現在のウクライナ(首都キエフ)やベラルーシ共和国(首都ミンスク)、リトアニア共和国(首都ヴィリニュス)などがある東ヨーロッパ平原やカルパティア山脈一帯にて定着して、東ヨーロッパの主要民族となったインド=ヨーロッパ系民族で、その中の西スラヴ民族は、ゲルマン民族の大移動後、6世紀ごろから西方に進出しました。西スラヴ民族はポーランド人の他にも、7世紀にサモ王国、9世紀に大モラヴィア王国を建国したチェックチェコや、現スロヴァキア共和国(首都ブラチスラヴァ)の主要民族でありますスロヴァクスロヴァキアなどがいます。

 今回の学習ポイントも数多いのですが、まずポーランドは10世紀にカトリックを採用したことは大事なので覚えていてください。ちなみに先頃亡くなったローマ法王ヨハネ=パウロ2世(位1978〜2005)はポーランド出身ですので、カトリック国であることはこれでお分かりできるしょう。またモンゴル民族とワールシュタットで、戦いを交えたことは重要項目で、ヨーロッパ人がモンゴル民族の脅威を知らしめた戦争です。このワールシュタットの戦いは、どちらかといえば中国・モンゴル史で登場します。そして、カジミェシュ3世(大王)はマイナーではありますが、私立大学の入試問題では時折顔を出すことがありますので要注意です。余談ですが、この大王によって創立されたクラクフ大学では、この後地動説を説いたコペルニクス(1473〜1543)も学生として在籍しました。

 リトアニアと合体してからのポーランドも重要で、リトアニア=ポーランド王国ヤゲウォ朝(私は入試時代、"ヤゲロー朝"と覚えてました)はよく出題されます。国名、王朝名、そして15世紀が全盛期だということを知っておきましょう。ただこの王朝の治世についてはあまり出題されません。リヴォニア戦争などは出ませんし、雷帝イヴァン4世もロシア史分野では超重要ですが、ポーランド史分野ではほとんど出されません。ただ、イヴァン4世がいた頃ですので、時代感覚はつかめると思います。ヤゲウォ朝が滅亡した後では、貴族の選挙王制となりますが、選挙王制という言葉は教科書では太字で記されていますので、重要キーポイントです。つまり、王権が衰退し貴族の力が強大になったこと、他の国が介入してきたことにより、18世紀末の大分割となるわけです。

 さて、クライマックスのポーランド分割ですが、第1回分割(1772)はフリードリヒ2世率いるプロイセン、マリア=テレジア率いるオーストリア、そしてエカチェリーナ2世率いるロシアの3国によって分割されます。第2回分割(1793)はオーストリア抜きの2国、第3回は再び3国で行われました。各回の分割された年、実行国はもちろん重要ですが、第2回はフランス革命の混乱を利用したこと、コシューシコが猛抵抗したことなども大事です。

 分割占領している時代では、本編にあるように、3つのポーランド反乱がありました。1つはフランス七月革命の時代(1830)におこったポーランド騒乱、2つ目は二月革命前後に行われたポ−ランド独立運動、3つ目はロシアが農奴解放令(1863)を発した頃の反露ポーランド反乱です。それぞれロシア軍を中心に鎮圧されましたが、ポーランド騒乱は露帝ニコライ1世(位1825〜55)の時、ポーランド独立運動は露帝ニコライ2世(位1894〜1917)の時、ポーランド反乱はアレクサンドル2世(位1855〜81)の時です。このように、中世のポーランド史は北欧やロシアの分野でよく取り上げられますので、注意が必要ですね。バルト3国もロシアとの兼ね合いで出題されるケースが多いです。

 ちなみに、1830年のポーランド騒乱の時、蜂起失敗に嘆き、『革命(作品10の第12・ハ短調練習曲)』を作曲したのが、ポーランド出身の音楽家であるショパン(1810〜49)です。

 あと、ポーランドは現代史でもよく出題されます。第二次世界大戦中はドイツや旧ソ連に占領されましたが、大戦終了後の1945年以降、社会主義国が掲げる人民民主主義形態をとって、統一政府ができています(国名は"ポーランド人民共和国")。最も出題されやすい用語は冷戦の時代、1955年に結成された東陣営の軍事同盟であるワルシャワ条約機構です。中心は旧ソ連ですが、調印はポーランドの首都ワルシャワで行われ、1991年まで存続しました(この間の1956年2月、ポズナニ市で起こったポーランド反ソ暴動という用語も大事)。もう1つ、1980年、食肉値上げに反対しておこったストライキにより、政府によって承認された自主管理労組"連帯"も頻出で、社会主義圏内で初めて、共産党から独立した大規模な労働組合です。一時的にポーランドは軍政となって"連帯"は非合法化されましたが、1989年に"連帯"のメンバーで非共産党勢力の連立政権を獲得して、国名も"ポーランド共和国"に戻り東欧自由化の象徴となりました。市場経済も活発化し、1994年にはEU(ヨーロッパ連合)にも加盟しています。

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