世界史の目-Vol.38-

ユリウス=クラウディウス家の惨劇

 アウグストゥス帝(オクタヴィアヌス。位B.C.27~A.D.14)没後、2代皇帝ティベリウス(位14~37)、3代皇帝カリグラ(ガイウス。位37~41)、4代クラウディウス(位41~54。カリグラの叔父)と古代ローマ帝国皇帝に次々に即位した(ユリウス=クラウディウス朝。B.C.27~A.D.68)。しかし、彼ら全てはアウグストゥス帝に勝るほど有能ではなかった。

 クラウディウス帝は先帝カリグラが41年暗殺されて即位した皇帝で、自身も殺害されるという恐怖感に満ちた統治生活を余儀なくされた。4度結婚したが、3人目のメッサリナ(23~48)といたときは、まさしく彼女に振り回された時代であった。皇帝の恐怖と警戒を利用して、メッサリナは多くの敵とみなした人物を死に至らしめていった。メッサリナはその後、自身の不倫問題で処刑され、アウグストゥス帝の曾孫アグリッピナ(小アグリッピナ。カリグラの妹。15~59)と結婚した(41)。アグリッピナはそれまで結婚しており、前夫(39年病没)との間にできたのがネロ(37~68)である。

 メッサリナとの間にオクタヴィア(40~62)とその弟ブリタニクス(40~55)がいた。養子となったネロは彼らとは義兄弟関係となる。皇位継承権を得たネロは、53年オクタヴィアと結婚した。これらの背景には母アグリッピナの働きがあった。アグリッピナは、メッサリナと同様に悪妻として知られ、ネロに皇位を継承させるためにあらゆる策略を練ったとされる。ネロがブリタニクスより年長であっても、皇帝の実子はブリタニクスのため、皇位継承者はブリタニクスになると予感したアグリッピナは、ネロを、別の婚約者がいた姉オクタヴィアと結婚させて、ブリタニクスの完全な兄に仕立て上げた。オクタヴィアの婚約者はアグリッピナによって自殺させられたとも言われる。

 54年、アグリッピナは遂に夫であるクラウディウス帝をも毒殺し、同年、16歳のネロを皇位につけさせることに成功した(位54~68)。ネロの治世の初期5年間は、近衛隊長ブルルスや、もと元老院(ローマ帝国の最高機関)議員で、ストア哲学や修辞学を研究する家庭教師セネカ(B.C.1?~A.D.65)らの後見を得、善政をしいていたが、アグリッピナは、彼女自身による政権掌握を考えており、あくまでわが子である若きネロ帝に対しては、母親の指示するがままに統治すれば良いという志向であった。ネロがアグリッピナの指示を拒否すると、アグリッピナは、相姦でもってネロを誘惑するなど、あらゆる手段をとったとされる。やがてアグリッピナの思惑が表面化し、ネロは師セネカらと組んで対立した。そこでアグリッピナはネロを廃位してネロの義弟ブリタニクスを擁立しようと考えた。義兄ネロは55年、義弟ブリタニクスを毒殺、さらに59年、刺客をつかって実の母アグリッピナを刺殺した。この頃から、ネロは暴虐・凶暴な性格を現わすようになる。

 ネロの妻オクタヴィアは不妊症のため、夫婦関係も良くなかったとされる。母メッサリナ・父クラウディウス・弟ブリタニクスの死から来る恐怖と孤独に悩まされたオクタヴィアをよそに、ネロは旧友であり、のち69年に皇位につくオト(32~69)の妻ポッパエアと愛人関係にあった。62年、ネロはオクタヴィアに対し、不妊を理由に離婚を言いつけ、姦通の罪でオクタヴィアを処刑、その後人妻ポッパエアと結婚する。義弟・実母・妃の殺害を貫いた帝の姿を見て、師セネカは身の危険を感じ引退した。同年にブルルスが没したことで、ネロの良き指導者は姿を消し、ネロは悪臣のティゲリヌスを重用、結果ローマの国政は大いに乱れた。皮肉にも後世では"パックス=ロマーナローマの平和)"と呼ばれた、アウグストゥス帝から五賢帝末期までの約200年間の黄金期のさなかであった。ポッパエアは妊娠したが、65年、単純な理由による口論から、身重にもかかわらず、ネロによって腹を蹴り殺されたといわれている。ポッパエア死後は、ポッパエアに酷似した解放男性奴隷スポルス=サビナを去勢し、"侍女"として側近に置くなど、ネロの性格破綻はますます顕著になっていった。

 こうした中、64年にローマで大火がおこり、市の大半が焼失、これをローマ市民はネロ帝が"黄金宮殿"の建設を口実として放火したと噂するようになった。
 この噂を抑圧するため、ネロ帝は当時増えつつあったキリスト教徒に目を向け、大火の責任を彼らに転嫁した。この時代の皇帝は現人神(あらひとがみ)として崇拝(皇帝崇拝)する観念を重んじ、皇帝の権威を強力なものとしていた。崇拝を拒否すると謀反罪に問われるため、キリスト教徒は、常に標的となっていた。ネロ帝は皇帝崇拝を拒否するキリスト教徒を謀反とみなし、未曾有の大弾圧を行った。歴史上初めてのキリスト教徒への大迫害である。キリスト教の始祖イエス(B.C.7/B.C.4?~A.D.30?)の十二使徒の1人ペテロ(?~A.D.64?)や、十二使徒ではないが伝道に尽力したパウロ(?~A.D.64?。"異邦人の使徒")らは、この迫害で殉教したと伝えられている。

 ネロ帝の動向に困惑した元老院や軍隊は、彼を見限るようになった。65年には元老院議員のネロ帝暗殺の陰謀が発覚し、これに加担した多数の人物を処刑した。かつての師セネカも事件に関与したとされ、ネロに自殺を強要されて、死に至ったとされている。この事件によってネロ帝の恐怖政治はエスカレートし、属州(イタリア半島以外の征服地。総督や徴税請負人によって、属州民は束縛された)に重税を負担させ、富裕者から財産を略奪し、拒む者は処刑された。ネロにかわる次期皇帝候補の人物も次々に殺していく。66年には、A.D.6年から属州となっていたユダヤで、4年に及ぶユダヤ戦争(66~70)が勃発。総督による皇帝崇拝の強要、徴税請負人による重税賦課などからくるローマ帝国への怒りが大反乱となった。その間、ネロはギリシア文化を好み、ギリシア旅行の際、オリンピアやデルフィの競技に強引に参加する。また詩作や歌唱にも興じたりするなど享楽に耽っていた。

 これによりネロ帝に対する信望は薄れ、68年、ガリア(現フランス地方)の総督が反乱を起こした。これがヒスパニア(現スペイン地方)に波及し、同地のガルバ総督が挙兵しローマに進軍した。この年ガルバは皇帝即位の宣言を行い(位68~69)、元老院はこれを認め、ネロを"敵"とみなし、ネロ本人が不在のまま"死刑"を宣告した。元老院、軍隊、市民から見放されたネロはローマを逃れ、同68年、"世界は偉大なる芸術家を死して失う"という言葉を残して、自殺を選んだ。享年30歳。これにより、アウグストゥス帝から続いたユリウス=クラウディウス朝は遂に断絶した。

 "暴君"の代名詞となったネロ帝の生涯を中心に、カエサル(B.C.102頃~B.C.44)の名を継ぎ、アウグストゥス帝より始まるクラウディウス朝の激動時代を紹介させていただきました。何しろ本編の登場人物のほとんどが非業の死を遂げており、大変痛ましい内容でした。それも皇室内の内紛によって、これがローマ中に影響を及ぼすとなると、どこがパックス=ロマーナなんだろう?と考えてしまいますね。ネロは暴君と言うことに依存はないのですが、このような結末になったのは、ネロの家族環境、アウグストゥス帝以後の皇帝の権力、元老院の威厳、軍力、キリスト教徒の増加など、いろいろな原因が考えられると思います。

 暴君ネロについては、個人的に学生時代から書物や演劇、メディアを通じていろいろ知っておりましたが、はかなくも大学受験にはネロ帝はパックス=ロマーナ時代の人物であること、ローマ大火を利用して初めてキリスト教徒を迫害したこと、師匠にセネカがいたことぐらいしか出題されず、今でもこうした傾向が続いています。よって、ネロの家族や、アウグストゥス帝以降の皇帝は、五賢帝が登場するまであまり重要ではなく、教科書もほとんど目にすることはありません。

 "暴君(=tyrant)"という言葉は古代ギリシアのポリスの時代に現れた非合法の支配者である僭主(せんしゅ。tyrannos)が語源とされています(参考→Vol.8ペルシア戦争)。中国の伝説王朝・夏(か)の最後の王・桀(けつ)や殷王朝最後の王・紂(ちゅう。?~B.C.1027?)なども古代中国の暴君として有名です。

 さて、今回の学習ポイントですが、先に述べたとおり、本編では受験に出題される内容は非常に薄く、むしろアウグストゥス帝までの時代、また五賢帝が始まってからの時代の出題が多いのが現状です。キリスト教の発展の分野で史上初の大迫害が、ローマ文化でセネカが出題されることはあり、ここでは重要です。大迫害は専制君主政(ドミナートゥス)時代のディオクレティアヌス帝(位284~305)も303年に行っていますので、あわせて知っておきましょう。

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