世界史の目−Vol.39−

開国、内乱、占領

 李氏朝鮮(りし。1392〜1910)は1637年、清王朝(しん。1616〜1912)と臣族関係を結び、清の属国となった。以後、国内では不安定な政情が続き、特に1812年、没落官人の洪景来(こうけいらい。1779〜1812)を中心とした不平官人たちが窮民を指導して挙兵するなど(洪景来の乱)、一向に社会不安はおさまらなかった。その後、列強干渉が相次ぎ、朝鮮は内外とも、さらに揺らぎ始める。

 李朝第26代王の高宗(こうそう。コジョン。李太王。りたいおう。1852〜1919)が即位したときは11歳で(位1863〜1907)、父である大院君(だいいんくん。テウォングン。1820〜98)が摂政を務めていた。1863年からの10年間は、いわゆる"大院君摂政時代"と呼ばれ、列強干渉を避けるため徹底した鎖国攘夷策を貫き、内政改革を推進していく。外戚による政権独占の打破、官吏の綱紀粛正、党派差別の排除、書院(本来、儒学者の教育施設であったが、土地や奴隷を大量所有して富裕化)の撤廃などを行う一方、民衆間で普及している邪教を弾圧した。たとえば、没落した両班(ヤンパン。特権身分の官僚)出身の崔済愚(さいせいぐ。チェチェウ。1824〜64)が1860年頃創始した東学(とうがく。儒教・道教・仏教が混じった民間宗教)というのがあり、列強が朝鮮に送り込んだキリスト教(西学。せいがく)による伝統社会の崩壊を憂慮して、崔済愚が立ち上げた新興宗教があった。李朝政府にとっては、新興宗教の勃興が国を荒廃させ、民衆を惑わすものとしてこの宗派に大弾圧を加え、崔済愚は処刑された。また西学に対しても同様で、1866年頃から大多数のカトリック教徒を処刑し(丙寅邪教。へいいんじゃきょう)、これにより首都漢城(かんじょう。現ソウル)に近い江華島(こうかとう。カンフワド)で、フランスの軍事行動もあったが、綿密な計画をたててこれを撃退した。
 同年、アメリカも通商を求めて強引に侵入したが、米商船ジェネラル=シャーマン号が撃沈させられ、乗組員全員が死亡したことにより1871年、フランスと同様、江華島でアメリカの軍事行動がおこったが、通商を拒否する大院君は粘り、アメリカを撤退させることに成功した。

 この間、国内では政府の封建支配に対する不満が高まっていた。王室では、1866年に(びん。ミン)氏一族から閔妃(びんひ。ミンピ。1851〜95。明成皇后。ミョンソン)が、高宗の妃として迎えられていた。閔氏一族は、フランスやアメリカからの干渉があった頃から、常に開国による文明開化政策を主張しており、大院君と対立していた。また書院撤廃によって両班の貴族も大院君に対する反発が高まっていった。そこで、1873年、閔妃は兄である閔升鎬(びんしょうこう。1830〜1874)らとクーデタをおこし、大院君は失脚、高宗親政を宣言した。しかし国王親政は名目で、その後は閔妃を中心とする閔氏一族が実権を掌握していくことになる(閔氏政権)。ただ国政に関わるはずであった閔升鎬は、翌年爆殺されている。

 1874年4月、今度は日本が通商を求めてきた。当時日本では明治維新(1868)後の新政府によって1871年、右大臣岩倉具視(いわくらともみ。1825〜83)大使の遣外使節団による不平等条約改正失敗を元に、1873年頃から征韓論争(せいかんろんそう。征韓論)で揺れていた。征韓論とは、参議西郷隆盛(さいごうたかもり。1827〜77)を朝鮮に派遣し、朝鮮の鎖国攘夷策を武力で制圧して開国させ、日本の勢力を伸ばそうとする内容で、西郷や参議板垣退助(いたがきたいすけ。1837〜1919)らが主張したが、岩倉使節団にも参加し、欧米に対する条約改正失敗を経験した参議大久保利通(おおくぼとしみち。1830〜78)や参議木戸孝允(きどたかよし。1833〜77)らが国内の整備を先決とする内治論を唱えたため、同1873年、西郷ら征韓派は一斉に下野した(明治六年の政変)。しかし1875年、日本の軍艦・雲楊号(うんようごう)が、江華島沖合で無断で測量を行った。雲楊号艦長は飲料水補給のため、通告なしに軍艦のボートを江華島の砲台に上陸しようとした。朝鮮側はこのボートを砲撃し、雲楊号は一時帰還した(江華島事件)。事件後、日本は6隻の軍艦とともに再度江華島に乗り込んで、砲台を攻撃、永宗城(えいそうじょう)を占領した。征韓派を退けた日本政府だったが、結局は朝鮮の開国を迫った形となった。

 朝鮮は、開国派の閔氏の考えで日本と通商条約を交わすことを決意し、1876年、日本と日朝修好条規江華条約)を結んだ。この時の全権大使は黒田清隆(くろだきよたか。1840〜1900)、副使は井上馨(いのうえかおる。1835〜1915)である。釜山(プサン)・仁川(インチョン)・元山(ウォンサン)の3港を開かせ、日本によって李氏朝鮮は自主独立国であると宣言した。ソウルに日本公使館を設置し、各港には領事館が置かれた。しかし、この条約は、かつて日本がアメリカに威嚇されて不平等条約を結ばされた内容を、そのまま朝鮮に適用したものであり、いわゆる領事裁判権の承認、関税自主権の非承認も含まれていたのである。
 日本に続き、アメリカ・ロシア・フランスとも通商条約を結び、朝鮮は完全に開国した。開国によって近代化を目指す閔氏一族は、開国当初親日政権として統治していた。軍隊を再編成し、文明開化を叫んで外からの文化を吸収することに努めた。

 ところが、李氏朝鮮を属国として宗主権(外交権・軍事権など)を握っていた中国・清王朝は朝鮮問題担当の李鴻章(りこうしょう。1823〜1901)を使って、朝鮮への干渉をより強化した。これにより、日本と清との対立は深まっていった。朝鮮内部では、軍隊再編成によって、枠からもれた元軍人たちへの冷遇が顕著となり、政府に対する批判と、日本の介入に対する不満が強まっていった。親日派の閔政権も内政改革を推進するものの反論が多く、やがて政治腐敗や圧政が進み、民衆の間でも不満が立ちこめていった。1882年、元軍人たちは大院君ら保守派らと組んで、閔氏一派の要人を多数殺害、また日本公使館も焼き討ちして多くの日本人も殺害した。この軍乱は漢城を舞台に、一大クーデタとなって発展、大院君は政権を奪取した(壬午軍乱。壬午政変。じんご)。閔妃は清王朝に迫り、清の袁世凱(えんせいがい。1859〜1916)率いる軍隊に援助を求め、袁はこれを受け入れて大院君を捕虜、軍乱を鎮めた。袁は、この軍乱の抑圧で、李鴻章の信任を得ることになる。軍乱による公使館の被害に際して、日本は朝鮮と済物浦条約(さいもっぽ)を結び、朝鮮に多額の賠償金支払を取り決め、公使館守備兵駐留権を承認させた。
 閔妃は、屈辱的な済物浦条約を押しつけた日本よりも、大院君を排除して、閔氏政権を復旧させた清王朝に接近するようになった。これにより、朝鮮の近代化をはかる開化政策は挫折し、清の勢力下で李朝の安全維持をはかる保守的な親清政策をとるようになっていった。

 これに対し、開化政策の推進を主張して、閔氏政権を批判する人物が現れた。官人金玉均(きんぎょくきん。キムオクキュン。1851〜94)である。彼は壬午軍乱の修言使(謝罪使)として1881年と翌82年に訪日したが、そこで日本の政治・経済・社会・文化の発展に刺激を受け、明治維新を模範とし、日本と結んで朝鮮国内の大改革を行おうと、修言大使朴泳孝(ぼくえいこう。パクヨンヒョ。1861〜1939)と結んで親日策をとる開化派同士を集め、独立党を立ち上げた(党指導者は朴泳孝)。独立党は、親清策で李朝の安全維持をはかる閔氏ら保守派を、"大(=清朝)"に事える(つかえる)という意味から"事大党"と名付けた。

 1884年に、清王朝はヴェトナムの宗主権をめぐってフランスと清仏戦争(1884〜85)を交え、敗北した(翌1885年、清はフランスと天津条約を結んでヴェトナムへの宗主権を放棄し、フランスに譲るという屈辱を受けた)。これを好機と見たのが独立党であり、親清派である事大党を制圧して閔氏政権の転覆をはかり、日本公使館の援助を受けて一大クーデタを決行した。これによって閔氏政権は倒れ、独立党の新政府が樹立された(甲申政変。甲申事変。こうしん。1884.12決起)。しかし事大党は袁世凱率いる清の軍隊に助けられ、新政府はたった3日で倒れて、日本軍も撤退した。金玉均、朴泳孝らは日本に亡命し、独立党は衰亡、閔氏政権が再復活した。1885年、日朝間で漢城条約、日清間では天津条約が締結された。天津条約では、日本全権に伊藤博文(いとうひろふみ。1841〜1909)、清朝全権に李鴻章が代表をつとめ、朝鮮からの日清共同撤兵を約し、日清両国軍軍事顧問派遣を中止、非常時の出兵の際には相互に事前通告することといった3条が取り決められた。
 金玉均は亡命後、小笠原諸島、北海道と移送され、李朝政府の差し向けたスパイに誘われて上海に出向いた(1894.3)。その直後に暗殺されている。金玉均の遺体は朝鮮に移送され、"大逆無道玉均"と公衆前にさらされた。

 金玉均暗殺後まもなく、東学の信者が農民を引き連れて大反乱を起こした(1894.4)。これを指導したのは東学幹部の全琫準(ぜんほうじゅん。1854〜95)という朝鮮南部の全羅道出身の農民だが、彼の父は下級官人出身で、地方官からの重税による反発から、農民一揆を指導、その後虐殺された経歴を持っていた。東学は崔済愚のあとは2代目教主崔時亨(さいじきょう。さいじこう。チェシヒョン。1827〜98)が努めていた。崔時亨の時、東学は広域に普及して農民や没落官人らによって東学組織(東学党)が各地に作られていた。全琫準は、父の復讐を念じており、地方官への攻撃機会を狙っていた。あくまで布教を第一として、武装蜂起を拒む崔時亨は、全琫準に対して蜂起反対を訴えたが、かなわず、全琫準は地方官の悪政に反対して蜂起し、地方役所を襲撃、そこで武器を略奪して税米を農民に返還させた。「逐洋斥倭(ちくようせきわ)」をスローガンに掲げた東学党は5月、朝鮮南部の全州(チョンジュ)を占領した。この東学党の乱は甲午農民戦争(こうご)と呼ばれ、6月に東学党は朝鮮政府軍と停戦協定「全州和約」を締結、農民たちの負債帳消しや外国人の不入、封建制放棄などの要求が盛り込まれた。

 李朝閔氏政権は直ちに清朝政府に連絡を取り、軍隊の支援を要求した。先の天津条約にもとづいて、清軍は"属国"朝鮮の保護のために出兵すると日本に通告した。
 日本の伊藤博文内閣(第二次。1892.8〜96.8)は、朝鮮政策挽回の好機と考え、清軍の出兵は属国保護とは認めず、条約違反として日本軍も朝鮮へ向けて出兵した。さらに日本は、日清による相互協力にもとづいて甲午農民戦争を鎮圧する提案を、閔氏政権による李朝政府には内政干渉の要求を、それぞれ突きつけた。日本は大院君を利用して内政干渉を強行、遂に閔氏のいる王宮を占拠、閔氏一族を追放して、大院君の政権が誕生したが(甲午改革)、鎖国攘夷派の大院君に行政を任すわけがなく、あくまで日本のロボット的存在であり、内容は開化派政権であった。清朝に対しては、甲午農民戦争の共同鎮圧の要求を清朝に拒否されたことで、同1894年8月1日、日本は清に宣戦を布告した(日清戦争。1894.8〜1895.4)。
 全琫準は同年9月に再び蜂起し、全国の農民軍を従えて反撃に出たが、大量の犠牲者を出してしまい、12月、日本軍に敗れて捕らえられ、背反の罪で翌年処刑された。崔時亨も、日本軍の出兵が決まると、戦争反対を避けることができず蜂起したが、敗れて処刑された。これにて、甲午農民戦争は終戦を迎えた。
 日清戦争は日本の圧勝に終わり、翌1895年4月、日本全権伊藤博文と陸奥宗光外相(むつむねみつ。1844〜97)、清朝全権李鴻章との間で下関条約(日清講和条約)が締結された。清は宗主権を放棄したことで李氏朝鮮の独立が認められ、清朝勢力は朝鮮から退いた。
 しかし、清朝が退いたあとは北から南下するロシアの気配があった。条約締結後、ロシアはドイツ、フランスを誘って日本に干渉し、条約で清国から割譲した遼東半島を返還させた(三国干渉)。閔氏政権の復活を望む閔妃は、しだいにロシアに接近するようになる。

 親露反日を唱える閔妃に対して、一方の日本政府は、三国干渉でロシアに屈したことによって、朝鮮政策がまたも後退していた。ロシアが背後にいる閔妃の政権奪回を恐れた日本政府は、大院君を担いで王宮から閔氏一族を一掃することを合意させ、駐朝公使として赴任させたばかりの三浦梧楼(みうらごろう。1846〜1926。長州奇兵隊出身)をソウルに向かわせた。1895年10月8日早朝、三浦の扇動で公使館守備隊らが王宮に乱入、閔妃を惨殺(閔妃殺害事件閔妃事件。乙未事変。いつび。おつび。ウルミ)、石油をかけられ、焼かれた。この事件で日本は列強の非難を浴びたため、三浦は日本へ召還されたが、裁判は証拠不十分で無罪となった。
 閔妃が殺害された時、国王高宗は一命をとりとめたが、ロシア公使館に逃げ込んで、一年間そこで滞在する(露館播遷。ろかんはせん)。ここにおいて王権は無力と化し、威信は失墜した。

 以後、日本の朝鮮政策は朝鮮親日政権のもとで、さまざまな改革が断行された(光武改革)。1897年、年号を光武と改め、太陽暦の使用、軍隊の再編成などを推進した。また国号を"韓"とし(大韓帝国。1897〜1910)、清の臣属から独立した国家として、高宗は"皇帝"として即位し、皇帝に権力を集中させた。この間、自身の政権獲得を果たせなかった大院君は、子高宗に全てを託し、失意のうちに没している(1898)。

 その後、日本とロシアとの間で日露戦争が起こり(1904〜1905)、結果は日本の勝利で終わった。日露講和はポーツマスで締結され(ポーツマス条約。日露講和条約。1905.9)、アメリカ大統領セオドア=ローズヴェルト(ルーズヴェルト。任1901〜09)の仲介により、日本全権は外相小村寿太郎(こむらじゅたろう。1855〜1911)、ロシア全権はウィッテ(1849〜1915)が代表として参じた。この条約で、ロシアは、日本の朝鮮半島における全面的な優越権、つまり日本の韓国保護権を認め、日本政府による韓国政策を優位に進めることに成功した。実は終戦直後の1905年7月、日本の桂太郎内閣(かつらたろう。第一次。1901.6〜06.1。外相兼任)は、アメリカ特使陸軍長官タフトと「桂・タフト協定」を結んで、日本の韓国指導権とアメリカのフィリピン指導権を相互承認していたのである。さらに日英同盟1902締結)を同1905年8月に改定して、イギリスのインド指導権とを相互承認していた。

 日本は日露戦争が開戦して2週間後に、韓国の安全保障を約束する日韓議定書を締結したが、実際は同国保護として日本軍を駐屯させ、それにもとづく諸要求(土地収用権など)を受け入れることであった。その後第一次日韓協約1904.8)を締結、"顧問政治"と題して、日本政府推薦の財政・外交顧問を韓国政府におくことを決めた。これによって、韓国の外交問題は日本が介入して協議するのが可能となる。桂・タフト協定、日英同盟改定、ポーツマス条約締結を完了させた後の1905年11月、桂内閣は第二次日韓協約(韓国名:乙巳保護条約。いっし)を締結した。"保護協約"の呼称で知られるこの条約で、日本は完全に韓国の外交権を掌握し、漢城に日本政府代表機関である統監府を設置した(初代統監:伊藤博文)。これにより韓国は日本における事実上の保護国となった。日本政府は西園寺公望(さいおんじきんもち。1849〜1940)の第一次内閣(1906.1〜08.7)が誕生し、この後桂太郎(1847〜1913)と交互に組閣する"桂園時代(けいえん)"が続く。一方の韓国では、民族運動家の安重根(あんじゅうこん。アンジュンクン。1879〜1910)が、国権回復に対する人材育成のために敦義学校(とんぎ)を設立するなど(1906)、日本に対する反抗心を高めていった。

 1907年6月、オランダのハーグで開催された第2回ハーグ万国平和会議に際し、韓国・高宗は、韓国の国権回復を訴えるため、3人の密使を代表として派遣したが、英米の承認があったため、会議参加と訴えは受け入れられなかった。このハーグ密使事件に日本は激怒し、高宗は退位させられて、皇太子へ譲位させた(純宗。じゅんそう。位1907〜10)。さらに7月、第三次日韓協約を締結させて、韓国の内政権も掌握し、遂に韓国軍隊を解散させた。これにより、韓国国民による愛国啓蒙運動が義兵として集い、解散させられた軍隊を中心に反日武装闘争義兵運動)が活発化した。愛国啓蒙運動による秘密結社"新民会"の結成や、日刊「皇城新聞」の発行など、義兵闘争は拡大したことで、遂に日本は武力弾圧を開始した。その最中、義兵運動に参加していた安重根は、満州視察のためロシアに向かおうとする初代統監・伊藤博文をハルビン駅頭で射殺し、安重根はその場で逮捕された(伊藤博文暗殺事件1909)。さらに親日派の韓国・李完用首相の襲撃事件なども発生した。安重根は獄中で『東洋平和論』を執筆するも、1910年3月に旅順の刑務所で処刑された。

 この事件で日本は衝撃を受け、韓国に憲兵警察隊を送り込ませて韓国の警察権を喪失させ、翌1910年8月、桂太郎第二次内閣(1908.7〜11.8)は、日韓併合条約(韓国併合条約)を締結させて、韓国の全統治権を日本に譲渡させた。"大韓帝国"の名称は廃され、"朝鮮"となり、純宗も廃されて李氏朝鮮は滅亡した。文字通り、朝鮮は日本の植民地となったのである(韓国併合)。
 併合後、朝鮮統治機関として朝鮮総督府が京城(旧・漢城)におかれた。初代朝鮮総督に当時の陸軍大将・寺内正毅(てらうちまさたけ。1852〜1919。のち首相。任1916.10〜18.9)が任命、"武断政治"と称して憲兵隊の苛酷な反日民衆の抑圧を行った。また土地調査局を設置して土地の所有権、価格査定などを調査する土地調査事業を行った(1910〜18)。翌1911年には朝鮮土地収用令を公布して不明確な土地所有権を朝鮮人農民から没収し、国策会社である東洋拓殖会社によって安値で払い下げられるなど、植民政策は進んでいた。没落した小農民は仕事を求めて日本に移住し、低賃金労働者として、残酷な労働条件、国籍差別などによる問題が続発していくのである。

 廃位後の高宗は、併合後に"李太王"と称され、純宗前皇帝・李太王家族は「王族」と位置付けられた。韓国併合後の朝鮮人民による抗日感情は、第一次世界大戦(1914〜18)後、アメリカ大統領ウィルソン(任1913〜21)による十四ヵ条の提唱の中で叫ばれた国際平和・民族自決によって次第に高まりをみせ、1919年3月1日、民族代表がソウルのパゴダ公園で結集し、「朝鮮独立万歳!!」と叫びながら大規模なデモ行進を行った(三・一運動。万歳事件。マンセー)。この抗日独立運動は瞬く間に各地に広がりをみせたが、決定打とも言えるのは、高宗の逝去(1919.1)に伴い、3月に執り行われた高宗の国葬と重なったことである。さらに高宗が日本勢力によって毒殺されたとの噂が広まった事で、約200万の民衆が参加する大規模な運動となった。朝鮮総督府は、非武装の人民に対し、武力で抑圧することを決めたが、4月には、京畿道水原郡で、日本人巡査が殺害された報復に、郡の民家を焼き払って堤岩里(チュアムリ)の教会堂に村民29人を閉じこめて放火し、逃げ出す村民を虐殺した事件(堤岩里事件)が起こるなど、展開は流血の惨状と化し、朝鮮総督府による武力抑圧は、短時間で鎮圧できなかった。"韓国のジャンヌ=ダルク"と呼ばれた15歳の女学生、柳寛順(りゅうかんじゅん。ユグアンスン。1904〜20)も、この三・一運動で捕らえられ、拷問を受けて刑死している。勃発してからわずか3ヶ月の間に、被害者は7500人を超えた。

 鎮圧後、8月には斉藤実(さいとうまこと。1858〜1936)第3代朝鮮総督により、植民地政策は従来の"武断政治"を反省して、"文化政治"を推進するように改めた。憲兵警察の廃止、新聞・雑誌の統制緩和、教育令改正、京城帝国大学建設などの懐柔策をとった。しかし、教育令改正では、後のいわゆる「皇民化」方針に発展していき、帝国大学の職員・学生も大半が日本人で占められ、しかも、シベリア出兵による米不足で1918年に起こった米騒動の反省から、朝鮮で米の増産を計画(産米増殖計画)するなど、日本の圧迫は本質的には変わらなかった。1931年には金日成(きんにっせい。キムイルソン。1912〜94)による抗日武力闘争の主軸となる朝鮮人民革命軍も結成されている。

 やがて第二次世界大戦(1939〜45)における日本の敗戦により、1945年、朝鮮は"朝鮮人民共和国"として、35年ぶりに日本から解放、独立した。1948年には北朝鮮朝鮮民主主義人民共和国)と韓国大韓民国)と、南北に分断されていくのである。

 連載も39回目、久々に東アジア史ですが、やはり中国史や朝鮮史は短くまとめることができません。それだけに波乱に富んだ内容なのですね。
 今回は主に李氏朝鮮が開国してから、日本に占領されるまでの激動の時代をクローズアップしました。李朝の内部を中心とした内容でご紹介したかったものですから、今回は日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦の開戦後の戦況などは大幅にカットさせていただきました。また日本の第二次大戦の敗北後、解放された朝鮮の内容に関しましては、また別の機会でお話ししたいと思います。

 朝鮮史は、世界史分野と日本史分野とでは、その重要度は大きく異なります。特に1910年の韓国併合では、日本史分野においては、三次にわたった日韓協約のそれぞれの内容が詳しく出題されます。第一次では"顧問政治"、第二次では外政権掌握、第三次で内政権掌握と韓国軍隊解散が主な内容です。世界史分野ではここまでの詳細は必要としませんが、「1910年」という併合の年は絶対覚えた方がイイでしょう。ちなみに1910年には、メキシコ革命、ポルトガル革命、翌11年には第二次モロッコ事件、辛亥革命、イタリア=トルコ戦争(伊土戦争)など、全世界でも激動の時代でした。

 江華島事件から甲午農民戦争までの約20年間は、両分野で頻繁に出題されます。人物もたくさん登場しますので、彼らの動きと関係に注目してください。入試では、大院君、閔氏一族、金玉均の3関係はよく出ます。まず、鎖国攘夷派の大院君と開国親日派の閔妃が争います。1882年の壬午軍乱では親日の閔妃と反日の大院君の争いで、その後閔妃は保守親清派に転向して、親日派の金玉均と朴泳孝と甲申事変で争います。金玉均は独立党(世界史分野では"開化派"の呼称での使用が多い)、保守派は事大党となります。高宗は、どちらかといえば日韓協約のあたりで登場することが多いです(ハーグ密使事件など)。なお、閔妃暗殺の所は主に日本史分野で登場します。閔妃は世界史分野での登場が少なく、"閔氏一族"とか、"閔氏政権"でまとめられています。

(注)UNICODEを対応していないブラウザでは、漢字によっては"?"の表示がされます。全琫準(ぜんほうじゅん)の"琫"→へんは王で、つくりは奉

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