世界史の目-Vol.40-

イタリア戦争(1494~1559 狭義では1521~1544

 15世紀末のイタリア=ルネサンス時代。当時のイタリア南部にはフランス系のナポリ王国(1282~1815)という集権国家があり、北部には"アドリア海の女王"という異名を持つヴェネツィア共和国、ヴェネツィア共和国と海上権を争ったジェノヴァ共和国、ルネサンスの中心地であるフィレンツェ共和国といった、東方貿易で栄えた都市型領邦(都市共和国)、ヴィスコンティ家が支配したミラノ公国といった諸侯国、そしてローマの教皇領といった諸勢力が分散しており、イタリア国家としての統一性に欠けていた。

 一方、フランスのヴァロワ朝(1328~1589)では、シャルル8世(温厚王。位1483~98)の親政が始まり、1494年、統一性を欠くイタリアへ向けて遠征を行った(~1495)。ナポリ王の死に乗じてナポリ入城を果たして一時的に占領したが、諸都市や、同じくイタリア政策を実行しているドイツの神聖ローマ帝国(962~1806)皇帝のマクシミリアン1世ハプスブルク家。位1493~1519)、スペイン(アラゴン)王フェルナンド5世(位1479~1504)らの干渉が入った。シャルル8世軍のイタリア遠征を警戒していたマクシミリアン1世は、1493年、ミラノの公女と再婚して干渉に乗り出し、ローマ教皇アレクサンデル6世(位1492~1503)、ミラノ公国、ヴェネツィア共和国と同盟を結んでシャルル8世軍と戦い、シャルル8世軍は敗れた。シャルル8世は嗣子のないまま1498年に没し、直系ヴァロワ家は断絶、ヴァロワ=オルレアン家からルイ12世が即位(位1498~1515)、ヴァロワ朝は存続の危機を脱した。ルイ12世の治世でもイタリア遠征は続くが(1499~1513)、その最中ローマ教皇ユリウス2世(位1503~13)が教皇領拡大を主張して教皇権の権威を高揚、これがヴェネツィア共和国を刺激する形となって戦争になる。ユリウス2世はドイツのマクシミリアン1世とフランスのルイ12世を誘ってカンブレー同盟を結成(1508)、ヴェネツィア軍と戦った。スペインも教皇側に立って参戦したが、特にフランスのルイ12世軍の勢いが目立ったため、ユリウス2世はこの戦争を講和で決着させ、勢力が増大したフランスに脅威を持つようになる。1511年、教皇ユリウス2世はフランスに対抗するため、イギリス・スペインと神聖同盟を結成、翌12年にはドイツも加盟してフランスをイタリアから撤退させた。教皇領は北イタリアに拡大していく。

 ルイ12世没後、フランスではフランソワ1世(位1515~47)が王位についた。フランソワ1世がフランスの名誉挽回ともいうべきミラノ入城を果たしたため、マクシミリアン1世は1516年、借金までして軍をミラノに送った。が、うまくいかず撤退する形となり、ミラノはフランス領となった。同年、スペインでは元女王イザベル1世(位1474~1504)を祖母に持つカルロス(1500~58)が、スペイン王カルロス1世として王位についた(位1516~56)。実はカルロス1世の祖父は、ハプスブルク家のマクシミリアン1世であり、1519年にマクシミリアン1世が没したあと、カルロス1世は神聖ローマ皇帝選挙の出馬を表明することになった。このとき、カルロスの対立候補として出馬したのが、イギリス・テューダー朝(1485~1603)のヘンリ8世(位1509~47)、フランスのフランソワ1世らである。結局この年に成人になったハプスブルク家出身のカルロス1世が選ばれ、神聖ローマ皇帝カール5世(位1519~56)となった。ドイツとスペインを結び、ネーデルラント、ナポリ、オーストリア、新大陸をも息のかかる空前の大帝国の出現によって、フランスを脅かす形となり、ハプスブルク家とヴァロワ家との対立は決定的となった。しかもカール5世はヘンリ8世とも結んで、フランスを攻めることに合意、フランスが占領したミラノを中心とする北イタリアへ向けて、攻撃の準備を練った。

 折しも、この頃のドイツは、ルター(1483~1546)による宗教改革の全盛期で、教皇レオ10世(位1513~21)の時代である。カール5世は自らカトリックを守る上で、反皇帝派諸侯と戦い、一方のフランソワ1世は、ドイツのルター派諸侯を援助していく。カール5世は、ヴォルムスの帝国議会によってルターの追放を決定し(1521)、ルター派による布教が禁止された。カール5世はこの決定で、ローマ教皇の支持を取り付け、1521年、イギリス軍と共に、北イタリアを舞台にして、フランス・フランソワ1世と4次にわたる大戦争(~1544)が繰り広げられた。これが、狭義においてのイタリア戦争である(広義では、1494年からのフランス・シャルル8世のイタリア侵略からをイタリア戦争と呼ぶ)。

 しかし開戦してからはフランスは劣勢で、フランソワ1世は1525年、パヴィーア(現ミラノと現ジェノヴァの間)で一時的に捕虜となり、スペインのマドリードに送られて、フランスにおけるブルゴーニュ、ミラノ、ナポリ、フランドルの権益を放棄するように迫られた(マドリード条約)。フランソワ1世は条約締結後、釈放されたが、帰国後も条約を履行しなかったため、戦闘は再開された。このマドリード条約失敗による戦闘再開は、イギリスの撤退、カール5世の強大化に対するローマ教皇の警戒などが発生し、特にローマ教皇は、反皇帝派を支持して、旧教国フランスに接近していくことになる。

 この時オスマン=トルコ(1299~1922)の皇帝スレイマン1世(位1520~66)が、1526年、ドナウ川中流右岸のモハーチまで東進、ハンガリー王を敗死させ(モハーチの戦い)、ドイツへ迫っていった。カール5世は同1526年シュパイエル帝国議会を開催、ルター派に布教の自由を不本意ながら認めて、諸侯の支持を取り付けた(しかし29年には結局撤回する)。その後反皇帝派を仕切るローマに向け、ルター派傭兵を従えて進軍し、翌1527年ローマを占領した。これにより、フィレンツェからローマにも波及し、華やかに栄えていたルネサンスは害され、イタリア=ルネサンス時代は終わりを告げることになる。

 スレイマン1世はその後もハンガリーの王権をカール5世とめぐり、1529年、ハプスブルク家領オーストリアで、ウィーン包囲を行った。1ヶ月以上粘ったが、来る冬将軍には勝てず、兵糧不足も重なり撤退した。フランソワ1世は名誉を再び挽回するため、昨年頃から再開したイタリア遠征に本腰を入れたが、1529年、カール5世に再度敗れ、イタリアから撤退した。結局カール5世は、国内でのルター派問題の処置、対外的にはローマ教皇との対立、オスマン帝国のウィーン包囲対策、フランスとはフランソワ1世のイタリア遠征防衛と、続発する諸問題を苦心に処理し、1529年、一時的ではあるがなんとかイタリア制圧に成功したのである。

 フランソワ1世は、第三次においてもミラノ侵攻を繰り返すが、ここでもカール5世に阻まれた。このため、1535年、オスマン帝国のスレイマン1世と政治同盟を組んでカール5世を牽制するようになった。1529年に行ったオスマン帝国のウィーン包囲は、失敗に終わったものの、西欧諸国に脅威を与えたことに相違なく、フランスがその大国と同盟を結んだことで、フランソワ1世のイタリア政策を再び猛威を奮い、1542年、フランソワ1世はオスマン軍とともにイタリアへ再進軍し、カール5世と交戦した。しかしこの第四次イタリア戦争でもフランソワ1世は敗退し、1544年クレピーの和約でもって、カール5世の勝利が決定し、フランスはイタリアを断念、撤退を余儀なくされた。フランソワ1世は1547年に没したが、国内ではヒューマニスト(人文主義者)の理解があり、1517年には巨匠レオナルド=ダ=ヴィンチ(1452~1519)をフランスへ招くなど、フランスにおけるルネサンスが開花し、ラブレー(1494?~1553)やモンテーニュ(1533~92)などを登場させた。

 四次のイタリア戦争に勝ったカール5世は、1546年、フランスの支持を受けて立ち上がったルター派の結成によるシュマルカルデン同盟(1530結成)と戦争を交えた(シュマルカルデン戦争。1546~47)。シュマルカルデン同盟の内部分裂で終戦したが、ルター派諸侯は、なおもフランスと同盟を続けた。フランソワ1世没後、即位した子のアンリ2世(位1547~59)は、イタリア遠征には失敗するものの、1952年、常にドイツと戦い敗北した父の無念をはらすべく、ドイツ国内のルター派とともにドイツ皇帝派との宗教戦争に介入して、遂にカール5世率いる皇帝派は敗れた。これにより神聖ローマ帝国議会は1555年、ルター派の布教を容認し(アウグスブルクの宗教和議)、翌1556年にはカール5世は退位して、息子のフェリペ(1527~98)にスペイン王位を与え(位1556~98)、フェリペ2世としてスペイン・ネーデルラント・新大陸・フィリピンなどを継承した。一方、ドイツは弟フェルディナント(1503~64)が継承し、オーストリア等を譲り受け、フェルディナント1世として帝位についた(位1556~64)。これによりハプスブルク家はスペイン系とオーストリア系に分離した。

 1558年、フェリペ2世は、妻メアリ1世(イギリス王。位1553~58)が没し、イギリス王として即位した妹のエリザベス1世(位1558~1603)に求婚を申し出たが、国際紛争に巻き込まれることを嫌ったエリザベス1世はこれを拒否したため、スペイン・イギリス間が険悪となった。このため、エリザベス1世は、フランス・スペイン・イギリスの3国の関係修復にあたり、長らくイタリア戦争でハプスブルク家と戦い続けたフランスと講和を結ぶ計画がおこされた。

 1559年、現在の北フランス、ノール・パ・ド・カレーに位置するカトー=カンブレッジで、スペイン王フェリペ2世、イギリス王エリザベス1世、フランス王アンリ2世が出席したカトー=カンブレッジ条約によって、長期にわたったイタリア戦争の終結を宣言、スペイン=ハプスブルク家はミラノ・ナポリ・シチリア・サルデーニャを獲得したことで、スペイン=ハプスブルクの優位が決定づけられ、文字通り"太陽の沈まぬ国スペイン"となった(1580年にはポルトガルも併合。~1640)。フランスはイタリア政策の大失敗で挫折し、イタリアから完全に手を引いた。その代わりフランスは、百年戦争(1339~1453)勝利後も依然として占領されていたイギリス領カレー市をイギリスから返還された。これにてエリザベス1世の平和外交は実を結んだ。

 イタリア=ルネサンスの衰退と主権国家体制の確立をもたらし、小銃や大砲の出現("軍事革命")で騎士階級の没落をおこさせたイタリア戦争は、王権の集権化、つまり絶対主義によって強力な国家統一を進める絶対王政時代の幕開けをもたらすことになる。

 連載40回目は、中世の大戦争の登場です。戦争名は"イタリア"となっていますが、イタリアは戦場となっただけで、実際はハプスブルク帝国とフランスとの間で行われた戦争で、特にカール5世(カルロス1世)とフランソワ1世との戦いを指します。この時代は、Vol.12ドイツ宗教改革と完全に時代が重なりますので、重複してご紹介する箇所もいくつかありました。それにしても、イタリア戦争の内容は、中世史の中では他より増して複雑です。関係する国々が広範囲にわたり、しかも長期にわたっているにもかかわらず、これまでの受験世界史において存在は薄かったのですが、イタリア=ルネサンスの衰退、中世における主権国家体制への転換、それに続く絶対王政時代の到来が、すべてこの戦争に端を発しているといっても過言ではありません。新課程内容でも重要用語としてとりあげられ、大きくクローズアップされるようになったのも、この戦争の重要性を知ることによって、世界史のおもしろさがわかるからではないでしょうか。当時の西欧諸国、とくにフランス・ヴァロワ朝やハプスブルク家の対立が西欧中世史の重要ポイントですから、イタリア戦争の経緯によって、さらに理解が深められますね。

 今回の学習ポイントはたくさんあります。フランスは従来のイギリスだけでなくスペインやドイツにいるハプスブルク家と仲が悪いのがこの時代の特徴です。人物では今のところ、フランス王シャルル8世とアンリ2世、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世、フェルディナント1世は出題頻度数は低いですが、今後は彼らも重要人物としてクローズアップされると思います。新課程ではマクシミリアン1世がカール5世の祖父として出題されるかもしれません。フランソワ1世、カール5世(カルロス1世)、フェルナンド5世、イサベル1世、ヘンリ8世、スレイマン1世、フェリペ2世、エリザベス1世はイタリア戦争のみならず、さまざまなセクションで登場しますので必ず知っておいて下さい。ローマ教皇ではレオ10世、アレクサンデル6世、ユリウス2世の3名が登場しましたが、やはり宗教改革で贖宥状(しょくゆうじょう。免罪符)を発行したレオ10世が最も重要でしょう。ユリウス2世についてはあまり出題されませんが、あえて言うなら15~16世紀のローマにおいて教皇領が最も拡大した頃の教皇であることですかね。

 あと、今回はルネサンスが登場しました。文化史の分野ですが、この範囲で入試に出そうなイタリア文化人をピックアップしてみましょう。

イタリア=ルネサンス(14~16世紀)

1.文学・・・

ダンテ(1265~1321)『神曲(しんきょく。トスカナ語で書かれる)』
ペトラルカ(1304~74)『叙情詩集』
ボッカチオ(1313~75)『デカメロン
マキャヴェリ(1469~1527)『君主論』(イタリア戦争を通じて謀略の必要性を主張。これをマキャヴェリズムという)

2.美術・・・

レオナルド=ダ=ヴィンチ最後の晩餐』『モナ=リザ
ボッティチェリ(1444/45~1510)『ヴィーナスの誕生』『春』
ミケランジェロ(1475~1564)絵画『天地創造』『最後の審判(ヴァチカン宮殿内のシスティナ礼拝堂に保存)』・彫刻『ダヴィデ』『モーゼ』『ピエタ』
④ジョット(1266頃~1337。近代イタリア絵画の祖)
ラファエロ(1483~1520。聖母子像を描く)
ドナテルロ(1386頃~1466。彫刻)
ブラマンテ(1444~1514。フィレンツェの建築家)『サン=ピエトロ大聖堂
ブルネレスキ(1377~1446。ローマの建築家)『サンタ=マリア大聖堂

 イタリアでは以上の著名人がよく出題されます。写真や資料集でもお馴染みの作品がズラリとありますよ。イタリア以外では、オランダの人文主義者エラスムス(1469~1536。著書『愚神礼賛(ぐしんらいさん)』)、本編でも登場したフランスのラブレー(著書『ガルガンチュアとパンタグリュエルの物語』)、モンテーニュ(著書『随想録』)、スペインではセルバンテス(1547~1616。著書『ドン=キホーテ』)、ドイツでは、ヘブライ語の研究者ロイヒリン(1455~1522)、エラスムスの友人で、『エラスムス像』を描いた画家ホルバイン(1497~1543)、『四使徒』を描いたデューラー(1471~1528)、イギリスでは作家チョーサー(1340?~1400。著書『カンタベリ物語』)、ヘンリ8世によって処刑されたトマス=モア(1478~1535。著書『ユートピア』)、四大悲劇(『ハムレット』『マクベス』『オセロ』『リア王』)で有名なシェークスピア(1564~1616。エリザベス1世時代の人)、"知は力なり"のイデオロギーを唱えた経験論・帰納法の祖フランシス=ベーコン(1561~1626)などが出題されます。どの国の出身かもあわせて知っておきましょう。
 最後にもう2つ。現ベルギーにあたるフランドル地方ではフランドル派と呼ばれる画家がいました。ファン=アイク兄弟(兄1366?~1426。弟1380?~1441)は宗教画や肖像画を多く残し、ブリューゲル(1528~69)は農民生活を描きました。この2組もよく出されますので注意が必要です。

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